第二章 二節「燃ゆる決意」
コウエツシティの漁港は東西南北四つのエリアに分かれている。
ユウキがいつも釣り糸を垂らしていたのは南のエリアだった。ちょうど本土からの人間が船に乗って来るのが南エリアだ。
西エリアは他地方との貿易に使われており、南エリアと地続きになっている。北エリアはコウエツシティを越えたところにある人工島、カイヘン地方ポケモンリーグに向かうトレーナーには重要な港だ。
北エリアにはポケモンセンターが設置され、最後の旅路に向かうトレーナーを見送る。逆にポケモンリーグから戻ってきたトレーナーを優しく出迎える漁港でもある。ポケモンリーグという荒波に耐えられなかったトレーナーはこの北エリアで最初の傷を癒すのだ。
このようにそれぞれの漁港に意味があったが、東エリアだけは封鎖されていた。東エリアは元々、他地方との貿易で栄えた市場があったが、事実上の鎖国にカイヘンが晒され、一番に打撃を受けた地区だった。活気のあった市場は見る影もなく消え、今は浮浪者達の溜まり場になっていた。
コウエツシティをよく知らない人間や他の街の人間は「F地区」と呼んでいる。
ランク付けがあるわけではなかったが、人間が住むには最底辺の場所だという意味で使われていた。事実、F地区の住民達には住民票がなく、その日暮らしの劣悪な生活を強いられていた。海が近いので食事に困らないと思われがちだが、カイヘンはそうでなくとも漁獲量の制限をカントーから受けている。彼らが生活の糧にしているのは合法すれすれの仕事と、僅かしか釣れない獲物だけだった。その獲物さえ、住民同士の小競り合いで奪い奪われを繰り返している。
コウエツシティの人間も見て見ぬふりで、ウィルさえもF地区の治安には関わってこようとはしない。自分から面倒ごとに突っ込む趣味がある人間以外はF地区には臭いものには蓋の理論で、近寄ろうともしなかった。
ユウキとて、ランポが指定したのがF地区でなければ一度だって来る事はなかっただろう。スクールの規定でF地区には近寄るなと言われていた事に加え、ミヨコも普段から口を酸っぱくして言っていたからだ。
ユウキは初めてF地区に踏み込んだ。
F地区の入り口にはかつて市場であった頃の名残か、鳥居のようなゲートが設えてあった。経年劣化で錆びついているものの、赤みがかっているのが分かった。ゲートを抜けると座り込んでいる住民達が目についた。
F地区の住民だろう。夏が近づいているというのにぼろぼろの外套を着込んでおり、ユウキを見やると卑しく笑みを浮かべた。ユウキはできるだけ目を合わせないようにしながら、ランポの指定した場所へと向かう。
饐えた臭いが立ち込めている。ゴミ袋が捨ててあると思えば、そのゴミ袋は動き出した。緑色の手足を持っており、異臭を放っていた。ゴミ袋の中央付近には眼と口がある。ヤブクロンと呼ばれるポケモンだった。海が近いというのに、側溝からはヘドロのようなポケモンが不気味な声を上げていた。泥まみれの手を振り翳している。ベトベトンと呼ばれるポケモンだ。これらのポケモンが生息する地域は、主に産業排水などが流されている荒んだ場所である。
F地区は昼間だというのに薄暗い。市場であった頃に建てられた背の高い建物が陽射しを遮っている。
ユウキはそんな建物の中の一つに目を留めた。茶色の看板が立てかけられている。ほとんど掠れた文字で、「BARコウエツ」と書かれていた。看板の横には地下へと続く階段がある。ユウキは唾を飲み下した。来た道を見返せば、既に浮浪者がユウキを狙って集まり始めていた。一人で帰るのは危険だった。
もう一度、紙を確認する。『13時にBARコウエツで待つ』と書かれている。ユウキは息を深く吸い込んだ。
粘性を伴った生暖かい空気が肺に溜まり、一瞬むせ込んだが、すぐに持ち直した。自分は今からこの暗闇よりも暗い場所に踏み込もうとしているのだ。だというのに、この程度で臆してどうする。
そう言い聞かせ、ユウキは階段を降りていった。湿っているような壁に手をつきつつ、下階にある扉に目を向ける。木製の扉だったが、ペンキで何やら書いてあった。何重にも塗り固められており、本来の色は分からない。ユウキは扉を引いた。
店内には静かなジャズが流れていた。外とは打って変わって落ち着いた空気であるが、置いてあるテーブルやカウンターは随分と古びて見えた。椅子が倒れている。ユウキがそれに視線を注いでいると、いつの間にか近づいてきた店主に気がつかなかった。店主はスキンヘッドの男で、厳つい体格だった。眼の下に濃い隈がある。コップを拭いていたが、拭いている布きんは薄汚れていた。
「なんでしょう?」
低いバリトンの声だった。ユウキは気圧されそうになりながらも、「約束をしているんです」と店内を見渡した。ランポはカウンター席の一番奥に座っていた。ランポが立ち上がり、店主へと呼びかける。
「俺の約束相手だ。通してやってくれ」
店主はランポとユウキを何度か見比べた後、ユウキを奥へと通した。カウンターに戻った店主は、まだコップを拭いていた。ランポの隣へと、ユウキが歩み寄る。
「座れ。手短に済ませよう。長居すれば厄介な連中がやってくるからな」
ユウキは頷いてランポの隣に座った。ランポはオレンジ色のカクテルを飲んでいた。ランポが店主を呼びつける。
「こいつにはソフトドリンクでいい。何がいい?」
「何でもいいです」
「じゃあ、サイコソーダでもやってくれ」
店主は頷いて、カウンターの奥にある暗がりの中に消えていった。ソフトドリンクは別に扱っているのかもしれない。カウンターには酒瓶が並んでいたが、どれもユウキには縁のなさそうなものばかりだった。高級なのかどうなのかすら区別がつかない。酒瓶を気にするユウキへと、ランポは口元に笑みを浮かべて、「飲んでみるか?」と尋ねる。
「いえ。これから話すってのに、酔っちゃ駄目ですから」
「酔うとは決まったわけじゃないさ。俺のように酔えない体質かもしれない」
そう言ってランポはカクテルを飲み干した。同性から見ても気持ちがいい飲みっぷりだった。
「酔わないんですか?」
「ここの酒じゃ酔わないさ。まだ分からないかもしれないが、そういう風にできているもんだ」
ランポのその言葉が終わった時に、ユウキの前へとコップに入ったサイコソーダが出された。いつの間に戻ってきていたのか、店主が暗い目を向けている。ユウキは「どうも」と返したが、店主は何も言わずまたコップを磨き始めた。
「入団試験だが」
ランポが少しも酔った様子がなく告げる。ユウキはコップに口をつけていた。市販のサイコソーダよりも炭酸が抜けており、水飴のように甘ったるかった。
「明日の夜だ」
「急ですね」
思った通りの返答をすると、ランポは少し笑った。
「いつだって物事ってのは急なもんさ。まぁ、毎月やっているんだが偶然一番近い日が明日だったという話だ。日にちは問題じゃない」
「受かるでしょうか」
「どうかな」とランポは頬杖をついた。その言葉にユウキは視線を向ける。ランポは静かな微笑みを湛えてユウキをじっと見つめていた。
「お前は、どんな試験だと思う?」
突然の質問に、ユウキは面食らったように返せなかった。「えっと……」と返事に窮していると、店主が口を挟んだ。
「お連れさん。リヴァイヴ団に入られるんで?」
「ああ。そうだ」
ランポが何でもない事のように返す。店主は口元に引きつった笑みを浮かべた。
「まだ子供に見えますが、大丈夫なんですかね」
「ここまで来たんだ。肝は据わっているさ」
ランポの言葉に店主は、「そういうもんですかね」と曖昧な返事をした。その意味をはかりかねていると、ランポはユウキへと再び視線を向けた。ユウキは店主とのやり取りのクッションがあったからか、幾分か落ち着いて返せた。
「少なくともスクールみたいな試験じゃない」
その言葉にランポが笑い声を上げた。低い天井にランポの声が反響する。店主も僅かながら笑っているようだった。小さな声で呟く。
「なるほど。確かに肝は据わっていらっしゃる」
「だろう?」とランポは返して、笑いを徐々に鎮めていった。
「いいぞ。そういう考え方じゃなきゃな。受かるもんも受からない」
ユウキの肩をバンバンと叩く。少し酔っているのではないか、と疑った。
「結局、どういう試験なんですか?」
尋ねると、ランポは首を引っ込める仕草をした。
「俺にも分からん。その時の試験官によって異なるからな」
では今のやり取りは何だったのだろう。ランポのいいように泳がされていたような気がして、ユウキは少しだけ気分が悪かった。「ただ」とランポは真面目な顔になって続ける。
「そう簡単ではない。お前の言った通り、スクールみたいな試験では決してないんだ。蹴落とす者と蹴落とされる者がいる。それだけは理解しておけ」
ユウキは頷いた。ランポは視線を飲み干したカクテルに向けた。ランポの顔が歪曲してグラスに映る。
「難しく考え過ぎるな。お前はただ受かる事だけを考えろ」
そう言ってランポはジャケットの内側から一枚の手紙を取り出した。蝋で封がしてある。蝋の文様は「R」を逆さまにしたものだった。
「俺の推薦状だ。ただ推薦状があっても受かるという事を保障できるわけではない。これは受かってから真価を発揮するだろう」
「どういう風にです?」
「それは受かれば分かるさ」
ランポは口元を緩めた。店主も同じような笑みを浮かべる。二人の間で暗黙の取り決めでもあるのだろうか、と思った。
「場所はコウエツシティの中心地、コウエツグランドホテル。一階ロビーにスーツの男がいる。そいつに声をかけてリヴァイヴ団の入団試験に来たと言えばいい」
「そう易々といくでしょうか? それにスーツの人間だって何人もいる」
「いいんだ。お前はスーツの人間を簡単に見つけ出せるだろう。その時から、既に試験は始まっている。もしかしたらそいつのほうから話しかけてくるかもな」
ランポの言葉には正体不明の自信があった。その自信に引っ張られるように、ユウキは頷く。
「明日の夜、八時までにそいつに声をかけろ。そうすれば後はどうにかしてくれる」
「いい加減ですね」
「そんなもんさ」
ユウキは手紙を受け取った。自分のジャケットの内側に入れる。その様子を俯瞰するように店主が見ていた。その視線は大丈夫なのだろうかという杞憂を浮かべていると、「マスターは大丈夫だ」と見透かした声が返ってきた。
「俺達を突き出すよりも、もっとマシな稼ぎ方を知っている。だろ?」
「恐れ入ります」
店主は歯を見せて微笑んだ。右の犬歯が金歯だった。店主もまた、裏の世界に生きる人間なのだろう。ランポは紙幣をカウンターに置いた。
「うまいカクテルだった」
「毎度どうも」
その返答はまるで約束されているかのように滑らかだった。ランポが立ち上がる。ユウキも財布を取り出しかけて、ランポがそれを制した。
「お前の分も払っておいた」
ユウキはランポへと頭を下げる。ランポはフッと口元を緩めた。
「サイコソーダ一本くらい、なんて事はないさ。その程度で他人に義理を感じる必要はない」
ランポとユウキは店を出た。店主から何か言葉のかかる事はなかった。階段を上ると、すぐ近くで浮浪者が待ち構えていた。ユウキが出てくるのを待っていたのだろう。しかし、ランポを見やると、すごすごと退散していった。ランポの背中に続きながら、F地区を歩くと、時折言葉が投げられる事があった。
「おう、ランポ。最近どうだよ?」
フードを目深に被った浮浪者だった。手足が細く、腫れぼったい瞼をしている。ランポは顎に手を添えて、「どうとは?」と返す。
「儲かっているのか、って話さ。ここで、どうかって聞くのは健康かどうかってわけがないだろ」
「違いないな。まぁ、そこそこもらってはいる」
「いいよな。お前は、リヴァイヴ団のチームで。行く行くは幹部か?」
「そううまくはいかないさ」
「俺は、お前がいいところまで行くと思っているぜ」
「買い被るなよ」
浮浪者は、ひひっと笑ってユウキ達の脇を通り抜けていった。一瞬だけユウキを見やったが、特に追及してくるわけではなかった。浮浪者の背中が見えなくなってから、「この街は」とランポが口を開く。
「いつからかこうなっちまった。俺はF地区の生まれだ」
その言葉に思わず、「えっ?」という声が漏れていた。ランポは笑って、「ここがまだ市場だった頃の話さ」と遠くに視線を投げた。
「その頃は随分と栄えていたんだが、落ちぶれるもんは落ちぶれるのさ。ある意味、仕方のない流れだと思っている」
「でも、F地区がこうなったのはカントーやウィルのせいなんじゃ」
ユウキの言葉にランポは歩みを止める事なく、「かもな」と返す。ユウキはランポがどこへ向かおうとしているのかはかりかねていた。少なくともF地区を出るルートではない。どちらかといえば深部へと踏み込んでいる。先ほどよりも浮浪者の数が増え、道行くユウキ達を物珍しそうに見やる。
「だが、それを受け入れて怠惰に流されたのはここに生きる人間の責任能力の欠如だ。確かにそういう状況には落とされたさ。だが、そこから盛り返す力を持たなかったのもまた罪だ」
ユウキはランポのあり方に疑問を抱くわけではなかったが、リヴァイヴ団ならばカントーやウィルを悪と断じているものだとばかり思っていた。とかく、白と黒を分けたがるのだ。だからこそ、ランポのような灰色の道を歩く人間がいた事に新鮮さを覚えた。
「ランポさんは……」
「さんはいらない。俺とお前はほとんど対等だ。そういう線引きは好きじゃない」
意外な返事に、ユウキはすぐに対応した。
「ランポは、そういうものを是としたカイヘンの人間を憎んでいるんですか?」
「憎む、か。そういうわけじゃない。確かに俺の育った環境は悪くなった。カントーやウィルのせいでもあるだろう。しかし、責任を一方に押しつける事はできないと言っているんだ」
「でも、F地区の人達は」
「ああ、虐げられていると思って生きているだろうな。だが、そこから這い上がる術だってあるんだ。同時に、それが地獄ではない。本当の地獄というものが、まだこの世にはいくらでも存在する」
まるで見てきたような言い草だった。事実、そうなのかもしれないが問いただすつもりにはなれなかった。潮の香りが漂ってくる。前を見ると、紫色の布が建物を跨いでかけられていた。向こう側の景色を覆い隠している。ランポは布の向こうへと歩みを進めた。ユウキもその背中についていく。
開けた景色は一面の青だった。
灰色のテトラポッドが居並び、波打ち際は白い。布の向こうは階段状になっており、降りたところには小さいが砂浜があった。砂浜が太陽の光を反射して、宝石を散りばめたような光を発している。
「ここは……」
ユウキは呆然としながら呟いた。ランポが階段を降り始める。
「ここはF地区の最深部だ。F地区の住民はここで漁をする。一日の始まりをこの海岸で感じ、一日の終わりをここで思う。見えるか、ユウキ」
ユウキは光る砂浜と焼きつくような海の青さに目を奪われていた。他のエリアでも見た事がない、まさしく輝く海だった。
「こんな場所がF地区にあるなんて」
「言ったはずだ。地獄ではない。ここはな、次へと踏み出すためのステップなんだ」
ランポがポケットに手を突っ込んで、海岸線に視線を向ける。潮風が長髪を撫でた。中天に昇った太陽が、段階的に海を照らし出す。明日へと向かう階段に見えた。
「ここから踏み出せる人間だけが、明日を掴む事ができる。覚えておけ、ユウキ。どんな場所でも地獄ではない。地獄とは、絶望した瞬間に現れるものだ。希望を胸に抱けるのならば、そこはまだ地獄じゃないんだ」
ランポは振り返る。ユウキは胸元に手をやった。鼓動が高鳴っている。まだ生きている。明日へと踏み出す原動力もある。応援してくれている人もいる。ならば、まだ諦めるには早い。地獄から這い上がるチャンスはある。
「F地区のこの風景を知らない人間は多い。ここまで来ないんだ。知る由もないだろう。かつて誰もが胸に希望を抱けたこの景色を、俺はまた誰もが見られるようにしたい。地獄の底にいる人間が、また希望を抱けるような景色を、永遠ではない一瞬を、また誰もが見れたら」
「それが、あなたの望みですか」
「そんな大層なもんじゃないさ」とランポは肩を竦めた。踵を返し、ユウキとすれ違い様に肩に手を置く。
「この景色を覚えてくといい。何も説教を垂れようと言うんじゃない。そこは誤解しないでくれよ」
「ええ」とユウキは目の前の景色から視線を外せずにいた。
黄昏時には海は朱色に染まるのだろう。月夜には海底に星を抱き、月を映す鏡となる。そして、朝を迎えれば水平線の向こう側から明日を連れてくる。この海は全ての人間にとって、始まりと終わりを告げるものなのだ。
「これを見て、明日に繋げようという人間もいる。同時に、布で覆ってこんなものは見たくないという人間もいる。世界はそうして回っているんだ。誰の目にも希望と絶望は等価ではない」
価値観が同じではないのなら、受け取り方次第だろう。ランポは絶望を希望に変えろと言っているのだ。その言葉に確かに胸が熱くなるのを感じた。
「僕はリヴァイヴ団に入ります」
海に向けて、もう一度その言葉を口にする。まるで誓うかのように。ランポが、「簡単ではない」と言葉を被せる。ユウキはランポへと振り向いた。その双眸に宿った決意はもはや揺るがなかった。
「入ります、必ず」
その眼差しを受けたランポは、静かに瞑目した。
「そうか。期待している」
ランポは歩み出した。その背中へと黙ってついていく。一瞬だけ、海のほうを振り返る。凪の時間に入った波が静かにそよいでいた。