Fate
家に帰ると張り手が頬を捉えた。シャクエンが床に転がり、オウミの怒声が響く。
「てめぇ、どこをほっつき歩いていやがった!」
オウミからしてみれば手駒が離れたと思ったのだろう。怒りはもっともである。しかし、シャクエンは答えなかった。
「ちょっと、出歩いていただけ……」
「嘘をつくな!」
オウミがシャクエンの腹を蹴り上げる。シャクエンは激しく咳き込んだ。鈍い痛みが同心円状に広がる。
「俺のポケギアでてめぇの位置なんて丸分かりなんだよ。タマムシで遊んでやがったな。今さらに色気づきやがって」
オウミがシャクエンの髪の毛を掴んで顔を引き上げさせる。「いいか?」と耳元で声が轟く。
「てめぇは俺のものだ! 炎魔の力を手に入れているのは俺だ! 自由意思なんてねぇんだよ。タマムシで誰と会っていやがった?」
「誰とも、会っていない」
「そうかよ。このアバズレが! 俺にだけ従っていればいいんだ!」
シャクエンの顔を殴りつけ、オウミが寝室へと戻っていく。シャクエンは鼻から垂れる血を拭いながら、蜃気楼が顔を出す気配が伝わってきた。
「まだだよ、蜃気楼」
シャクエンの怒りを吸い上げて蜃気楼が今にもオウミに襲いかかろうとしている。シャクエンはぐっと堪えた。
「まだ、その時じゃない」
ではいつがその時なのか。オウミを殺せる日は果たして訪れるのだろうか。もしかしたら、自分は一生飼い殺しのまま生きていくのではないか。反抗心を持っていても一瞬で消え行く松明と同じだ。シャクエンは決断を迫られた。この状況を打破するためには一つしかない。
オウミを殺す。でも、どうやって?
シャクエンは腫れた頬を晒してカムイの待つ噴水へと向かった。
カムイはシャクエンの顔を見るなり、「どうしたんだ」と歩み寄ってきた。シャクエンは全てを話す事に決めた。オウミと契約している事。両親を殺したのがオウミである事。オウミによって自分は飼い殺しにされている事。全てをカムイの家で語り終えたシャクエンは呆然としていた。口にしてしまえば何と自分の情けない事か。結局、何一つ成しえていない。両親の仇も、自分のやり場のない怒りも。カムイは黙って聞いていたが、やがて一言発した。
「俺がオウミを殺すよ」
シャクエンは首を横に振った。
「あなただけじゃ多分無理。あれでもオウミは犯罪のエキスパートだから。私達二人で、同時に殺そうとすればあるいは」
「いや、シャクエンをこれ以上、オウミの前に出したくない」
光を湛えた眼差しでカムイが告げる。それは心の底から感じているのだろう。カムイは強く頷いて左胸に拳を当てた。
「大丈夫。俺は強いから」
「だから、不安なの」
シャクエンの声にカムイは、「不安?」と聞き返す。
「そういう人ほど命を落としやすい。あなたも暗殺をやっているのなら分かっているでしょう? 必ず仕留められる自信なんてない。いつだって綱渡りの危険性と戦っている」
シャクエンの弱気な言葉に、カムイは頭を振って、シャクエンを抱き寄せた。突然の事に、シャクエンは戸惑う声を上げる。
「カムイ君……?」
「大丈夫。俺が守るから」
抱き締める力を強くしてカムイは決意の言葉を発した。身体を離し、シャクエンに語り聞かせる。
「俺もさ、両親が殺されたんだ」
その告白にシャクエンは目を見開いた。カムイは目を伏せて続ける。
「幻魔の能力は不気味だから、色んな人間から迫害を受けた。同業者からも侮蔑されてね。俺は、両親から幻魔の名前をもらう前に独り立ちするしかなかった。自分で幻魔の能力を磨いて、この世界で居場所を見つけるしかなかったんだ。だからかな。シャクエン、君と似ているような気がしたのは」
カムイは自分と同じなのだ。この世界に行き場がなく、戻る事も進む事も出来ずに、間違った道へと進んでしまった。それを正してくれる大人もおらず、子供である自分達は誰かに従うしかない。
「でも、もう終わりにしよう。鎖を断ち切る時が来たんだ。シャクエン」
カムイは紅玉の耳飾りを取り出した。それを優しく掌で包んで、「帰ってくるよ」と口にした。
「必ず帰ってくるから。君には、もう一つの耳飾りをつけて待っていて欲しい。大丈夫。俺は無敵だ」
最後は茶化して笑ってみせたが、シャクエンは不安を拭えず、カムイにすがりついた。カムイは優しくその背中を撫でる。
「不安なの」
「分かるよ」
「行かないで」
「駄目だ。俺は行くよ」
シャクエンは首を横に振った。カムイだけを行かせたくない。二人で仕掛ければ勝てる、と言いたかったが、カムイの決意は固かった。
「オウミを殺して、シャクエン、君はようやく自分の人生を生き始めるんだ。その時は……」
カムイが頬を掻いて目を泳がせる。シャクエンが不思議そうに見つめていると、「その時はさ」とカムイが言った。
「俺と一緒に歩まないか? この家からスタートしよう。俺達の、人生を」
シャクエンは顔が紅潮するのを感じた。カムイも頬を赤らめている。幾ばくかの逡巡の後、シャクエンは頷いた。
「よかった」とカムイが声に出す。
「断られたらどうしようかと思っていた」
「絶対に失敗しないんじゃないの?」
「それはチャーハンの話。暗殺の腕は一流だけど、レンアイとかは、その、よく分からないからさ」
使い慣れていない言葉が浮き上がっているのを感じてシャクエンは微笑んだ。カムイがその笑顔を見て、「いつでも、その微笑みを絶やさないようにしてあげるよ」と言葉にした。
シャクエンは首肯して、「待ってる」と呟いた。
「ずっと、待ってるから」
「そんなに待たせないよ。俺は強いからさ」
笑みを交わし合い、二人はお互いの温度を確かめ合った。