ポケットモンスターHEXA BRAVE












小説トップ
GOLD
第八章 一節「君がため」
 ヘキサ事件がカイヘンの人々に与えた打撃は大きい。

 きっと歴史の教科書にはそう載るだろう。

 ただの事実の羅列でしかない歴史には、その一行だけでも充分だ。しかし、そこに息づく人々の生命に関して言えば、一行ではとても語り尽くせない。

 エドガーもまた、その一行に集約される人生の中に放り込まれた人間の一人だった。

 両親はコウエツシティで働いており、NPO法人を設立し、ロケット団とディルファンスによる抗争でささくれ立ったカイヘンを癒そうとしていた。両親の、特に父親の発していた言葉の中にエドガーの内奥に響き渡った言葉があった。

 それは、「正義の心を忘れるな」であった。正義の心というのはたとえばテレビに映る稚拙なヒーロー番組の事を言っているのだと最初は思っていたが、エドガーはやがて正義の心を確信する人物と出会う事になる。幼少時には、まだその言葉の意味を完全に解するだけの能力はなく、ただ彼は誰も憎まず真っ直ぐな人間に育とうとしていた。

 それを歪めたのはヘキサ事件の余波がまともに襲ってきた時だ。NPO法人は当たり前のように立ち行かなくなり、財政は火の車、両親を慕っていた人々は一人また一人と消えていった。彼らがどうなったのか、行く末を案じる前に、エドガー本人にも危機は訪れようとしていた。

 カントー統括部隊によるカイヘンの事実上の鎖国、及び実質的支配は両親の事業を完全に逼塞させた。頭が挿げ変わる、などという生易しいものではない。文字通り激動の中をエドガーと両親は生きる事となった。コウエツシティ、その中でもF地区と後に呼ばれる場所に居住区を構え、彼らは貧困に喘ぐ日々を過ごす事となったのだ。しかし、エドガーはまだ厳格に教えを守るだけの精神状態を保っていた。正義の心を忘れるな、というのは人らしく生きろという意味も含んでいる事を彼は察し始めていた。現に両親はどれだけ境遇を貶められても人間らしさを失う事はなかった。それをエドガーは一種の誇りであるとさえ感じていたが、その幻想が儚く消え失せるのはそう時間がかからなかった。

 二年後、カントー独立治安維持部隊、ウィルが創設されカイヘン、ひいてはコウエツシティはより圧迫された政策を受ける事となり、F地区はその日暮らしの生活者が集まる寂れた場所と化していた。エドガーをスクールに通わせるだけの資金だけは蓄えから出していた両親もついに立ち行かなくなり、消費者金融に手を出した。母親はかつての生活を取り戻そうと勝手に株や投資話に乗っかるようになり、そこからは転がるように人生を転落していった。

 既に自分の状況が分かるだけの歳になっていたエドガーは両親に負担はかけまいとあらゆる事を我慢するようになった。しかし、両親は逆にそれが辛く見えたのだろう。エドガーが感情を押し殺す子供になる事をよしとしなかった両親は、自分達からの解放こそがエドガーが唯一自由に羽ばたける道だと確信した。

 ある日、エドガーが帰ると、天井からぶらんと二つの影が吊り下がっていた。まるで釣りに使う疑似餌のようだと感じながら、エドガーは朱色の光が射し込む部屋の中で十分ほど呆然としていた。やがてエドガーの様子に気づいた隣の住民が内部の様子に気づいて声を張り上げた。

「人が死んでいるぞ!」

 その声にようやくエドガーは気づいて周囲を見渡した。人死に、というものはもっと遠い異国の出来事のように感じていたのだ。それが目の前で、しかも自分の両親に降りかかろうなど夢にも思わなかった。エドガーは間もなくやってきた警察――ウィルのお膝元だが――から事情を聞かれ、何も答えられなかった。ただ、その時、エドガーは初めて人を憎んだ。目の前の事務的に質問を繰り返す警察官ではない。もっと大きなものがカイヘンを押し包み、両親の首を絞めたのだ。その大元を正さねばならない。

 エドガーはそう判断したが、その志を支持するだけの先立つものは何一つとしてなかった。一夜にして無一文と化したエドガーを引き取ったのはF地区の住人の一人でエドガー一家の隣に住んでいた夫婦だった。彼らもまたヘキサ事件による余波で人生を歪められ、F地区に身を落とす事となった存在だ。

 夫は労働者で妻は娼婦だった。エドガーは今までの人生とは正反対の地獄を見る事となる。限られた食事、女を目当てにやってくる客、やつれた頬、奈落のような黒い眼差し。エドガーはスクールに通う事はもうなくなっていたが、思い出したようにスクールの連中がやってきてエドガーを滅多打ちにした。憂さ晴らしのつもりだったのだろう。エドガーは理不尽な暴力にも晒される事となったのだ。

 どうして世界はこうも理不尽に回っている? エドガーは問いかけずにはいられなかった。どうして自分だけが、とは考えなかったのはせめてもの救いだ。彼は他にも苦労している人間は大勢見てきたので自分だけの不幸に陥る事はなかった。

 その代わり、彼の心はあらゆる人間の不幸を背負い込む事となる。正義の心を忘れるな、という言葉はやがて意味が変わり「弱い者を見捨てるな」という言葉と「強くなければ生きていく価値はない」という言葉に変換された。

 それはある意味では呪いだった。エドガーの生きる道、畢竟、強くなるしかないという目的に還元され、彼はひたすら暴力に酔いしれる青春を送るようになる。家に帰らない日々も多くなっていった。いつしか養父母は、彼の事を持て余すようになり、エドガー自身も誰一人として頼ってはいなかった。

 いつしか、エドガーの周りにはお互いに血に飢えた人々が寄り集まるようになり、エドガーを中心とした派閥が出来上がっていた。それをエドガーは心地よいとも、気分が悪いとも思わなかった。ただ、強い者に弱い者がへつらい、生きるのは当然の摂理だ。

 弱肉強食、正義の心は至極現実的な論理へとすり替えられた。エドガーの手持ちであるゴビットも、彼の意思を反映したように凶暴な性格へと変わっていった。エドガーはゴビットを手放す事はなかった。それは本当の両親から与えられたもので唯一残っているからでもあったが、力が全てであるエドガーからしてみれば力を手離してどうする、と言った理論であったからだ。それにゴビットは人工のポケモンであり、ほとんど餌代などの諸費用がかからない。その上強いというエドガーからしてみれば理想個体だった。エドガーを中心とする人々が集まる中、与しない人間がいた。

 エドガーとそう歳は変わらないのだが、BARコウエツに入り浸っている少年だった。エドガーはその少年と出会い、名を尋ねた。茶髪で髪を伸ばしているので余計に目についたのかもしれない。エドガーは喧嘩を吹っかけた。

「お前、どうして俺達に与しない?」

 エドガーの問いかけに少年はフッと笑みを浮かべた。仲間が、「何がおかしい!」と声を張り上げる。エドガーは片手を上げて制した。

「何がおかしい?」

 改めて自分の口から尋ねると、少年は、「そうだな」と声を発した。

「たとえば岩だ」

 告げられた意味が分からず、仲間が胡乱そうな声を出す。

「何言ってんだ、てめぇ――」

「俺はその他大勢に言っているんじゃない。お前に言っているんだ、中央のお前に」

 はっきりと放たれた声にエドガーは言葉をなくした。仲間も声を詰まらせている。少年は鳶色の瞳をエドガーに向けて、「いいか? 岩だ。イメージしろ。波打ち際の岩を」と続けた。

「岩は波によって削られていく。その原型を誰も知らないうちに薄めていく。しかし、岩は決してなくならないんだ。丸くなったり、尖ったりする事はあるだろう。しかし、波程度では本来の形状は失っても岩そのものを消し去る事は出来ない」

「何、言ってやがる!」

 食ってかかろうとした仲間を止めて、エドガーは呆然として口を開いた。

「それはカイヘンの事を言っているのか?」

 エドガーの言葉に少年は、ほうと感嘆した息を漏らした。

「やはり見込み通りか。お前は、頭がよく回る。俺の目に狂いはなかったというわけだ」

「お前の言葉は、カイヘンだけではないな。俺の事も言っているのか」

 エドガーの言葉に少年は応じず、「岩は」と話を続ける。

「尖りもする。丸くもなる。しかし、決して、根本だけは変わらない。岩は硬い。何よりも、硬い。それを自分自身が覚えている。自分自身が知っている」

 少年の言葉にエドガーは幼少期に教え込まれた正義の心を思い返した。自分の中に正義の心はまだ息づいているのか。脈動を感じたエドガーはそれが目覚めの兆候である事を察知する。

「俺の、事を……」

「調べたわけじゃない。ただ、お前は、F地区ではそれなりに有名だ。訊かなくても答えはやってくる。お前は燻り続けていいような人間じゃない。そうだろう?」

 少年は片手を差し出した。状況的に見れば、少年を取り囲んでいるのはエドガーの側であり、少年は圧倒的不利であるのだが、そのような状況とはとても思えない発言を少年は発した。主導権を握っているのは少年のほうだ。エドガーは口元を緩めて、「面白いな、お前」と言った。狼狽した仲間が、「エドガーさん。こんな奴に」と声を発するが、既にエドガーの興味は目の前の少年にあった。

「名は?」

「ランポだ」

 短く告げられた言葉をエドガーは何度も吟味した。

「ランポか。覚えておこう」

 その日からエドガーとランポは時折、BARコウエツで話すようになった。取りとめもない話から、カイヘンの行く末についてまで様々だった。その中でもランポはよくエドガーを評して、「頭のきれる男」と口にした。エドガーはまともにスクールを卒業したわけでもない自分に学などないと謙遜したが、「学じゃない」とランポは返した。

「それは品というものだ。分かるか? 生まれ持った品性に対して過程なんて問題じゃない。お前には品がある。だから、ごろつき共に囲まれていても、お前だけは違う。俺にはそう見えた」

 自分とほとんど歳も変わらない人間が自分を客観的に評価してくれる。奇妙な感覚だが悪くはなかった。エドガーは、「そんな事はない」と上機嫌で返しながらサイコソーダを飲んだ。自分はアルコールが飲めないのは早くに分かっていた。

 ランポと親交を深めていたそんな時だった。仲間の一人が、「ランポが気に入らない」と口走った。

「闇討ちしかけましょうぜ。あいつは弱そうだ」

 仲間の提案をエドガーはすぐさま却下した。あり得ない、と言い捨ててその仲間達とは縁を切った。元々あったのかどうかも分からない縁は簡単に切れた。しかし、エドガーはまだ甘かったのだ。その程度で今までやってきた事が消えるわけがない。力の証明は力でしか行えない。それは誰よりも理解していたはずだった。

 宵闇に紛れて、エドガーとランポを待ち受けている一団があった。かつての取り巻き達だった。報復に来たのだ、とエドガーは察した時急に恐怖に駆られた。こんなところで自分は死ぬのか、と。しかし、その恐怖を拭い去ったのはランポの一言だった。

「岩は、雨風に晒されても、荒波に呑まれてもその場から消え去る事はない。強固に自己を保つものなんだ。だから、岩がそこにあった事も、これからもそこにあり続けることも、おまえらに否定など出切るはずがない」

 ランポはドクロッグというポケモンを繰り出し、数十人に対して戦いを真っ向から挑んだ。エドガーもその勢いに背中を押されたようにゴビットを繰り出し、迎え撃った。その壮絶な戦いによってゴビットは進化してゴルーグとなり、全身傷だらけな二人と二体は寄り添いながら笑った。思えば笑った事などいつ以来だろう。エドガーは自分の生きる意味を見出しつつあった。

「俺は、リヴァイヴ団に入る」

 ランポがそう宣言した時、ならば自分はランポの下につくと当たり前のように言葉がついて出た。

「あんたほどの強さなら、部下なんて必要ないかもしれないが」

 エドガーの言葉にランポは、「俺は弱いよ」と返した。

「だからこそ、支えてもらいたい。それに今の俺に必要なのは部下じゃない。共に戦ってくれる仲間だ」

 ランポは一度として「部下」という言葉を用いなかった。ランポと同じ入団試験でエドガーはリヴァイヴ団に入り、早速ランポをリーダーに据えたチームを結成しようとした。二人では心許ない、とエドガーは仲間を探し回ったが、この街で一悶着起こしたエドガーに対してF地区以外の街の人間は冷たかった。毛嫌いしていたF地区の人々だけがエドガーの理解者であった。ある時、ランポが不意に口にした。

「家族にきちんと説明しておけ」

 エドガーは戸惑った。もう家族などいない、だからやさぐれていたのだ、と説明したが、ランポは頑として聞き入れなかった。

「いいから、家族に言うべき事を言っておけ」

 その段になってようやく、エドガーは養父母の存在を思い出した。ほとんど一年ぶりに訪れる養父母の家は相変わらず寂れていたが、エドガーはこみ上げてくる懐かしさを感じた。家に帰ると娼婦であった養母が温かい手料理で迎えてくれた。エドガーはそれを食べながら、自分はどうしてこの人達から距離を取ろうとしたのだろうか、と考えた。ここまで温かい人達に余計な不安を抱え込ませてしまった。エドガーはせめてもの罪滅ぼしとして金を支払おうとしたが、養父母は首を縦に振らなかった。

「そんなものはいいんだ。生きてさえいてくれれば」

 養父の言葉にエドガーは頬を熱いものが伝うのを止められなかった。言うべき事を言っておく。ランポの言葉に従い、エドガーはリヴァイヴ団に入った事と、もう二度と悲しませない事を誓った。養父母は温かく見送ってくれた。

「帰る場所はここにある」という声にエドガーは身も世もなく泣いた。その時にエドガーの内奥にあった正義の心は再び光を灯したのだ。闇の中で足元を照らす光のように、正義の心をエドガーは掲げた。

 後にミツヤが入り、ランポのチームは難物揃いのチームとしてリヴァイヴ団に認知される事となる。仲間との絆、それこそが正義の心を持って歩むために必要なのだとエドガーは理解していた。ユウキ達が入ってきた時、それが揺るがされるような気がしたが杞憂であった。むしろ、ユウキは再びエドガーにその心を自覚させるだけの材料をくれたのだ。かつてのランポと同じように自分を導いてくれる存在だった。

 だからこそ、エドガーは自分だけ生き残った事を悔いた。ミツヤを犠牲にして生き残った事。命を見捨てざるを得なかった事はエドガーにとっては何よりも重石として圧し掛かった。エドガーは宵闇に叫んだ。

「ゴルーグ! 俺達は戦うためにあそこにいたんだ! 違うか?」

 呻いた声は負け犬の遠吠えだった。ここで命を散らしても示しがつかない事は分かっている。エドガーはゴルーグに乗って飛んだ。どこまで行けばいいのか、まるで分からなかった。どこまで行っても許されないような気はしていたし、どこまで行っても答えが出ないような気もしていた。

 エドガーはリツ山に至った。八年前、ロケット団の基地が設けられていた場所である。エドガーはその裾野を見やり、鬱蒼と広がるロクベ樹海を見下ろした。ここで死ぬのも悪くない。そう感じたのも間違いではなかったが、何よりも恥があった。生き恥というものだ。ミツヤを見殺した恥を忍ぶために、エドガーは樹海の中を歩いた。

 三十六番特設道路には巨大な木々の根っこが張り出しており、道路は捲れ、人が歩く道とは思えなかった。その中を進むうち、エドガーは何かの匂いが鼻腔を掠めたのを感じた。久しく味わう事のなかった食料の匂いだった。しかし、このような樹海で誰が。エドガーはその疑問を感じつつも匂いの方向へと向かっていった。やがて不意に視界に入ったのは、一軒の木製の家屋だった。素朴な茅葺屋根でエドガーは違う次元に迷い込んだのかと錯覚したほどだ。しかし、匂いはそこから漏れている。エドガーはその家へと歩み寄り、玄関を開いた。

「ほう。これは珍しい」

 そう声を発したのは老人だった。中央にある釜の後ろに腰を下ろし、胡坐を掻いている。老人は黒装束で頭には頭巾を被っていた。エドガーは警戒しながら声を発する。

「あんたは……」

「勝手に訪れておいてあんたか。まぁ、いいだろう。旅の御仁かい? 見たところ相当疲れているようだが」

 エドガーは覚えず頬に手をやっていた。疲れが出ているのだろうか。連日ゴルーグに飛び回らせたせいかもしれない。樹海を歩く足も棒のようになっていた。

「来やれ。飯をちょうど作っていたところだ」

 老人が手招くがエドガーは玄関先から動かなかった。老人がその様子を見やってため息をつく。

「手負いの獣、というわけか。この距離でも分かる。お前さん、戦いを経験しているね」

 エドガーはより強く警戒した。老人は強い顎鬚を撫でながら、「それでも、ふむ」と頷いた。

「お前さんは何かしら辛い目にあったのだろう。まぁ、飯でも食え。そうすれば少しくらいは気が和らぐかもしれない」

 エドガーは抗弁の口を開こうとしたが、老人の厚意に結局は甘える事となった。何日も飲まず食わずで限界だった事もある。エドガーが釜を挟んで腰を下ろそうとすると、「ああ、ちょっと待って」と老人は埃を被った座布団を取り出した。外で軽く埃を払い、「どうぞ」とエドガーに手渡す。エドガーは、「どうも」と頭を下げて受け取った。座布団を敷きながら、「今日は卵粥だ」という声を聞いた。

「ちょうど多めに作ってある。まぁ、食え。うまいから」

 エドガーの茶碗を取り出してきて卵粥を注ぎ入れた。老人の手からそれを受け取る。湯気が立ち上る卵粥を見て、腹の虫が鳴った。

「身体は正直だ」と老人が破顔一笑する。エドガーは卵粥をかけ込むように食べた。

 ――生きている。

 その実感を噛み締めると散っていたリヴァイヴ団員達やミツヤの命が余計に自覚させられた。何故、自分だけが生き永らえたのだろう。エドガーは身体を折り曲げて声を押し殺して泣いた。老人は追及しようとせず、自分の分の卵粥を食べながら、「御仁。お代わりならあるぞ」とだけ告げた。

「……いただきます」

 エドガーは何度かしゃくり上げながらその言葉を発した。



オンドゥル大使 ( 2014/04/27(日) 21:15 )