React Forever
「モカ。モーカ!」
自分を呼ぶ声にモカはしばらく惰眠を貪った。ハピナスの枕は最高に心地よく、モカの眠りを持続させてくれる。しかし、声の主である同居人はそうではなかった。
「起きなさい! モカ!」
掛け布団を引っぺがされ、モカは、「いやん」と丸まった。
「ユカったら、大胆なんやから」
「うっさいわね。あんたこそ、今日の朝御飯の番でしょうが」
「うぅん。今度ぉ」
「今度、じゃない!」
再び睡眠へと入ろうとしたモカの脳天へとチョップがかまされる。モカは蹲りながら、目の端に涙を溜めた。
「ひどいわぁ、ユカ。うち、なんもしとらんやん」
「何もしてないのがいけないんでしょう。ほら、さっさと寝巻きを着替える」
パジャマを引っ張るユカに抵抗しながら、モカは起き上がった。
「分かった。起きる。起きるよぉ」
モカは枕元にある眼鏡を引き寄せてかけた。そこでようやく同居人の姿にピントが合う。ユカは仁王立ちでショートカットの髪を揺らしていた。既に制服に着替えている。凛とした釣り目は自分とは対照的だ、とモカは感じる。モカは大きく伸びをして、「おはよぉ、ユカ」と呑気な声を出す。その脳天に再びチョップが飛ぶ。モカは避けきれず床にへたり込んだ。
「おはようじゃない! 今、何時だと思ってるの?」
ユカが目覚まし時計をモカの目の前へと突き出す。モカは気圧されたように目をぱちくりさせていたが、やがて、「うわっ!」と声を上げた。
「もう八時やん! どうして起こしてくれへんかったん?」
「起こしたわよ、何度も」とユカは憮然とした態度で口にする。モカは慌てて制服を引っ掴んで、「ユカは出て」と部屋から押し出した。
「ええ? 別に女同士だし、見ても減らないじゃん」
「プライベートっ!」という一言でユカを部屋から押し出してモカはパジャマを脱いだ。化粧台の鏡に自分の姿が反射する。腹部から肋骨にかけて「F」の傷痕が赤く浮き上がっていた。
火曜日はモカの朝食当番だ。それをすっかり失念していたモカは慌てて階段を駆け降りる最中、滑ってあわや額から落下、という事態を経験した。それを支えたのは先に歩いていたユカだ。
「馬鹿。あんた、朝から死にたいわけ?」
へたり込んだモカはえへへとしまりのない笑みを浮かべる。ユカはため息をついた。
「そんなんじゃ、社会生きていけないよ」
「えー、生きていけるよ。うちこれでも天体観測部の副部長やし」
「部長があたしで、副部長があんたの万年部員不足なだけじゃない。よく誇らしげに言えたものね」
ユカがあきれ返った様子で肩を竦める。その一部始終を見ていた男が朗らかに笑った。
「朝から元気だね、モカちゃん」
灰色の髪に眼鏡をつけている男は新聞紙を広げながらモカを見やる。モカは後頭部を掻いて、「えへへ」とまたしまりなく笑った。
「笑い事じゃないよ、お父さん。あたし達の朝御飯もないんだから」
いきり立って反発するユカに、ユカの父親であるゲンジロウは、「まぁまぁ」といさめる声を出す。
「いいじゃないか。たまにはコーヒーだけの朝食も悪くない」
ゲンジロウはカップを持ち上げながら二人に視線を向ける。モカが、「あっ!」と口を開いた。
「ごめんなさい、おじ様。そのコーヒー、昨日のです!」
「えっ」とゲンジロウがコーヒーカップを取り落とした。テーブルの上でコーヒーが零れ、ゲンジロウのワイシャツに滴る。
「あーあ、びしょびしょだよ」
「お父さん、大変。替えの持ってくるね」
ユカがぱたぱたと二階へと駆け出す。ゲンジロウはモカを見やり、「そういう事は早く言ってくれよ」と困った様子で口にした。
「酸っぱいな、とは思っていたんだけど、まさか昨日のだとは思わなくってね」
「ほんま、すいません! うち、作り直しますね」
モカがキッチンに立ち、コーヒーメーカーの中身を入れ替える。その途上で、「あっ、さっき温めなおしたから熱いよ」という助言が飛ぶ前に、モカが、「熱っ」と取り落とした。キッチンにコーヒーの液体が広がる。モカが慌てていると、ワイシャツの替えを持ってきたユカが、「もう!」と怒った声を出した。
「どうしてあんたはいつもそうなの?」
ユカの声に、「何でやろうねぇ?」とモカは心底不思議そうな声を出した。ユカが盛大にため息をつく。ゲンジロウは困惑の笑みを浮かべた。火曜日の、ククリ家の光景だった。
ユカ・ククリとは幼馴染で同級生であったモカは父親が仕事の都合で家を空ける事が多い中、昔からよく世話になっていた。ゲンジロウとモカの父親とも旧知の仲であり、モカの事はよくしてもらっていた。モカは半熟のベーコンエッグを即席で作り、二人に振る舞った。席についた後、「あれ、モカちゃん。自分の分は?」と言われて初めて、二人分しか作っていない事に気づいた。モカがしゅんと項垂れていると、「ベーコンあげるわよ」とユカが差し出す。「じゃあ、私はエッグを」と二人にカンパされ、モカは目を潤ませた。
「ありがとう、おじ様! ユカ!」
「これであたし達はエッグと」
「ベーコンになったわけだ」
ゲンジロウが朗らかに笑う。ユカが、「笑い事じゃないんだけどな」と言いつつ、目玉焼きを頬張った。モカは自分の皿に揃ったベーコンエッグを、「いっただきまーす」と食べた。すぐに平らげ、「ごちそうさま」と手を合わせる。
「相変わらず食うのと寝るのは早いわね」とユカが苦言を漏らすも、モカは、「そうやねぇ」と温和に返した。モカがため息をつく。
「どうしたん?」
モカがキッと顔を上げ、「あんたがあまりにもしまりがなくって困っているのよ」と告げられた。
「ほんまに? 困った人もいるもんやねぇ……」
「あんたの事でしょうが!」とユカが怒鳴ると、モカは、「そうかなぁ」と中空を見つめて頬杖をついた。その様子をユカが怪訝そうに、「あんたさぁ」と口を開く。
「なに?」
「もうちょっと張り詰めたほうがいいと思うけどね。ナマケロでもあんたよりかは俊敏よ」
「うち、ナマケロとおんなじなんかぁ」
「褒めてない!」
ユカがテーブルを叩いたのでモカは、「はい!」といい返事をして背筋をしゃんと伸ばした。ゲンジロウが新聞を眺めながら、「そういえば、学校は?」と促す。ユカがポケギアを見やり、「やっばい!」と立ち上がった。
「お父さん、後片付けよろしく」
「ああ、行っておいで」
ユカがモカの手を引いて連れ出そうとする。それをモカは強情に椅子に張り付いた。
「何やってんのよ、あんたは?」
「だって、まだ食後のブレンドコーヒー飲んでへんもん」
モカが頬を膨らませて抗議すると、「はぁ?」とユカは早口で今の状況を説明した。
「いい? 今、遅刻秒読みだし、朝御飯は大幅に遅れているし、そもそもあんたがコーヒーを取り替え忘れたせいでブレンドコーヒーは出来ていない! ここまでオーケー?」
ユカが首を傾げたので、モカも同じように傾げてみせる。その脳天にユカのチョップが飛んだ。一瞬だけ意識が飛んだモカを引きずってユカが玄関まで走り出す。
「行ってきます!」
「はーい。行ってらっしゃい」
ゲンジロウが新聞から顔を上げて片手を振った。
歩きながらふんふんと鼻歌を漏らすモカへと手を繋いだユカが振り返った。
「あんた、その癖やめな。子供っぽい。もう十五だよ?」
「えー、ええやん、別に」
モカが抗議すると、「いや、あんたがよくても」とユカは周囲を見渡した。駅の構内ではモカの鼻歌に振り返る人間ばかりだ。それもこれも、モカの鼻歌が大音量なのが原因なのだが本人には自覚はない。二人はヤマブキシティのローカル線のホームに立った。ポケギアを眺めたユカがため息をつく。
「……ああ、これは遅刻だわ。また怒られる」
「大変やね」
「誰のせいよ!」とユカがモカの脳天へと鋭いチョップをかます。モカは頭を押さえて蹲った。
「あんたみたいにとろいの、ホントに危ないんだからね。おまけに子供っぽいし」
ユカが腕を組んで不遜そうに口にすると、モカはしまりなく笑った。
「褒めてない!」とユカが蹴りつけると、モカが仰向けに倒れた。その様子を駅を行き交う人々が見やっている。さすがに恥ずかしくなったユカがモカへと手を差し出した。
「ほら、電車乗るよ」
ユカの手を取り、モカは、「はーい」と応じた。間もなくホームに滑り込んできた電車に乗り込み、「そういえば聞いた?」とユカが問いかけた。
「何が?」
「昨日の夜にリニアのほうの駅だけど、そこで事件があったんだって。ホラ、見てみな」
ユカが顎でしゃくって一段上にあるホームを示す。カントーとジョウトを結ぶリニアラインのホームが見えた。モカは呆然と、「ほうほう」と頷いた。
「ほうほう、って……。全然他人事じゃないのよ」
ユカが呆れた眼差しを送る。電車が動き出し、景色が流れた。ユカは吊り革に掴まりながら、「アブナイ奴が出たらしいよ」と潜めた声で発する。
「アブナイいうんは?」
「なんか、頭イかれてるんだって。犯罪者の兄弟、確か、キシ・サガラとあとは、誰だっけ? えっと――」
「ミシ・サガラ」
モカが口にすると、「そう、それ」とユカが指差してから怪訝そうな視線を向けた。
「何なん? ユカ」
モカが首を傾げると、「いや」とユカは顎に手を添えた。
「何であんたが知ってんのかなー、って思って。だって、朝早くのニュースでやっていた事だよ?」
モカの心臓が収縮する。それに呼応した背後の空間が身じろぎした。モカは密かに手首を押さえて脈拍を確認し、落ち着けと自身に言い聞かせる。二度深呼吸をすると、元の脈拍に戻っていた。
「最近は全部ネットなんよ。知らんの、ユカ」
片手を振って知ったかぶりの言葉を吐く。ユカは腕を組んで呻った後、「まぁ、ネット上では実名報道されてたし」と納得したようだった。モカは内心安堵の息をつく。背後にいる気配から荒ぶった気性が抜け落ちていく。やがて落ち着きを取り戻した胸の鼓動と背後の気配を感じ取り、モカは、「怖いねぇ」と口にした。
「確かに怖いわね。あんたみたいなの連れてると余計」
「それってどういう意味?」
モカが顔を振り向けると、「そういうところよ」と額を突かれた。モカが後ろによろめく。
「あんたみたいなの、真っ先に人質にされるわよ」
「えー、そうかなぁ」
「そうよ。『助けてー』って喚いたって知らないんだから」
ユカが言い捨てる。モカは、「そうかなぁ」と首を傾げた。背中まである長髪が揺れる。
「あんたは身だしなみもなっていない。あたしが整えないと外にだって出られないんだから」
ユカが指差して糾弾する。モカが、「でもこの制服着ていれば大丈夫やし」と返すと、「出不精ね」とユカが睨みを利かせた。
「あんた、どこまでだって制服で行くんでしょう?」
「ええ、うん。あかんの?」
「いけない事はないけど、あたし達だってオシャレの一つや二つはするべきだと思うわけ」
「うん」とモカは頷く。ユカは訝しげな眼差しを向けて、「ホントに分かっているのかしら」とため息をついた。
「あー、またため息ついた、ユカ。幸せ逃げてくよ」
「あんたに言われたくないわよ、万年幸薄娘」
ユカが片手を振ってモカの言葉をいなす。間もなくして目的の駅に辿り着いた。二人が通うヤマブキシティはシルフカンパニーのお膝元にあるスクールである。トレーナーズスクールと呼ばれているが、モカ達は既に卒業している。通っているスクールは一段階上の科目を重点的に行っている。タマムシ大学に行けるだけの学力をつけるためのお嬢様学校であった。しかし、昨今の情勢を鑑みて男女共学になって久しい。それでも女生徒のほうが多い。
二人は着くなり、教員から雷を落とされた。ユカは一通り怒られてからしゅんとしていたが、モカはけろりとした顔をしている。むしろ眠気覚ましにいいと言った様子に、「聞いているのですか!」とさらに怒鳴られる始末だ。モカは馬鹿正直に、「聞いてます!」といい返事を寄越す。
「だったら何故、毎週火曜日に遅れてくるのです?」
教員の詰問に、「それは……」と口ごもるユカに、「色々あるんです!」と返すモカ。ユカは呆れ果てて物も言えない。顔に手をやってしまったとでも言うような仕草をするユカを不思議そうに眺めているモカにさらに急転直下の雷が落ちた。
授業の半分を説教で終えられ他の生徒からしてみれば役得だろう。授業が終わると、「よくやるよなー、ククリとアネモニー」という囁き声が聞こえてくる。ユカは小さくなったが、モカは対して堪えていない様子で窓の外を眺めている。ユカが胡乱そうに、「何見てるの?」と訊いた。モカは、「星を探しているの」と答えた。
「パパの星」とモカは心底嬉しそうに語る。ユカは、「バッカじゃないの」と応じながらも微笑んだ。ユカはモカの父親がジョウトでの有人衛星の打ち上げに貢献した人間である事を知っている。このクラスどころか、ジョウト地方全体に知られていたが、当の本人であるモカと父親のユーリにはあまり関係のない事だった。モカはただ、父親が宇宙にいる事だけを信じていた。だから部活動にも熱が入る。
モカは授業のほとんどをぼんやりとノートも取らずに過ごし、放課後になって、「よし、放課後!」と立ち上がった。ユカが怪訝そうに、「またやるの?」と問いかける。モカは、「もちろん!」と答えた。放課後はモカが先導する役目だ。屋上に向かう階段を上り、備え付けられた天体望遠鏡を覗く。ユカは黄昏の空を眺めながら、「まだ夕方だってのに」とぼやくが、モカは早速一番星を見つけた。
「あっ、星!」と声を上げるモカに、ユカが返す。
「あのさぁ、モカ。言い難いんだけど、この活動やっぱ意味ないよ。モカのおじさんの衛星って何やっているのかも極秘なんでしょ? そんなもんがほいほい見れるわけないじゃん」
モカは望遠鏡から視線を外し、「むぅ」と呻った。
「信じれば見えるもん!」
「へいへい」と適当にあしらってユカは屋上に腰を下ろした。天体望遠鏡を熱心に覗くモカは、「明日こそは!」と叫ぶ。
「パパの星は、帰ってくるんやから」
モカは待ち望んでいた。
三年ほど前から定期通信が出来なくなった。
その時からだ。天文学にのめり込んだのは。
父親を近くに感じたくて、星を見る術を学んだ。それと同時に学んだものがモカにはあったのだが、それは決してユカには言えなかった。ユカだけは巻き込みたくない。その一心で、モカは細心の注意を払い、逆にそれ以外では砕けた様子を見せた。ユカはしかし、内心では気づいているのかもしれない。モカはいつも思う。モカの傍にいるものにユカが気づくのではないかと。モカの心に反応する獣であり、それは自分を彩る炎の翼だ。
夜を纏った自分に生えた羽。
どこまでもいける、どんな事でも出来る羽なのに父親の星にはどうしても届かない。モカは小さく呟いた。
「……どこに行ったん。うちだけの一番星」