ポケットモンスターHEXA BRAVE












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第八章 六節「ボールの楔」
「エドガーさん。涅槃の光を教わっているんですってね」

 ヤサブロウがいつものようにドンファンの運搬車を走らせて黒い鉄球を回収しに来た時に、休憩がてら雑談をしているとその話題が飛び出した。エドガーはサイコソーダを気管に詰まらせそうになる。

「聞いたのか」

 咳き込みながらエドガーは口にする。ヤサブロウは微笑んで、「老師は聞かれればなんでも答える人ですから」と応じた。

「秘密も何もないな」

 老師にはろくな事は言えない、と再確認する。ヤサブロウは、「いいなぁ」と声を出す。

「いい? 何がだ」

「涅槃の光の修行は私も以前、つけてもらったんですよ。でも、てんで駄目だった。私には才能がなかったんでしょうね」

「才能云々が関係あるとは思えないがな」

 エドガーはサイコソーダを口に含みながら老師の話を思い返す。老師とて偶然の産物のように語っていた。

「エドガーさんは見込まれているんですよ」

「俺が? 老師にか」

 エドガーは軒先にいる老師へと視線を向ける。老師は頭上に手を翳しながら樹海に降り注ぐ陽光を見据えていた。

「老師。眼が悪くなりますよ」

 ヤサブロウが忠告すると、老師は、「とっくにだ」と応じる。

「見込まれているんですよ」

 ヤサブロウは繰り返した。まるで大切な事のように。しかし、エドガーにはさして価値のあるものとも思えない。

「涅槃の光っていうのは何だ? あんたは何かを知っているのか」

 ヤサブロウに問いかけると、彼は肩を竦めた。

「さっぱりでした。私にだって何かなんて事は分からない。でも、老師には見えているみたいです。もしかしたら老師は私達が、私達の見るようには見えていないのかもしれません」

「どういう意味だ?」

「世界の見え方が違うんですよ。老師の眼には、どんな世界が映っているのか……」

 羨むような声の響きに、「ろくなもんじゃないだろう」とエドガーは返した。

「涅槃の光の習得、頑張ってくださいね。陰ながら応援しています」

 ヤサブロウの言葉に、「俺達三人だ」とエドガーは返す。

「陰ながらも何もない」

「そうでした」とヤサブロウは微笑んだ。エドガーは老師から涅槃の光について教わる事に一抹の不安を感じないでもなかった。果たしてそのようなものが本当に存在するのか。一人の老人の誇大妄想に付き合わされているのだとしたらとんだ時間の浪費だ。エドガーはヤサブロウに下界の様子を尋ねた。

「ハリマシティでウィルは完全に根城を張り、ユウキ抹殺指令を下しました。しかし、依然ユウキの動きは分からないようです」

 エドガーは内心安堵していた。もしユウキが早くに殺されていたのならば。全ては終結に向かっていたかもしれない。しかし、それは歪められた結末だ。

「ウィルは苦労しそうです。反逆者に対して」

「それくらいがちょうどいいんじゃないか。リヴァイヴ団もなくなって、ウィルの意味が取り沙汰される事だろう」

 エドガーはサイコソーダを呷ってドンファンの足元に置いた。ドンファンは鼻先で器用に転がして遊んでいる。どうやら二体でサッカーもどきのような真似を始めたらしい。一体が鼻先で缶をパスし、もう一体が受け取ってまたパスをする。その繰り返しだった。

「ウィルは税金泥棒だと叩かれる心配はないでしょうね。少なくとも、反逆者を追っている間は」

 だとすれば、もしユウキが捕まったとしてもその追跡は続くのではないだろうか。ユウキではない誰かにすり替わって。それはリヴァイヴ団残党かもしれないし、ウィルからの裏切り者かもしれない。終わりのない連鎖。その中に、自分もまた組み込まれようとされかけて、このような辺境に身を隠している。非常に卑しい行為に思えた。本来ならば戦士として前線で戦う事こそが喜びである性分なのに、こんな場所で燻っている。本当の自分を見失いそうだった。

「俺のやるべき事はなんだろう」

 ヤサブロウのような人間に訊くべきではないと思いながらもエドガーは口にしていた。ヤサブロウは、「少なくとも今は」と口を開く。

「目的があるじゃないですか。涅槃の光を習得するという目的が」

「随分とぼやけた話だ」

 エドガーはヤサブロウが、「そろそろ行かねば」と老師へと声をかけるのを眺めていた。ドンファンの表皮を撫でる。ごつごつとした硬い表皮越しでも感触はあるのだろうか。ドンファンは目を細めている。

「では、また」とヤサブロウに声をかけられ、エドガーは片手を上げて応じた。運搬車が遠ざかっていくのを見つめてから、「老師」と声をかける。老師は胡乱そうに目を向けた。

「何だ?」

「何だじゃない。涅槃の光の修行だ」

「急にやる気になりおって。どういう風の吹き回しだ?」

 頬杖をついて訝しげな眼差しを送る老師へとエドガーは、「早いに越した事はない」と答える。

「涅槃の光とやらの使い方を知りたい」

「そうさなぁ」と老師は周囲に視線を配った。樹の陰に一体のナゾノクサがいる。昨日、煙を吹きかけられた個体だった。あのような真似をされてもまだ老師に興味があるのだろうか。頭の上の雑草を揺らして好奇の眼差しを向けている。

「あのナゾノクサにやるのは可哀想だな。もっと、別の……」

 老師は空を仰いだ。鳥ポケモンが羽音を立てて飛び立っていく。老師は、「ちょっと借りるぞ」と片手を掲げてぐっと拳に変えた。すると鳥ポケモンのうち一体が急旋回したかと思うと老師に向けて降り立ってきた。茶色の羽に小ぶりな身体はポッポである。ポッポはどうして自分が降下したのかさえ分かっていないようだった。驚愕に見開かれた目を見やって、「このポッポに涅槃の光を見よ」と老師は命じた。エドガーは急な言葉に戸惑った。

「俺には何も見えない」

「ただのポッポだと?」

 エドガーは頷く。特徴も大してない。ポッポという個体の中でも特別に大きいわけでも小さいわけでもない。老師は煙管を吸って、エドガーに向けて煙を吐き出した。エドガーは急に目の前を襲った紫煙に手を振る。

「何するんだ、この――」

「万物に等しく、涅槃の光はある」

 遮って放たれた言葉にエドガーは文句を喉の奥に呑み込んだ。

「大事なのは、そう、理解しようとする心だ。相手を自分と同じものとして認識する。ポッポであろうとナゾノクサであろうと同じだ。それが人間であろうとも変わらん。まずは肯定しろ。全てはそれからだ」

「肯定しろ、って言ったって……」

 エドガーは返答に困る。ポケモンの何を肯定すればいいのか。そもそも自分は否定しているのか。エドガーの思考の迷宮を見透かしたように、「難しく考えるな」と老師は声を出した。

「たとえば、ポケモンが人語を喋ったとする」

「ポケモンは喋らない」

「物のたとえだ。それに世界を捜せば喋るポケモンの一体や二体はいるだろう。問題なのは喋るか喋らないかではなく、その喋ったという現実を肯定するかしないかだ」

「現実逃避がいけないと?」

「そうではない」と老師は胡坐を掻き直した。「想像しろ」と老師は続ける。

「お前さんの身近で、物事を肯定した人間の事を。そやつは何故、認められた? 度量か度胸か。否、それは否定しないからだ」

「禅問答だな」

「物事は肯定することから始まる。全てはそれに端を発している。相手の意見、主張、言葉、意思、思惑、外見、癖、全てを肯定し、自分のものと同じようにして扱うのだ」

「自分と相手を同じ土俵に上げるっていう事か」

 エドガーの解釈に、「少し違うが」と老師は頷いた。

「まぁ、お前さんの場合はそこからだろう。まずはポケモンでも人間でも、同じ土俵に上げろ。自分と対等なものとして扱え。真に対等だと感じた瞬間、涅槃の光は開かれる」

 嘘八百を並べられていると解釈してもよさそうな言葉ばかりだ。老師はポッポを支配しているのだろうか。エドガーは尋ねる。

「それは支配か?」

 その言葉に老師はやんわりとでありながら、口調だけははっきりと否定した。

「違う。支配ではない。相手を理解するという事は決して支配ではないのだ。覚えておくといい。支配から生まれるものは、たかが知れている。恐怖、重圧、苦難、それらマイナスの方向からは、決して涅槃の光へと到達する事は出来ない。相手を包み込む事は、支配ではない」

 エドガーには半分も理解出来なかったが、導き出した答えが一つだけあった。

「ただのトレーナーとポケモンの関係じゃないって事か」

「そうだな。お前さんにはその解釈が分かり易かろう。支配被支配の関係で物事を論じるのは容易い。しかし、そうでない方向からの接近こそが、涅槃の始まりなのだ」

 老師の言葉にエドガーは眉根を寄せた。

「俺にはあんたが涅槃と言う度に嘘くささを感じざるを得ない」

「それでも、ワシが教えるのは涅槃の光についてだ。お前さんも、それは了承済みであろう?」

 エドガーは答えなかった。代わりにポッポを見据える。自分の掌に視線を落とし、ポッポに向けてばっと開いた。すると驚いたポッポは容易く飛び立ってしまった。その様子を老師は笑いながら眺めている。

「ワシの物真似をすればいいと言うわけではあるまい、という事が分かっただろう。もう一回、チャンスをやろう」

 老師は再び空に向けて手を伸ばす。すると、導かれるように鳥ポケモンが降りてきた。今度はスバメだ。青い羽毛を揺らして、スバメは大きな目を見開き、エドガーと老師を交互に見やる。

「このスバメで、今度は涅槃の光を実践しようではないか」

 老師は軽く片手を繰ると、スバメは少しだけ飛んだ。そのまま逃げ去ってしまうかに思えたが、老師が人差し指を立てて円弧を描くと、スバメはその通りに旋回して老師の下へと戻ってきた。スバメ自身も、何故自分がそのような行動に出たのか理解出来ていないようである。しきりに周囲を見渡していた。

「スバメの思考ルーチンに介入して動きを操ったのか?」

 エドガーの問いかけに老師は煙管を片手に、「難しい言い方をするもんだの」と応じた。

「ワシはただ、スバメの行きたい方向を肯定した上で、自分の思考を乗せたまで。スバメからしてみれば、自分の心に従った結果に思えるだろうな」

 エドガーには理解の範疇を超えているように思えた。しかし、老師は、「涅槃の初期段階よ」と言ってみせる。

「これしきの事が出来ぬようでは、涅槃の光を意のままにすることなど、遥かに遠い。無限の桃源郷を描くよりもなお」

 エドガーはスバメへと一歩、歩み寄った。スバメが身を硬くする。エドガーは深く息をつき、口中に繰り返した。

「相手を肯定する……」

 片手を広げイメージを形成する。否定せず、相手の意のままに――。スバメを睨み据えていると、スバメは恐れを成したのか羽ばたいていってしまった。

「あっ」と声を発してスバメの行く先を制そうとする。先ほど老師がしたのと同じように、スバメの思考ルーチンに介入して、と感じたが、そのような事が急に出来るはずがない。スバメは遠くへと飛んでいってしまった。老師が、「お前さんは」と口を開く。

「どうにもトレーナー根性が抜けないようだな」

「抜けないも何も、俺はトレーナーだ」

 エドガーはホルスターへと視線を落とす。老師もその視線の先を追って、「ふむ」と頷いた。

「ものは試しか」

 老師はそう言うや否やエドガーのホルスターから二つのモンスターボールを引っ手繰った。突然の事にエドガーの反応が一拍遅れた。

「何をする!」

 老師はモンスターボールを眺め、「このようなものに頼っているからいけない」と緊急射出ボタンを押した。モンスターボールから光に包まれたゴルーグとポリゴンが弾き出される。

「ゴルーグ……」

 数日振りの手持ちとの対峙にエドガーは戸惑った。ゴルーグは思考の読めない白い眼窩をエドガーに向けている。もう一体、ポリゴンも無機質な視線をエドガーに注いでいた。老師がモンスターボールを握った手を振り上げる。何をするのか、と思っていると、突然、老師はモンスターボールを地面に叩きつけた。エドガーは狼狽した声を出す。

「あんた、何しているんだ!」

「この程度では壊れんか」

 強い顎鬚をさすって老師は立ち上がる。どこに向かうのか、と感じていると、老師は黒い鉄球を鍛えるのに使う金槌を持ってきた。それをあろう事か、モンスターボールに向けて振るい落としたのだ。モンスターボールに亀裂が走る。

「あんた、本当に何して――」

「今、無駄なものを取り去ろうとしているのだ」

 遮って放たれた声に、「無駄なもの、って……」とエドガーは声を詰まらせる。

「無駄だろう。このようにポケモンと人間を分ける代物なんて。逆に物事を捉え難くさせている。垣根は一旦取り払え。全てはその後だ」

「後って。でも、モンスターボールの催眠電波がなけりゃ、トレーナーとポケモンの関係は――」

 逆転する、と言いかけたその時、ゴルーグのモンスターボールが弾け飛んだ。欠片が足元に転がり、エドガーは思わず唾を飲み下す。ゴルーグがぴくりと身体を震わせた。巨体を押し広げ、ゴルーグが咆哮する。自由になった事への喜びか、樹海の中に朗々と響く。

「……ゴルーグ」

 俺から離れて嬉しいのか。そのような事を聞きかける合間にも、老師はポリゴンのモンスターボールを破壊しようとしていた。エドガーがその作業に割って入る。

「やめろ!」

「どうしてだ? 自分のポケモンが解き放たれる事が恐ろしいか?」

「ポリゴンは俺のポケモンじゃない」

「知っている。このポリゴンから伸びる涅槃の光は別の方向を向いておるからな」

 エドガーが思わず目を見開いて、「その涅槃の光ってのは」と口を開く。

「死んだ人間か生きている人間か分かるのか」

「そりゃ、分かるとも」

「では、ミツヤは」

 急いたようにエドガーは口に出していた。そこから先を続けかけて、何を聞こうとしているのだと自問する。ミツヤは生きているのか、あの戦いで死んだのか。そのような決定的な言葉を老師の口から聞いていいのか。逡巡を浮かべたのを感じ取ったのか、老師は言葉を重ねなかった。エドガーが自分の意思でその事実を知る事を望んでいるのだろう。

「……いや、何でもない」

 エドガーは結局聞けずじまいだった。自分の至らなさ、覚悟の薄さに嫌気が差す。ミツヤがどうなったのかさえ、今の自分には知る余裕がない。

 ――これでは弔う事も出来ないではないか。

 ぐっと拳を握り締めていると老師はモンスターボールを破壊する手を再び動かした。ポリゴンのモンスターボールが砕け、ポリゴンがびくりと身体を震わせる。首を巡らせて、周囲を見渡し、甲高い鳴き声を発した。

「お前さんの手持ちはこれで消えた」

 老師が金槌を置いてふぅと息をつく。エドガーはゴルーグに視線をやった。いつも以上に感情が読めない。白い眼窩は既に他人であるとでも言いたげであった。

「……満足か?」

 エドガーは訊いていた。老師は、「うん?」と聞き返す。

「俺から手持ちを奪って、力を奪って満足かと聞いたんだ」

 苛立ちを募らせた声に、老師は煙管を口にくわえ、ゆっくりと息を吐き出した。煙管の先端から漂う紫煙がエドガーの顔に引っかかる。

「ワシはそんなつもりはない」

「では、どんなつもりで、こんな事をした」

 自然と口調は責め立てるものになっていた。老師は落ち着き払った様子で、「これが最も効率がいい」と告げる。

「効率がいいだと?」

 エドガーは信じられないものを見るような目つきを老師に向ける。老師は意に介さず煙管を吹かす。

「いちいちワシがポケモンを取ってきて、お前さんが失敗してを繰り返しているんじゃ埒が明かん。それならばお前さんがある程度見知っているポケモンで試したほうが手間が省ける」

 煙管を突きつけて話す老師にエドガーは反発した。

「ふざけるな! モンスターボールの支配がなくなれば、ポケモンなんて簡単に野生に戻ってしまうんだぞ!」

 このような樹海ではなおさらだ。自然に近い場所にいれば、ポケモンはすぐさま野生の本能を取り戻す。老師は、しかし取り乱す事もせず、「落ち着け」と言い放った。

「落ち着いていられるか! こんな事――」

「ヤサブロウはモンスターボールでドンファンを御していたか?」

 不意に放たれた声にエドガーはハッとして声を詰まらせる。ヤサブロウはドンファンを使っていたが、モンスターボールで使役している様子ではなかった。あの二体のドンファンはそれこそ自発的に主を支援しているように見えた。

「……だが、作業用に使う程度なら」

「同じだよ。作業用でも戦闘用でも。ヒトとポケモンは平行線だ。その境界を冒すのがモンスターボール。だが、ワシにはそれ以外の方法が見える。涅槃の光と言う形でな」

「怪しいものだ。そんな方法など」

 老師は両手を広げて、「疑うならば疑うがいい」と種明かしをされたマジシャンのように振る舞った。

「ワシの知っている事は話す。ヤサブロウから聞いておるだろう。ワシは、訊かれれば答える。そういう人間だ」

「では涅槃の光とは」

「見て感じろ。そうとしか言えんな」

「くそったれだ」

 エドガーは吐き捨ててゴルーグとポリゴンに向き合った。

オンドゥル大使 ( 2014/05/02(金) 21:51 )