ポケットモンスターHEXA BRAVE












小説トップ
GOLD
第八章 五節「涅槃の光」

 老師の言葉を厳格に守ろうとしたわけではない。

 何度もエドガーはゴルーグを使って渦中に潜り込んだほうが得策ではないかと感じたが、老師の見ていないうちや監視の目が緩いうちにモンスターボールに手を伸ばそうとすると、「まだその時ではない」と声が聞こえてくるような気がした。老師の声で、「見定めよ……」と声が発せられる。

 幻聴の類と切り捨ててもよかったが、エドガーはそうしなかった。

 今は羽を休めろ、その言葉がエドガーを繋ぎとめる鎖だった。

 一時でも間違えば獣に成り下がりかねない自分を戒める鎖。エドガーはヤサブロウから下界の様子を事細かに尋ねていた。老師はその話にはとんと興味がないようで片手に煙管をぽっぽと吹かせている。エドガーはヤサブロウからウィルの構成員の中にリヴァイヴ団が混ざっている可能性がある事。その噂がまことしやかに囁かれていると語った。

 エドガーはリヴァイヴ団のバッジは隠しておいた。自分で見てしまえば、今すぐにでも飛び出したくなるだろうから、という事と、ヤサブロウに気取られないためだ。今さらの対処かもしれなかったが、ヤサブロウは気兼ねなく話した。エドガーが老師の面倒を見る風来坊だと信じ込んでいるようだった。毎日が黒い鉄球作りに当てられたわけではない。

 当然、黒い鉄球が完成しない時や、不完全な形として産出される時がある。そのような時には不完全な黒い鉄球をもう一度炉心に戻して融解させ、再生産する。ヤサブロウも毎日の収穫を期待しているわけではないようだ。半分以上は老師の面倒を見るためという感覚だったのだろう。ご機嫌伺いのようなものです、とある日のヤサブロウはエドガーに言った。

「ご機嫌伺いって、あれか。遠く離れた家族が老人の面倒を見に来るっていう」

「そう。私はそれに老師には感謝しているんですよ」

「感謝?」

 エドガーは聞き返してから、軒先の老師を見やった。のどかに煙管を吹かし、円形の煙を吐き出している。近くを通っていく鳥ポケモンが煙たそうに羽を翻した。エドガーはヤサブロウの運搬車に背中を預けながら、「何を感謝するんだ?」と訊いた。

「感謝だらけですよ」

 ヤサブロウは純朴な微笑みを返す。

「黒い鉄球ってとても売り買いしづらい代物なんです。それをコンスタントに生産して、市場に上げてくださる。それだけでも頭が上がりません」

「カイヘンは元々工業化の一途を辿っていた。ここではなくとももっと大規模な工場があるだろう」

「いえ。リツ山麓のこの地が最も純度が高いんです。ですが、ここはロケット団基地があった不浄の地。誰も近づこうとしません。私も正直、老師がいなければこの地からの産出は見送っていたでしょう」

「もう今はない組織の何が怖い?」

 もっとも、この質問はナンセンスだ。カイヘンの住民は今も昔も存在するのかしないのか分からないものに怯え続けている。

 諸外国から遅れているという恐怖。それがロケット団を招き寄せる温床となった。今度は治安の悪化による見離されるという焦燥。それがディルファンスを作った。結果的にヘキサを作り上げたのはカイヘンの民全員だ。罪があるとするのならば、全ての人々の肩に等しく乗っている事になるだろう。

 カイヘンの民は実体のないものを恐れ、ヘキサという混沌の象徴を生み出した。今度はヘキサ事件の癒えぬ傷痕を身に帯びながら、諸外国から睨みを利かされ、綱渡りのような危うい均衡を恐れている。そこに一石を投じるリヴァイヴ団と、均衡を磐石にしようとするウィルの抗争が絡んでくる。今のカイヘンは混迷期と言うほかなかった。

 ヤサブロウは困惑の笑みを浮かべて、「そうですね」と首肯する。

「確かに見えないものを恐れてきました。私もカイヘン生まれ、カイヘン育ちなものですから、その因習はずっと感じてきましたね。エドガーさんは」

「生まれも育ちもカイヘンだ。本土とは常識が違うがな」

「ああ、コウエツのほうの。だからか、少し訛りがありますね」

「そうか?」とエドガーは自分の口調を確認してみる。本土人と接する機会が薄かったせいか、そのような意識は特にない。

「でも、いいんじゃないですかね。コウエツのほうっていうのも」

「いい事ばかりじゃないさ」

 エドガーは自身の境遇を頭の中に呼び覚ます。経済封鎖による打撃を真っ先に受けたF地区。本土人でさえ近寄らない区域に住む地獄。きっとヤサブロウにはそのような事は分からないだろう。分からないだろうと知りつつも口にせざるを得なかったのは自分がコウエツシティに魂までもしがみついている名残か。ヤサブロウは当たり障りのない答えを選んでくるかと思っていたが、「エドガーさんは、F地区で?」と尋ねてきた。突っ込まれるとは思っていなかったのでエドガーは少し気後れ気味に頷く。

「そうですか。F地区には近寄るなっていうのは本土人の常套句みたいなもので、それはほとんどカントーにも及んでいるみたいですね。カイヘンの恥部。F地区とタリハシティ跡には近寄るな。知っています? エドガーさん。タリハシティ跡って地図でご丁寧に六角形に切り取られているんですよ。赤い文字で危険区域って書かれて」

 ヤサブロウが自虐を交えたような話し方をするのでエドガーは不意にこの青年の事が気になった。今まで目に留めていなかった事だが、この青年にも傷があるのではないだろうか。自分だけに傷があると思い込んで、自分の傷が一番深いと高を括っていたが、ヤサブロウにもどうやら何かありそうだった。そうでなければロクベ樹海のど真ん中までドンファンを走らせてくる事はないだろう。エドガーは踏み込んでみる事にした。

「あんた、カイヘンが嫌いなのか?」

 問うた声に少しの沈黙があった。ヤサブロウは笑顔を硬直させ、凍結した眼差しを送った。まるでエドガーなど目に映っていない、反射しているだけの現象だと捉えているような漆黒である。

「私は、カイヘンっていう土地がどうにも慣れないんです」

 ようやくヤサブロウは調子を取り戻して喋り始めたが、先ほどまでよりも随分と低い口調だった。もしかしたら、これがこの青年の本当の喋りかたなのかもしれない、とエドガーは感じた。

「カイヘン生まれ、カイヘン育ち。でも、この土地は、何だか他人みたいだ。掴もうとしては滑り落ちていく他人の心の中に住まわされているみたいで。感覚としては間借りしているのに近いんですよね。勝手に住まわせてもらっているけれど、文句があって、でも言えなくって」

 ヤサブロウはサイコソーダの缶を握り締めた。同じ缶がエドガーの手にもある。ヤサブロウはいつでもサイコソーダを携えてきた。エドガーはヤサブロウを見る事も出来ずにサイコソーダのラベルに視線を落とす。むずむずするような、居心地の悪さを感じる。

「カイヘンっていうのはほとんど他人の足の裏で踏み荒らされた土地なんですよ。古くは先住民族の支配に始まって、ようやく永住した人々も自分達の技術の低さに愕然としたらしいです。だから他の地方から人を呼び込んで。このカイヘン地方はね、ほとんど異文化の集合体ですよ。残っているのは土地だけだ。その土地も、他地方から来た人間に荒らされて、誇れる山も森も持っているのに、それをこんなもので固めて」

 ヤサブロウは地面を踏み鳴らした。三十六番特設道路のコンクリートに硬く残響する。

「そうしなければカイヘンは国際社会から見離されていた」

 どうして自分がそのような事を言うのか。カイヘンという土地に少しばかり愛着があるからか。きっと、違う、とエドガーは感じていた。ヤサブロウの口から否定的な言葉が出る事が耐え難かったのだ。彼はまるで自分の生まれまでも否定しているようである。ヤサブロウは、「ですよねぇ」と返した。朗らかさが少し戻ってきていたが、口調は暗いままだ。

「でも、そんな娼婦みたいなカイヘンを好きにはなれませんよ」

「極論だ」とエドガーは落ち着き払って声を出そうとしたが、果たせなかった。純朴そうなヤサブロウからどうしてそのような罵詈雑言が生まれてくるのか。まるで理解出来なかった。

「極論ですし、意見としては大分傾いてしまっていますが、私はずっとそう感じてきました。子供の頃から。きっとこれからも」

 ヤサブロウがプルタブを開けてサイコソーダを口に含む。エドガーもサイコソーダの缶を開けた。飲みながら空を眺める。暗雲が漂っており、今にも降り出しそうだった。

「だから、老師のところへ?」

 どうしてだか、エドガーにはそう結論付けられるような気がしていた。心に迷いがあるから、老師のところに導かれた。自分とヤサブロウを結びつけるものが欲しかっただけなのかもしれない。しかし、老師には何かしらの可能性を見ていた。その光に望むものは同じだと信じたい。ヤサブロウは、「老師はね」と嬉しそうに声を弾ませた。

「可能性の塊なんですよ」

「可能性の塊?」

 同じ言葉を思わず聞き返す。老師に目をやるとぷかぷかと煙管を吹かし、思い出したように扇子で扇いでいる。

「どこが」

「あれ全体が」

 ヤサブロウは先ほどまでの暗い雰囲気はどこへやら、口元を隠しながら潜めた声を発する。

「俺には老人にしか見えない。しかも、かなり性格の捻じ曲がった」

「老師はね。あの人は変なんです」

「重々承知している」

 変でなくては何なのだ、とエドガーは言い出したい気分だったがヤサブロウは、「見た目とかじゃないですよ」と告げる。

「風体でもなくって、あの人は何だかふわふわとしている。ここに身体があるのに、今にも向こう側へと旅立ってしまいそうだ」

「あの世か?」

 エドガーが口元を斜めにして口にすると、ヤサブロウも笑って、「違いますよ」と返した。

「そういう現実的なところからは離れた、どこかです。エドガーさんも覚えはないですか?」

 エドガーは老師が使った妙な術について思い出していた。自分の腕を外側からの神経で掌握したような術。あれは一体、何だったのか。エドガーはヤサブロウも知るところなのかと外堀から尋ねてみる。

「老師には妙なところがある」

「そうですね。あの人は妙です。だから、私みたいな世捨て人が訪ねてくる。あっ、エドガーさんは別ですよ」

 慌てて訂正するヤサブロウにエドガーはフッと口元を緩めて、「俺のほうが世捨て人に見える」と返した。

「あんたは全然だ。ちゃんと仕事もしているんだろう?」

「仕事って言うほど立派なもんでもないですよ。老師みたいな人から搾取するのはね」

「搾取じゃない。あんたはきちんと老師に与えている。立派な共存関係だ」

「共存が共栄ではないんですよ。それは老師だって分かっているはずなのに……」

 しこりを感じる言葉尻だったが、エドガーは気にせず老師について言葉を重ねる。

「老師は達観しているのか。それとも、この世を斜めに見ているのか」

「どちらでもないんじゃないですかねぇ」

 返ってきた意外な声に、「どちらでも?」とエドガーは少し面食らった。ヤサブロウは後頭部を掻きながら、「ええ」と照れくさそうに応じる。

「私の感じる限りですけれど、老師はそんなんじゃないんでしょう。この世が滅びたって気にしないって言うほど鈍い人じゃない。でも、世の些事には興味がない。きっとそういう人種なんですよ」

「好きたくはない」

 エドガーはサイコソーダの刺激を舌先に感じながら吐き捨てる。ヤサブロウは、「私は好きですよ」と言った。

「老師も、エドガーさんも」

 エドガーは思わずむせた。その様子を見やって、「大丈夫ですか?」とヤサブロウが訊く。

「変な事を言うからだ」

「変って。私は思った事を言っただけで」

 その時、エドガーの頭の中に一人の少年の姿が像を結んだ。自分と無茶な局面で共闘する事を誓った仲間。オレンジ色のジャケットを翻すその姿――。

「エドガーさん?」

 突然黙りこくったエドガーの様子を奇妙に感じたのか、ヤサブロウが首を傾げる。エドガーは眼鏡のブリッジを上げて、「何でもない」と平静を装う。

 ――どうして今思い出す?

 エドガーは自身の胸中に問いかけたが、それらしい答えは返ってこない。ヤサブロウの言動が似ていたからか。エドガーは調子を取り戻そうと頭を振った。

「老師は時折何か、妙な事を言わないか?」

「私からしてみれば、エドガーさんも結構妙ですけれど、確かに老師にはミステリアスと言うか、はかり知れない部分はありますね」

 ヤサブロウが顎に手を添えて考え込んでいる。思い当たる節があるのか。エドガーは突っ込んで訊いてみた。

「老師の秘密っていうものはあるのか?」

「秘密、ですか?」

 ヤサブロウが目を丸くしてエドガーの顔を覗き込む。エドガーの眼差しが本気だと悟ったのか、ヤサブロウは首を引っ込めた。

「秘密も何も、あの人は何でも聞かれれば喋りますよ。エドガーさんが黒い鉄球運びを手伝ってくれるのだって、あの人に秘密がないからでしょう?」

「ああ、そうだ。そうだった」

 エドガーは額に手をやった。老師には秘密がない。ヤサブロウに伝えられていないだけなのか。それとも本当に老師には憚るべき秘密などないのか。エドガーが次に探るべき言葉を考えていると、「もし、秘密があるとすれば」とヤサブロウは小さく口にする。

「きっと、それは私達が見落としているだけで、老師はすぐにヒントをくれるはずですよ」

「聞かれれば答える、という精神か」

「そうです」と応じるヤサブロウにエドガーは何度か頷いて手を下ろした。老師を見据えると、老師はどこからか流れてきた小型のナゾノクサの頭部の雑草に扇子で風を送っていた。ナゾノクサが気持ちよさそうに身体を震わせる。

「ああして、野生のポケモンが寄ってくるんですよ。老師の不思議なところの一つでもありますよね」

 たちまちナゾノクサは数体を従えて再び老師の下へとやってきた。老師は歓迎の扇子を振るうかと思えば、今度は煙管の煙を吹きかけた。ナゾノクサ達が蜘蛛の子を散らしたように散り散りになる。短い足で走るナゾノクサは巨大な樹の根っこに躓いて転んだ。老師が軒先から歩み寄り、手を貸すのかと思えば、またも煙い息を吐きかけた。ナゾノクサが青い身体を揺らして逃げ去っていく。ヤサブロウが爽やかに笑った。エドガーは、「人が悪い」と苦々しげに口走る。

「分かっていてやっているのか?」

「分かっていてやっているから、面白いんじゃないですかね」

 それでも老師に近づくポケモンはいる。先ほど煙を吹きつけられたナゾノクサも木の陰から老師の様子を見やっている。どうやら老師に興味津々らしい。

「老師に引きつけられるのは何も人間だけじゃないって事ですね」

「俺は引き寄せられたわけじゃない」

 エドガーはサイコソーダを呷った。ドンファンの鼻先に置くと、ドンファン二体がサイコソーダの空き缶で遊び始める。ヤサブロウのドンファンと関わって分かった事だ。どうやら随分と陽気な性格らしい。トレーナーの心を映している、とエドガーは感じていた。ドンファンは空き缶を鼻先で転がして遊ぶ。潰してしまわないように細心の注意を払って、だ。ドンファンはそうでなくとも力が強い。加減してやるところにミソを感じているのだろう。

「エドガーさんも、ポケモンの扱いには慣れているみたいですね」

「慣れている、か。そうでもないさ」

 エドガーはゴルーグの事を思い出した。ずっと自分と共にあったのに自分の制御を離れ、ミツヤの命令を聞いた。エドガーはゴルーグとミツヤのポリゴンを正直持て余していた。老師との約束、本人曰く契約上、繰り出すわけにもいかずトレーナーとしての腕がどこまでも鈍っていくのを感じていた。このまま鈍らになっていくのだろうか、とエドガーは入道雲を眺めながら考える。樹海を覆い尽す天蓋にヤサブロウも気づいたのか、「曇ってきましたね」と呟いた。

「一雨来そうだ。ドンファンは悪路でも大丈夫ですけれど一応は地面タイプ。雨が降る前に退散します」

 ヤサブロウは立ち去る前に老師へと駆け寄って、「老師。また来ます」と告げてから運搬車に入った。エドガーは、「すまないな、付き合わせて」と口にする。ヤサブロウは片手を振った。

「いや、それは私のほうで。ほとんど愚痴を聞いてもらっているみたいでお恥ずかしい」

「俺は話し相手がいて助かっている。老師とだけじゃ間が持たなくってな」

 エドガーのジョークにヤサブロウは笑った。

「ですね。老師は一月でも二月でも人と話さなくっても大丈夫そうだ」

 どこか寂しげにヤサブロウが呟く。それは人として寂しいからか。それとも自分の孤独を投影しているのか。エドガーには聞くだけの言葉がなかった。

「では、私はこれで。エドガーさん、老師を頼みます」

 ドンファンがホイール形態へと変形し、ヤサブロウの運転する運搬車が三十六番特設道路を踏みしだいた。エドガーは軽く片手を振った。老師へと目を向ける。老師はヤサブロウに視線を送ろうともしない。エドガーは歩み寄って老師の腕を引っ掴もうとした。その時になって老師は、「うわっ、何だ?」と驚いたようだった。

「何だじゃないだろう。ヤサブロウが帰った」

「ああ、帰ったのか……」

 エドガーは違和感を覚えたが追及せずに空を見上げた。

「一雨来る。洗濯物を入れよう」

「任せたぞ」

 老師は軒先から動く気がないらしい。「出不精め」とエドガーは吐き捨てて洗濯物を入れ始めた。間もなく雨がぽつりぽつりと降ってきた。最初は取るに足らない小雨かと思ったが、すぐに豪雨と化した。茅葺の家屋はすぐに倒壊しそうだ。

「おい、家の中に入ったほうが」

 エドガーの言葉に老師はゆっくりと首を振り向けて、「そうさなぁ」と穏やかな声を発した。エドガーは苛立ち混じりに、「雷雨だ!」と喚く。

「軒先に構えるのはあんたの勝手だが、風邪を引かれれば看病が面倒くさい」

 エドガーは老師の腕を引っ張って無理やり立ち上がらせた。老師は少しだけよろめいたが、すぐに持ち直して、「お前さん」と口にする。

「何だ?」

「教えてやろうか? 昨日の妙技について」

 不意打ち気味の言葉にエドガーは聞き逃しそうになったが、振り向いた。

「妙技、だと」

「その通り。ワシの言った呪いだよ」

 老師はおどけたように手を組んで印を結んだ。冗談にしては性質が悪い。だが、完全な冗談とも割り切れずエドガーは老師をとりあえず居間に通した。老師はいつも通りの座布団に座り、一つ息をついた。エドガーは対面に座って、「妙技とは」と言葉を発しようとしたところで雷鳴に遮られた。どうやら本格的に降ってきたようだ。

「なに、そう難しい事じゃない」

 老師はまるで雷鳴など関係がないかのように静かに淡々と告げる。老師と向かい合っているとエドガーまでも雨音や雷を他所の国の出来事のように感じられた。

「ワシには呪いがかけられている」

 静かな口調に嘘は言っていない、とエドガーは長年の勘を働かせた。しかし、呪いとはこの時代には浮いて聞こえる。だが、茶化す気にもなれずにエドガーは黙って聞き入っている。

「八年前にかけられた。ワシが人間爆弾にされた事を話したな」

「ああ。ヘキサの陰謀だったんだろう?」

 それはどのような心地だろうか。その時の老師は知っていたのか知らなかったのか。聞きたい衝動に駆られたが、同時に聞いてはならないことだと言う事も理解出来る。傷口に、やすやすと踏み入っていい権利などない。

「ワシはそのポケモン、フワライドの事を知らず、ただある男の命じるがままにフワライドに乗った。それだけが助かる道だと信じていた。フワライドの特性、誘爆も知らなかったよ。だから、男の言葉を信じた。フワライドを破ってくる者こそが敵だと。実際には、ワシら自体が、敵から身を守るための殻だったわけだ。ワシは近くでボン、とフワライドが弾けたのを何度も見たよ。あれは、地獄だった。緑色の竜のポケモンがフワライドを破り、鋼鉄の鳥がフワライドに突っ込んできた。ワシらには何が起こっているのか、なんていう理解は無意味だった。ただ闇雲に過ぎていく自体を、無力な一個人として見守るしかなかった。嵐を前にしたポケモン達のように」

 エドガーは老師の独白を黙って聞いていた。老師は畳んだ扇子で床を突いて続きを発する。

「もう駄目だと思った、その時だ。光が突然地上で弾けた。地上と言っても空中要塞の上だが、黒と白のそれがパッとフワライドを押し包んだかと思うとワシの意識は奇妙な場所にあった」

「奇妙、とは」

 ようやく口にしたエドガーに老師は一つ頷き、「あれは涅槃だ」と答える。

「涅槃、あの世か?」

「そう簡単なものではないさ。しかしあれは、全てだった」

「全て?」

 老師は懐かしむような目つきになって遠くを眺めた。遠雷が響く。

「光の先には全てがあった。この世の黎明から今に至るまでの全て、そしてこれから先、未来の果て。いや、果てなどなかった。どこまでも輝き続ける人の世界、ポケモンの世界、時間と空間を超えたまさしく涅槃としか言いようのない場所だ」

 老師の言葉には奇妙な説得力が伴っていた。信じるには難しいが、信じてくれと懇願している風でもない。自分だけその場所を分かっているとでも言いたげだった。

「ワシはその光の中をたゆたう光の一端に、少し、ほんの少し、手を伸ばして触れた。それからだ」

「それから、とは」

「ワシには他人の光を掴む事が出来るようになった」

 エドガーは眉をひそめた。他人の光とは何なのか。老師は何が言いたいのか。怪訝そうな目を向けるエドガーへと、「信じていないな」と老師は片手を開く。

「お前さんから、いや、万物全てから伸びている光さ。ワシの眼には、それが等しく映る。今、この場所は明るいか、暗いか?」

 エドガーは周囲を見渡した。曇り空に太陽の光を遮られており、雨が降り出して外は灰色の景色だ。

「暗い」

「ワシには蝋燭の火が灯ったように見えるよ。お前さんからちょうど、な」

 エドガーは薄ら寒いものを覚えた。老師は何を言おうとしているのだ。

「何だ。おどかしっこなしだぞ」

「おどかしちゃいない。ワシには本当に見える。お前さんと、お前さんが伴っている二体のポケモン。一体は、他人のものだな。託された魂か」

 エドガーは覚えずホルスターを手で覆い隠していた。それでも老師は目を細めてその先を透視しているようだった。

「奇妙な真似を」

「奇妙? お前さんはワシの術について知りたがっていたではないか。それを、その段になって奇妙などと」

 老師が扇子の角で床を叩く。音が反響した。

「ワシはお前さんにこれを教える事が出来る、と言えば、どうだ?」

「何……。どういうつもりだ」

 企みがあると察したエドガーの声に、「何も企んじゃいない」と見透かした声を発する。

「ただ涅槃の光を見る術、否、呪いか。これを知りたいのならば教えてやろう。もう八年も同じ景色を見てくればある程度の事は分かる」

「それを俺に教えて、どうする? 何の価値もない」

 ポケモンを禁じられ、ここから出る事も叶わぬ身では。老師は、「ワシを振り切って行けばいい」と言った。

「昨日そうしようとしたのをあんたが止めたんだろう」

「ああしなければワシの話をろくに聞かず行ってしまうだろうに。たわけが」

 エドガーは押し黙る。それが肯定だと感じたのか、老師は、「そう難しいものではない」と続けた。扇子を掲げ、天井を指しながら、「たとえるならば天井を眺める」と天井を仰ぐ。エドガーも釣られて天井を眺めたが、汚い天井を小型の虫ポケモンが這っているのが目に入っただけだ。

「ビードルだ。勝手にワシの家を食い荒らしおって」

 老師が中空を引っ掴む真似をした。すると、虫ポケモンが縫い止められたかのように動かなくなった。ポトリ、と床に落ちてくる。虫ポケモンが痙攣している。

「何をした?」

 驚愕の眼差しでエドガーが問いかけると、「こやつの光を掴んだ」と老師は事もなさげに言った。

「どうやったんだ?」

「誰しもに平等にある光だ。コツさえ掴めば簡単に出来る。どれ、お前さんも」

 老師は扇子で自分の胸元を叩いた。

「ためしにワシの光を掴んでみよ」

 エドガーは瞠目し、「無理難題だ」と首を振った。

「俺にはその光とやらが本当の話か分からない。あるかどうかも分からない眉唾物だ。それなのに急に光を掴め?」

 エドガーは肩を竦めた。

「どうかしている」

 雨音がシパタタと三十六番道路を叩く。老師はゆっくりと首を横に振った。

「涅槃の光を掴むのにまず必要なのは肯定。否定ではない」

「その涅槃とやらが怪しい。あんたはどこまでもうろくしている? 俺を惑わせて、楽しいのか?」

 エドガーは苛立ちを募らせていた。老師の言葉が疑わしく聞こえる。しかし、老師は口調を緩める事はない。

「涅槃の光に嘘偽りはない。その光の先に導かれるか、その光を利用するかはお前さんの心持ち一つだ。ワシの力が偽者かどうかは、お前さんが一番よく知っているだろう」

 老師の言葉にエドガーは返事に窮した。老師の実力、とでも言うのか、持っている力は確かに存在する。しかし、それを涅槃とやらの光に置き換える事に抵抗を感じているのだ。

「俺は涅槃って言うのをどうにも信じられない」

「信じる必要はない」

 老師は扇子の角で床を叩き、「少なくともお前さんにとっては。そうだろう?」と問いかけた。エドガーが老師の言葉を信じようが信じまいが関係がないという事だ。その力は実在し、エドガーにはそれを手に入れるか否かの選択肢が迫られている。

「涅槃の光を信じず、ワシをただのもうろくと判断するもよし。それはお前さんに任せる」

 エドガーは困惑したが、同時にここで拒めば自分には何も残されていないと感じた。これは好機なのかもしれない。老師という人間を知るための。知れば逃れる術も見つかるだろう。

 エドガーは、「よし」と口を開く。

「教えてくれ」

 エドガーの声に老師はちょいちょいと指で手招く。エドガーが顔を寄せると、思い切り耳を引っ張られた。エドガーは、「何だ!」と声を荒らげる。

「何だじゃないだろう。人に頼むのにはそれなりの礼儀と言うものがある」

 引っ張られた耳に手をやりながらエドガーは幾ばくかの逡巡の後に、頭を下げた。

「よろしく、お願いします」

 エドガーからしてみれば得られるのか分からないものに対する投資だ。頼み込む必要が本当にあるのか疑わしい。老師は、「ふむ」と聞き届けたようだった。

「よかろう。明日より涅槃の光の使い方を教える」

「今日は……」

「夕食が先だ。早く飯の準備をいたせ」

 エドガーはいきり立って、「俺はあんたの召使じゃない」と言ったが、老師は扇子を開いて、「涅槃の光を教わりたいのだろう?」と訊いた。エドガーは気圧され気味に頷く。

「ならば、ワシは師だ。つまりお前さんは弟子。弟子は師事する義務がある」

「何を勝手な……」

「勝手でも何でも、ワシは動かんぞ。さっさと飯の準備をせんか」

 老師の言葉に呆れる事を通り越して一種の達観すら見たほどだ。エドガーは、「分かったよ」と立ち上がる。外の雨はやみかかっていた。



オンドゥル大使 ( 2014/05/02(金) 21:49 )