ポケットモンスターHEXA BRAVE












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最果ての少年
第一章 一節「エンドオブワールド」
 海面が風に揺らめき、陽光を淡く反射している。

 海のポケモン達が陽の光を浴びようと、海面まで上がってきているのが影で分かった。その時、ポチャリと波間に釣り糸が垂らされた。赤い浮きがゆらゆらと漂っている。ピンと張った革製の釣竿を持っているのは少年だった。オレンジ色の鍔つき帽子と、同じ色のジャケットを羽織っている。濃紺のズボンを穿いており、足をぶらぶらと揺らしていた。右足を左脚の膝に置いている。

 少年はどこか眠たげに浮きへと視線を落としていた。片手は釣竿を掴んでいるが、片手は頬杖をついている。いつでも眠れるような格好だった。時折、釣竿へと振動を加える。浮きを生きているように見せる仕掛けのつもりだったが、海のポケモンはそれほど馬鹿ではない。逆に海面まで上がってきていたポケモンの影は遠のいた。少年は欠伸を一つかみ殺した。

「釣れないなぁ……」

 呟いて空を仰ぐ。雲一つない突き抜けるような青い空が少年の寝不足な眼に染み渡った。少年は帽子を目深に被って、太陽光を遮る。そうしていると眠れそうな感じがした。思わずうつらうつらと夢の船をこぎ始める。少年の姿は傍から見れば今にも海に落ちそうな危うい状態に見えた。その時、背後から声が響き渡った。

「こら、ユウキ!」

 その声に少年はびくりとして、本当に海に落ちそうになった。全身を使って寸前のところで留まり、少年は振り返る。その視界に飛び込んできたのはおたまを片手に持った女性だった。水色のエプロンをしており、亜麻色の髪を後ろで一つに結っている。自転車でここまで来たようで、傍に赤い自転車が停車していた。女性は腰に手を当てて少年を睨み据えた。少年はげんなりとして、海へと視線を戻した。

「何しにきたんだよ、ミヨコ姉さん」

 女性――ミヨコはつかつかと少年へと歩み寄り、その首根っこをむんずと持ち上げた。少年はふるふると首を横に振って逃れようとするが、ミヨコの力のほうが強い。少年はいとも容易く持ち上げられてしまった。

「ユウキ。あんた、またスクールさぼったわね」

 その言葉にユウキと呼ばれた少年は首を引っ込めて、愛想笑いを浮かべる。ミヨコは、「笑うんじゃない!」と叫んで、ユウキを陸側に引き寄せた。ユウキは首を引っ掴まれたまま、ミヨコと向き合う形になった。釣竿が手から滑り落ちる。

「どうしてあんたはスクールにまともに行かないの? そんなんじゃ、まともなトレーナーになんてなれないんだから」

「僕がまともなトレーナーになったら、困るのは姉さんじゃないか」

 唇を尖らせて発した抗弁に、「減らず口を叩くな」という声が返る。

 ミヨコはおたまでユウキの額を小突いた。ユウキはしょげたように俯いた。首根っこから手を離し、ミヨコが両腕を組む。ユウキはその場に座り込んだ。彼女は目を瞑って懇々と言い聞かせる。

「あんた、スクールの授業料だってただじゃないんだから。いくらカントーの支援を申し込んでいるからって、カイヘンの財政は火の車なの。お上がその調子だから、あたし達がいい暮らしなわけないでしょ。その中で切り詰めてあんたをスクールに通わせているってのに、さぼるんじゃ意味ないでしょうが」

「別にさぼっているわけじゃないんだけどな」

 ユウキは帽子を取って後頭部を掻きながら、そうぼやく。その瞬間、ミヨコの睨みが飛んできた。ユウキは帽子を被り直し、深々と頷く。ミヨコの前ではユウキは頭が上がらなかった。ユウキが黙っていると、ミヨコがため息をついた。

「……何が嫌なのよ。いじめでもあった?」

「そういうわけじゃないけど」

「じゃあ、どうして?」

「そりゃ、ちょっと」

 言いにくそうにユウキが指でこめかみを掻く。ミヨコは遂に痺れを切らしたのか、「あー、もう!」と叫んだ。

「とにかく、行かなきゃ勿体無いでしょ! まだ授業やってんだから、さっさと支度しなさい」

 ミヨコの声にユウキは、「うーん」と呻った。

「今日の獲物がまだ釣れてないし、もうちょっとしたら行くから」

 ユウキが地面に転がった釣竿を拾い上げ、また海に向かい合おうとする。その肩をミヨコが掴んでガクガクと震わせた。

「それが、駄目だって、言ってるんでしょーが!」

「危ない! 危ない! 落ちるって、姉さん!」

 ユウキが慌てたように言うと、「おーい」と声がかかった。二人揃ってそちらを振り返ると、中年の釣り人が二、三人連れ立って手を振っていた。

「今日も仲いいね。お二人さん」

「ユウキ。何か釣れたかよ?」

 はやし立てる声と尋ねる声に、ユウキは「全然」と応じた。両方の答えにしたつもりだった。

「餌が悪いのか、釣竿が悪いのか。……それとも姉さんが悪いのか」

 小声で発した最後の言葉にミヨコは反応してユウキを見下ろした。ユウキは気づかない振りをしてやり過ごす。釣り人の一人が、快活に笑った。

「その調子じゃ、いつまで経っても釣れねぇよな。海辺で兄弟喧嘩して、俺らの収穫を減らさないでくれよー」

「水ポケモンも逃げちまうってもんだからな。ミヨコちゃんの怒鳴り声じゃ」

 その言葉にミヨコが顔を赤くして俯いた。釣り人達は笑いながら通り過ぎていく。ユウキは元の姿勢に戻っていた。その背中へとミヨコが声をかける。

「あんた。ちゃんと行きなさいよ」

 釣り人の言葉を気にしてか、ミヨコは少し小声になっていた。ユウキが片手を上げて応じる。ミヨコはユウキを気にかける視線を向けながらも、自転車に跨って元来た道を帰っていった。ユウキは少しだけ後ろを窺いながら、その背中が見えなくなるまで見送った後、深いため息をついた。

 釣竿が引かれる様子はない。ユウキは釣竿を固定するためにコンクリートに空いた穴へと釣竿を入れた。どうせ、もう釣るつもりはない。元より、釣りになど興味はないのだ。ただやることがないから、両親に買ってもらった「すごいつりざお」を試しているに過ぎない。この釣竿では一度も釣れたことがなかった。いつも引っかけるのは長靴やタイヤだった。漫画の中だけかと思っていたが、意外にもそういうものが釣れる。ユウキはその場に寝転がった。陽光が切り込むように差してくる。

「スクール、か……」

 ユウキは呟いた。ミヨコが言っていたのはトレーナーズスクールと呼ばれるトレーナー養成所のことだ。大抵は一つの地方に一つだが、八年前にカイヘン地方がカントー自治区へと併合されてから一つの街に一つ置かれるようになった。何でも、「正しいトレーナーを育成するため」という名目があるそうだ。しかし、誰もがその実情を知っていた。正しいトレーナー、なんていうお題目ではなく、トレーナーを管理するのが主な目的である。

 本来ならばトレーナーのポケモンの所持数は六体が限度だったが、カイヘンでは二体までに制限されている。二体以上になればポケモンを入れておく道具であるモンスターボールに自動的にロックがかかる仕組みになっている。モンスターボールを偽造したり、手製のモンスターボールを使用したりして法の網を逃れようとしても無駄だった。モンスターボール同士は常に同期されており、加えてトレーナー登録されていない人間がポケモンを持つことは違法となった。

 これを思想の弾圧、検閲と受け取った人間は少なくない。ポケモン所持数の制限はポケモンによる補助を必要とする人々からの反発を当然のように受け、一時期は一触即発のデモにまで発展したが、カントーは勅命を発布。「モンスターボール外でのポケモンの所有数に制限を設けない」とした。これによって、ポケモンをモンスターボールという便利な道具によって一瞬による調教という便利さからは離れたが、デモは鎮静化し、モンスターボールによる支配を「下劣」と主張してきた宗教団体からはむしろ賛美の声が上がっている。一方で、地下組織のモンスターボールは一刻も早くロックすべきだ、という過激派の声も小さくはない。しかし、地下組織に潜っているか、などといちいちチェックするのはそれこそ思想の自由、団体、組織結成の自由に反している。形骸化しかけているこの制限を支えているのは、申告制という心許ない善意だけだ。

 それもこれも、八年前にある事件が起こったからだ。その事件をきっかけにしてカイヘン地方は様変わりした。カントーの支配を呑み込み、カントーが与えるものを享受するようになった。それまでのようにカイヘン地方だけでは経済も政治も回らない。

 今やカントーに依存していると言っても過言ではなかった。しかし依存というのは実のところ正しくない。実際には緩やかな支配である。

 カイヘン地方はカントーに八年前の事件で負い目を感じている。カイヘン地方の誰もがカントー本土人に頭が上がらない。

 その事件は「ヘキサ事件」と呼ばれていた。

 ロケット団残党と、当時カイヘン地方で幅を利かせていた自警団ディルファンスが手を組み、カントー政府、セキエイ高原への侵攻を宣言した事件のことである。

 カイヘン地方の人間でこの事件のことを知らない人間はいない。当時の首都、タリハシティが丸ごと空中要塞となり、カントーへと侵攻したのは写真と映像記録で残っており、カイヘン地方の人間は元よりカントーの人間もまともに教育を受けているのならば何度も見せられる。ユウキもそれを何度も見た口だった。

「やってられないな。カイヘンの人間が全て悪いみたいで」

 八年前を契機にして、カントーが経済や財政に口を挟むようになり、遂には独立治安維持部隊を設立する始末だった。カイヘンの人間には、しかし抗弁を垂れる機会すら得られない。何をされても文句が言えないのが、今のカイヘンの実情だった。

 ユウキは帽子の鍔に手をかける。視界の半分が影になり、陽射しを遮った。何度目かの逡巡の瞬きの後に、ユウキはため息をついた。上体を起こして、陰鬱に呟く。

「やっぱり、行かなきゃ駄目だよな」

 ユウキは釣竿を仕舞った。釣竿は段階的に収納できるようになっており、中ほどで折り畳む。慣れた仕草でユウキはバッグに詰め込んだ。歩いて向かおうとすると、潮の匂いが鼻をついた。海辺のポケモンは人間の事情など知らないとでも言うように今日も変わらぬ毎日を過ごしている。

 ユウキは立ち去る間際、海を眺めた。赤く塗装されたクレーンが大きな音を立てながら緩慢に首を巡らせる。カントーから輸入された食物がコンテナに乗せて運ばれてくる。カイヘンで取れた食物はカイヘンで消費してもいいが、物流に関する一切はカントーの命令のほうが強い。ゆえに、カントーの食物を高い値段でカイヘンは買わされるのだ。物価も高騰し、嗜好品や医療費ですらまともな値段ではない。カントーの基準値に全て合わせられているのだ。重い音を立てながらコンテナが運び込まれる。擦り切れたように見えるクレーンの赤を眺めながら、「……本当」と口にした。

「やってられないよな」

 その言葉に応じる者は誰もいなかった。


オンドゥル大使 ( 2013/08/08(木) 12:39 )