Reverse Fortune
ヤマブキシティからタマムシシティまではさほど遠くない。
タマムシシティにはデパートがあり、年中人でごった返している。ユカはデパートで夕食の材料を買わなければならないと言って一人で行ってしまった。一緒に行こうかと思ったが、「あんたがいると余計に時間がかかる」と断られた。モカはすっかり暗くなった公園のベンチに座っていた。子供連れも暗くなったからか帰ろうとしている。今はカップルのほうが目立った。モカが暇を持て余していると、不意に足元へとボールが転がってきた。拾い上げて視線を向けると、八歳くらいの赤い髪の子供がモカへと歩み寄ってきた。子供がじっとボールを見上げている。どうやら返して欲しいようだ、と察したモカは、「はい」と手渡した。子供は笑顔を弾けさせる。
その一瞬、子供の赤い髪の中に黒い耳が見えたような気がしたが、本当に一瞬だったので判別は出来なかった。
「すいません。うちの子が」
母親が駆けつけてくる。随分と若い母親だった。ショートカットの髪を揺らして、「カミナ、お姉ちゃんにありがとうは?」と言った。カミナと呼ばれた子供は頷いて、「ありがとー」と微笑む。モカも自然に笑顔になった。
「さぁ、もう帰りましょう」
母親に手を繋がれてカミナは離れていく。この辺りに住んでいるのだろうかと考えていると、カミナが振り返って手を振った。モカも手を振り返す。その時、「モカ」と呼びかける声を聞いた。ユカが両手いっぱいに買物袋を抱えて走ってきた。
「急がんでもいいのに」
「お父さんがお腹空かしているかもしれないでしょ。あんたは、子供と遊んでいたの?」
もう一度カミナ親子へと顔を振り向ける。父親はいるのだろうか。もちろん、いるだろう。モカは自分の境遇を思い返す。母親は早くに亡くなり、父親は宇宙に行ったきり五年だ。しかし、愛されていないと思った事はない。恵まれているだろう。それでも、不意に寂しさは胸を過ぎる。
「ほら、帰るわよ」
ユカの声にモカは頷いて、「今日の晩御飯は何かなー」とお気楽な声を出した。ユカが振り返り、「いいわね。あんたはそんなんで」とぼやく。
「そんなんって何? うちだって色々考えてるよ」
「色々って何よ。っていうかあんた、怒られた時もそうだったけど色々って答えるのやめな。どうせ何も考えていないちんちくりんなんだから」
「むぅ……」とモカが頬を膨らませる。二人は電車に乗り継ぎ、ヤマブキシティの家へと帰った。既にゲンジロウは帰っており、テレビを観ていた。
「ただいまー」という二人の声に、「ああ、おかえりなさい」とゲンジロウは応じる。テレビでは、『断続的な揺れが続いており……』と地震速報が告げられていた。
「何? 地震?」
「クチバシティ近郊からみたいだな。三十分ほど前から余震を含めずっと続いているらしい」
「津波とかは?」
「心配はないみたいだ」
「嫌やわぁ、地震なんて」
「クチバシティには活断層はないんじゃなかったっけ?」
ユカの声に、「どうしてだろうなぁ」とゲンジロウは首をひねる。ユカとモカは持って帰ってきた袋から早速材料を取り出し、ユカへと必要な分だけ手渡す。
「ねぇ、ユカ」
モカの声に、ユカが手早く調理をしながら、「うん?」と返す。
「今日の晩御飯何?」
肩透かしの言葉にユカはがくりとよろめいた。
「……いいわね、あんたの頭の中は平和で」
「えー、そうかなぁ」
「そうよ。巷では危ない噂がたくさんあるっていうのに」
「二人とも気をつけるんだよ。最近、ヤマブキも物騒だ」
ゲンジロウの言葉に二人して、「はーい」と応じた。マカロニグラタンを温めるために、オーブンに入れる。モカは食器類を並べ始めた。その時、ゲンジロウの手首に巻かれたポケギアとモカのポケギアが接触し、赤外線で情報を受け取った。そこには、「新しい任務がある。午前二時」と簡潔に書かれている。モカは一瞬だけ、ユカの知らない視線をゲンジロウへと向けた。ゲンジロウもユカの知らない眼差しを向ける。二人で頷き合うと、焼けたのかユカがマカロニグラタンを取り出した。
「はーい。出来たよ」
「おいしそうー」
「本当だ」
二人はユカに向けるいつもの表情に戻り、三人分を分けた。三人が席につき、モカが、「いっただきまーす」と子供のようにはしゃいだ。それを見たユカがため息をつく。
「どうしたんだい?」
ゲンジロウが心配して覗き込むと、「いや」とユカは片手を振るった。
「いつまで経ってもモカは子供のままだな、って思って」
「ええやん。子供のほうが素直やし」
モカの抗弁にユカは、「それが過ぎるって言ってるのに……」と項垂れた。
「まぁまぁ」とゲンジロウが取り成す。
「悪い事じゃないんじゃないか? 子供のようなマインドは大事だと思うよ」
「お父さんまで。あたしはモカの今後を憂いているのに」
ユカの言葉を意に介さず、モカはマカロニグラタンを食べて、「熱っ」と目の端に涙を溜めた。口元を押さえて、「熱っ、熱っ」と何度も言うモカをユカは呆れ果てた目で見つめた。
「あんたさぁ、もうちょっと子供から卒業したほうがいいと思うよ」
ユカの声に何度か頷きながら、モカは笑みを咲かせた。
「やっぱりユカのマカロニグラタンはおいしいわぁ」
その言葉にユカはぽかんと口を開けて、ため息をついた。
「どうしたん? お腹痛いん?」
見当違いの質問を向けるモカにユカは額を押さえて、「まぁ、うん」と応じた。すると、「大変!」とモカが慌て始める。棚に仕舞ってある胃薬を取り出そうとして何もないところでつまずいた。モカが「ふぎゃっ!」と奇声を上げながら倒れる。ユカはほとほと呆れたように嘆息を漏らした。
「ホント、あんたってどうしようもない馬鹿だわ」
ユカが寝静まってから、モカはひっそりと動き出した。
ほとんど衣擦れの音を立てず、まるで幽霊のように足音さえ潜ませてモカはリビングに向かう。そこではゲンジロウが既に正座して待っていた。モカは眼鏡を外し、赤いコンタクトレンズに変えている。髪の毛も結って、いつでも戦闘態勢に移れるようになっていた。モカの背後の空間が歪む。引き出されたのは黒い影だ。直立した影はかぁっと赤い口腔を開いてモカとゲンジロウを見下ろす。ゲンジロウがすっと片手を上げた。
「蜃気楼を戻しなさい。気取られる事はないと思うが万が一はある」
「はい」と応じて、モカは片手を繰った。すると、蜃気楼と呼ばれた炎のポケモン――バクフーンの姿が掻き消えた。
「今回はとても大きな任務だ。失敗は許されない」
「いつも、失敗なんて許されないんとちゃう?」
ユカと相対している時とは全く異なる空気を身に纏ったモカはゲンジロウの言葉に対等な意思で返した。ゲンジロウが神妙に頷く。
このような関係性が成立したのは三年前の事だ。
ゲンジロウが引き取る段になって、モカへとある事を叩き込んだ。それは暗殺の術だった。炎のポケモン――バクフーンを使ってこの間違った世界を正す。それがこの世の理だ、と促され、モカは一年かけてバクフーンによる暗殺をものにした。ゲンジロウから言わせれば天賦の才だったらしく、一年は異例の早さだったという。
しかし、モカには関係がない。モカはゲンジロウの意見に賛同しただけだ。この世は間違っている。それは確かにそうだろう。誰かが正さなくては、間違った世の中は矯正されない。では、誰が正す? 警察か? と問いかけて、それは無理だろうと判断した。この世界の誰にも正せないのならば、自分の目に見える範囲の悪の芽は摘み取ろう。それこそが自分に課せられた役目、生きる目的なのだとモカは断じた。ちょうど父親からの定時連絡がなくなり、心の中に空洞が口を開けたせいでもあったのかもしれない。何か、寄りかかれるものが欲しかった。ユカの存在だけでも充分だったのだが、それだけでは生きている感触が乏しい。ゲンジロウに言わせれば生まれつきその才覚はあったようだ。以前よりこの職務にモカを就かせる事を考えていたらしい。ただ父親の手前、言い出せなかっただけだった。ゲンジロウからしてみても都合がよく、モカからしても都合がいい。結局は利害の一致がもたらした必然であった。
「標的は今も地中を移動している」
「依頼主に関しては教えてくれんのやね」
「依頼主は、この一件を出来るだけ大きくしたくないように思えるが、恐らく一騒動にはなるだろう。ヤマブキシティを激震するような」
「まさしく、というわけやね。標的は?」
「標的はポケモンだ」
「サガラ兄弟はええん? 片割れはまだ逃がしたまんまやけど」
「あれは後回しでもいい。こちらが急務だ」
「ふぅん」とモカは納得し、「で、何なん」と尋ねる。
「そのポケモンっていうのは」
「これが送られてきた」
ゲンジロウは一枚の写真を取り出し、それを差し出した。受け取って視線を落とす。船の甲板を突き破って銀色の蛇のような何かが顔を出していた。手振れをしているが「得体の知れない何か」である事は容易に理解出来る。
「これがポケモン?」
「形状からハガネールだと考えられる。クチバシティに停泊した船から地中へと潜行。今は移動ルートからヤマブキシティ直下、シルフカンパニーを目指していると考えられる」
「それが目的、いうわけやね」
勘繰ったモカの言葉にゲンジロウが厳しい眼差しを向ける。その視線をいなすように、「分かっとるよ」と片手を振った。
「依頼主への勘繰りはせぇへん。これは鉄則みたいなもんやからな」
しかし、とモカは奇妙に感じた。大方輸入で運ばれてきたポケモンが暴走したのだろうが、何故ヤマブキシティを目指すのか。ヤマブキシティは首都であり、人間が密集する場だ。ポケモンは基本的にそのような場所は嫌うというのに。
「炎タイプの蜃気楼は適任だ。出来れば隠密に済ませたいという事もあって我々にお鉢が周ってきた」
「うちらは人間専門のはずやけど」
「何事も例外はあるものだ。暗殺という基本からは変わらん。それを仕留めて欲しい」
モカはぴらりと写真を翳し、「これ、いつ来るん?」と尋ねた。
「恐らくは明日の夜になるだろう。それまでに準備を万全にしておけ」
「言われんでもうちはいつだって万全」
モカが立ち上がる。ゲンジロウが顔を上げた。
「今夜やないんやったらこの格好する必要もなかったわ。今度からはもうちょっと正確な情報もらえる?」
モカは寝室へと歩み出した。途中、ユカの部屋の前で立ち止まり、そっと扉を開ける。ユカは穏やかに寝息を立てていた。
モカにとって報酬は問題ではない。この平和な生活こそが報酬なのだ。この安息が崩されるのならば、自分はいつだって裏切るだろう。ユカの前から姿を消すかもしれない。そうなった場合、ゲンジロウを殺すのか。そう問いかけて、いや、とモカは頭を振った。父親のいない苦悩、それをユカには味わわせたくない。モカはそっと扉を閉めて、自室に入った。コンタクトレンズを外し、髪を解いてから制服を脱いでパジャマに着替える。肋骨にかけて刻まれている「F」の傷痕を見やった。小さい頃、モカは手術したらしい。その痕がちょうど「F」の字になっているのだ。今でも残る傷痕を服の上からなぞり、モカは呟いた。
「この平和を、誰にも壊させへん」
モカの精神に呼応したのか、背後にいる蜃気楼が身じろぎする。モカは、「もうちょっと気性の穏やかなんがよかったわ」と息をついた。
「うちの心に反応してくれるのはええけど、敏感過ぎ。隠すのも一苦労やね」
バクフーンはゲンジロウが持っていたものを譲り受けたのでモカの制御下にあると言っても、モカとはまだ三年足らずしか共にしていない。そのせいか、たまにモカの意思とは無関係に出てこようとするのを、モカは必死に覚えた調教術と精神の強さで抑え込んでいた。
片手を繰ると蜃気楼が出てくる。もう一度、内側に繰ると戻る。これが基本動作だった。モカは蜃気楼を隠し、ベッドに寝転がった。バクフーンは熱で空間を歪めて身を隠すのだが、常態で熱を発していればすぐに気取られる。そのため、必要最低限の熱で隠すのに一番苦労した。真冬にモカの近くにいれば、少しは暖かいだろう。その程度まで力を抑え込む事にどれほどの鍛錬の日々を要したか。
モカはすぐに寝息を立て始めた。蜃気楼はずっと陽炎の中に隠れたまま、モカを見守っていた。