ポケットモンスターHEXA BRAVE












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最果ての少年
第一章 三節「不可視網」
 スクールの門前でビラが撒かれていた。

 来た時にはいなかったので下校時を狙っていたのだろう。生徒達にビラを手渡す黒いジャケットを羽織った男の姿が目に入る。

 背中側に、水色の「R」をひっくり返した文字が刻まれていた。それを見て、ユウキは顔をしかめる。男がユウキに気づいて、社交的な笑みを振りまきながらビラを差し出した。ユウキはこういう場で断るのが苦手だった。何となしにビラを受け取る。歩きながら文字を追った。

「集え、若人。我々はリヴァイヴ団。カイヘン地方のかつての繁栄と秩序を取り戻そうではないか、ねぇ」

 ユウキはフッと笑みを浮かべた。ビラを丸めてポケットに詰める。リヴァイヴ団というのは近頃、カイヘン地方で力をつけ始めた地下組織だ。ロケット団を前身に持っているというが、真偽のほどは分からない。ただ、一つ言えるのは今のカイヘンではその活動自体が違法であるという事だ。

 振り返ると、男は規定の枚数をばら撒き終えたのか、すごすごと退散する途中だった。

 教師陣に見つかれば通報されるからであろう。

 通報する対象は警察ではない。ウィルと呼ばれる組織だ。

 八年前、カントーがカイヘンを統括する時に独立治安維持部隊の発足が決定した。最初のうちは名前などなかったが、宇宙で起こったテロ事件をきっかけにしてその組織はウィルと名乗り始めた。ウィルはカイヘンの実質的な支配者だった。八年前にカイヘンの実権を握っていた組織、ディルファンスとはまるで規模も志も異なる彼らはカイヘンの至るところに影響を及ぼしている。

『午後四時になりました。カイヘン地方統括、コウエツシティ支部よりお伝えいたします。労働者の方々は労働原則第二十条に則り……』

 スクールに備え付けてあるスピーカーからよく通る声が聞こえてくる。

 これがウィルの支配の一つだった。様々な法律を作り、カイヘンは雁字搦めにされた。それを悪だと断じる声は他地方からは上がらなかった。カイヘンの負い目を他地方も分かっているのだ。敗戦国が、勝った国に賠償金を払うのと何も変わるところはない。他の地方は実質的にカイヘンを見捨てていると言ってもいい。

 ユウキは左手に巻いたポケッチを見やった。ポケッチとはトレーナーが身につけることを前提に開発された支援用の端末である。時計機能の他に通信機能やポケモンのステータス確認機能などが充実しているがカイヘンのトレーナーがつけている最も重大な理由はポケモンの所持数の管理だった。これを付けている限り、いつでも見張られている感覚が纏いついてくる。ユウキは外そうかと思ったが、ポケッチはトレーナーである以上装着が義務化されており、保護者の許しがない限りは外す事などできない。

「これじゃ、監視社会だな」

 毒づいた言葉はユウキが常日頃から感じている事だった。ウィルに監視されている。トレーナーは飼い殺しにされ、その中で生きる事を余儀なくされている。この現状に疑問を差し挟む余地などない。与えられた世界がそれだけだったと割り切るしか道はないのだ。

「トレーナーになんてなりたくないのに……」

 呟いてユウキはポケッチの金具を掻いた。金具の部分の塗装だけが剥がれている。何度も抵抗した証だったが、その度に自身の無力さを痛感させられた。

 ユウキは歩きながら、そのまま帰るのも気が引けた。待っているのは鬼の形相をしている姉である。考えるだけで鳥肌が立ち、ユウキの足は自然と昼間までいた漁港へと向かっていた。スクールから一時間ほど歩けば漁港に着く。また釣り糸でも垂らそうかと、考えながらユウキはそちらへと続く道路へと歩み出す。

 コウエツシティでは車はほとんど見られず、たまにマッハ自転車が行き過ぎていくだけだ。自転車の最高速度などたかが知れているので、自動車ほど危険ではない。それでも偶に道幅ぎりぎりまで寄せた危険運転をしてくる自転車はいる。ユウキは嫌悪の眼差しを向けながらも、声を張り上げるような真似はしなかった。そんな事をしても疲れるだけだ。それにトレーナーだとしたらポケモン勝負を挑まれる可能性もある。目を合わせないように、ユウキは俯いて歩いた。

 漁港が近づいてくると、潮の匂いが鼻腔に届いた。波が打ち寄せる音が遠く響き渡る。ちょうど船が汽笛を鳴らしながら遠ざかっていくところだった。野太い汽笛の音が耳に残る。本土から渡ってくる人間もいるために、船は重要な交通手段だった。コウエツシティに始めて来る人間はポケモンを使った「なみのり」で渡ってくるか、船を使うしかない。

「そらをとぶ」で来られるのは一度行った事のある場所だけなので、コウエツシティにわざわざ来ようという人間は少ない。「そらをとぶ」が何故一度行った場所でないと使えないか、以前にリリィから授業の一環で聞いた事があった。

 ――ポケモンだって万能じゃないから、目的地の見えない空の旅は過度なストレスとなります。これはトレーナーに関しても同じ事が言え、体力的にも精神的にも「空を飛ぶ」で行ける距離には限りがあるのです。たとえ知識として知っていたとしても、ポケモンは主人を当ての分からぬ旅路に連れ出すような勇気はありません。これはモンスターボールによる弊害と言えます……。

 その続きを、ユウキは諳んじた。

「……モンスターボールに縛られたポケモンは野生の時のような冒険心は持っておらず、主人に尽くすのみとなります。野生の時に強かったポケモンが捕まえると弱くなるのは当然の理屈です。彼らはモンスターボールの支配に甘んじているのですから。その上、主人の事を第一に考えるように洗脳され、精神的な消耗は野生の時の比ではありません……、か」

 まるでカイヘンそのもののような話だ、とユウキは思った。カントーの支配を受け、いつの間にか反抗の牙も爪も失った哀れな獣。それがカイヘンの現状なのだろう。

 至った考えに、ユウキは我ながら笑えてきた。少し口元を緩めると、傍を行き過ぎた自転車の男が怪訝そうな目を向ける。皮肉を言うつもりはなかったのに、いつの間にかこの上ない皮肉になってしまった。この八年で変わってしまった事は自分の考え方も含めてなのだろう。幼い頃は自分の事だけを考えていればよかった。それが変わったのはいつからだっただろうか。思い出そうとして果たせなかった。

 昼間に使っていたポイントでは釣れない事が分かっていたが、ユウキは懲りずに同じポイントを目指した。ただの暇つぶしだ。実を求めているわけではない。クレーンが重機械特有の音を立てている。近づいてきたな、とぼんやり思っていると声が響き渡った。

「何だよ、足りねぇだろうが、オッサン!」

 荒々しい声にユウキは目を向ける。髪をオールバックにした若い男と他二人が中年の釣り人に絡んでいた。昼間に見かけた釣り人の一人だった。釣り人は首を横に振って呻く。

「……許してくれ。それだけしか出せないんだ」

 若い男の一人が釣り人を突き飛ばす。釣り人はその場に膝をついて土下座した。

「これ以上は、生活が……。折角、釣れたポケモンを売って得た金なんだ」

「その金は綺麗な金なのか? え?」

 男の声に釣り人は言葉を詰まらせたようだった。釣れたポケモンは基本的には個人の自由だが、売り買いする事は禁じられており、市場や個人間の取引すらカントーの税関の審査を受けなければならない。釣り人のやった行為は違法である。金が絡めば、カントーの目を誤魔化す事はできない。

「それなら俺らリヴァイヴ団の資金にしたほうが、まだ綺麗ってもんだろうが」

「リヴァイヴ団の金なら、カイヘン復興に回してやるよ、オッサン」

 髪の毛をまだらに染めたチンピラ風の男が舌を出して耳障りな笑い声を上げる。彼らがカイヘン復興に金を回すはずがなかった。自身の懐を潤すことくらいしか考えていないだろう。

「このオッサン、どうするよ?」

 短髪を逆立たせた男が靴先で釣り人を蹴る。まるで汚らわしいものにでも触れるかのようだった。オールバックの男が、「めんどくせぇ」と呟く。

「ウィルに売り払うか。そこでまた金にしようぜ」

 その言葉に釣り人が顔を上げた。オールバックの男の足にすがりつき、懇願の声を上げる。

「それだけはやめてくれ! この街にいられなくなってしまう!」

「うぜぇぞ、オッサン!」

 短髪の男が両手をポケットに入れたまま、釣り人の腹を蹴り上げる。釣り人は地面を転がった。何度か咳き込んで、苦悶に顔を歪めている。まだら髪の男が通信端末を取り出した。折りたたみ式の通信端末のプッシュボタンを押している。釣り人はウィルに通報されると思ったのか、腹を押さえながら這い進んだ。

「……た、頼む。ウィルだけは。家族がいるんだ、だから……」

「くどいな。お前の事情なんてどうでもいいんだよ。俺らは正義を執行しているだけだ」

「そうだ。あくどい金で腐りきった大人がよ。調子こいてんじゃねぇぞ!」

 短髪が釣り人の顎を掴んで無理やり立たせる。その眼にユウキが映った。こちらに気づいた釣り人は手を伸ばした。静観しようと思っていたユウキは舌打ちを漏らす。

「ゆ、ユウキ。助けてくれ!」

 喚く声に、男達がユウキへと視線を向ける。ユウキはその場から立ち去ろうとしたが、オールバックが呼び止めた。

「待ちな、ガキ。お前、見てたな」

「何も。僕は通りすがっただけです」

 その言葉に釣り人は目を慄かせて、「ユウキ!」と名を呼んだ。ユウキは顔を逸らして表情を曇らせた。睨みを飛ばそうかと思ったが、男達が勘違いしては面倒だと思ったのである。しかし、男達はユウキへと歩み寄ってきた。

 まずいな、と他人事のように考える。短髪は釣り人を掴んでいた手を離し、まだら髪は端末を閉じてユウキへとオールバックを先頭に近づいてくる。どうやら攻撃対象は完全にユウキに移ったようだった。釣り人が荒い息をついてその場に蹲る。

「ガキ。このオッサンの知り合いか?」

「いや。そんな仲じゃない。少なくともあなた方が思っているよりかは」

「それにしちゃ、親しく見えたがなぁ」

 短髪がユウキの顔を覗き込んでくる。ユウキは短髪の口から漂うヤニ臭い息に顔をしかめた。

「勘違いですよ。因縁はよしてください」

「どっちしにろ、ここまで来ておいそれと帰すわけねぇだろ」

 まだら髪はユウキの退路を塞ぐように背後に立った。それだけで気分が悪くなりそうだった。オールバックが懐から小さな箱を取り出す。シガレットケースだった。煙草を一本、取り出すと短髪が歩み寄って火を貸した。どうやらオールバックがリーダー格らしい。オールバックは紫煙を漂わせる煙草を片手に、ユウキへとずいと顔を近づけた。ユウキは後ずさろうとしたが、後ろのまだら髪が歩み寄って邪魔をした。

「ガキ。悪い事は言わねぇから、金だけ置いてけ。そうすりゃ、ここで起きた事、見た事、全てチャラにしてやれる」

 どこからの物言いなのだろうか、とユウキは考える。まるで全知全能の神のような言い草だ。

「……違うな。神様なら、もっと上品な言葉遣いをする」

 呟いたその声は小さかったが、オールバックには聞こえたようだった。額に青筋が走り、「あぁ?」と凄みを利かせた声を上げる。

「何だって。二人にも聞こえるように言えよ」

 ユウキはため息をついた。ここまで来れば、後に引ける気がしない。顔を上げ、馬鹿みたいに口を広げて言葉を発する。

「神様なら、もっと上品な言葉遣いをする、って言ったんですよ。お三方」

「ガキィ!」と短髪がユウキの胸倉を掴む。ユウキは反射的にベルトに手をやっていた。その行動にしまったと思う前に、ホルスターからモンスターボールを取り出す。中心の緊急射出ボタンに指がかかっていた。

「ん? お前、トレーナーか?」

 オールバックが気づいて煙草を吸いながら、モンスターボールを掴むユウキの手を見やった。ユウキは、「ええ、まぁ」と社交的な笑みを浮かべた。汽笛の音とクレーンの重低音が漁港を包み込む。

「ポケモン、出してみろよ。ただし、そんなことをしたらお前の綺麗な顔は滅茶苦茶になるぜ」

 短髪が顎をしゃくってユウキを挑発する。しかし、ユウキは応じなかった。その態度に苛立ったのか、短髪が、「何とか言えよ、コラァ!」と声を張り上げる。ユウキは耳元で響いた雑音に眉をひそめた。

「お三方。気づいておられないんですか?」

 ユウキがモンスターボールをホルスターに戻す。その行動を怪訝そうに三人の男は見ていた。ただボールを出しただけで、何も行動しなかったように見えただろう。

「やっていますよ。既に」

 その言葉が響き終える前に、短髪の頭が傾いだ。空気が弾け、破裂する音が響き渡る。短髪の手から力が抜け、その場に転がった。オールバックが驚愕の表情で固まったまま、仲間を見やる。短髪は白目を剥いていた。

「お前、何を!」

 まだら髪が背後から怒鳴りつける。ユウキはちらりと目を向けた。首を少しだけ傾ける。すると、まだら髪の身体が、まるで何かに衝突したかのように吹き飛んだ。まだら髪が地面を転がる。肩口に、水色の「R」を引っくり返した文字が刻まれている。リヴァイヴ団だと名乗ったのは嘘ではないようだ、とユウキは思った。

 オールバックが手から煙草を取り落とす。一瞬にして仲間が二人やられたことに理解が追いついていないのだろう。オールバックは僅かに後ずさった。周囲を見やる。何が起こったのかを必死に理解しようとしているのだろう。その眼には何も映っていないはずだった。それを証明するかのように、オールバックは口をパクパクとさせて何かを言おうとしている。言葉が喉で詰まっているのだろう。

「何ですか?」

 ユウキが一歩、歩み寄る。オールバックは目を見開いたまま、俄かに下がった。

「……何だ。何をした?」

「何も」

 短く答えて、ユウキは身を翻す。その背中へとオールバックが、「待て!」と言葉を投げる。振り向くと、オールバックは懐から折りたたみ式のナイフを取り出していた。

「何のトリックだ? お前、何をしやがった!」

「だから、何も、と言っているでしょう」

 ユウキは両手を上げる。オールバックは興奮した様子で、「嘘をつけ!」と喚いた。ナイフを振って、仲間達を示す。

「お前以外に誰がやるって言うんだ! 妙な術使いやがって!」

「術?」

 その言葉にユウキは思わず吹き出してしまった。なんて時代錯誤な言葉なのだろう。

「僕がやっている事が一目見て分からないんなら、言及するのはおすすめできません」

「なめやがって。殺す!」

 オールバックが激昂した様子で踏み込んでくる。一歩、近づくのを見て、ユウキは目を細めて忠告した。

「やめたほうがいい。あなたのナイフが僕の腹に突き刺さるより先に、あなたは自分自身を傷つける事になる」

「下らねぇ。今更、脅しが通じるかよ!」

 オールバックがナイフを振り翳し、ユウキへと狙いを定めるように切っ先を向ける。ユウキはそれに対応するかのように指を一本立てた。オールバックが胡乱そうな目を向ける。立てた指をオールバックに向けた。その行動にオールバックは腹を立てたのか、手元に構えたナイフで身体ごとユウキへとぶつかろうと駆け出す。雄叫びが喉から迸った。瞬間、ユウキは指を左に向けた。

 その行動とナイフの切っ先が引っくり返ったのは同時だった。オールバックのナイフを持った手が何かの力で捻じ曲げられたかのように内側に向く。オールバックがそれに気づいた時には、左肩にナイフが突き刺さっていた。力を入れすぎたのか、深々とナイフが突き立ち、オールバックが痙攣するように硬直し、身体を折り曲げる。痛みに呻き、血の浮き始めたシャツを撫でる。滴った血が左手から地面に落ちる。オールバックは荒い息をつきながらユウキを見据えつつ、後ずさった。

 近づけば危険だと判断したのは賢明だが、今更だな、とユウキは思った。

「お前……、リヴァイヴ団に楯突いて、どうなるか分かってんのか……」

 息も絶え絶えに発せられた声に、ユウキは「さぁ?」と肩を竦めた。

「少なくともあなたは僕に迂闊に近づけばどうなるのか、分かったはずですが」

 オールバックは舌打ちをして、身を翻した。まだら髪から端末を奪い取り、身体を引きずるようにして離れていく。充分に離れてから、ユウキは倒れている短髪に歩み寄った。肩にある「R」の文字に触れる。すると、簡単に剥がれた。

「……ステッカー、か」

 だとすれば本当にリヴァイヴ団なのか怪しいものだった。ウィルに通報しようとした辺り、リヴァイヴ団を騙った金銭目的の集団という線が濃厚に思えた。

「のびちまったのかい?」

 釣り人が不安そうにユウキへと尋ねる。ユウキは頷いた。

「少なくともここの二人は」

「あっちの、オールバックの奴は」

「大丈夫でしょう。こういう奴らは自分達の面子を必要以上に気にするものですし。大した事はないですよ」

「そ、そうかい」

 釣り人は一呼吸つくと、短髪へと歩み寄った。何をするのかと思えば、懐から財布を抜き出し、取られた金を取り返していた。ユウキは顔を背けた。

 卑しい行為だ、と心中では吐き捨てつつもそれを悪だと断じる事はできない。カイヘンの人間は皆、心が捻じ曲がってしまっているのだ。気絶している人間から金を奪うくらい平気でやる。カントーの支配に甘んじるのに慣れて負け犬根性が骨の髄まで染み付いている。そのような地方で生きている自分にも嫌気が差した。

 ユウキがホルスターからボールを抜き出し、中空を薙いだ。赤い粒子が流れ、ボールへと吸い込まれる。金を取り終えた釣り人が、「すごいな」と感心した声を上げた。

「ユウキのポケモンは何なんだ? 私には全く何が起こっているのか分からなかったよ」

「大した事はしていません」

「そうか。しかしそれだけポケモンを操る事に長けていれば、ミヨコちゃんがスクールに通わせたがるのも分かるな」

 釣り人の言葉にユウキは舌打ちを返した。帽子を目深に被り、顔を伏せる。

「……だから、ポケモンを出すのは嫌なんだ」

 呟いた声は釣り人には聞こえなかったようだ。「何だって?」と聞き返されて、「何でも」とユウキは笑みを浮かべた。釣り人も笑みを返したが、その笑顔がどこか卑屈に見えたのは気のせいではなかったのだろう。


オンドゥル大使 ( 2013/08/20(火) 22:33 )