Revival Fire
足音が重く、ずんと反響した。
反響という言葉を使うのは、いつ以来だろうか、とユーリは考える。
重力を感じた時点で、足音は反響するのだ。響き渡る、という感触も久しく経験していなかった身体が地球の重力を感じる。
ヘッドセットから絶えず、自分達の帰郷を祝福する声が聞こえる。重力に晒された声は宇宙空間よりも澱んで聞こえた。真空の海の中にあった状態の声というものは、もちろん空気を振動させないので声として認知されないのだが、純度が高かったように感じる。それだけ地球の大気が汚れていると感じる自分の精神状態に嫌気が差す。
宇宙空間ではノイズさえ、ある一定の響きを伴って美しく、まるで管楽器を震わせる甘美な音の誘惑に思えた。
地球についてインタビューを受ければ、自分は第一声に、「宇宙の音はジョウトの雅楽だが、地球の音はまるでカントーのラッシュアワーのようだ」と言うつもりである。
ジョウトが開発に乗り出した宇宙開発計画、その試作機が打ち上げられて早五年。五年間を衛星軌道で過ごし、ほとんど地球の常識とは無縁に生きてきた。それが今さらの不実のように脳裏に瞬き、ある一つの遣り残しを思い起こさせるのだ。宇宙に行ったら絶対に一年に一度は連絡を取る、という約束。それがこの三年、務められなかった。人類にとっては小さな、瑣末な出来事だろう。しかし、自分にとってはそうではない、とユーリは着地姿勢を取ろうとするポッドの中で考える。ユーリはそろそろ重力を感じられるぞ、と仲間達が色めき立つのを見た。現場監督者として、ユーリは忠告する。
「気を抜くな。ジョウトのロケット計画はこれからなんだ。俺達の無事の帰還、それが望まれている事だ」
堅苦しいユーリの言い分に同僚のイマガワが、「そう言わないでくださいよ」と肩を竦める。重力の井戸へと腹腔から吸い込まれていく感覚がする。尿意を催す時に近い。あるいは慣れない演壇に立った時の感覚か。しかし、ジョウト市民の代表という責任ある立場に幾度となく晒された今となっては慣れない演壇というものは想像しづらい。あるとすれば、と過ぎった想像に我ながら苦笑する。それを読み取ったイマガワが、「何ですか? ユーリさん」と茶化す声を出す。
「今から降下後の記者の質問攻めでも考えているんで?」
「馬鹿。そんなんじゃねぇよ、ユーリさんは」
イマガワの隣にいるトキサダが口を挟んだ。トキサダはしっかりとした人となりで信頼出来る。衛星軌道ミッションにおいても失敗はなかった。頼れる相棒として何度も窮地を救われた。
「娘さん、モカさんの事ですよね」
モカ、という懐かしい名前に覚えず頬が緩む。それを見透かしたイマガワが、「ユーリさん、顔に出てますよ」と笑った。
「そうか。出ていたか?」
ユーリは頬に触れようとしてヘルメットの硬い感触がごわごわとした手袋の先端に触れたのを感じ取った。まだ重力の虜になったとはいえ、地球に無事降下したわけではないのだ。それを自覚して、声を張り詰める。
「まだ終わっていない。私語は慎――」
「いいですよねぇ、娘さん。俺にもいたらな」
遮って放たれたイマガワの声に、「馬鹿。お前はまず相手を探せ」とトキサダが声を出す。ユーリは覚えず微笑んだ。窓の外、赤く染まる景色の中、縁取るように放たれた地球光が地平線を彩る。
「もう五年だ」
「モカちゃんは、今は?」
「十五歳くらいかな。スクールは卒業の年のはずだ」
「ポケモントレーナーですか?」
「トレーナー志望なら、十歳で旅立てるだろう」
イマガワの常識を疑うような声に、トキサダがいさめる。トキサダは顔を振り向けた。
「モカちゃんは、トレーナー志望で?」
かけられた疑問にユーリは首を横に振った。
「分からない。俺も父親だが、会う回数もまちまちでな。父親らしい事なんて何もしてやれていなかった」
「これからしてあげればいいじゃないですか」
イマガワの能天気とも取れる発言に、ユーリは苦笑を返した。普段は空気が読めない相手でもこういう時の発言では頼れるものがある。やはりこのチームでよかった、とユーリは噛み締めた。
五年に及ぶ衛星軌道での生活で自分達は変わってしまったかに思えたが、実のところは何も変わっていないのだ。それこそ子供の頃から、星を眺め、観測したあの日々から、何も。宇宙の生活で変わった事があったとすれば、二ヶ月前の来訪者だ。衛星軌道に物資を渡しに来た人間の中に変わった役職の人間がいた。
「そういえば、二ヶ月前から食事、変わったよな」
イマガワが声を発する。二ヶ月前の食料物資の調達以降、より地上に近い味の食卓が提供されるようになった。
「シルフカンパニー様様だな。いや、あれはデボンだったか?」
「確かシルフの社員だった。名前はヨシモトとか言ったか」
ユーリは二ヶ月前に来た小太りな男の事を思い出す。やけに横柄な態度で、自分達の提供する食品がいかに素晴らしいかを説いていた。ユーリには興味のない出来事の一つだったが、あの男の嫌味な顔立ちは今でも脳裏を離れない。
強化ガラスで隔てられた外の空間が赤く染まり、ヘッドセットから聞こえてくるのはカウントダウンと歓声の声だ。まだマスコミ内での内輪騒ぎに過ぎないが、いずれきちんと帰還すれば全地方に公表されるだろう。
ジョウトがついにやった、と。
しかし、その偉業はユーリにはあまり関係がない。ユーリはジョウト育ちなだけで、本来の国籍はイッシュである。ジョウト訛り、俗に言うコガネ弁も馴染まず、最もオーソドックスなカントーの言葉を学び、衛星軌道のパイロット候補生になれた。イッシュでの実務経験も大きかったのかもしれない。ホウエンの技術支援を受けてようやくの宇宙進出はジョウトにとっては悲願だ。きっと、馬鹿みたいに歓迎される。英雄ともてはやされるかもしれない。しかし、ユーリには何より欲しい言葉があった。
「俺は、モカにおかえりと言ってもらえればいいんだ」
「素朴ですねぇ」とイマガワが口にすると、トキサダがヘルメットを小突いた。
「馬鹿、親にとってはそれが一番なんだよ」
二人のやり取りを見ながら、ユーリは窓へと片手をついて呟いた。
「早く会いたいものだ。大きくなっているだろうな、
萌火」
『降下シークエンスに入ります。各員、対ショック姿勢』
父親としての呟きは、無粋なシステム音声に掻き消され、ユーリは息をついた。
タン、と足音が跳ねる。
ケイはモンスターボールをホルスターから引き抜き、左耳につけられているイヤホンからの定時連絡を聞いた。
『各員、モンスターボールのロックを解除。逃亡している指名手配犯、キシ・サガラ。ミシ・サガラ両名の捕獲を最優先。抵抗する場合はポケモンによる殺傷も許可する。繰り返す。指名手配犯、キシ・サガラ――』
「緊張しているのか、新入り」
先輩であるイシガキから声を振り掛けられ、ケイは引き結んだ唇から言葉を紡ぎ出した。
「そりゃ、緊張もします。相手は広域指名手配犯です。それに自分は、ポケモンによる訓練時間が十時間未満でして、その、うまく捕まえられるかどうか」
「少なくとも伝説のポケモンを捕まえるよりかは簡単だと思え」
イシガキが髭面を向けて口元に笑みを浮かべてみせる。先輩なりに気を遣ってくれているのだろう。ケイは少しばかり気が楽になるのを感じて、緊急射出ボタンに指をかけた。
「相手を、その、殺してしまった場合は……」
最悪のケースを口にすると、「今は考えるな」という声が返ってきた。
「特例措置なんだ。人間相手にポケモンを使う。ちょっと前、カントーの警察じゃ許されなかったような特例だ。それだけ相手の脅威度が高いと思え」
「でも……」
煮え切らないケイの態度にイシガキは走りながら、「何だお前、奴らに同情しているのか?」と尋ねた。覚えず反発の声を上げる。
「そんなわけが! だって、奴らは――」
その言葉から先を、先輩刑事であるイシガキの声が口元に人差し指を当てて遮る。ケイは硬直しかけた指に力を入れた。ケイ達が走っているのは駅の構内だ。ところどころに隠れるに適した場所がある。柱の影に身を隠し、きょどきょどと周囲を見渡している影を見つけた。刈り上げた頭に一部分だけ長くした青い髪が見える。キシ・サガラだ。ケイとイシガキは気取られないように歩み寄ろうとしたが、ケイはキシが抱えているものに注目した。そこにいたのはまだ十歳程度の、幼い少女だった。
「やめろ! キシ・サガラ!」
思わず飛び出してモンスターボールを突き出した。すると、キシが動き出し、近くのトイレへと少女と共に駆けていった。
「馬鹿野郎! みすみす……」
先輩刑事の声を聞きながらケイは駆け出し、「でも!」と声を張り上げる。
「あいつらポケモンでも人間でもお構いなしなんですよ。あんな小さい子じゃ」
「だから、余計に刺激しちゃいけないんだろうが!」
怒声が飛び、ケイはしゅんと項垂れた。このままではあの少女の運命は――。考えかけた最悪のシナリオにケイは歯噛みした。
キシ・サガラは弟であるミシ・サガラとの逃亡生活の中で学んだ事が一つある。
それは欲望のはけ口を常に持っておく事だ。それはポケモンでもいい、人間でもいい。出来るだけ弱々しい相手をじわじわといたぶり、自分の物にする快感。何物にも代えがたい欲求に従い、彼は男子トイレに途中で捕まえた幼女と共に入った。幼女は目を潤ませ、泣き声を上げようとしたが、キシが二つに割れた舌で首筋を舐め取った時、それは悲鳴へと変わった。悲鳴が身体を突き抜ける時、快感はすぐに訪れる。キシは、「誰も助けに来ないよ」と絶望的な言葉を吐きながら幼女を押し倒した。
「ボクだけが君を見てあげる……」
幼女の上着を脱がそうとしたその時、一陣の風が背後にかかった。今は冬のはずである。しかし、首筋に吹き抜けてきたのは汗が噴き出すような熱風だった。
思わず背後を振り返ったが何もいない。
「気のせいか……」とキシが今一度、行為に及ぼうとしたその時、黒い影が目の前を遮った。瞬間的な事に理解が追いつかず、何かが自分を蹴り付けて来た事しか分からない。キシは大の大人でありながら、簡単に突き飛ばされた。黒い影へと視線を向けようとすると、影は陽炎のようにベージュのトイレの壁と同化した。一瞬だけ見えたその姿は直立した鼬だ。黒い影に付随する火花が散る。その姿が消えたと思った瞬間には、新たな衝撃が見舞った。天井の通風孔からしなやかに何かが降り立ったのである。キシは、その何かへと視線を向けた。
黒い衣服を身にまとっている。髪を結っており、幼い顔立ちだったが少女のようだ。まるで死神のような黒い外套姿で、壁に突き飛ばされたキシの肩へと足蹴にした。少女には似合わぬ的確に人体の急所を狙った攻撃にキシは動けなくなった。戦慄く目を少女へと向ける。
少女は燃えるような赤い眼をしていた。
先ほど捕らえた幼女へと視線を配り、「そこで待っときなさい……」と個室トイレを顎でしゃくった。幼女は大人しく個室トイレに入ったが、まだ少女とキシを見やっている。少女はふぅと息をつく。見れば唇には紅が引かれており、芳しい薔薇の花のような吐息が漏れた。
「閉めとき……」
少女の言葉に幼女は従って扉を閉める。その直後、少女の背後で炎が迸った。「お前は……」と呻こうとしたキシへとさらに強く蹴りが見舞われる。
「黙りぃな。死ぬ時くらい、静かなほうがええやろ」
流暢なコガネ弁が紡ぎ出され、死神装束の少女へと天使の羽のように炎が纏わりついた。二方向に達した炎が最高潮の輝きを宿し、朱色の燐光を放った瞬間、キシの意識は炎熱の彼方に閉ざされた。
ケイは確かに悲鳴を聞いた。しかし、それは男の、キシのほうの声に思えた。イシガキと視線を交わし合い、「行くぞ」の号令も聞いたケイは男子トイレへと飛び込んだが、まず嗅覚に鋭い刺激があった。生き物の焼け焦げる強烈な臭いが鼻をつく。ケイが顔をしかめると、イシガキが先に回って、「こりゃ、酷いな……」と呟いた。あとから来たケイがその光景を視界に入れる。
男子トイレへと縫い止められたかのようにキシの焼死体があった。壁が融解しており、壁とキシの身体が一体化している。今までしてきた事の罰なのか、股間の部分が完全に焼け爛れていた。そしてこの現場には実行犯を示す証拠物件が一つ――。
「イシガキさん。これは……」
「ああ、俺達の熾天使だ」
キシの背中から脈打つように描かれた黒い灼熱の爪痕。捻れ、捲れた壁に一対の翼があった。ケイはそれに目を奪われていた。
通風孔から飛び出して、猿のように駆けずり回り、彼女は死神の如き黒い外套を脱ぎ捨てた。
途中で収納式の小さな小物入れに仕舞う。モンスターボールの収縮原理を利用した簡易型の収納器だ。コラッタの行き交う黴臭い通路を走りながら、彼女は髪を解き、赤いコンタクトレンズを取ってふわりと駅のホームへと降り立った。
目撃者はいないかに思えたが、対岸のホームにいた中年の男性が目を慄かせている。その姿が滑り込んできた電車に掻き消されたので一瞬の幻と思った事だろう。彼女は軽く手を振って、懐に入れておいた眼鏡を取り出した。眼鏡をかけて、世界のピントがしっかりと合った事を確認し、彼女は、ホームのアナウンスを聞いた。
「時間ぴったりやね」
ポケギアを確認しながら、彼女――モカ・アネモニーは微笑んだ。