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Real Face
 目覚まし時計の音を聞いて、モカはむくりと起き上がった。寝ぼけ眼を擦って、眼鏡をかけ、制服に着替える。朝食を取りに下に降りると既にユカがトーストを頬張っていた。

「おはよ、モカ。今日は早いのね」

「うん。ユカもね」

 モカは既に用意してあるトーストとコーヒーを見やった。ゲンジロウの席には置いていない。

「おじ様は?」

「お父さんは今日早出。もうとっくに出ていっちゃったわよ」

「そうなん」

 ゲンジロウは表向きには証券会社で働いている事になっているが、裏にも顔が利く人間である。恐らく早くに出たのは今回の案件に関する情報を集めて出来るだけ今夜の任務に当たる不安を取り除くためだろう。そのほうが助かる、とモカはトーストを頬張った。

「いつも思うけど、何であんたって自分の当番である火曜日だけは駄目なの? 他の日は普通に起きてくるのに」

「何でやろうね?」

 モカも不思議そうに首を傾げる。自分でも分からなかった。恐らくは暗殺と天体観測以外の事柄に対する興味や関心が薄いせいだろう。

 モカがコーヒーを飲んでいると、「今日はちゃんと替えといたから」とユカが指差した。

「ユカはさすがやわぁ。いいお嫁さんになれるね」

 モカの言葉にユカは頬を紅潮させて、「馬鹿」と口にする。モカは微笑みながらコーヒーを口に運んだ。芳醇な味わいが舌の上で弾ける。鼻腔を突き抜けていく香りはどこか涼やかだ。

「モカはどうなのよ」

 顔を背けていたユカがぼそりと呟いた。首を傾げて、「何が?」と尋ねる。

「あんたは、好きな人とかいるの?」

 ユカの言葉にモカは中空を見つめながら、「うーん」と呻った。ひとしきり思案した後、「わからんなぁ」と口を開いた。がっくりとユカが項垂れる。

「あんたに聞いたのが間違いだったわ。モカは万年そんな調子だからね」

「ユカは万年しっかりしとるからねぇ」

 モカがトーストに齧りついた。香ばしい歯ごたえを感じながら、「そういえば」とユカがテレビの電源を点ける。テレビには緊急地震速報が流れていた。

「やっぱり、どんどん震源がヤマブキに近くなっているよ。なんか怖いね。不審者と言い、地震と言い」

「そやねぇ」と他人事のように発するモカに、「あのねぇ」とユカは呆れた声を出す。

「そやねぇ、じゃないのよ。ヤマブキ危ないじゃん。何でまったりしてるのよ」

「でも、うちらが騒いだって地震は遠ざかってくれへんし、不審者もいなくならんやろ?」

「そりゃ、そうだけどさ」

 ぶつくさと文句を垂れながら、ユカは腕を組む。少なくとも、不審者と地震、どちらかを早目に片付けなくてはならない。モカはトーストを頬張りながらそう考えていた。テレビへと視線を振り向け、震源の深さを確認する。さほど深くはないようだ。浅い地面を掘りながら、相手は向かってきている。明らかにポケモンの動きだと分かるのならば、メディアもそう報道するだろう。それがされないのは報道規制が入っているせいか。だとすれば、メディアに圧力をかけられるほどの相手が依頼主という事になる。巨大企業、シルフカンパニーが真っ先に浮かんだ。ポケモン関連のスキャンダルでは一番に打撃を被る団体だ。今回、モカに対して急務だと告げたのも全ては失態の尻拭いだろう。シルフカンパニーは十数年前のロケット団による本社占拠事件以来、頭を挿げ替えてスキャンダルを隠し通している。企業の体裁を考えるのならば、自社で事態の収拾に当たるのが一番だとモカは考えたが、事はそう単純ではないのかもしれない。モカが考えているような輸入中の事故、という一件ではなく、もしかしたらもっと別の――。

 そこまで考えて、ユカが怪訝そうに自分を見つめている事に気づいた。モカはしまりない笑みを浮かべて、「何?」と訊いた。

「いや、何かあんた、いつになく真剣な表情をしてたからさ。珍しいなって思って。そんなに地震の事気になるの?」

 ユカに気取られてはならない。モカは細心の注意を払って言葉を選んだ。

「そうかなぁ。地震ってでも、怖いやん」

 モカは人差し指で唇を押し上げて思案する真似をする。ユカは肩を落として、「まったく、あんたは」と声に出す。

「お気楽というか抜けているというか。ホントにナマケロのほうがあんたよりずっと俊敏だわ」

「うち、ナマケロとおんなじって嬉しいわぁ」

「あのね、褒めてないからね」

 びしりと指差すユカを見やってモカは微笑んだ。地震もサガラ兄弟の片割れも出来るだけ早く終わらせよう。そうすればきっと、自分は人並みになれる。



























 モカはユカと帰宅途中で離れ、ビルの一つへと駆けていった。

 既にポケギアへと作戦概要が与えられている。暮れていくビル群を横目に、モカは屋上へと至った。眼下には夜の帳の中に沈み行く世界の片鱗が見える。半分が朱色に染まり、半分は暗黒色だ。夜が侵食してくるまでそう時間もないだろう。モカは眼鏡を外し、赤いコンタクトレンズをつけた。髪を結い、収納していた黒い外套を羽織る。ビルの谷間を風が流れ、モカの外套を煽った。

 その時、ヤマブキシティを激震が見舞った。地震だ。モカは素早く震源へと目を向ける。震源は直下、ビルの下に流れている電車のレール上だった。そこからコンクリートを割って何かが飛び出した。銀色の頭部が斜陽を反射する。隕石のように凸凹とした頭部に脊髄の歪さを持った身体を保持している。

「あれがハガネール。でも普通のより大きいやん。あんなの仕留めろって」

 無理な話だ。しかし、依頼された以上はやるしかない。モカは片手を繰った。蜃気楼が空間から飛び出した。モカは蜃気楼に続いてビルを降りていく。蜃気楼の身体に空中で掴まり、隣のビルへと軽やかに降り立ったモカは蜃気楼へと指示を出した。

「蜃気楼。火炎放射」

 蜃気楼の襟巻きの炎が迸り、火の粉を噴射させながらハガネールへと向かっていく。ハガネールはまだ全身を出したわけではない。頭部を巡らせようとしたハガネールへと飛びつき、蜃気楼は口を開いた。口腔内で炎が渦を成して巻き起こり、襟巻きの炎が翼の勢いを得て拡張する。

 次の瞬間、放たれた炎の奔流にハガネールが呻き声を上げた。ハガネールの外殻が融けていく。鋼・地面タイプのハガネールにとってしてみれば、炎の攻撃は天敵のはずだ。物理防御に特化したハガネールならば余計にそうであろう。ハガネールが頭部を振り払う。蜃気楼がすぐさまハガネールを蹴って離脱する。直後、ハガネールは頭部をレールへと押し付けた。レールがたわみ、コンクリートがひしゃげる。土煙の上がる中、赤い眼差しを送るハガネールが垣間見えた。頭部は融けて、落ち窪んだ眼窩へと滴っているがまだ闘志は失っていないように見える。

「何なん。一撃で沈まんとか」

 覚えずモカは口走ってビルの屋上を走り抜けた。隣のビルへと乗り移り、徐々にハガネールとの距離を詰めていく。蜃気楼だけで戦わせるわけにはいかない。いち早く向かわねば。そう感じたモカは地面を蹴ってレールの上へと降り立った。

 蜃気楼とハガネールが取っ組み合いを展開している。ハガネールが頭部で押し潰そうとするのを蜃気楼は両腕で必死に押さえているようだ。しかし、足が陥没してしまっている。その重量を押さえ込むのは蜃気楼の膂力では不可能だろう。モカは蜃気楼へと指示を飛ばす。

「蜃気楼、噴火!」

 蜃気楼が鳴き声を出して、周囲へと赤い光が同心円状に広がる。その直後、景色が揺れ始めた。蜃気楼を中心として赤い光が最高潮の輝きを灯し、炎の柱が轟と持ち上がった。ハガネールの頭部を弾き上げた攻撃は炎タイプの中でも高威力を誇る技である。渦巻きながら持ち上がった柱の衝撃を受けてハガネールが仰け反った。顎の部分が溶解している。ハガネールがそのまま倒れるかに見えたが、その身体を螺旋状に回転させて踏み止まった。モカは舌打ちを漏らす。今の一撃で仕留められなかった。通常のハガネールの硬さではない。

 惑う挙動を見せていると、電車のクラクションが不意に弾けた。モカは蜃気楼と共に後ろへと飛び退る。ハガネールは身体を引き上げて、釘のように尖った尾をぎゅるぎゅると回転させながら電車へと叩き込んだ。電車にハガネールの尾が突き刺さり、持ち上げられる。モカは背の低いビルの屋上で息を呑んでいた。このハガネールには躊躇いがない。何か、強い憎悪さえも感じさせられる。

 ハガネールは突き刺した電車を持ち上げて、あろう事かモカと蜃気楼へと放り投げた。モカと蜃気楼はすぐさまその頭上へと跳躍する。すぐ下を電車が通過していき、無数の人間の息遣いが感じられた。その人々の視線が行き過ぎ、モカは覚えず目を瞑った。その瞬間、見知った顔を電車の中に見つけた。ユカが信じられないような眼差しで電車の中から跳躍している自分を凝視している。その眼差しが強く焼きついた。

「ユカ……!」

 直後、ビルへと電車が突き刺さり、ガラスが音を立てて割れた。粉塵が上がり、段階的にビルを引き裂いていく。けたたましい悲鳴と破壊の音が乱舞する。

「よくも! よくも!」

 ハガネールへと指鉄砲を向ける。蜃気楼が大口を開けて火球をハガネールへと放った。ハガネールに命中して煙が上がるが、それだけだ。相手は怯んだ気配すら見せない。ハガネールの尻尾が持ち上がり、横薙ぎに攻撃が放たれた。咄嗟に蜃気楼に飛び乗ったモカは蜃気楼が盾になってくれたおかげで直撃は免れたが、それでも身を突き破るような衝撃が襲った。

 片目のコンタクトレンズが外れ、片側の世界がぼやける。モカは奥歯を噛み締めて蜃気楼に掴まった。蜃気楼が着地する。ハガネールが頭上を仰ぎ、雄叫びを上げる。空気が鳴動し、ガラスが立て続けに割れた。モカは蜃気楼と共にハガネールへと再び向かった。ここで仕留めなくては被害が拡大する。使命感に衝き動かされ、蜃気楼が呼応したように襟巻きの炎を迸らせた。口腔内で炎が凝縮し、一挙に放たれる。火炎放射の猛攻にハガネールは顔を背けて尻尾を振り回した。地面が捲れ上がり、レールを持ち上げていたコンクリートに亀裂が走る。びしりと引き裂かれた地面から血飛沫のように土煙が上がり、目の前の光景を歪めた。

「絶対に仕留めたる! あんただけは!」

 共に空間を引き裂き、蜃気楼の襟巻きが翼のように展開した。拡張した炎の翼がはためき、火の粉の燐光を散らす。蜃気楼の炎の翼がハガネールを包み込んだ瞬間、モカは拳を握り締めて叫んだ。

「ブラストバーン!」

 炎の天蓋がハガネールへと落下し、全身が焼け爛れる。鋼の身体といえども炎タイプ最強の技を受けて無事でいられるはずがない。鋼の表皮の下の筋肉繊維まで焼いた炎は、ハガネールを黒ずめさせていた。ハガネールが全身から煙を棚引かせてその場に頭部を下ろす。モカは肩を荒立たせてそれを見ていた。

 ――終わった。

 そう確信したモカへとサイレンの音が耳朶を打った。警察か、それとも消防か、と思ったがサイレンの元は小さな車だった。窓から手を出して、白衣の男がモカを手招いている。モカは動きの鈍った蜃気楼と共に車の下へと降りた。既に野次馬がたかり始めている。それを知ってか、憚るような小声で車の中の男は、「早く来て」と告げた。モカは車にシルフカンパニーの社章が刻まれているのを視界に入れて、その車に乗り込んだ。

「いやぁ、助かった。あれで無力化出来たみたいだね。これでどやされずに済む」

「そう、ですか」

 モカは応じながら白衣の男の身なりを確認していた。白衣の男は小太りでどこか早口だ。モカの姿を物珍しそうに見やって、「それにしても」と口を開いた。

「僕は熾天使に依頼したはずなんだけど、もしかして君がその熾天使?」

「そうです。うちがその一般に言われている熾天使」

「驚いた。こりゃあ……」

 男は後頭部を掻きながら、「何歳?」と尋ねてきた。モカは顔を背けて、「答える義務、ありますか」と返す。

「ああ、こりゃ失敬。君のような人間にそのような質問は無粋だったね。謝ろう」

 男は車を発進させるように促した。モカは外の景色を見ながら、「あのハガネール」と口を開く。

「どうするんです」

「うん? これから本社が回収してくれるだろう。あっ、本社って言うのは極秘だから他言無用でね」

 そうは言ってもシルフカンパニーの社章が刻まれているのならば、そうだと言っているようなものだ。もしくはブラフかもしれないが、この男がそこまで考えている風には見えなかった。

 モカは顔を伏せる。先ほど、電車の中にユカの姿を見たのは、あれは見間違いだったのか。それとも、本当にユカが乗っていたのか。確率としてユカが乗っている可能性は大いにありうる。しかし、その可能性を考慮に入れないゲンジロウではない。だが、という思いが過ぎる。

 知っていてやらせたのか。

 全て承知の上で、この時間帯にやってくるハガネールを迎え撃たせるためだけに、自分の娘が犠牲になる可能性を試算したのか。モカには判断がつけられなかった。覚えず額を押さえると、「大丈夫?」と男が顔色を覗き込んできた。モカは顔を背ける。

「大丈夫です」

「そうかな。まぁ、実験体を処理してくれた事は大いに助かったよ。もう警察にも手は回してあるから、君の存在が露見する事はないだろう。暴走したポケモンが電車をなぎ倒した不幸な事故があった。これだけだ。我が社には全く泥は塗られない」

 奇妙な言い草だった。最初から暴走したポケモンの仕業ではなかったのか。シルフカンパニーは何を握っているのか。モカは今まで仕事には一線を引いてきた。超えてはならぬ一線。相手と自分との距離。それはモカという存在を守るためにも必要だったし、熾天使としての戦いを続けるためにも必要だった。だが、この纏いつくような感覚に思わず尋ねていた。

「あれは、暴走したハガネールやなかったんですか?」

 男は顔を振り向けて、声を潜めた。まるで秘密の話をするように。

「ただのハガネールじゃないんだよ。そうだね、報酬代わりに君にだけ教えてあげよう。本社はある実験をしていたんだ。でも、この地球内にいる人間じゃない。宇宙に行った、勝手気ままな連中を使っての実験さ。そこは間違えないでもらいたいんだけど」

 宇宙へ行った、という部分が引っかかった。モカは平静を装いながらも、さらに深く聞き込んでいた。

「何の実験だったんです?」

 踏み込んだモカの声に男は神妙に頷いて見せた。

「それがさ、宇宙へ行って三年以上音沙汰がない人間を対象にした、ポケモンの遺伝子を組み込む事による実験だったんだよ。最初は栄養食品にして、どんどんと宇宙食に侵食させていったんだ。そうすると、連中はみんな、組み込まれた遺伝子に負けてポケモンになってしまった」

 衝撃の告白だが男はどこか誇らしげだ。対してモカの胸中は急激に冷えていくのを感じていた。宇宙に行って三年以上音沙汰がない。その対象が意味するところに気づいたのだ。

 ――まさか。

 モカの反応が鈍ったにも関わらず男は同じ調子で続ける。

「鋼タイプを組み込んだんだよ。宇宙空間に行くと最初に筋肉の低下、骨粗しょう症が問題視されるからね。鋼タイプの遺伝子に負けなければ新しい特効薬として一躍脚光を浴びる予定だったんだけど、全員、鋼タイプに侵されてしまった。今じゃ、理性のない怪物だよ」

 男はやれやれとでも言いたげに肩を竦めた。モカは真正面を向いたまま、唇を震わせていた。その様子を見て、「寒いの?」と男が尋ねる。

「……いえ。つまり、全員、ポケモンになってしもうたって事なんですか」

「そう。それも通常のポケモンの思考形態じゃない。ほとんど理性のたがの外れた怪物だよ。だからヤマブキシティみたいな人口密集地に引き寄せられた。人間の頃の慣習が残っていたんだろうね。あるいは感情か。まぁ、どっちも僕は信じていないけれど」

 車が地下駐車場へと入った。もしかしたらモカを始末するつもりなのかもしれない。ここまで聞かせておいてそのまま帰す事などないだろう。ゲンジロウは自分を捨て駒として扱ったのか。脳裏に過ぎったその考えに蓋をするように、「その被験者の名前って分かります?」と訊いていた。

 ――訊くべきではない。

 心の奥底ではそれが分かっている。それでも聞かずにはいられなかった。不幸中の幸いで、自分の心を傷つける結果にはならないかもしれない。可能性は潰しておくべきだ。モカはそう考えていた。

 しかし、その考えは脆く裏切られた。

「ああ、確かイマガワさんとトキサダさんとアネモニーさん。全員、三年以上宇宙に出ていたベテラン達だ。イマガワさんとトキサダさんは何とか本社がデータ採取に成功したんだけれど、アネモニーさんだけ逃がしちゃって。火消しに君を手伝わせちゃったわけ。いや、本当にすまない事をしたね」

 モカは目を見開き、次いで、「そう」と瞼を閉じた。

 その一瞬、運転手がモカへと拳銃を突き出そうとして、その手を炎熱が焼いた。一瞬で融けた鉄と手が融合してどろどろになって滴る。運転手は叫び声を上げた。その前に蜃気楼の炎が運転手の頭部を炎の拳で弾き飛ばす。

 男が悲鳴を上げて何かを懐から出そうとした。モカは瞬時に男の手をひねり上げる。懐から落ちたのは小さなポケギアだ。誰に通信しようとしたのか、これで分かる。モカはポケギアを拾い上げ、「あんたら」と口を開いた。

「生きている価値ないわ。よくも、パパを」

 モカのコンタクトレンズが外れた片目に気づいた男は、記憶の中にある父親の面影を感じ取ったのか、短く口走った。

「もしかして君がモカちゃ――」

 その言葉が放たれる前に車窓を鮮血が彩った。


オンドゥル大使 ( 2013/07/14(日) 14:52 )