第三章 二節「真剣勝負」
ユウキには全てがバラバラのピースに思えた。しかしランポの中では既に作戦として纏っているのだろう。今はランポを信じるしかなかった。
「ユウキ、エドガー、先に出てろ。俺達は今から別行動だ」
エドガーが頷き、店を後にしようとする。ユウキは慌ててその背中に続いた。扉を抜けて階段を上がり、F地区をエドガーの半歩後ろについて歩く。スーツを着込んでいるせいか、自分達がひどく浮いた存在に思えた。すれ違う浮浪者達が振り返る。上から下まで眺め回してから、「何だ、エドガーか」と声がかかった。エドガーが足を止めて振り向く。フードを目深に被った浮浪者が、卑屈な笑みを浮かべた。
「そんないい格好していると、財布取られるぜ」
「うっせぇ。俺なら取り返せる」
「違いねぇや」と浮浪者は肩を揺らして笑った。痙攣しているように見える笑い方だった。エドガーは浮浪者を無視してF地区の終わりまで進んだ。鳥居を抜けても異物感は拭えない。
スーツを着ているというよりもこれでは着られているといったほうが正しい。帽子がないのも落ち着かない原因であった。いつもなら帽子で減衰させている陽光が直に頭部に当たるのは気分のいいものではない。中心街まではタクシーで行く事になった。
エドガーがユウキを見やり、「歩くのはあまり好きじゃない」と告げた。眼鏡のブリッジをくいと上げ、F地区を出てすぐのタクシー乗り場で一台拾った。
「どちらまで?」と運転手が尋ねる。真っ昼間からスーツ姿で固めたエドガーとユウキの組み合わせは見るからに異質だったが、運転手は虚ろな眼でフロントミラーを見つめていた。
「中心街まで頼む」
「分かりました。出発します」
緩やかな振動を交えて、タクシーが動き出す。ユウキはあまり落ち着かなかった。普段は歩いて移動するのが基本である上にタクシーに乗るのは久しぶりだった。車両は基本的に大通りの道しか通行できない決まりとなっている。そのため、ユウキがいつも歩いている道とは異なる景色が窓の外には広がっていた。同じような車両が連なるように走り去っていく中、ユウキはエドガーの様子を見やった。エドガーは頬に手を添えて窓の外を眺めている。どう言葉をかければいいのか分からない沈黙が降り立ち、ユウキは気まずさのあまり、呼吸困難のような状態に陥っていた。息を落ち着かせて言葉を搾り出そうとすると、運転手が不意に言葉を発した。
「中心街にはどのようなご用事で?」
エドガーが軽く運転手のネームプレートを見やった。フロントミラーに映った運転手の眼と一瞬だけ合わせて、「仕事だ」と短く言った。
「お連れさんは随分とお若いようですけど、兄弟か何かですか?」
「そのようなものだ」
エドガーが顔を背ける。そのように思われている事が心外だとでも言うような口調だったが、運転手は特に気に留めていないようである。ユウキは重苦しい沈黙の中に埋没していくのを感じた。余計な事を言ってしまったらどうしようという不安で何も口に出せない。ランポとならばこのような事はないのだろうとおぼろげながら考える。いつの間にかランポを無条件に信用している自分がいる事に気づいた。
その時、フロントミラー越しに見つめる運転手の顔が強張った。どうしたのだろうと思っていると、運転手の眼は胸元に留められたリヴァイヴ団のバッジに吸い寄せられていた。
「……お二人とも、リヴァイヴ団なんですね」
「ああ。問題があるか?」
低いエドガーの声に、運転手が愛想笑いを浮かべる。先ほどまでとは様子が異なった。運転手は少し緊張しているように見えた。
「いえ。タクシーの運転手なんかやっていると、たまにいるもんですから別段珍しいわけじゃないですよ。殊にコウエツシティではね」
「ならば余計な口は塞ぐ事だな。俺はお喋りじゃないもんでね。後々ウィルに告げ口でもされたら堪ったもんじゃない」
エドガーの眼鏡越しの視線が運転手を射る。運転手はハンドルを握る手を硬くさせた。
「まさか」
乾いた笑い声を上げるが、明らかに動揺しているのだと分かった。リヴァイヴ団はそれほどに力を持っているのだろうか。あるいはウィルの取調べが怖いのか。両方だとユウキは自分の中で結論付けた。
「しかし、お若い団員ですね。どうしてリヴァイヴ団に入られたんです?」
エドガーに質問する事を恐れたのか、今度は矛先がユウキへと向いた。ユウキは返事に窮した。言うべきか言わざるべきか。どうせタクシー運転手との世間話など大した話題にはならないだろう。口を開きかけたユウキを制するように、エドガーが、「プライベートだ」と口にした。
「詮索はいい趣味とは言えないな」
静かなその声に運転手が唾を飲み下したのが気配で伝わった。エドガーは伏せ気味の顔を窓の外に向けている。運転手は俄かに笑んだ。
「全く、その通りで」
その一言で運転手は話題を引っ込めたようだった。タクシーが中心街へと入っていく。背の高いビル群が威圧するかのようだった。
「中心街のどの辺りまで行きます?」
「いや。もういい。この辺りで降ろしてくれ」
エドガーの声にユウキは目を見開いた。周囲はまだ中心街に入ったところである。コウエツカジノまではまだ距離があった。運転手はエドガーの申しつけ通りに車両専用道路を下りて、一般道との境目でタクシーを停車させた。扉が開き、メーターを運転手が確認すると、エドガーがケイコウオの刺繍の施された財布から紙幣を何枚か取り出して置いた。「お釣りは」と言いかける運転手に、「釣りはいらない」と冷徹に切り捨てて、エドガーはタクシーを降りた。ユウキも続いて降りて、タクシーが走り去っていく。それを見届けていると、エドガーが、「行くぞ」と告げた。ユウキはその背中に続きながら尋ねる。
「どうしてコウエツカジノまで行かなかったんですか? 歩くのは嫌いだったんじゃ」
「ああ、嫌いだが、ウィルにそこで作戦があると言いふらすようなものだ。作戦前までは出来るだけ音沙汰は避けたい」
「あの運転手の人がばらすとでも?」
ユウキは振り返ったが、既にタクシーは見えなくなっていた。
「不安の種をばら蒔く事はない。作戦前だ。小事が大事に騒ぐ」
エドガーのどこまでの断固とした声にユウキは何も言えなかった。まるで全てを疑ってかかっているような冷たさを持っているような印象を受けた。テクワ達に通じるような慎重さだ。いや、彼らのほうが喋る分マシだったかもしれない。寡黙なエドガーはユウキからしてみれば理解に苦しむ存在だった。
「じゃあ、このバッジはいいんですか? 僕はこのバッジのほうが目立つようで気になりますけど」
ユウキが「R」を逆さにしたバッジを見やる。エドガーは、「それは矜持だ」と語った。
「矜持、ですか?」
「そうだ。俺達は正規団員だという証。もしカジノやその他の場所で非正規団員との揉め事があった場合、俺達は火消しの意味を持ってその場に踏み込まなければならない」
「目立ちませんか?」
「よく見なければ意外と気づかないものだ。それに気づいたとしても相当な正義漢でない限りは黙認するな。リヴァイヴ団とウィルの揉め事に干渉するのは誰だっていい気分じゃない」
それはそうだろうとユウキも思う。最初にランポと遭遇した際、ウィルから執拗なまでの取調べを受けた。たった一件の出来事で自分の経歴が丸裸にされてしまうのはいい気分じゃないだろう。事実、ユウキは苦々しい思いを噛み締めた。
「あの、さっきはありがとうございました」
「何故、礼を言う?」
エドガーが立ち止まって振り向いた。眼鏡越しの視線はきつい。だが、ユウキはそれを真っ直ぐに見つめ返す。
「僕がリヴァイヴ団に入った理由を言いそうになったのを、止めてくれて……」
「守秘義務くらいはあるだろう。言いたくない場で言う必要はない。それとも、お前は言いたかったのか?」
尋ねる声にユウキはミヨコやサカガミの事を思い返し、首を横に振った。
「だろうな。俺達はそうでなくとも過去を言いたくない連中の集まりだ。配慮というほどじゃない。当然の事をしたまでだ」
エドガーは再び歩き出した。その当然の事を、自分はまだ理解しきっていないのだ。組織に入る事を、まだどこかで甘く考えている自分がいる。入団試験のテクワ達とのやり取りで分かったつもりでいたが、実のところはほとんど分かっていないようだ。まだぬくぬくとした場所にいた頃の空気感が抜けきっていない。
エドガーは真っ直ぐにコウエツカジノへと向かった。コウエツカジノは二階建ての直方体のような建物で、青や赤のけばけばしいネオンライトの装飾がある。昼でも明るいそれは夜になれば娼婦の装いに近い。日が傾きかけていたので、今は、多少は上品に見えた。
「カジノに入るぞ」
エドガーの声にユウキは覚悟の腹を据えようとした。いざ作戦となると緊張感が漂う。正面からカジノに入ると、ぬるい風がユウキの足元から吹き抜けた。やわな果実のような香りを含んでいる。カジノ特有の匂いだった。入ると、品のよさそうな女性のディーラーがユウキ達へと歩み寄ってきた。エドガーがカードを差し出したので、慌ててカードをポケットの中から出した。ディーラーは手に持った機械でカードを読み込んだ。緑色のランプがつき、アナウンスの音声がエドガーのカジノでの名前を呼ぶ。
「どうか最良な時間を」
ディーラーの声に、エドガーは鼻で笑って、「そうさせてもらう」と応じた。ユウキもカードを通して、認証を得た。ディーラーの声を背に受けながら、ユウキはカジノ全体を見渡す。一階層はカードゲームとスロットに充てられており、二階層はVIPルームのようだった。
『VIPルームへはコインを一万枚以上集めた方のみご入場いただけます』
アナウンスが響き渡り、スーツを着込んだ男がディーラーに連れられて黄金の扉の向こうに消えていく。
スロットを回す客達は総じて仕立てのいい服を着込んでおり、少なくとも浮浪者の類は見当たらない。ユウキが客達を観察する視線を向けていると、エドガーが不意に何かのケースを差し出した。受け取りながら、「これは?」と尋ねる。
「コインケースだ。ゲーム用コインが入っている。零時まで、俺達は善良な客として認知されなければならない。遊んでおけ」
コインケースを開くと、六〇〇枚ほどのコインが入っていた。金額に換算するといくらぐらいだろうかと思う。
「いいか、俺はカードのほうをやっておく。お前はスロットで適当に遊べ。ただし、忠告しておく」
エドガーがユウキを見やった。ユウキはコインケースを閉じてその眼を見返す。
「勝ち過ぎるな。スロットの良し悪しによってはうまく勝てる場合もある。コウエツカジノは赤地経営だからほとんど勝てるようには出来てない。それでも偶然が重なる場合がある。いいか。一〇〇枚勝ったら二〇〇枚するぐらいの気持ちでいろ。ゲーム用コインがなくなったら俺に言え。何枚かはやる。あんまり俺にも期待をするな。賭けは得意なほうじゃない」
エドガーはカードゲームのほうへと歩いていった。取り残されたユウキはスロットに視線をやる。スロット台はどれも同じに見える。だが、勝てる台と勝てない台があるくらいはユウキでも分かる。
「勝ち過ぎなければいいんだろ」
呟いて、ユウキは一台のスロットの前に座った。ベッドは三枚からだ。賭ける方向、枚数によって返還金が変わってくる。スロットの上画面にはピカチュウが両手を上げていた。
試しに三枚入れてみる。スロットが回り、ユウキは手近な場所にあるギアを掴んだ。ギアを入れるタイミングが少しずれただけでスロットは空転する。一回目は様子見のつもりで三度適当なタイミングでギアを入れた。当然、スロットの絵柄は揃わず、上画面のピカチュウが残念そうに肩を落とす。
もう一度、ベッドすると上画面のピカチュウが右に左にと動き始めた。左に躓いたタイミングでギアを入れると、狙っていた絵柄が来た。ピカチュウが中央でよろめく。ギアを入れる。同じ絵柄が斜めに揃いそうになる。リーチだ。ユウキは慎重に最後のスロットの回転を見定めた。モンスターボールの絵柄が揃えば百倍になって還ってくる。
「……百倍。三〇〇枚か」
狙っているつもりはないのだが額に汗が滲む。適当に遊べとエドガーから言われたではないか。ユウキは息をついて、ピカチュウが右側によろめいたタイミングでギアを入れた。ゆっくりとスロットの回転数が落ちていく。モンスターボールの絵柄が斜め上に見えた。
――当たる。
そう確信した瞬間、スロットがずれ込んだ。モンスターボールの絵柄が中央に来てリーチが外れる。ピカチュウがまた肩を落とした。ユウキは詰めていた息を吐き出しながら、エドガーの言葉を思い返す。素直に勝たせてくれるようには出来ていない。ユウキはポケッチに視線を落とした。作戦開始時間まで、あと六時間はある。六時間もスロットだけで時間を潰せるのだろうか。勝ち過ぎるな、とエドガーには忠告されていた。だが、勝負となれば自然と身体の内側から熱が溢れ出てくる。
「このスロット」
ユウキは呟いて回転するスロットの表面を撫でた。ガラス張りにされており、スロット自身に細工する事は不可能だ。反対側にもスロットがあるために裏側からの細工も不可能。ギアを引くタイミングは運次第。
「でも、眼がよければうまくいくかもしれない」
ユウキは試しにもう一度、三枚ベッドした。スロットの動きをじっと見つめる。素人は上画面のピカチュウの動きにこそ法則性があると思いがちだろうが、このスロットの場合はそうではない。それは客を騙すブラフだ。
ピカチュウの動きを頼りにして二つまでは当てる事が出来る。大きなものを狙わなければピカチュウの動きを頼りにするもの手かもしれない。しかし、六時間、勝ちと負けを平等に積み重ねていかなければならないのだ。
「適当に遊んでおけとは、よく言ったものだよ」
ユウキは自嘲の笑みを浮かべる。闇雲にベッドし続けるだけでは二時間と持たないだろう。じっと目を凝らした。スロットの動き全てを掌握しようと、全神経を研ぎ澄ます。この感覚は戦いの時の感覚に似ていた。テッカニンの高速戦闘を掌握する時と同じだ。速いものを追うのではなく、その先を見据える。
「……これは戦いだ」
呟いた声が結実し、ユウキは左スロットと中央スロットの動きに法則性を見つけた。左スロットは中央スロットより三秒早く、中央スロットは両サイドのスロットよりも二秒遅い。
これは全てに言えるのか。
ユウキは二回、適当にベッドする。秒数は同じだった。間隔も同一だ。ユウキは覚えず足でリズムを取っていた。これで左スロットと中央スロットは当てにかかれる。問題は最後の右スロットだ。ユウキは何度かリズムを刻んだが、三回ごとに右スロットだけが逆回転するために秒数が一定ではない。
眼に頼るしかなかった。そのためには左と中央は感覚で当てられるようにならなければならない。ユウキは方向でベッドしようとは思わなかった。賭けるのは標準でいい。賭け金を増やせば増やすほど、秒数の感覚が狂うように出来ている。逆に言えば同じ賭け金ならば秒数は一定だ。方向を指定すれば、その直前と直後で必ず一定のずれが生じるように出来ている。ならば方向指定はしないほうが無難である。
ユウキは右スロットの動向に目を光らせていた。右スロットが法則性を無視している以上、目で追わなくてはならない。絵柄の回転速度は毎秒約半回転。二秒で一回転であるが、三度目に逆回転するためにその時だけ頭を切り替えねばならない。出来るか、と胸中に問いかけるが無意味な事だ。出来なければ作戦遂行は至らない。
「全然遊びじゃない。これも戦いのうちなんだ」
呟いて、ユウキは乾いた唇を舐めた。眼は忙しなくスロットの動きを追いかけている。
まだだ、とユウキは感じる。追いかけているのではない。追い抜いた時こそ勝機が見えてくる。左と中央は突破出来る。あとは右だけだ。ユウキは右スロットが逆回転し始めたのを先読みする。逆回転ということは、モンスターボール、マリル、リプレイ、ピカチュウ、プリン、セブン、木の実、の絵柄の順番であるはずだ。ユウキは左と中央スロットに揃っているセブンの絵柄を見やる。狙うはセブンだ。それ以外はいらない。戦闘状態と同じ集中力をスロットに注いだ。
エドガーはカードゲームを持て余していた。
カードゲームのルールは最初に配当を決め、ディーラーがカードを三枚配り、それぞれ客がディーラーの次に引くカードよりも役が大きいかどうかで勝敗を決めるというものだ。
客側はディーラーとの一回のやり取りでカードの交換、または破棄を決める事が出来る。三枚の状態で賭けに挑む事も可能だ。カードがどのような絵柄かは捲る瞬間まで分からない。
神経衰弱をやっている気分だった。エドガーが生欠伸をかみ殺す。エドガーの手持ちコインは二〇〇〇枚だ。少々無茶な賭け方をしても作戦時間までは問題なく戦える。その余裕が勝負に真剣になれない理由だった。左手のポケッチに視線を落とす。ちょうど二時間が経とうとしているところだった。
今は夜の七時だ。作戦開始まで見積もっても四時間から五時間。準備を含めれば四時間と言ったところだろう。
エドガーはユウキがどのような塩梅でやっているのか気にはなったが、特別気にするのはよしておいた。それはユウキのためにもならない。独りで戦う覚悟もまた必要だからだ。新入りだからといって甘やかせるつもりはない。ランポはユウキの実力を買っているようではあった。ランポと真正面からやりあったのだから実力はあるのだろう。
しかし、それは所詮ポケモンバトルでの実力だ。リヴァイヴ団の活動は何も戦闘ばかりではない。諜報、策謀を重ね、裏切りの上に裏切りを決めて先の先を見通さねば生き残れない。
ランポはそれが出来たから生き残っているのだし、自分はランポのそのような部分を認め、尊敬しているから下についている。ランポの意見ならば疑問を差し挟むつもりはない。兵隊に上の事情を推し量れというのは無理な話だ。エドガーは純粋な兵のつもりはなかったが、ランポの右腕という自負はあった。少なくともミツヤよりかは信用されているはずだ。
ディーラーがエドガーの名を呼ぶ。偽名で呼ばれたものだから一瞬反応が遅れたが、エドガーは迷わず、「ステイ」を選んだ。ステイは三枚の手札のまま勝負をするという事だ。
「では、皆様の健闘を祈って」
そのような文句でディーラーがカードを表に返す。次にカードを山札から引いた。それを表にすると、ちょうど十五だった。十五よりもエドガーの手が高ければ勝ち、低ければ負けである。ちょうどならば十倍の配当を受ける事が出来る。エドガーはカードを捲った。三枚で示された数字は九、つまりは負けだ。
「残念でしたね」
ディーラーが偽りの笑みを浮かべながら、カードをシャッフルする。エドガーの隣に座っていた紳士が立ち上がった。
「私はここまででパスさせてもらうよ」
紳士の賭け金は随分と少なくなってきていた。この辺りが潮時と判断したのだろう。ディーラーは、「またのお越しをお待ちしております」と笑顔を振りまいた。
紳士はエドガーに、「頑張ってくださいね」と声をかけた。エドガーは無視を決め込んだ。紳士は嫌な顔一つせずに、その場を去っていく。戦いに負ければ去る、当然の理屈だ。どこの世界でもそれは同じである。エドガーの先ほどの負けは実は大した痛手ではない。賭けていた金もそれほど高くなかった。コインは消耗品のようなものだ。作戦開始時にたとえ手持ちコインがゼロになっていても構わない。
勝つ事が目的ではないからだ。時間を持て余すのは手段でしかない。カードをシャッフルするディーラーの手元をぼんやりと見ていると、出し抜けに、「こりゃすごい」という声が聞こえてきた。その声に目をやると、次いで聞こえたのはざわめきだ。スロット台のほうに小さな人だかりが出来ている。どうやら今夜の運のいい奴がいたらしい。
「勝っているんですかね」
ディーラーがシャッフルの手を緩めずに口にする。エドガーは、「幸運を分けてもらいたいもんだな」と言って口を斜めにした。ディーラーも冗談が通じたのか、同じような笑みを浮かべる。
「全く、幸運の女神というのは平等ではない」
ディーラーがカードを配り始めるのと、先ほどの紳士が戻ってきたのは同時だった。息せき切ってエドガーの下へと駆け寄り、「あんた」と声をかける。エドガーは訝しげに眉をひそめた。
「何だよ」
「あんたの連れが、大変な事になっているぞ」
その言葉に人垣の中心にいる人物が思い至ったが、「まさか」とエドガーは声を上げた。このカジノのスロットは見極めが相当難しい事で有名である。エドガーは賭け金を取り下げて、コインケースに入れて立ち上がった。
スロット台へと早足に歩み寄ると、既に人だかりは一種の波のようなうねりを持っていた。
エドガーは背伸びをして人垣の向こうへと視線を向ける。スロットに向かったままギアを機械的に回しているユウキの姿があった。足元のコイン入れにはコインが溢れんばかりに盛られている。いつの間にか誰かがコイン入れを取り替え、ユウキの隣に置いた。ユウキが三枚ベッドし、ギアを回す。スロットが回転し、ユウキは一瞬の判断で左と中央のスロットにセブンの絵柄を叩き出した。
その瞬時の判断だけで人だかりがざわめいたにも関わらずユウキはスロットに視線を据えて微動だにしない。その眼が右スロットの動きに固定されていた。
エドガーも知っている。右スロットだけは異質な動きをするのだ。左と中央は辛うじて見極めが可能でも、右スロットの動きは変幻自在である。ベッドするコインの数や方向、または左と中央を止めた時のタイミングの如何でも速度や回転が変化する。まさしく無理難題のスロットをユウキは迷わずギアを回して引いた。スロットがゆっくりと回転を止め、スリーセブンが揃う。コインが吐き出され、コイン入れに溜まっていく。
ユウキは今コインが何枚あるのかなど気にしていないようだった。ただスロットとの真剣勝負にこだわっている。また三枚ベッドし、ギアを回す。淀みなく左と中央を揃え、右スロットも即座に止めた。またもスリーセブンだった。
「すげぇ強運だ」
誰かが呟く。
エドガーはそれが強運などではない事を確信していた。ユウキの手が迷いないのは運任せだからではない。自分の実力で戦っているからだ。エドガーには予想もつかないが、恐らくスロットのパターンを解析し、動体視力を極限まで高めて臨んでいるのだろう。そんな事が可能なのか、ではない。可能だからユウキはこれほどまでに勝っている。
しかし、これ以上は危険なのは自明の理だった。ユウキは当初の目的を見失っている。子供だから、で許される範疇を超えている。エドガーは人垣を裂いてユウキへと歩み寄った。ユウキはエドガーが背後に立っても気づかないようであった。とてつもない集中力である。エドガーは手を伸ばし、ギアを握るユウキの手を上から押さえつけた。ちょうどギアを引こうとしていたユウキの手が止まり、初めて連勝がストップした。コインが吐き出されなくなってようやくユウキはエドガーが傍にいることに気づいたようだった。
「エドガーさん」
そう口にしたユウキの眼にはまだ戦いの火が爛々と燃え盛っていた。
スロットとこの新入りは真剣勝負をし、勝ち続けてきたのだ。しかし、これ以上はまずい。エドガーは手早くコインを集めた。コインケースに稼いだコインを入れて、ユウキをスロットから引き剥がす。ユウキはまだ名残惜しそうにスロットを見つめていた。エドガーはユウキを引きずってトイレへと連れ込んだ。まだスロットのほうを眺めていたその横っ面にエドガーは平手打ちをした。ユウキの身体が揺らぎ、叩かれた頬を押さえる。それでようやくエドガーの存在を認めたようだった。
「エドガー、さん」
今度はまともにエドガーの顔を見た。エドガーは舌打ちをして、「この馬鹿野郎が!」と怒鳴った。ユウキが首を引っ込める。ようやく人間らしい所作が戻ってきた。
「言ったはずだ。勝ち過ぎるなってな。いいか? 俺達の目的はこのカジノの裏金を暴き、ウィルの不正を告発する事だ。だっていうのに、お前は何をしていた? ウィルに目をつけられるような真似をしやがって」
ようやく認識が追いついてきたのか、ユウキは戸惑う視線を向けてきた。エドガーはその視線から目を逸らす。
「僕は、どうすれば……」
「知らん。お前の蒔いた種だ。何とかしろ。俺は外にいるランポ達と連絡を取る。ホラよ」
エドガーがコインケースをユウキに手渡す。ユウキは重みを噛み締めるようにコインケースを握った。
「それで自分に出来る事を模索するんだな。俺が通信から帰る前に答え出してろ。でなきゃ、お前は用済みだ。俺達のチームにはいらない」
言い捨ててエドガーはトイレを後にした。
甘い言葉はかけていられない。男ならば自分で出来る事ぐらいは探し出してみせろ、というのがエドガーの胸中だった。
事実、エドガーは苛立っていた。ここまで出来る力があるユウキへの嫉妬も混じっていたのかもしれないが、それだけではない。自分ならば指定時間まで時間を潰す程度で済んだのに、これではおじゃんだ。作戦が潰える事は自分の価値が潰える事も同義だとエドガーは思っている。エドガーは懐から折りたたみ式のヘッドセットを取り出した。ポケッチの通信では足がつく可能性がある。何より近距離ならばヘッドセットのほうがいい。
『エドガーか。どうした?』
「新入りがやらかしやがった。スロットで勝ちまくって目立ったようだ」
吐き捨てるように言うと、通信越しのランポは、『そうか』と小さく返した。
『ならばエドガー。作戦遂行の前倒しも検討する。ウィルの部隊がこちらに来る可能性が高まったということだな』
「ああ、そうだ。ランポ。あんたは今どこに?」
『カジノの表にいる。マキシが裏を張っている。増援が来るようならば俺達で始末をつけられる。お前らは内側の事だけを考えろ。どうやって敵の懐に飛び込むのかだけをな』
「だがな、ランポ。こりゃ、ちょっとまずいぜ」
エドガーは足を止めた。ユウキの連勝を見守っていた人だかりの多くが三々五々に分かれているが、ユウキを待つ人間もまた存在した。まだ勝利の美酒に酔いしれたいのだろう。エドガーは舌打ちを漏らす。それほどまでに勝っていたというのか。
「新入りの連勝の余波が強い。なかった事で誤魔化すのは不可能だな」
『ならば何らかのアクションがあるだろう。エドガー。その時にお前がどう行動するのかは全て任せる。ただ忘れるな。最重要目的はカジノの裏帳簿を暴く事だ。ミツヤがハッキングしてくれているが、それだけでは心許ない。お前らに任せている事は思っているよりも大きい事を忘れるな』
「分かってるよ」
その言葉を潮に通信が切れた。エドガーはヘッドセットを床に叩きつけて鬱憤を晴らしたい気分だったが、寸前で堪えた。息を整え、ヘッドセットを懐に仕舞う。
どうにかしなくては。冷静さを頭に取り戻そうと、エドガーは深呼吸した。カジノ特有の雑多な匂いが鼻についた。