第八章 三節「自分の価値」
老師を頼ってくる人間があった。
三十六番特設道路を行くのはタイヤのような鼻筋を持つ二体のポケモンだった。
体表に溝が刻まれており、黒い鼻筋以外は灰色で一対の角を有している。ドンファンと呼ばれる二体のポケモンは内側の赤い耳を垂らしながら、度々吼えている。トレーナーと思しき男は長身の紳士だった。
名前をヤサブロウというらしい。老師とのやり取りの中で、彼がいわば黒い鉄球のディーラーである事が窺えた。黒い鉄球を運ぶ作業にはエドガーも手を貸した。今までドンファンに引きずらせていたらしい。
ドンファンは優雅に長い鼻を傾け、反らしながら気苦労が減ったとでも言いたげである。二体のドンファンは後輪を有した工業用の運搬車の前衛を務めている。運搬車の荷台へとエドガーは自分の力で黒い鉄球を運んだ。ポケモンを使う事を禁ずる。その約束を果たしていたのだ。エドガーは何往復かして黒い鉄球一ダースを運び終えた。その頃には汗だくになっていた。
樹海の木々の隙間をついて鋭い日差しが差し込んでくる。まだ夏が到来したばかりだ。それを今さらのように思い出す。この一週間あまり、まともに身体を休めていないせいか、季節に鈍感になっている。老師は軒先に座って扇子で風を扇いでいた。その様子を見咎めようとすると、「あの人はいつもああなんだ」とヤサブロウが告げる。
「あなたのような若い力が老師の下に来てくれて本当に助かっています。老師もお礼が言いたいはずです」
不思議な事にヤサブロウも老師の本名を知らないようだった。ひょっとしたら会う人間全員に老師だと名乗っているのかもしれない。だとすれば食えない老人だ、とエドガーは感じて横目に視線を流す。老師は口笛を吹いて鳥ポケモン達を集めようとしている。
「実際、あの人は何なんだ」
エドガーの言葉にヤサブロウは爽やかに微笑みながら、「老師ですよ」と応じる。
「それ以上でも以下でもないです」
「俺からしてみれば、答えのない迷宮に誘い込まれたようだ」
エドガーにヤサブロウはサイコソーダの缶を手渡す。サイコソーダを見やり、故郷であるコウエツシティのBARコウエツが一瞬だけ過ぎったが、それを振り落とすようにエドガーはプルタブを開けて中身を呷った。それを見やったヤサブロウが、「おっ、いい飲みっぷり」と朗らかに笑む。この紳士にはどうやら笑顔がよく似合うらしい。客商売をしているせいもあるのだろう。対照的にエドガーは仏頂面だった。
「酒は飲むのですか?」
「いや、俺は下戸だ。ビールで吐く」
「私もそう得意じゃないんだけど、やっぱり人付き合いで」
サイコソーダをちびちびと飲みながらヤサブロウは苦笑した。エドガーは胸に「R」の反転したバッジをつけている事に気づいた。リヴァイヴ団だとばれるか、と思っていたが、ヤサブロウは気にする素振りはない。もしかすると、分かっていて黙っていたのかもしれない。
「新都でリヴァイヴ団とウィルの抗争があったです。知っていますか?」
そう尋ねられた時には心臓が口から飛び出しそうになった。エドガーは当事者である事を隠しながら、「そうなのか?」と平静を装って聞き返す。
「そう。存外派手にドンパチがあったみたいなんです。そうだ、老師にもこれを教えなくっては」
ヤサブロウは老師の座っている軒先へと駆け寄って手を振った。老師が扇子を持っている片手を上げる。エドガーは運搬車の前衛となっているドンファン二体を撫でた。ヤサブロウのドンファンは随分と気性が大人しい。見ず知らずのエドガーが撫でても吼える事はおろか、抵抗する感触もない。エドガーは牙に触れる事はさすがに抵抗があったが、溝の刻まれた表皮を撫でる。凹凸が立派につけられており、育て上げられている事が分かった。
「お前らの主人は、さぞ大切にしているのだろうな」
ドンファンに語り聞かせながらエドガーは老師とヤサブロウを見やる。不意に命令を無視した自身のポケモンであるゴルーグの姿が像を結び、エドガーは、では自分は? と問いかけていた。
自分はポケモンとの理想的な関係を築けているのだろうか。いつの間にか押し付けがましく戦う事だけを強制してきたのではないだろうか。ヤサブロウとドンファンのように戦い以外に育て上げられたポケモンと人間の関係を見せつけられると考えてしまう。戦う事だけがポケモンとトレーナーの関係ではない。しかし、自分は戦う事でしかゴルーグに何も返せない。ゴルーグと共有出来ない。エドガーはホルスターに指を触れさせた。ゴルーグともう一体、ミツヤに託されたポケモンであるポリゴン。これをどうしろと言うのか。自分には過ぎたるものだ、とエドガーは自嘲する。
「エドガーさん。来てくださいよ。あなたも下界の様子は知りたいでしょう?」
ヤサブロウが気さくに声をかけてくる。どうやらエドガーを老師と同じ類の、樹海から出ない人間だと思い込んでいるらしい。それはそれでいいか、とエドガーは割り切って、「何か?」と訊いた。ヤサブロウは少し不服そうに腰に手を当てている。
「老師が信じないんですよ。リヴァイヴ団とウィルが激突したって」
エドガーは覚えず胸元のバッジを握り締める。言うべきだろうか、と逡巡していると、「下界の噂はどうも真実味がなくっていけないな」と老師は煙管を吹かした。
「ワシを信じ込ませたきゃもっとマシな話を考えつくんだ」
「事実は小説より奇なり、って言うでしょう? 老師がロクベ樹海に篭っておられる間にも世相は移り変わっているんですよ」
「そういうもんかねぇ。ワシはそのリヴァイヴ団とかいう組織だって信じちゃいない。ウィルは辛うじて信じるがね」
「どうしてそう意固地なんですか。リヴァイヴ団の活動を毛嫌いなさっているんですか?」
「あるべきカイヘンねぇ」
老師はそこで鼻を鳴らした。
「そんなもんはあるか。あるべきカイヘンって時点で、もうそれは集団の意思じゃないだろう。個人の意思だ。あるべきって誰が規定したんだ? もう頭目の言いなりじゃないか」
そんな事はない、とエドガーは口を挟みたかったが、ぐっと言葉を呑み込んだ。ランポや自分のようなはぐれ者はそこに流れ着くしかないのだ。ユウキのように本気で変えようとしている人間もいる。それを鼻で笑うのだけはやめて欲しい。しかし、エドガーは言い出せない。ここを追い出されれば本当に居場所がなくなってしまう事を本能的に察知しているのだ。小賢しい自分に嫌気が差す。
「そういえばリヴァイヴ団のボスが出てきましたね。確かランポと名乗っていましたか」
ヤサブロウが顎に手を添えて、神妙な顔つきをした。
「何だ? 妙な顔をして」
「いや、結局演説は失敗に終わったっていうのが政府の、というかウィルの見方なんですよね。まぁ、あの演説に賛同する人間は少ないでしょう。私もリアルタイムで観ていましたが、あれは一種のショーだ。八年前のヘキサ事件の宣戦布告に似ていましたが、八年前よりも子供じみている」
ヤサブロウが首を振る。直後、ヤサブロウは不意に口を噤んだ。八年前のヘキサ事件の事を口に出したからだろう。老師がその被害者である事はヤサブロウも知るところになっているのだ。老師は何も言わなかった。やめろ、とも、違う、とも言わない。老師からしてみれば些事なのかもしれない。エドガーはそう感じた。当事者である自分だけがこの場で肩身の狭い思いをしている。老師は、「ワシゃ、鉄球が造れればいいんだ」と独り言を呟いた。
「ワシの鉄球が何も変えられなくってもいい。ただ造り続ける事だけが、ワシに与えられものだからな」
老師の物言いにエドガーは何かを言い出したくなったが、ヤサブロウが、「毎度お世話になっております」と謝辞を述べた。
「よせよ。きちんと生活も出来ているんだ。礼を言うのはこっちさ」
どうやらヤサブロウがこの樹海まで食料を持ってきているらしい。黒い鉄球の報酬は食料と下界の情報である。煙管の紫煙を棚引かせながら老師は息をついた。ヤサブロウが時計に視線を落とし、「そろそろ戻らねば」と立ち上がる。
「エドガーさん、老師の事をよろしくお願いします」
別れ際、エドガーはそう言われて戸惑った。昨日今日現われた人間に頼んでいいのか、と逆に質問すると、「いいんです」とヤサブロウは告げた。
「老師はあんな人ですから、心根が曲がっている人間は決して近くに置きません。あの人がまだ心を許している。それがあなたを信頼する第一の理由です」
「随分と安い理由もあったものだ」
エドガーの言葉にヤサブロウは微笑んで、「全くですね」と返した。
「でも老師の事、頼みます。私はこのままヤマトタウン方面に出ますから。あっ、これ。もしもの時の私の電話番号です」
ヤサブロウがポケッチを翳す。番号を交換してから、「老師は?」と尋ねた。ヤサブロウは首を横に振る。
「老師はポケモンを持っていませんからポケッチもありません」
「どうして? だって黒い鉄球はポケモンの道具だ」
エドガーが記憶している限りならば、黒い鉄球は持たせたポケモンの重量を底上げし、動きを鈍らせる道具である。飛んでいるポケモンや浮遊状態のポケモンにすら効果があるほどに重い道具だ。ヤサブロウは、「老師はポケモンが怖いんです」と潜めた声で口にした。
どういう意味なのか、と問い質そうとしたところ、「おい!」と老師がエドガーを呼びつけた。
「夕食の準備をする。昨日取った薪をくべろ」
老師の言葉に遮られる形になってヤサブロウとエドガーは会話を切り上げた。ヤサブロウが運搬車に乗り込むと、前衛のドンファン二体が身体を丸まらせて鼻筋を返す。ホイール形態になり、三十六番特設道路を踏み砕いていった。ポケモン二体分の膂力ならば、普通の運搬車では立ち往生してしまう重量も悪路も物ともしないだろう。その後姿を眺めながら、「黒い鉄球はああして売られていく」と老師が扇子を畳んだ。エドガーは口を開く。
「どうして金品を受け取らない?」
「この深い森の中で、金なんて真っ先に役に立たないだろうが」
言えている、とエドガーは頷いた。しかし、だとすれば老師はこの森から出る気はないのだろうか。夕食の準備をしながらそれとなく聞いてみた。
「老師。あんたは下界に行こうとは思わないのか?」
「思わんな。行ったところでワシの出る幕はないて」
老師の前に鳥そぼろ丼を置く。老師は、「おう」と頷いて箸を取った。
「出る幕がないとは」
エドガーも箸を取り、「いただきます」と二人同時に口にした。
「黒い鉄球そのものが、もう時代遅れの産物だ。カントーやイッシュならもっとうまく産出する方法を知っている。黒い鉄球とはいえ、廉価で手に入るものもあるからな」
「そうだと知っているのならば何故」
エドガーは聞かずにはいられなかった。老師は無駄だと知っている事をやっているのか。エドガーの言葉にしばしの間を置いてから、「老人の趣味だ」と老師は口を開いた。
「だから若いもんには分からん。この世を諦観した男の末路が作り出す商品なんて買い手がつかんからさ」
「だが、現に黒い鉄球は価値を出し続けている」
味噌汁をすすりながら老師は首を横に振った。
「あれの価値なんてもうないさ。それに産み出すのはロケット団が使っていた設備だ。火事場泥棒みたいなもんだよ、ワシはな。使われなくなった事をいい事に勝手し放題だ」
「俺にはあんたがそう勝手をしているようにも見えない」
エドガーの言葉に一瞬だけ箸が止まったが、「それはお前の審美眼が曇っておるんだよ」と老師は告げた。
「嫌気が差したのならいつ出て行ってもいい。ワシは困らん」
ヤサブロウがいるのならば自分は不要だろう。しかし、エドガーは離れようとはしなかった。この老師から自分は学ぶべきことがあるのではないか。本能的に感じた何かに衝き動かされるようにエドガーは、「退かない」と口にしていた。
「ほう」と老師が眉を上げる。エドガーは、「見極めたいんだ」と続けた。
「見極める? それは何を?」
「自分の価値、みたいなものか」
呟いてみても漠然としていて答えとは言えない。しかし、エドガーの言葉を是とも否とも取らない老師の態度にエドガーは満足していた。自分を試したい。故郷を離れ、慕っていた人間の下も離れ、仲間からも離れた自分に何が残っているのか。エドガーは味噌汁をすすり、深く瞑目した。