ポケットモンスターHEXA BRAVE












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最果ての少年
第一章 四節「正しさの行方」
 コウエツシティの西に団地がある。

 同じような四角い集合住宅が並んでおり、その中の一軒がユウキの家だった。斜陽が青い屋根を撫で、反射した光が道路に深い陰影を刻む。東の空は暗くなり始めている。

「そろそろだな」

 ユウキは呟いた。ポケッチを確認すると、五時を回ったところである。スクールからの帰りと考えれば順当な時間帯だ。先ほどのトラブルのせいで時間つぶしはできなかったものの、帰宅時間としては悪くなかった。リリィからの呼び出しがなかったと説明すればどうとでもなるだろう。ユウキは玄関から、「ただいま」と声を上げる。すると奥から「おかえり」と声が返ってきた。低い男の声である。ミヨコの声ではないが、ユウキにとっては耳慣れた声だった。廊下を駆け回っている小さな影を見つけて、ユウキは声をかけた。

「ラッタ」

 その声に一抱えほどある小型の影が立ち止まり、出っ張った歯と鼻先をユウキに向けた。匂いを嗅ぐように鼻を動かしている。主人の匂いが分かるのかもしれなかった。ラッタは薄茶色の体毛に身を包んだ、小型のねずみポケモンだ。進化前のコラッタに比べれば大きくなったものの、その大きさはポケモン界では小型の部類に入る。

 ラッタはユウキの姿をようやく認めたようだった。視力があまりよくないのだ。視覚よりも嗅覚に頼っている部分が大きいのだろう。鼻が張り出しており、両目が横についている。六本の髭を揺らして、ラッタはユウキの腕の中に飛び込んできた。ユウキはラッタの頭を撫でる。ラッタは気持ちよさそうに目を閉じた。

 ラッタを抱えて奥のリビングに行くと、キッチンに男が立っていた。青いシャツを着込んでおり、年の頃は先ほどの釣り人と同じくらいだろう。中年だったが、長身で若々しく見える。前髪を七三に分けている。それが男の空気を余計に真面目めいて見せていた。

「ただいま、おじさん」

 ユウキの声に、男は笑顔で頷いた。人懐っこい笑みだった。男は鍋の中のカレーを煮込みながら、「ミヨコ君は」と話し始める。ユウキはテーブルにある三つの椅子のうち一つに座って、テレビを点けた。ラッタはユウキの座った椅子の下で大人しくしている。ニュース番組がやっていた。

「ちょうど買い出しに行っていてね。私が今日の料理番というわけだ」

「おじさん、昨日もだったじゃないか。無理をしなくても」

「無理じゃないさ。君達のご両親の縁で住まわせてもらっているんだ。これくらいはしないとね」

 男の言葉にユウキは笑みを返した。

 男の名前はサカガミといった。ユウキはおじさんと呼んで慕っているが、元々両親と縁のある人間であり、ユウキやミヨコとは血が繋がっていない。しかし、ユウキもミヨコも家族同然だと思っていた。サカガミは働き者で、家の雑事は気づいたら全てやってくれている。それだと申し訳ないのでミヨコもユウキも頑張るのだが、サカガミの家事のスキルには到底及ばない。

 ニュースでは来月末に控えた議員選挙についての報道が行われていた。地方議員の街頭インタビューが流れる。

『ヘキサ事件の傷をようやく癒し始めたカイヘン地方と平和を願うカントー地方の潤滑油になりたいと考えております。そのために、ウィルの特殊権限を強化し、現地兵を増やす事こそが真の平和に繋がる事だと……』

「馬鹿馬鹿しい」

 思わずユウキは吐き捨てていた。これ以上カントーの奴隷になる事に何のメリットがあるというのだろう。サカガミは黙って鍋に視線を落としていた。サカガミにとってこのニュースは他人事ではない。その事を感じ取って、ユウキは別の番組に変えた。

「何もやってないね、テレビ」

 チャンネルを回しながら呟く。

「この時間帯だからなぁ。ドラマの再放送ぐらいじゃないか?」

 ドラマの再放送を流しているチャンネルに定める。男女の恋愛模様を流している。十年ほど前のドラマで、今からしてみれば時代錯誤としか言いようのない内容だった。これくらい現実感のないほうが純粋に楽しめる。

 先ほどの議員の言葉を思い返し、ユウキは苦々しい気分を味わった。「ヘキサ事件」に関してはタッチしない事がカイヘンの住民の中では浸透している認識だ。誰もがあの日の悪夢の出来事を思い返したくはない。ユウキもあの日の事は思い出したくなかった。

 首都、タリハシティが持ち上がり浮遊要塞としてカントーに向かう地獄絵図のような光景。フワライドの群れが覆い、当時のチャンピオンが使役したレックウザがフワライドを引き裂いていく。誘爆の光が広がり、空が血色に染められる。

 その中にはユウキの両親もいた、という。

 後から聞いた話なので確証は持てない。もしかしたらフワライドには乗っていなかったのかもしれなかったが、あの事件で市民はフワライドに乗せられ人間爆弾として、半数以上が亡くなったのは拭いようもない事実だった。そして、ユウキの両親が帰ってこなかったのもまた拭いようのない事実としてユウキに重く圧し掛かった。その頃からだ。ポケモンで争う事が下劣だと思えるようになったのは。人間はポケモンを道具としか思っていない。ポケモンも人間にそのような扱いを受けるだけだ。モンスターボールの支配を甘んじて受けている。

 ラッタはモンスターボールに入れていない。ほとんど野生に近い状態だった。それでもかつてユウキと共に戦った日々の事を覚えているらしく、野生に帰ろうとはしなかった。放し飼いでもラッタは粗相をする事もない。小さい頃から共にいるからユウキには分かる。ラッタも家族同然だと。ポケモンと人間は分かり合えるのだ。それでもモンスターボールの縛りが必要なところにユウキは歪さを感じずにはいられなかった。

「ユウキ君。ここ」

 サカガミが額を示す。どうやら知らぬ間に険しい顔になっていたようだ。ユウキは、「ゴメン。考え事してて」と返す。

「スクールで何かあったのかい?」

「いや、スクールでは何も」

 リリィの事が脳裏を過ぎったが、言わないほうが正解に思えた。サカガミは、「隠さなくてもいいよ」と言った。

「ミヨコ君には告げ口はしない」

「おじさんの事は信用しているよ。本当に」

「だったら、話してくれてもいいんじゃ」

「でも、ゴメン。何か、話す気にはなれなくて」

 その言葉にサカガミは残念そうに顔を曇らせた。家族にそんな顔はさせたくなかったが、余計な心配もさせたくなかった。ラッタが不安そうな声を喉から漏らして覗き込んでくる。家族三人分の沈黙が降り立った時、「ただいまー」と玄関先で声が響いた。ミヨコの声だった。がさがさと音がする。買い物袋をたくさんぶら提げてきたのだろう。ユウキは少し救われた気持ちで玄関に迎えに行った。

「何? もう帰ってたの、あんた」

 ミヨコの棘を含んだ言葉にユウキは出迎えるのではなかったと少し後悔に苛まれたが、沈黙を抱え込むよりかはマシに思えた。

「ああ、ちょっと早く終わって」

「リリィ先生がよく帰してくれたわね」

 買い物袋を受け取りながらユウキは応じる。

「先生もジムの仕事があるから」

「夕方からだっけ。リリィ先生も大変よね」

 ミヨコはあらかたの荷物をユウキに任せて、ふぅと息をついた。額の汗を袖で拭っている。ユウキが荷物を受け取って、ゆっくりとした足取りでリビングに向かった。リビングではラッタとサカガミが出迎えた。

「おかえり、ミヨコ君」

 ラッタも一家の主の帰りに嬉しそうな鳴き声を上げる。ラッタが跳ね回ると、ミヨコは笑顔になった。

「なに、ラッタ。待っていてくれたの?」

 ラッタも先ほどの沈黙の重々しさを感じていたのだろう。ミヨコの帰りに救われたのは自分ばかりではない。ユウキはリビングの端に荷物を置いた。ミヨコが顎で指図する。

「ユウキ。生ものとか冷蔵庫に入れといて」

「はいはい。了解」

「はいは一回でいいって」

 面倒そうに応じた声に、ミヨコは返しながらキッチンへと歩み寄った。サカガミが調理している鍋を見やり、「カレーかぁ」と言った。

「昨日も作ってもらったのに、なんだか悪いような気がするわね」

「いいよ、ミヨコ君も忙しいし。ユウキ君はスクールがあるからね」

 嫌な話題を出された、とユウキが感じて身を強張らせた時には、ミヨコは、「そういえばユウキ」と声を発していた。既にユウキをその場から逃がす気はないらしい声音だった。

「行ったの? あの後」

 ユウキがぎくしゃくと振り返るとミヨコが腰に手を当てて仁王立ちでユウキの返答を待っていた。誤魔化しの言葉を自分の中に探そうとするが、うまい言い訳が見つからず正直に答える。

「行ったけど、別に」

「別にって何よ」

「何もなかったって事」

「リリィ先生が? まさか、そんな事ないでしょう」

 ミヨコの口ぶりからリリィが家に連絡した事はなさそうだったが、内容を詳細に言うのも憚られてユウキは話をぼかす事にした。

「本当だって。ちょっと注意受けただけ。大した事じゃないよ」

「本当かしら」

 ミヨコは疑っているようであるが、それ以上は追及してこようとはしなかった。わざわざリリィに電話をして確かめて不安の種を増やす事はないと考えたのだろう。ミヨコはキッチンに立った。水色のエプロンをして、サカガミの横に行く。

「おじさん。あたしも手伝います」

「いや、大丈夫だよ。ほとんどできているし」

「じゃあ、お惣菜を出しておきますから、おじさんはもう休んでいて。あまりおじさんにばかりやってもらうのも気が引けるし」

「そうかい? でも、私もこれくらいしかする事はないしなぁ……」

「洗濯物は」

「さっき畳んでおいたよ。乾いてない分は出しておいたし」

「じゃあ、掃除を」

「昼間にユウキ君を呼びに行っている間に済ませておいたけど」

 ミヨコは閉口して、考え込むように額に手をやった。サカガミは放っておくと全部こなしてしまう。ユウキはどこか微笑ましくその様子を見ていた。その時、玄関でチャイムが鳴った。

「はーい」とミヨコがぱたぱたとスリッパの音を立てながら駆けていく。ユウキが冷蔵庫に食材を入れていると、硬い声が聞こえてきた。

「……また、あなた達ですか」

 その声音にユウキは誰が来たのか直感的に分かった。冷蔵庫を閉めて、リビングから玄関を窺う。来ていたのは若い男の二人組だった。二人とも同じ服に袖を通している。緑色の制服だった。肩口に縁取りで「WILL」の文字が見える。ウィルの構成員だ。彼らの顔にユウキは見覚えがあった。

「今日こそ、サカガミ氏の身柄を引き渡してもらいに来たのですが」

 前に立った眼鏡の構成員が口を開く。ミヨコは腕を組んで首を横に振った。

「前にも申しました通り、おじさんを引き渡す事なんてとてもできません。それに彼はもう関係ないでしょう」

「関係ないわけではない。治安維持のために、悪性の芽は早めに摘み取っておかなければ」

「だったらなおさらです。おじさんは、もうそんな世界からは足を洗ったんですから」

「しかしですねぇ、ミヨコさん」

 眼鏡の構成員は懐から革製の手帳を取り出した。それをミヨコの目の前で広げる。上に顔写真があり、下には名前があった。イシカワ、というのが名前らしかった。名前のすぐ下に「WILL」の文字と、細かい文字の羅列が並んでいた。一度だけ、ユウキも見た事がある。確かカントーから治安に関する全権を任されているとか言う内容が書かれているはずだった。

「我々も仕事なんですよ。ご協力願いたい」

「だからといって家族を差し出すなんて真似はできかねます」

「元ロケット団員が家族ですか」

 眼鏡の構成員の後ろにいた男が嘲るような声を発する。ミヨコが睨んだのが気配で伝わった。イシカワが、「おい」と低く押し殺した声を出す。後ろの構成員は咳を一つして黙った。

「失礼。どうにもうちの中でもこういう手合いがいましてね。お許しいただきたい」

「いえ」とミヨコは軽く返すが、心中穏やかでないのは確実だった。

「ただ、これが一般の認識です。この集合団地で、肩身の狭い思いをするのは嫌でしょう。一度だけでいいんです。何分、任意なものですから」

 その言葉にサカガミが玄関へと向かおうとした。ユウキは慌ててサカガミの前に立ち塞がった。

「ユウキ君。たった一回でいいんなら、私は……」

「駄目だよ。一回で済むはずがないじゃないか」

 きっと拘留されるだろう。そうなればもう二度とサカガミとは会えなくなる。それがユウキには辛かった。ミヨコも同じ気持ちなのだろう。眼鏡の構成員の条件を断固とした口調で拒んだ。

「お断りします。もうあたし達に構わないでください」

「そうですか。今日はこれ以上説得しても無駄なようですし、引き上げましょう」

 構成員二人は頭を下げて、玄関から出て行った。その背中が見えなくなってから、ミヨコは扉を閉める。サカガミは玄関から歩いてくるミヨコの前で立ち尽くしていた。表情を翳らせて、サカガミは呟く。

「すまない。ミヨコ君。私のせいで、君達に迷惑をかけている」

「気にしないで、おじさん。あたし達は大丈夫ですから。ウィルがしつこいのが悪いんですよ」

「そうだよ、おじさんは悪くない」

 ユウキとミヨコの言葉にサカガミは少しだけ笑顔を返したが弱々しいものだった。

「部屋に戻るよ。カレーはできているから、二人で食べてくれ」

「おじさんは……」

「私は、後でいいよ。片付けはするから心配しないでくれ」

 サカガミは二階の部屋へと歩いていった。二人ともその背中を止める言葉を持たなかった。足音が遠ざかってから、ユウキは壁を殴りつける。

「ウィルの連中は、どうしてこんな……!」

「ユウキ。やめなさい」

 ミヨコは冷たい口調でそう言って、皿を並べ始めた。惣菜を取り分けつつ、「気持ちは分かるけど」と口を開いた。

「あたし達が喚いて、どうにかなる話じゃないわ」

「でも、おじさんはもう、そんな道からは足を洗ったのに……」

 ユウキは呻くように言葉を発した。ウィルの言っていた事を思い返す。それだけで灼熱の怒りが脳を焼き焦がしそうだった。家族を侮辱されたのだ。怒らないはずがない。

「それでも、ウィルみたいなところは分かってくれないものよ」

 ミヨコは淡々と告げながら惣菜を取り分け、テーブルに置いた。サカガミの椅子の前にも、もちろん皿を置く。

「元ロケット団ってだけじゃないか。もう八年も前の話だよ。それを蒸し返して」

「ユウキ。いいから。食べましょう」

 ユウキは下唇を噛んだ。何か言いたかったが、ミヨコに言ったところで何の解決にもならない。ユウキは椅子に座った。ミヨコはカレー皿にカレーとご飯を盛り付ける。福神漬けをアクセントに付けて、ユウキの前に置いた。

「……食欲、ないよ」

「でも、食べましょう。それが多分、一番だから」

 ミヨコが手を合わせる。ユウキも「いただきます」と手を合わせた。食べれば忘れられるような問題ではない。それでもいつも通りに接する事が一番なのだろう。ユウキはカレーを食べた。ほとんど味は感じなかった。























 二人が食事を済ませてから、サカガミは入れ替わりに下に降りたようだった。足音が遠ざかるのを聞きながら、ユウキは自室のベッドに寝そべって考える。

 元ロケット団というのは、それほどまでに蔑視されなければならないのだろうか。

 もちろん、ユウキとてロケット団の蛮行を知らないわけではない。スクールでも習ったし、話には聞いていた。だが、目の前にいるサカガミはそれら全ての話から関係のないように思えた。優しい風貌は、世界の敵だったという事実からは遊離している。それでもその事実が拭い去れるわけではない。

 サカガミはもうロケット団だった頃の制服も焼いた上に、ポケモンも逃がしている。それでも記録だけがサカガミを苦しめているのだ。記録は残る。記憶はなくとも、記録がある限り、人は価値基準を置きたがるものだ。記録に記された価値が低ければ、そうとしか見えなくなる。ウィルはサカガミを犯罪者にまつりあげて、どうしたいのだろう。今更、ロケット団員を晒し者にしたいのだろうか。今の敵はリヴァイヴ団や、利権を貪る議員達ではないのか。

 ユウキは部屋のテレビを点けた。ちょうどウィルの活動をPRするコマーシャルが流れていた。

『カイヘン地方をカントー地方と共に歩ませよう。悪を正し、正義を世に示す組織、ウィルの活動にご協力ください』

「ウィルに、正義なんてない」

 思わずユウキは呟いていた。ウィルは過去に傷のある人間を生贄に欲しているだけだ。傷を癒そうという間際に、その傷口に塩を塗り込む。それがウィルのやり口だった。

 カイヘンだって傷だらけなのだ。その地方を無理やり立ち上がらせ、まだ非難の矢面に立ち続けさせる事に正統性などない。住民達は気づいていながらも黙認している。カントーの支配に甘んじて、自分達の思考を停止させている。支配力を強めるウィルとカントー以上に、無関心を装うカイヘンの住民にユウキは腹が立った。

「ロケット団だからって、何なんだよ」

 ユウキはテレビを点けたまま、寝転がった。白い天井が視界に入る。帽子は勉強机の上に置いてあった。オレンジのジャケットも脱いでクローゼットに仕舞ってある。今のユウキはラフな格好だった。

 片手を額に翳して、ユウキは息をつく。脳裏に次々と浮かんでは消えていく。

 汚い金で生活をやりくりする釣り人の姿、その金を搾取するリヴァイヴ団、真面目に働こうとするサカガミの姿、サカガミの過去を咎めるウィル。

 どれが正しい在り方なのだろう。答えは出ずに、ユウキはベッドの上で身体を折り曲げた。

「何が正しいのかなんて、誰に決められるんだろう」

 発した言葉は誰にも聞き取られる事なく、無機質な壁に吸い込まれた。

オンドゥル大使 ( 2013/08/25(日) 21:06 )