第二章 一節「勲章」
熱帯夜だった。
肌に纏いつくような熱気が夏の到来を感じさせる。
ユウキは呼吸すら億劫になるのを感じて目を覚ました。時計を見やると、夜中の二時である。息をついて顔を拭うと、もう眠れそうになかった。
電気を点け、クローゼットの中を整理する。もう使わないであろう服はまとめて外に出しておいた。その中に、懐かしい服を見つける。ユウキはそれを手に取った。赤い帽子と水色の短パンだった。それはかつてキリハシティ近郊に住んでいた頃、短パン小僧として戦っていた時の名残だった。
「笑っちゃうよな。あの時は、これで何でもできるような気がしていたんだから」
水色の短パンは勲章のようなものだった。ユウキは夏でも冬でもその服装を貫いたのを覚えている。今にして思えば、子供は風の子、という常套句に任せた無茶だった気がするが、無茶を通せた頃が懐かしい。今はもう無茶は通せない。赤い帽子は久しぶりに被ろうとすると、やはり頭に入らなかった。
「成長したって事かな」
赤い帽子を手元で眺めながらそう口にする。父に買ってもらった帽子だった。水色の短パンと赤い帽子だけでどこまでも強くあれた。
緒戦のポケモントレーナーにとっての関門である短パン小僧を名乗れたのは何も自分だけの力ではない。
両親の力や、その時のパートナーであったラッタの進化前、コラッタの力でもあった。考えながら、ラッタはどうしているだろうと思う。恐らく、ポケモンセンターで治療を受けているだろう。深い傷には見えなかったが、ミヨコと同じように人間によって害されたのだ。もしかしたら、見た目以上に心に傷を負っているかもしれない。戻ってくる頃にはユウキでさえ信じてはくれないかもしれない。胸を掠めた感傷に、ユウキは頭を振った。
「駄目だな。悪いほうに考えてしまう」
水でも飲んで、無理やりでも身体を休めよう。そう思って、下階に降りた。すると、リビングの電気が点いていた。扉を開けて中を見やると、サカガミが椅子に座っていた。「おじさん」と呼びかけると、サカガミは振り返った。この数時間で少しやつれたように見えるサカガミは弱々しく笑って、「起きていたのか」と言った。
「うん。眠れなくってね」
歩み寄って、「おじさんも?」と尋ねる。サカガミは頷いた。ユウキはコップを棚から取り出して、蛇口を捻った。水を入れながら、サカガミの顔を窺う。サカガミは額に手を当てたまま、そのままの姿勢で硬直していた。ずっとその姿の彫像のようだった。水を入れたコップを片手に、ユウキはサカガミの対面に座った。サカガミは黙っていた。
ユウキは水を口に含みながら、サカガミの言葉を待つ。サカガミは何度か言葉を口にしようと唇を開きかけては噤むを繰り返していた。言葉がうまく出てこないのだろう。ユウキも同じだった。どちらかがこの状況の突破口となる言葉を探して、言いあぐねている。時計の秒針を刻む音が鮮明に聞こえてきた。静寂を破ったのはユウキのほうだった。
「おじさん」
「うん?」
ようやくサカガミは違う姿勢になった。額にやっていた手を膝の上に置く。ユウキは何度か惑うように言葉を彷徨わせたが、やがてはっきりと口にした。
「僕はリヴァイヴ団に入ります」
その言葉にサカガミの表情が凍りついた。わなわなと目を震わせる。ユウキはテーブルの下にやっていた拳をぎゅっと握り締める。ここで逃げ出しては駄目だ。ユウキはひと息に言い切った。
「姉さんを傷つけたリヴァイヴ団を、僕は許せない。でも、怨念返しは意味がない。だから、僕は内側から変える。そう決めた」
ユウキの確固とした声に、サカガミは何度か言い返しかけて躊躇い、やがてぽつりと口にした。
「ユウキ君。それは自分で決めた事なのか?」
その質問にユウキは頷いた。サカガミは手で顔を拭い、伏せた目のまま口にした。
「私はね、ユウキ君。ロケット団に入っていた事を悔いている」
それは罪の告白だった。ユウキは黙って聞いていた。
「世界の敵となる自覚などなかった。だがそれは、覚悟がなかったのと同じなんだ。どんな場所であれ、覚悟を抱いていない人間は過去を悔いる事となる。そうなってしまっては駄目だ。人生の袋小路に入ってしまう。私は、その袋小路から未だに抜け出せていない」
サカガミは立ち上がった。その後姿を眺めていると、ユウキと同じように棚からコップを取り出して、水を汲んだ。コップを持って戻ってくると、座ると同時に水を喉に流し込んだ。仮初めでも潤滑剤のようなものがなければ話せない話なのだろう。
「ロケット団に入っていて、私がやった事は少ない。だが、色んな人の人生を狂わせてしまった。その中には君達のご両親や、君達自身も入っている。巻き込むつもりなどなかった、というのは逃げの方便だ。しかし、私は逃げた。だからこうして生きながらえている。逃げた事への後悔もある。どっちつかずなのさ、私は」
責任を背負い込む事もできず、だからといって無関係を装う事もできない。不器用な生き方だ、とユウキは思った。
「ユウキ君。君はリヴァイヴ団に入ってどうする? ミヨコ君の復讐のために生きるつもりかい?」
「いえ。僕は、変えたいんです。生きている世界を。カイヘン地方を」
理想論かもしれない。だが、理想を抱いた人間だけが前に進む事ができる。少なくとも絶望を胸に抱いて日々を浪費するよりかはずっといいはずだとユウキは自分に言い聞かせた。
サカガミは、「そうか」と呟いた。ユウキの言葉を青臭いと否定する事も、肯定する事もしなかった。
「私には持てなかった、大きな信念だ。それが胸にあるのならば、私の言葉では止められない。止める事は、君を侮辱する事になる」
ユウキは覚えず頭を下げていた。認めてくれなかったらどうしようか、という懸念はその言葉で吹き飛んだ。サカガミとて本心では止めたいに違いない。しかし、自分の言葉でユウキの覚悟を止められない事を知っているのだ。それはかつて覚悟を抱けなかった後悔から来ているのかもしれない。または覚悟を胸に抱いた先人の言葉だろうか。
「頭を上げてくれ、ユウキ君。仰々しい事を言うつもりはないんだ。君の決断だ。誇りを持てばいい」
誇り、という言葉に似合うだけの行動なのだろうか、とユウキは思う。もしかしたらわがままと大差ないのではないだろうか。その疑問を読み取ったようにサカガミは、「行動にはいつだって覚悟が付き纏う」と続けた。
「どんな小さな決断であれ、それをした事に意味があるんだ。それこそ、英断というものだよ。君は君の人生を変える決断を自分で下せた。それだけで誇らしい」
ユウキは覚えず視界が滲むのを感じた。それを悟らせまいと顔を伏せる。サカガミは自分にできなかった事を、自分がしてきた事の話をしている。サカガミの人生とて、覚悟がなかったはずがない。ロケット団に入った事も覚悟なら、それを裏切ってユウキ達を助けたのも覚悟だ。
「ユウキ君。せめて私から言わせてもらうとすれば、最後の最後まで自分を見失わない事だ。我を忘れてはならない。自分一人じゃないんだ。それだけは肝に銘じてくれ」
ユウキが僅かに顔を上げると、サカガミは笑顔を向けた。弱々しい笑みではない。心の底からユウキの決断を後押しする笑顔だった。誇り、だと言ってくれた事にユウキは感謝した。その言葉は躊躇っていたユウキの背中を押してくれた。
「ありがとう。おじさん」
涙を隠しもせずに、ユウキは顔を上げて言葉で伝える。言葉で伝わるうちに伝えるべきなのだ。何かの拍子に全てが変わってしまう事があることをユウキは二度も経験している。臆面もなく伝えた感謝に、サカガミは謙遜するように手を振った。
「そういうのはもっと必要な時にとっておきなさい。きっと、誰かのために、もっと大切な人のために言える時が来るはずだから」
そこまで言ってサカガミは照れ隠しのように後頭部を掻いて、席を立った。コップを洗って、リビングを後にしようとする。
「おやすみ、ユウキ君」
ユウキにとって、いつも通りの言葉が返ってくるのがありがたかった。このやり取りも、何度もできるわけではない。自分は修羅の道を進む事に決めたのだ。
「うん。おやすみ、おじさん」
サカガミは笑って手を振った。リビングに残されたユウキはコップの底に僅かに残った水を見た。自分の顔が映っている。十五年間、積み重ねてきたユウキという自分。それを引っくり返すような事をしようとしている。しかし、何も大仰な事ではない。成長すれば誰だって経験するものなのだ。サカガミやミヨコも、そんな経験をくぐり抜けて来たに違いない。その上に今の自分を持つ。それこそが重要なのだろう。
ユウキは水を飲み干した。喉の奥へと、澄んだ水が流れていった。
病院に行くと、ランポが待っていた。昨夜と同じ、白いジャケットである。何着も持っているのだろうか。さすがにミヨコの病室までは来なかったが、入り口の前で丸めた紙を渡された。
「指定されている時間と場所に来い。そこで落ち合おう」
ランポはそう言って立ち去っていった。ユウキはミヨコの病室に行く直前にその紙を開いた。看護婦にミヨコの病室に案内される。
ミヨコは、峠は越えたようだった。しかしナイフによる傷は深く、しばらくは意識も戻らないという。点滴のチューブが腕から伸びており、水色の病人の服を着させられていた。呼吸と脈拍が一定のリズムを刻む。ユウキはベッドの傍にある椅子を引き寄せて座った。面会時間は十分ほどらしかった。看護婦に十分経ったら呼びに来る旨を伝えられ、十分だけの姉と弟の対面となった。開けられた窓から清らかな風が流れてくる。ミヨコは目を閉じていた。当然、口も開かれない。ユウキは五分間だけじっとミヨコを見ていた。思えば、こうして静かに対面する機会はなかったような気がする。
「こんな時じゃないと、静かに話せないんだもんな、姉さんは」
減らず口を叩いてもいつものような声は返ってこない。ユウキは決意した顔をミヨコに向けた。拳の中にある紙を握り締める。
「姉さん、怒るかもしれないけど、聞いて欲しい」
恐らく、このようなまどろっこしい言い方をミヨコは嫌うだろう。そう思いつつ、発した言葉だった。
「僕はリヴァイヴ団に入る。姉さんを殺そうとした組織だ。多分、反対するだろうと思う。でも、僕は姉さんの復讐がしたいんじゃないんだ。それだけは分かって欲しい。僕は、ずっと嫌だった」
自分の心中の吐露は思ったよりも覚悟が必要だった。今すぐに逃げ出したい衝動に駆られる。これがサカガミの言っていた事なのだろう。逃げ出さずに、今は向き合う。ユウキは呼吸を整え、ミヨコへと静かに語りかけた。
「この世界が嫌だったんだ。あの日、ヘキサ事件で父さんと母さんが死んでから、僕の世界は止まってしまっていた。何もかもが急に色褪せたんだ。ポケモンバトルも、勉強も、何もかも。他人でさえ動いているのか、どうなのか分からない時があって。でも、姉さんだけは変わらないように接してくれた。それだけが嬉しかった。だから、姉さんは僕にとって大事な人だ。でも今のままの世界じゃ姉さんみたいな人が、傷ついてしまう。大切な人が傷ついたり、消えてくのを僕は見たくない。僕は、変えにいくんだ。リヴァイヴ団の内側から、この世界を」
ユウキはそこまで言ってから、くすりと笑った。「馬鹿だって思うかもしれないけど」と前置きする。
「本気なんだ。姉さん。僕は本気で世界と戦いにいく。もう一度、僕の世界を取り戻すために」
ユウキは立ち上がった。ミヨコは何も言わない。言い置くのは卑怯かもしれない。いつものミヨコならば、ユウキを怒鳴りつけて間違っていると説教をしてくれるかもしれない。しかし、今だけは怒らないで欲しかった。ユウキが立ち去る間際、小さな声が聞こえた。
――頑張れ。
空耳だったのかもしれない。またはその言葉を望んでいた自分が引き寄せた幻聴だったのかもしれない。しかし、ユウキの耳には確かにそう届いた。背中を向けたまま、ユウキはその言葉に応じる。
「うん。頑張るよ」
ユウキは病室を出た。すれ違った看護婦が、「もういいんですか?」と尋ねてきたが言葉を返さずに病院を出た。涙を見られたくなかった。