ポケットモンスターHEXA BRAVE












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第八章 七節「約束」
 
 ゴルーグは水色の巨躯を揺らして、空を仰いでいる。信じるべきは主人か本能か決めあぐねているようだった。エドガーはゴルーグに語りかけた。

「ゴルーグ。俺に従え」

 老師がやっていたように手を掲げて伸ばす。支配するイメージを持って接したその行動にゴルーグは何の反応も示さなかった。エドガーは手を下ろし、「どうして……」と声を出す。

「無駄だな。まだお前さんは支配するという強欲から抜け出せずにいる。見よ」

 老師が手を突き出すと、ゴルーグがぴくりと反応した。老師のほうへと向き直り、ゴルーグは巨体を揺らして歩み寄ってくる。白い眼窩から感情を読み取ろうとしたが全く分からない。ゴルーグは老師だけを見ていた。ずん、と腹に響く足音を響かせてゴルーグは老師の眼前へと至り、その場に跪いた。まるで主君の前のように。エドガーが閉口していると、「これくらいやってみせよ」と老師は促した。

「腐っても元主人なのだろう?」

 挑発にエドガーはむきになって片手を伸ばす。ゴルーグをこちら側に振り向かせる事だけを考えたが、ゴルーグは微動だにしない。老師がピッと指を下に向けると、ゴルーグはその場に額づいた。エドガーがさらに猛り狂ったように、「ゴルーグ!」と叫ぶ。

「俺に従え!」

 ゴルーグがエドガーに注意を向ける様子はない。ゴルーグは老師を主人だと思い込んでいるようだった。老師が快活に笑う。

「どうやら時間がかかりそうだな。こうするのだ。ポリゴン」

 老師がポリゴンを手招くと、ポリゴンは容易く老師の下へと近づいていった。二体のポケモンをいっぺんに奪われてエドガーは茫然自失の状態で名を呼んだ。

「ゴルーグ。ポリゴン……」

「その情けない声では、主人だと認めさせる事も出来まい。ゴルーグ、ポリゴン、しばらくはこの至らぬ弟子のために尽くしてやって欲しい。出来るな?」

 ゴルーグは深く頷き、ポリゴンも首を巡らせて肯定の意を示した。エドガーは今まで信じていたものが脆く崩れ落ちるのを感じた。足元がおぼつかなくなり、今にも倒れこんでしまいそうだ。

 ゴルーグとポリゴンが自分へと向き直る。しかし、それは老師の命令を聞いているからだ。自分を主人だと判じたわけではない。その意思がありありと伝わってきた。ゴルーグとポリゴンは両方とも人間に造られたポケモンだが、何を思っているのか程度は分かる。二体とも「仕方なく」エドガーに付き合っている。その程度の関係だった事にエドガーは衝撃を隠せなかった。ミツヤのポリゴンはともかく苦楽を共にしたゴルーグにまでそのような意思を向けられては顔向けが出来ない。エドガーは恥じ入るように顔を伏せた。

「モンスターボールの支配力がどれだけ絶大だったか分かっただろう」

 老師の声に、「だったら」とエドガーは抗弁を口にした。

「ヤサブロウはその域を超えているというのか?」

「少なくともお前さんとその二体よりかは良好な関係を築いておるよ。理解しておったか? あのドンファンはただ懐いているわけではない。誰にでも心を開くポケモンではない。あの二体もまた、人を選んでいたという事を」

「何を言って――」

「分からんのか。お前さんはどうせ、人懐っこいドンファンだ、と思っていたのだろう。しかし、その実は違う。ドンファンがお前さんら人間を値踏みしていたのだ。まず根本が違う。ヒトとポケモン、どちらが上か。そこから語り合わねばならぬようだな」

「どちらが上か、だって。そんなもの」

「知れている、か? お前さんはヒトだと言うだろうな。しかし、ヒトにコンクリートの生成技術を伝えたのはポケモンだし、その他諸々の技術も自然界の掟から人間が拝借しているに過ぎない。いつから上下関係を意識するようになった? いつからヒトはポケモンに対してアドバンテージを取っていると錯覚し始めた? 全てはこの小さな球体が起こした幻よ。誰でもこのボールに入れれば従えられるものだから万能だと感じ取る。決してそのような事はないのだ。支配被支配の緩やかな構造を我々は取り違えている。涅槃の光を知れば嫌でも分かる。ヒトもポケモンも、上下は決してないのだ」

「あんたの言っている事は環境論者みたいだ」

 エドガーが苦み走った言葉を発すると、「そうとも捉えられよう」と老師はぽっと息を吹かした。円形の煙が浮かんでいく。

「ただ、ワシには自然界としてどちらが上かなど言いたいわけではない。ポケモンが人間に勝っているとも思わんし、その逆もそうだ。理解、とはかくも難しい」

「答えになってないぞ」

 エドガーが堪りかねて口にすると、老師は首を振った。

「今のままではヤサブロウよりお前さんは弱いな。二体のポケモンを、戦闘用ではないとはいえ、連れているヤサブロウとお前さんでは実力の差は歴然」

 エドガーは拳をぎゅっと握り締めた。ヤサブロウと比較され苛立ったのもある。今まで戦いのエキスパートを気取ってきた自分が運搬車のためにポケモンを使う人間以下だと言われれば怒りも湧いてくる。しかし、それ以上に理解が出来なかった。老師は何が言いたいのか。老師の望むあり方とは何なのか。エドガーには老師がまるで手足のようにポケモンを操っているように見える。しかし、その実は「操る」という意識からは最も遠い「理解する」という意識なのだ。その事実が理解し難い。まるで高い壁だ。エドガーは顔を拭って、「なるほど。分かった」と口にする。

「何が分かった?」

「今の俺には理解出来ないという事が、だ」

 エドガーの言葉をジョークと捉えたのか、老師は肩を揺らして笑ってみせた。しかし、エドガーからしてみれば笑い事ではない。手持ちを失ったばかりか、それをモンスターボールとは違う方法で取り戻せという。無理難題に思えた。

「それを理解する事もまた勉強。理解出来ないという範囲も理解せよ」

「屁理屈に聞こえる」

「だろうな。ワシも屁理屈じみているとは思っているさ。ただ、ワシには言葉は尽くせても尽くしきれん。言葉で教えられる事など、結局のところ些事なのだ。それ以上の部分で教えられる事だけが長く伝えられ、生きていく。生きていくとはそういう事なのだ」

 老師は煙管を傾けて、息を吐き出す。エドガーはゴルーグを見やる。ゴルーグは逃げ去る様子はないが、エドガーの下に帰ってくるような兆しもない。モンスターボール一個分の絆しかなかった。その事実にエドガーは歯噛みする。

「俺達は、その程度だったって言うのか」

「今日はこの辺にしておくか?」

 老師の思いやった言葉に、「いや」とエドガーは頑として聞き入れなかった。

「俺は一日でも早く、この二体と分かり合わねばならない」

「ならば寝食を共にせよ。幸い、寝袋ならばある」

 老師が立ち上がり、家の奥から埃を被った寝袋を取ってきた。エドガーはそれを手に取り、「俺は」と口を開いた。

「出来るのだろうか」

「実現、という言葉がどうして存在するか知っているか?」

「いや」とエドガーは首を振る。老師は眼差しに力を込めて、「現世に実るからだ」と言葉にする。

「この世界にある、と信じる事によって実る力。全ては信じ、肯定するところから力を発する。ゴルーグとポリゴン、この二体を何故、御する事が出来ると考えた? それは実現可能だと考えたのは信じる力がお前さんの中にあるからだよ」

「信じる。……受け入れる、か」

 漠然と呟いた言葉に老師は、「さぁな」と濁した。

「答えは自分で見つけよ。ワシが言えるのは涅槃の光を得るために必要な事だというだけ。それ以上はない」

 老師の言葉にも信じるものがあるとすれば、エドガーは涅槃の光を掴むために必要なのが絆なのだと考えた。老師は、「ワシは家の中で寝る。お前さんのように若くはない」と引き帰してしまった。

 食事時だけ老師と食卓を囲み、それ以外の時間は二体のポケモンとの対話に費やす事にした。エドガーは青い月明かりが木々を通り抜けて降り注ぐ中、ゴルーグを眺める。ゴルーグはどこを見ているのだか分からない眼窩を向けている。思えば、この眼差しが自分を見た事など今まであったのだろうか。全てはモンスターボールによる催眠電波の幻想だったのではないか。あると確信していた絆も、当然だと思っていた関係も脆く崩れ去る虚構の城に過ぎなかった。エドガーは己を自覚する必要性に迫られていた。

 朝靄が漂い、黎明の光が昇り始めると、ゴルーグとポリゴンは活動を始める。この二体は人工的に造り出されたポケモンとはいえ、標準的な生活レベルを持っているらしいと知れた。エドガーはゴルーグに涅槃の光を見ようとしたが、老師から涅槃の光とはどのようなものかという説明も受けていないために無理な相談だった。ヤサブロウが毎日のように昼間訪れて、「老師がそんな事を?」と目を丸くした。

「ああ。あれが俺の手持ちだったポケモンだ」

 ゴルーグとポリゴンに視線をやる。ポリゴンはゴルーグの太い人差し指の上で首を巡らせている。まるでやじろべえのようだ。

「それは大変ですね。そこまでして涅槃の光を?」

 ヤサブロウの問いかけにエドガーは拳を握り締め、「ああ」と頷く。

「俺は手に入れなくてはならないらしい。一日でも早く」

「そう、ですか。私は才能がなかったので、諦めましたが」

「老師はあんたのほうが、俺よりもポケモンを操る事に優れていると言っていた」

 エドガーがそう口にすると、「私がですか?」とヤサブロウは微笑んだ。首を振りながら、「ないですよ」と答える。

「エドガーさんのほうが、私なんかよりずっとポケモンには詳しそうだ」

「詳しい事が、イコールポケモンを操る事に長けているわけじゃない。俺はあんたとドンファンを見ていると痛感する。俺とゴルーグ達との関係は結局、その程度だったって」

 エドガーは運搬車に背中を預けて屈み込んだ。ヤサブロウが、「老師は意地悪な方ですから」と口にする。

「そうやって人を惑わすのがお好きなんですよ」

「だとしたら、とんだ性悪だ」

 エドガーは吐き捨てて軒先で涼んでいる老師を見据えた。老師にはどこまで出来るのだろうか。ゴルーグを跪かせるくらいならば出来た。ならば技を引き出す事も当然、出来るだろう。自分以上にゴルーグをうまく使うかもしれない。それはエドガーの身に恐怖として降り注いだ。思わず身が縮こまる。ゴビットの頃から、自分と共にあったゴルーグが一夜にして主人を変える。最早笑い事ではなくなっていた。

「ゴルーグの心が分かりませんか?」

 ヤサブロウの声に、「さっぱりだ」と応じる。

「やはり涅槃の光に至れれば変わるのだろうか」

「私には何となくですが、ゴルーグの思っている事は分かりますよ」

 その言葉にエドガーは顔を振り向けた。ヤサブロウはサイコソーダの缶を握りながら、「きっとこう思っている事でしょう」と告げる。

「一日でも早く、主人が元気になるように、と」

「馬鹿な。俺は元気だ」

「体調じゃありませんよ。きっとゴルーグはかつてのエドガーさんに戻って欲しいんです」

 かつての自分。それはいつの自分だ? と自問する。ランポに出会う前のやさぐれていた自分か? それともその後か。またはさらに前の、ゴビットと初めて出会った時の話なのか。エドガーにはいつの自分に戻って欲しいと願っているのか分からなかった。

「過去はいらない、と俺は断じたんだがな」

「誰にだって過去はありますよ。生まれからは逃れられない。どんな事をしたって同じ事です」

「妙に達観している」

 エドガーが感想を口にすると、「すいません。偉そうですよね」とヤサブロウは苦笑した。エドガーは肩を竦めて、「別に構わない」と応じる。

「今の状況では、俺はあんたよりも格下だ」

「多分、老師はその事を言っているんじゃないでしょうか」

「何がだ?」

 エドガーが問いかけると、「下だとか上だとかじゃないんですよ」とヤサブロウは言葉を探りながら慎重に口にする。

「きっと信じるところから始まるんだと思います」

 エドガーはヤサブロウの言葉と老師の言葉の意外な一致にゴルーグに目を向ける。信じる、とはどうするのだったか。ポケモンを扱う、とはどうするのだったか。その根幹が問いかけられているような気がしていた。

「惑わすような言い方でしたよね。すいません」

 ヤサブロウが頭を下げる。エドガーは、「いや」と立ち上がった。

「少しだけヒントになった。ありがとう」

 サイコソーダを呷って、エドガーはゴルーグ達へと近づいた。ヤサブロウが、「健闘を祈っています」と背中に声をかける。エドガーは片手を上げて応じた。

 来る日も来る日も、根本を理解しようと努めた。エドガーは今までの自分の常識では涅槃の光どころかポケモンを使う事さえも出来ない事を悟った。

 今までの自分ではない。どこかで決着をつけなくてはならない。

 妥協でもなく、かといって分不相応な上を狙えというわけでもない。身の丈にあった考えを用意するのに、エドガーは四ヶ月を要した。草葉の色が移り変わり、見事な紅葉がその手を広げた季節になって、エドガーはゴルーグの一端をようやく垣間見た。いつものように何をするわけでもなく、ゴルーグ達の行く末を眺めていると不意にゴルーグが自分を見たのだ。その時、初めて主人として認識されたような気がした。エドガーは家に慌てて入り、「老師!」と名を呼んだ。

「俺のゴルーグが、今――」

 続けかけた言葉は視界に入った光景によって遮られた。老師が床の間に倒れ伏していた。エドガーは慌てて駆け寄って、「老師!」と身体を揺すぶる。老師がゆっくりと目を開けて、「よう、お前さんか」と酷く憔悴した声を漏らした。

 その翌日から老師はものを食べなくなった。どうやら身体が受けつけないらしい。エドガーは臥せっている老師の傍で看病を続けた。老師はしきりに首を振り、「涅槃の光の修行をしろ」と促したが、エドガーは最早それどころではなかった。老師はもう赤の他人ではない。自分の人生の道筋を正してくれた、かけがえのない人間の一人だ。ランポやユウキ、養父母と同じ、絆を共にする仲間だった。老師は弱々しく声を漏らした。その日は冷え込んでおり、重苦しい曇天が広がっていた。

「……お前さん」

 老師の声に、「何だ」とぶっきらぼうながらも他人ではない声音で応じる。老師は呼吸音と大差ない声で、「涅槃の光の修行をせよ」と言った。

「それこそが、お前さんに必要な道」

「今の俺には、あんたを見捨てる事は出来ない」

 ヤサブロウは秋時分から仕事が忙しくなって来られない日々が続いていた。自分が見捨てればこの老人は息絶えてしまう。それこそ誰にも看取られずに。それだけは、とエドガーは頭を振る。もう、目の前で命が散っていくのを見たくはない。老師は、「涅槃の光は、こんな時にも見える」と呟いた。

「ワシは、死ぬ時にこの光の先に導かれるのだと知っている。これは、生きている者には眩しい。この先に誘われるべきだったワシの魂は、八年間生き永らえた。だから、もういいのだ」

「もういい? もういいって何だ。俺はあんたから、まだ何一つ教わっていない」

 エドガーが奥歯を噛み締める。何一つ、孝行も出来ずに終わってしまうのか。せめて、教えがまだ終わっていないと言い張って老師の寿命を延ばしたかったが、老師は軽く首を振った。

「いんや。もうお前さんにも見えているだろう。ゴルーグが教えてくれた。お前さんにも涅槃の光を扱う資格が出来た、と」

「それは大切な人を失う事か」

 エドガーの言葉に老師は答えない。エドガーは問い詰めるように、「大切な人ならば、もう何度も失った」と告げる。

「その度に人生の袋小路に迷い込んだ。あんたは、俺を、救ってくれるんじゃ……」

「違うな。お前さんを救えるのはお前さんだけだよ。この世界で、それだけが理として決まっている。自分を導けるのは自分だけだ」

「それは、孤独であれと言っているわけじゃない」

「分かっておるじゃないか」と老師は満足気に頷いた。

「そうさ。決して一人では生きられない。ヒトもポケモンも、同じ事だ。世の理と問いかけるまでもない。既に答えはその手にあるじゃないか」

 エドガーはこの数ヶ月間で得たものを反芻する。ポケモンを信じ、自分を信じる事。偽りと怠惰に呑まれぬ事。常に自分から心を開き、肯定する事――。

「俺は、あんたに教えられた」

「そう。もう教えは終わりだ。これでようやく行ける。累乗の先の向こうへと」

「まだ行くな」

 エドガーは強い口調で遮ろうとしたが、今にも老師の瞼は閉じそうだった。口調を荒らげて、「まだだ!」と頭を振る。

「まだ何も、あんたは俺に教えていない。まだ、教わる事があるんだ。たくさん。これからも、ずっと」

「師匠を超えねば、弟子ではない。お前さんはようやく自らの道を選び取れた。お前さん、エドガーよ。その道を信じよ。信ずるところから、この世界は始まるのだ」

 エドガーは老師の肩を引っ掴んだ。老師はすうっと目を閉ざした。安らかな笑みが浮かんでいる。エドガーはこの手からこぼれ落ちた命を自覚した。

「老師……!」

 エドガーは老師の手を掴み、「約束する」と口にした。

「あんたの教えは俺が継ぐと。それが弟子の務めだ」

 翌日まで寝ずに待っていると、ヤサブロウが訪れた。ヤサブロウは既に玄関先で状態を察したようで中まで入ってくる事はなかった。

「知っていたのか?」

 エドガーの問いかけにヤサブロウは、「はい」と答えた。

「知っていて、何故教えなかった」

「老師は聞かれればあなたにも答えたはずです。聞かれなかったからでしょう」

「そんな理由で満足出来ると思っているのか」

 エドガーが肩を震えさせると、「老師は」とヤサブロウは口を開いた。

「きっと待っていたんだと思います」

「何をだ」

「自分ではない、未来の可能性に満ちた誰かが涅槃の光を手にするその時を。エドガーさん、私が見えますか?」

 エドガーは振り向いた。ヤサブロウの姿が見えない。肉体と言う楔を離れた光の奔流がとめどなくエドガーの視界に入ってくる。その中の「ヤサブロウ」と言う個体を意識してようやく視野に定着した。

「一瞬だけ、見えなかった」

「もう、あなたの眼も老師と同じ眼になったんでしょうね」

「老師はずっとこんな世界を? 八年間も?」

 とめどない光の先、涅槃の光は万物に等しい。軒先にいるゴルーグもポリゴンも、いつも老師と遊んでいたナゾノクサも、空を舞う鳥ポケモンも等しくエドガーの感知野に触れる。ヤサブロウが声で感知野の網を揺らした。

「そうです。私も、戸惑いました。しかし、私に見えるのは目が覚めて少しの間だけ。エドガーさんのように定着はしなかった。訪れる必要がないと判断されたのか、それとも才能がないだけなのか」

 ヤサブロウは薄く笑い、エドガーに、「これからどうします?」と訊いた。

「俺は、涅槃の光に達した。老師との約束だ。行かねばならない」

 保留にし続けた一事を思い返し、エドガーは立ち上がった。手に取っていた冷たい指先を自覚しながら、エドガーは老師の手を胸の前で組ませた。枕元に煙管がある。

「借りるぜ」

 煙管を手に取り、老師がいつもそうしていたように吹かした。半年振りの一服は苦々しい味を漂わせていた。エドガーは笑みを漏らし、「こんな不味いものを、老師は吸っていたんだな」とこぼした。

 ヤサブロウは、「老師から言伝をいただいています」と言った。恐らくはずっと前からそのつもりだったのだろう。ヤサブロウは慣れた様子で黒い鉄球の生成施設へと案内し、その後に続くゴルーグとエドガーに振り向いた。

「黒い鉄球、その残りを全てゴルーグとエドガーさんに託す、と。これは老師の最期の言葉です」

 エドガーは黒い鉄球が液状化している溶鉱炉を眺めた。ヤサブロウは決心したように告げる。赤い光がその顔の半分を照らしている。泣いているようにも見えたが、涙は流していない。

「これからゴルーグの全身に黒い鉄球を吹きつけます。ゴルーグとポリゴン、この二体はそれぞれの力を最大限まで発揮し、エドガーさんの助けになるでしょう」

 ヤサブロウが装置に手を伸ばし、そのついでにモンスターボールを手渡そうとした。エドガーは手で拒む。

「いらない。もう、俺には必要ない」

 エドガーの言葉にヤサブロウは微笑んだ。

「そう、でしたね。では、始めます」



オンドゥル大使 ( 2014/05/02(金) 21:54 )