第一章 六節「金色の刃」
ドクロッグが腕を振り翳す。鉤爪の先端から何かが滴っていた。何だ、と感じたユウキの思考を読むようにランポが告げる。
「ドクロッグは毒突きポケモン。その名の通り、この鉤爪には毒がある」
その言葉にユウキはハッとして腹部を見やった。チクチクと傷口が痛む。深くはないが刺されたようだ。
「深くはない、とか油断するなよ」とまたも思考を読んだかのような声が響く。
「ドクロッグはその毒の量を自在に操れるんだ。俺はお前に訊きたい事があるからな。今回は一時間で死ぬコースにしてやった。痛みはほとんどないが、一時間後に死ぬ。これは確定だ」
ランポが歩み寄り、ユウキの眼前に立った。ユウキは覚えず膝から崩れ落ちる。毒が回ってきているのか、足の自由が利かなくなっていた。毒と同じように脅威なのはランポの放つ威圧感だ。
足が竦むのは毒のせいだけではない。この男は本気で、公衆の面前で自分を殺そうとしている。その事実に目を慄かせる。ランポは何でもない事のように鼻を鳴らした。
「どうやったら生き残れるか、考えているな。もちろん、お前が一時間だんまりを決め込む可能性だってあるし、素直に白状してくれる可能性もある。そうなった場合、人殺しをするリスクを背負わなくて済む分、俺も楽だ」
ランポが懐から小さな注射器を取り出した。掌に収まる程度の大きさだ。中にはオレンジ色の液体が揺らめいていた。
「ドクロッグの解毒剤だ。正直に吐くのならば、これをやろう。そうすりゃ、命は助かるな」
命は、と言った辺りランポはここでユウキをただで帰すつもりなどないのだろう。ユウキはホルスターへと手を伸ばす。緊急射出ボタンに指をかけたところで、ランポが言い放った。
「やめておけ。この距離ならドクロッグはお前にもう一撃、撃ち込む事もできる。今度は致死量をお見舞いする。間違いなく一撃で死ぬリスクを背負うか、一時間の制限付きだが生き残る可能性を選ぶか。賢い奴ならどっちがいいかぐらいは分かるはずだ」
ユウキは緊急射出ボタンに指をかけたまま俯いた。スピーカーの故障か、どこからか高い音が響き渡る。ランポはユウキの顔を覗き込みながら、「どうした?」と尋ねる。
「まだ舌が回らないほどの毒じゃないはずだ。話せるよな。それとも、話したくないか?」
ユウキの顎を掴んで、ランポは無理やり顔を上げさせた。ユウキはモンスターボールを握った手をだらんと下げる。ランポは舌打ちをする。
「無気力野郎か。話す気がないんなら仕方がない」
ランポは興味が尽きたように手を離し、ユウキの身体を突き飛ばした。ポケットに両手を突っ込み、ドクロッグに命令する。
「ドクロッグ。こいつに最後の毒を見舞ってやれ」
ドクロッグが腕を振り上げる。オレンジ色の爪が妖しく輝いた。ランポが顔を背ける。瞬間、ドクロッグが爪を振り下ろした。
しかし、その爪はユウキにかかる前で硬直した。何かに射止められたかのようにドクロッグの手が止まっている。ランポが異変に気づき、声を荒らげた。
「何をしている! ドクロッグ!」
ドクロッグの手がぷるぷると震える。ドクロッグの意思でない事は明白だった。ランポがユウキへと再び視線を向ける。
「お前、何を――」
「だから、嫌いなんだ」
遮って放たれた言葉に、ランポは発しかけた言葉を止めた。ユウキはゆらりと立ち上がる。次の瞬間、ドクロッグの身体が突き飛ばされた。何かに衝突したかのように、背中から地面に転がる。ランポはそれを驚愕の眼差しで見つめていた。何が起こったのか、理解していない眼が慄きに変わる前に、ユウキが告げる。
「僕はポケモンで争うのは嫌いです。だから、戦いたくはない。ここで死ぬのも仕方がないと一瞬は思った。でも、助かる可能性があるのなら、賭けるのは悪くない」
ユウキは帽子を目深に被った。ランポにはその眼が先ほどまでとは違って見えていた。戦闘の光を湛えているトレーナーの眼だった。
ドクロッグが腕の力でばねのように起き上がる。しかし、不意に横合いからドクロッグの顔を打ち据える衝撃があった。ドクロッグが叩かれて瞬きする前に、反対側からの衝撃が見舞う。ドクロッグの身体が徐々に押され、まるで見えない壁に阻まれているかのように後ずさり始めた。
ランポは奇妙な感覚を味わっていた。ユウキの口ぶりからして恐らくはポケモンを出しているのだろう。だが、相手が見えない事などあるのか。正体不明の恐怖に、ランポが声を張り上げた。
「ドクロッグ! 騙し討ち!」
ドクロッグが拳を振り上げ、眼にも留まらぬ速度で突き出した。鉤爪が黒いオーラを纏っている。悪タイプ必中の技、「だましうち」である。相手の回避率、命中率に関わらず必ず命中する技だった。しかし、放たれた拳は全て空を穿った。
「当たらないだと! どうして……」
ランポの呻きにユウキは醒めた仕草で、「さぁ?」と肩を竦める。
「ないものを捉えようとしても、無駄なのかもしれませんね」
ないもの、という言葉にランポの身体に衝撃が走った。まさか、と額を汗が伝う。ポケモンなど出ていないのではないか。ユウキという少年自身の力なのか、と考えかけて頭を振った。
「ありえん。モンスターボールを持っていて、不可思議な術など……」
その言葉にユウキは吹き出した。因果な事に昨日のチンピラと同じ台詞をランポが口にしたからだ。
「術なんて、随分と非科学的ですね」
ランポはじっとドクロッグと何者かとの攻防を見つめた。ドクロッグの放った拳はことごとく外れている。一方、何者かの放った正体不明の攻撃は少ないながらも確実にドクロッグの体力を奪っていった。ドクロッグに疲労の色が浮かぶ。このままでは消耗戦を続けるばかりだ。ランポはドクロッグを呼んだ。
「来い!」
ドクロッグが主人の言葉で弾かれたように、地面を蹴ってその場から離脱する。ランポの隣に降り立つと、ランポを抱えた。
「跳べ、ドクロッグ!」
その言葉でドクロッグが足に渾身の力を込めた。ユウキはドクロッグの脚が爆発的に膨れ上がるのを見た。次の瞬間にはドクロッグとランポがスクールの塀を跳び越えていた。ランポが一瞬だけ振り返る。追って来い、という事なのだろう。元よりそのつもりだった。ここで逃がすわけにはいかない。身元も割れている上に、ドクロッグの毒はまだ健在なのだ。
「……追うんだ」
一拍の逡巡の後に、ユウキは言った。正体を明かす事になったとしても、今は解毒剤の確保とドクロッグとランポを行動不能にする事のほうが優先させられた。ユウキはスクールの正門に向かってゆっくりと歩を進めた。足が重い。まだ十分と経っていないのに、毒は確実に回りつつある。
「決着を早くつけないと」
ユウキは傷口から滲む血を押さえながら、踏み出した。
ランポはドクロッグに抱えられ、スクールの中にあるグラウンドへと降り立った。
グラウンドには模擬戦のために白線が引かれており、今まさに生徒同士が戦おうとしている最中だった。ポケモンを操っていた少年が驚いたように身を引く。担当していたジムトレーナーが声をかけようとするが、ランポは構ってなどいられなかった。校舎を見やる。二階部分の窓が視界に入り、ドクロッグにもう一度命じる。
「ドクロッグ! 二階の窓を突き破るぞ!」
ドクロッグが心強い鳴き声を上げ、二階の窓へと向かって跳んだ。ランポを庇うようにドクロッグが前に出て、拳を突き出す。ガラスが砕け、破片が舞い散った。ちょうど廊下を歩いていた教師とすれ違うが、ランポは追及される前に身を翻して窓の外を振り返った。教師もランポをぎょっと見やって逃げていった。
「そこだ! 窓へと向かって拳を放て!」
ドクロッグが振り返り様の一撃を窓の外に放つ。正体不明の敵とは言え、ドクロッグと自分を追ってくるのならば窓から来るはずだった。ならば、窓の一点に敵の進路を定めれば軌道が読めるはず、という考えである。
ドクロッグの拳が確かな手応えを持って空間に食い込んだ。拳の先が捉えたものに、ランポは目を見開いた。
「これが、奴のポケモンの正体か」
ドクロッグの拳がめり込んでいたのは、金色のポケモンだった。一対の翅を高速で震わせており、赤い無表情な眼がドクロッグを睨んでいる。身体は小さく、鋭い爪があった。高い音は翅から発せられていた。
先ほどから聞こえていたのはスピーカーの故障などではない。このポケモンが震わせる翅が放つ高周波だったのだ。
ランポは見覚えがあった。ホウエン地方に主に生息するポケモンである。虫・飛行タイプを持ち、高速戦闘に特化したポケモン。
「――テッカニン。なるほど、見えなかったのはそういう事か」
テッカニンは一説では飛行があまりにも速いために視認されていなかったとされるポケモンだ。対人戦で用いられる事は少なく、野生でも滅多に見かけない。
トレーナーが好んで使いたがらない理由はレスポンスについていけないからだ。テッカニンの反応速度とトレーナーの反応速度が一致せず、お互いの長所を潰してしまう。攻撃性能も高いわけではないために、使う人間などいないと思い込んでいた。
「こちらの認識が甘かったというわけだな。下っ端共が見えなかったと言っていた意味が分かったぞ。そして――」
ドクロッグが食い込ませているほうとは反対の拳を振り上げる。テッカニンの姿が瞬時に掻き消えた。それでもドクロッグを攻撃するために屋内に入ったはずである。
ランポは廊下を見渡した。屋外戦では速度を充分に活かしきれていたが、狭い廊下では窓枠や天井にぶつかって鈍い音を立てている。ユウキも近くにいないために完全な指示が出せていない。叩くならば今だとランポは断じた。教室の扉にぶつかって速度が減衰した刹那、ドクロッグに指示を飛ばした。
「見えていればどうという事はない! そこだ! ドクロッグ!」
ドクロッグの拳が再びテッカニンを打ち据える。テッカニンの身体が傾ぎ、ダメージを負った身体が揺らいだ。もう一度高速の中に入ろうとする前に、ドクロッグが宙を舞って追い討ちをかける。
掻き消える寸前にドクロッグが両手を固めて槌のように打ち下ろした。テッカニンが廊下へと叩きつけられる。高周波の翅が電気の弾けた時のような音を散らした。テッカニンが爪を立てて、起き上がろうとする。その身体へとドクロッグが既に鉤爪を突き立てていた。
「反応速度ではドクロッグのほうが上のようだな」
テッカニンが耳障りな高周波の翅を震わせて鳴き声を上げる。三回ほど鳴いて、やがてピタリと動かなくなった。諦めたのだろうか。トレーナーも近くにおらず、高速戦闘の正体も破られたとあっては当然かもしれない。
「悪いが一時間も待っていられない。テッカニンだけは一撃で沈んでもらう」
ドクロッグの鉤爪の先に毒が滴る。テッカニンは全く動く気配がなかった。ドクロッグが拳を振り上げる。
「くらえ! 毒突き!」
鉤爪がテッカニンにかかると思われた瞬間、テッカニンの姿が光に包まれた。何事か、と感じた思考がドクロッグに伝わる前に、ドクロッグは鉤爪を振り下ろしていた。
テッカニンへと一撃で致死量に至る毒が込められた突きが放たれる。対象物には、「どくづき」は確かに命中していた。しかし、何かがおかしかった。ドクロッグの鉤爪がテッカニンの手前で射止められたかのように硬直している。光に包まれたテッカニンへとランポは目を向けた。そこにいたのはテッカニンではなかった。姿は確かにそっくりだが、よくよく見れば形状が異なる。身体は水分が抜け落ちたかのような土色で、背中の翅は動いておらず枝葉のようだった。眼は黄色く、生きている者の光を宿していない。頭の上にはおあつらえ向きに天使の輪のようなものまで浮いている。
今まさにテッカニンが死んで、魂へとなったかのようだった。しかし、それは決して魂などではない。ポケモンである事を、ランポは知っていた。
「ヌケニン、だと」
そのポケモンの名を言い放つ。ヌケニンとはテッカニンの進化前であるツチニンが進化した際に、手持ちに空きがあれば勝手に入っているポケモンだ。その名の通り、テッカニンの抜け殻である、とする学説もあるが定かではない。
ヌケニンの手前で同心円状の壁がドクロッグの一撃を防いでいた。ドクロッグの手元がその円で固定されている。ドクロッグはもう一方の拳で壁を叩いた。円が波のように揺れ、ドクロッグの手を離す。ドクロッグは後退しつつ、ランポへと視線を送った。現状が理解できないのだろう。ランポもどうしてヌケニンがここにいるのか分からなかったために、首を横に振った。
「何が起こった……?」
一瞬にしてテッカニンがヌケニンと入れ替わった。そうとしか考えられなかった。しかし、どうやって入れ替わったというのか。ランポはヌケニンを睨みながら、考えを巡らせる。やがて、ハッとして窓の外を見やった。ランポが見下ろした先にはユウキが立っていた。片手にモンスターボールを握っている。ユウキはランポの視線を睨み返した。その眼差しに、やはり、とランポは予感を確信に変えた。
「バトンタッチによる高速入れ替え、か。テッカニンの速度を利用して、空間を飛び越えた入れ替えを可能にした」
口にしてみても、まるで現実感が沸かないがそうとしか考えられなかった。「バトンタッチ」という技は戦闘中において、能力変化を保持したままポケモンの入れ替えを可能にする技だが、本来はトレーナーの見ている範囲でしか可能ではない。テッカニンが「バトンタッチ」を指示したタイミングがあったはずだった。ランポは先ほどまでの戦況を思い返し、「あの場面か」と歯噛みした。テッカニンが三度鳴いた、あの時に「バトンタッチ」をトレーナーへと命じていたのだ。
「ポケモンが戦況を分析し、技を選択してトレーナーがそれに応じる。高度なテクニックを要する戦術だ。それがお前のようなガキにできたとはな」
ユウキはランポの言葉に、何も返そうとはしなかった。腹を押さえながら、手を振り払い様に指を鳴らす。
その音に弾かれたようにヌケニンは動き出した。ふわりと木の葉のように舞ったかと思うと、目にも留まらぬ速度でドクロッグの懐へと潜り込んだ。ドクロッグが気づいて拳を振り下ろす。拳の軌道を読んでいるかのように、ヌケニンの身体が揺らいだ。ほとんど空気の流れに沿っているかのような動きだが、反応は早い。
「こいつ、バトンタッチの威力を充分に発揮してやがる」
「バトンタッチ」は先に出ていたポケモンの能力変化をそのまま引き継ぐ。テッカニンの特性、「かそく」を受け継いでいるのだ。「かそく」は時間が経てば経つほど速度を増す特性である。テッカニンが出ていたのはものの十分ほどだが、それでもかなり身体は暖まっていたはずだ。加速特性を引き継いだヌケニンは、ドクロッグと渡り合うのに必要な素早さを持っている。ヌケニン自身は大して速くないが、その特性が厄介だった。
「ドクロッグ。毒突き!」
ドクロッグが雄叫びを上げながら、両拳で突きを繰り出す。しかし、ヌケニンに命中する直前に同心円状の壁が現れ、ドクロッグの攻撃を防いでいく。
「やはり、その特性は、不思議な護りか」
ポケモンには特性が一体につき、一つは必ずあるが、同個体であっても違う特性を持つ者が存在する。ゆえに通常のポケモンならば攻撃するその時まで特性は分からない。ヌケニンは大きく二つの特性があった。一つは光の壁やリフレクターを無効化し、攻撃する事のできる「すりぬけ」という特性。もう一つはヌケニンしか持たない特性、「ふしぎなまもり」だった。「ふしぎなまもり」を持つポケモンは効果抜群以外の攻撃は一切受けつけない。
「だが、俺のドクロッグは効果抜群を与えることができる!」
ドクロッグの拳が黒いオーラを纏う。その瞬間に、ヌケニンも動いた。ヌケニンの保持する爪から瘴気のような黒い影が浮かび上がる。影は刃のように鋭くなり、ヌケニンは爪を開いた。それと同時にランポの喉から叫びが上がる。
「ドクロッグ、騙し討ち!」
ドクロッグの目にも留まらぬ拳がヌケニンに向けて放たれる。ヌケニンは枝葉のような翅を広げて、ドクロッグへと肉迫した。拳がヌケニンに食い込むのと、ヌケニンが一太刀浴びせるのは同時だった。ヌケニンの身体がドクロッグの背後に抜けていく。
ドクロッグは拳を突き出した姿勢のまま固まっていた。ドクロッグの体力は先ほどのテッカニンとの戦いで削られており、ヌケニンとの戦闘でも緊張状態が続いていたために今のが完全な状態で放てる最後の一撃だった。しかし、ヌケニンを倒すのにはそれで充分なはずだ。
「ヌケニンの体力はないに等しい。不思議な護りで固めているという事は、本体は脆いという事。必ず当てられればいい」
ヌケニンの身体が傾ぐ。同時にドクロッグもその場に膝をついた。ヌケニンの放った技、「シャドークロー」が急所に当たったのだろう。ドクロッグは肩口を押さえている。拳を上げるのはもう不可能なようだった。しかし、ヌケニンは倒せた。その安堵にランポが窓の外のユウキへと声を浴びせる。
「ユウキ。手こずったがお前のポケモンは倒した。今から降りていこう。お前に訊きたい事が山ほどできたからな」
その言葉にユウキは沈黙を返した。諦めたか、とランポは思い、身を翻しかけて目の前が急に翳った。それに気づいて目を向けた刹那、影の刃がランポの肩口に走る。疾走した刃がジャケットを引き裂き、ランポは思わず後ずさった。荒い息をつきながら、刃を発した根源を見やる。ヌケニンは未だに健在だった。中空に浮いており、爪から影が迸っている。
「……どういう事だ。騙し討ちは確かに命中したはず」
呟いたその声に、窓の外から、「大した事はしていません」という返答が聞こえた。ランポが窓に歩み寄ると、ユウキが帽子を目深に被ってランポを見上げていた。
「その様子だと、ヌケニンに一撃食らわせたみたいですね。でも、僕のヌケニンは効果抜群を一撃食らわされただけじゃ戦闘不能にはならない」
その言葉にランポはヌケニンへと視線を移した。ヌケニンの片側の爪の付け根に何かが巻きつけてあるのをその時になって発見した。先ほどまではドクロッグの姿が壁になって、ヌケニンの様子がよく見えなかったが、目の前にした今ならば分かる。巻いてあるのは赤い布だった。
「気合のタスキ、か」
ランポが言葉にして、舌打ちする。気合のタスキとは体力が万全であった場合のみ効果を発揮する道具だ。一撃で沈むような攻撃を受けた場合、一度だけ、体力を倒れる寸前で残して持ち堪える事ができる。たった一度きりの道具と馬鹿にはできない。なぜならば、ヌケニンには元々体力がないに等しい。必ず一撃で沈むというリスクがあるのと同時に、気合のタスキが必ず発動するという保障があるのだ。つまり一撃さえ乗り切ってトレーナーの喉元に至ればいい、という考え方ならばこれほど有効な手段もない。現にドクロッグを超え、今まさにランポを狙える位置へとヌケニンはいる。
「テッカニンでちまちま攻撃して体力を削らせていたのは全て計算だったのか。それとも俺のドクロッグのスタミナが足りなかったという事なのか。……いずれにせよ、この状態。あまり俺としてはいいものじゃないな」
ドクロッグを見やり、ヌケニンに視線を向ける。ヌケニンの爪から影の刃が浮かび上がり、ドクロッグとの距離を頭の中で試算する。ドクロッグが傷ついた身体を押して拳を打ち込むまでの時間と、自分の喉をヌケニンが掻っ切るまでの時間を考える。
ランポはため息をついた。窓枠へと歩み寄り、「ユウキ!」と呼びかける。懐から解毒剤を取り出し、ユウキへと放り投げた。ユウキが窓の下で受け止める。
「俺の負けだな。殺されるのはゴメンだ」
その言葉にユウキは注射器を自分の腕に突き立てた。ランポは攻撃の姿勢のまま自分を睨みつけるヌケニンを見て、フッと口元を緩めた。
「そんなに睨むなよ。俺は負けを認める。諦めの悪いほうじゃないのさ」
ユウキは受け取った注射器を腕に突き立てた。一瞬だけちくりと痛みが走ったが、後は楽だった。まだランポが諦めていない可能性も視野に入れて、モンスターボールを握っていると、やがてランポが校舎から出てきた。背後にはぴっちりとヌケニンがついている。ドクロッグはいない。ボールに戻したのだろう。
ランポは両手を上げた。
「トレーナーの指示の飛ばないところで、よくやったもんだ」
笑みを浮かべるランポに、ユウキはまだ警戒を解いていない視線を据える。ランポは、「俺は」と話し始める。
「ドクロッグ以外のポケモンを持っていない。何なら確かめてくれてもいい。ドクロッグがやられれば俺の手はない。敗北を認めよう。そして」
ランポが出し抜けに頭を下げた。その行動にユウキは目を見開いて驚いていた。
「謝罪しよう。昨日の件は下っ端への教育がなってなかった俺の責任だ。何ならオトシマエをつけてもいい」
「オトシマエ、とは」
ユウキが聞き返すと、ランポは薄く笑って親指を突き出し、喉の辺りを掻っ切る真似をした。
「ここで命を絶たれてもいい、という事だ」
ランポの意想外の言葉にユウキは目をしばたたいていたが、やがて首を横に振った。
「いいえ。ここで命を絶つような人じゃない」
「ほう。というと?」
どこか挑発的な物言いに、ユウキは冷静に返した。
「あなたは僕を一撃で殺す事も、スクールの誰かを人質に取ることもできた。そうしなかったのはあなたがいい人だからだ」
ユウキの言葉にランポは吹き出した。堰を切ったように笑い出す。ユウキはモンスターボールを突き出した。
「戻れ。ヌケニン」
ヌケニンの身体が赤い粒子となってボールに吸い込まれていく。ランポは、「いいのか?」と尋ねた。
「俺はもしかしたらまだ諦めていないかもしれないぞ」
「そこまで物分りの悪い人でもないでしょう。僕が見た限りでは、あなたは覚悟して僕の前まで来た。僕がヌケニンに殺せと命じる事も視野に入れていたはずだ」
「買い被りすぎだ」とランポは言葉を発する。ユウキは息をついた。毒が抜けてきたのか、足の感覚が戻りつつある。
「あなたは、少なくとも僕が見たリヴァイヴ団の中では、いい人の部類だ」
「いい人はそんな組織に入ったりしないよ」
ランポは笑みを浮かべて返す。暫しの間睨み合いが続いたが、それを中断したのはランポのほうだった。
「俺はここらで退散しよう。そろそろウィルが来てもおかしくない」
ランポはユウキへと歩み寄ってくる。ユウキはホルスターから手を離していた。ランポが仕掛けてくる事はもうないと直感的に分かった。ランポはすれ違い様、ユウキへと耳打ちした。
「さよならだ。もしかしたらまた会うかもな」
その言葉の意味を汲み取る前に、ランポは片手を上げて去っていった。その背中をユウキは暫く眺めていた。リヴァイヴ団の中では、ランポは下っ端だと言っていた。だが、ユウキは昨日相手にした下っ端とは違う空気をランポに感じていた。
「あなたは……」
そこから先の言葉を発しかけたユウキへと甲高い声が耳朶を打った。振り返った刹那、眼前を水色の光線が行き過ぎる。ユウキの道を阻むかのように、円弧を描いた光線はランポの背中を見えなくした。氷柱が地面から突き上がり、ユウキの視界を遮る。
ユウキを囲うように放たれたのは、「れいとうビーム」だった。二階へと視線を投じると、窓枠に足を乗せているリリィの姿が見えた。傍の空間には鬼の首のようなポケモンが浮いている。氷の皮膜を持っており、一対の黒い角が突き出しているポケモンだ。オニゴーリというリリィのパートナーだった。シャッターのような口から白い呼気が漏れている。そこから冷凍ビームが放たれたのだと知れた。
「それ以上動かないで、ユウキ君」
リリィのいつもと違う、命じるような声音にユウキは身を強張らせた。見れば、周囲をジムトレーナーの教員達が囲っている。
「今、ウィルを呼びました。ユウキ君。あなたには聞きたい事があります。黙秘権や拒否権はありません。いいですね」
他の言葉を許さない断固とした言葉に、ユウキはただ頷くしかできなかった。