Friends
シャクエンは行為を終えてからオウミに訊いていた。
一時の興味だったのかもしれないし、きっと気紛れだったのだろう。いつものように心と身体を切り離してオウミを受け入れた後、シャクエンは薄い掛け布団で肩を抱きながら声に出していた。
「幻魔について、警察はどこまで知っているの?」
意想外の言葉だったのだろう。ベッドの脇に座っていたオウミは顔を向けた。シャクエンの顔色を窺おうとする。何かを企んでいるのか、と訝しげに覗き込む。シャクエンは無表情を返した。
「答えて」
「どうして急にそんな事を訊く?」
脳裏には昨夜出会ったカムイと名乗る幻魔の姿があったが、それと悟られぬように、「別に」と応じた。
「これから先、私を殺しに来るのならば情報は多いほうがいい」
シャクエンの声にオウミは口元を歪めた。
「何だ、お前。返り討ちにするつもりか?」
シャクエンはベッドの中で首肯する。オウミは、「やめておけ」と忠告した。
「どうして?」
「暗殺者同士が関わりあってろくな事があるかよ。俺は警察内部から幻魔を追う。お前に危害は加えさせない。虎の子だ、大事にするさ」
「でも向こうのほうが一手早いかもしれない」
事実、昨夜接触してきた事をオウミは知らない。オウミは煙草に火を点けながら、鼻を鳴らす。
「そんな事はないだろ。まぁ、向こうにも、俺と同じくバックアップがついているんなら別だが、単身でお前と会おうなんて思わないはずさ」
「それは、何で?」
「そこまで命知らずじゃないだろ。炎魔の名は轟いている。いくら相手が幻魔とあっても、お前を殺す事なんて出来ねぇ」
俺が保障する、とオウミは付け加えた。シャクエンはそこまでの強さは自分にはないと冷静に分析していた。幻魔の手腕を目の前で見せ付けられた。人間の認識を操る能力。加えてポケモンへの変身、いや、あれはどうなのだ? とシャクエンは自問した。カムイは、確かに浮世離れしたところはある。しかし、まさか――、とシャクエンは浮かんだ疑問を振り払った。そのようなはずはない、と感じたからだ。
「他人の話をするのは珍しいな」
オウミの声に現実へと引き戻される。シャクエンは、「そんな事はない」と応じた。
「命を狙われているとなれば、無関心ではいられない」
「なるほどね。俺はそんな事、考えた事もないな」
煙草をくわえながら発せられた声にシャクエンは目を向けた。この男は両親を殺しておいてのうのうと生きているのだ。しかも、自分がシャクエンに命を狙われていないと思い込んでいる。おめでたいのか、それともシャクエンを封じる術を持っているのか。きっと後者であろうとシャクエンは感じた。この男の余裕は見せかけではない。常に何かしらの策を講じている男だ。シャクエンを敵に回しても勝てる算段があるという事だろう。シャクエンは歯噛みした。オウミに勝てない。勝つためには、と脳裏にカムイの姿が過ぎった。
慌てて頭を振る。何を考えているのだ、自分は。カムイに何を期待している。出会ったばかりの、お互いに暗殺者の関係。明日には命のやり取りをする間になるかもしれない。そんな人間を当てにしてどうする。オウミが立ち上がり、部屋を出て行く。シャクエンは上体を起こして、額を押さえた。
「変な気は起こさないほうがいい、シャクエン」
そう自分に言い聞かせて、シャクエンは目を瞑った。
タマムシシティ中央に程近い噴水に行くと、ベンチに見知った影を見つけた。シャクエンは声を出そうとすると、向こうがシャクエンを見つけて手を振る。
「やぁ」とカムイが立ち上がって、シャクエンへと歩み寄った。シャクエンは、「呆れた」と口にしていた。
「どうして?」
「本当にこんな人目のあるところにいるなんて」
「俺の能力、忘れた?」
首を引っ込めるカムイに対して、シャクエンはため息を漏らす。
「認識を操る能力でしょ」
「そう。俺はここにあってここにいない。そういう能力だ」
なるほど。認識を操るのならば、むしろ人気のある場所のほうがいい。木を隠すならば森の中というわけだ。
「それでも、暗殺者が馬鹿みたいに出歩くのはおかしい」
「君だってそうだろう? どうしてタマムシまで来た? 君が派手に暴れているのはヤマブキだろ」
「馬鹿が本当に馬鹿なのか確認しに来たのよ」
シャクエンはそう告げて身を翻そうとした。その背へと声がかかる。
「ちょっと、待って。今はお互い、非番だろ」
肩越しに視線を向けて、「そうだけど」と返す。カムイは、「だったら」と温和に言った。
「ちょっと買い物でもしない? せっかくタマムシに来たんだからさ」
「悪いけど、ナンパなら他所でして。私はそんな簡単に引っかかるような女じゃない」
突き放すシャクエンの声に、「うーん」とカムイは呻った。
「そういう子ほど楽しんでくれるんだけどな」
シャクエンはため息をついて、「馬鹿馬鹿しい」と呟く。
「殺し屋が娯楽だなんて」
「娯楽がなきゃ、人間、生きていけないよ。まぁ、ちょっとデパートまで行こう」
シャクエンの腕を掴んでカムイが歩き出す。その手を振り払おうとしたが、シャクエンはカムイの微笑みに毒気を抜かれたようになった。まるで自分が殺すなど考えていない顔だ。シャクエンは振り払おうとした手を緩めて、黙ってついていく事にした。タマムシデパートの三階へとカムイは連れて行った。つい先日、人殺しをした場所に犯人が現れるなどありえない。シャクエンは耳打ちした。
「何を考えているの? もし監視カメラに映っていたのを照合されたら――」
「俺がそんなミスをすると思う?」
遮って返された声にシャクエンは唖然とするしかなかった。カムイは笑って、「大丈夫」と口にする。
「普通の人のように、普通にショッピングしよう。何も気兼ねする必要ないんだ」
カムイの言葉通り、二人は何のお咎めもなく三階に辿り着いた。シャクエンが落ち着きなく周囲に警戒を向けていると、「そんなに張り詰めていると、逆に目立つよ」とカムイが告げた。
「これなんてどう? 君に似合いそうだ」
カムイが手に取ったのは紅玉の耳飾りだった。シャクエンは戸惑った。
「そんな、高そうなもの」
「買えるでしょ? 報酬があるんだし」
「それは、そうだけど……」
手の届かない品というわけではない。しかし、いつかのオウミの暴力の記憶が思い出されてシャクエンは躊躇う。
「勝手に嗜好品なんて買ったら」
「嗜好品がなくってこの仕事どうするの? 欲しい物は買う。自分で稼いだ金だ。何も遠慮する必要はない」
カムイは耳飾りを一対買って、片方をシャクエンへと手渡した。シャクエンは当惑の眼差しを向ける。
「何?」
「プレゼント」
カムイがシャクエンの手に握らせる。シャクエンは眉間に皺を刻んだ。
「こんなもので取り入ろうなんて……」
「いや、俺が渡したいだけだから。似合っている姿が見たい」
カムイの言葉にシャクエンは顔を背けた。
「気色悪い」
「そう言わないでさ。別に減るもんじゃないだろ」
それはそうだが、と口中で濁していると、「じゃあ、次だ」とカムイがシャクエンの手を引いた。シャクエンは突然の事につんのめる。
「何、どこ行くの?」
「ゲームコーナーだよ。タマムシに来たんなら行かなきゃ。勿体ないよ」
手を引くカムイをシャクエンは振り解いた。カムイが片手を彷徨わせる。
「遊びに来たんじゃない」
「じゃあ、何しに?」
「それは……」
シャクエンは返事に窮する。カムイが本当にここにいるのか確かめに来たのだ。自分を殺すつもりがないかどうかの確認のために。何か妙な気を起こせば返り討ちにするように。
カムイはしかし、そんなシャクエンの企みなどまるで意に介せぬように、「来なよ」と片手を差し出した。
「俺を信じて」
シャクエンはその手へと視線を落とした。信じる。久しく聞いていない言葉だった。今まで自分は誰を信じてきたのか。頼るところなど何もない生活をしてきた。自分の力だけを唯一信じられるものとして扱ってきた。オウミをいつか殺す。それだけが明日へと向かう原動力だった。信じる、などという甘い言葉は必要なかったのだ。だが、この時、シャクエンは胸の内に何か温かな灯火が宿ったのを感じた。それが何なのか。正体を探る前に、カムイの強引な手がシャクエンの手を掴んだ。
「行こう」
その言葉に導かれるように二人はデパートを出て、ゲームコーナーへと向かった。煌びやかな装飾の施されたゲームコーナーには一度として立ち入った事がない。カムイはスロットをやって見せた。しかし、何度やっても当たらない。外れる度に本当に悔しそうな声を上げる。
シャクエンは暗殺者の目を使えば簡単に当てられるのに、と思いながらその後姿を眺めていた。カムイが、「やってみる?」と促した。シャクエンは戸惑ったが、カムイと入れ替わりにスロットの前に立った。スロットの回転はシャクエンからしてみれば生温い。すぐにスリーセブンを当てて、大量にコインが吐き出された。それを見て我が事のようにカムイが手を叩く。
「すごい! すごいね、君」
シャクエンは恥じ入るように顔を伏せた。カムイは当てたコインを使って、景品と交換した。いくつかの食品と交換し、あとは自分の手持ちにする。袋を持って、二人はゲームコーナーを出た。シャクエンは少し疲れていた。暗殺には全く体力を使わないというのに、この疲れようは異常だ、と額の汗を拭う。
「疲れた?」
そんなシャクエンの心を見抜いたかのようにカムイが顔を覗き込む。「少し」と返すと、「じゃあ、俺んちで休むか」と言った。
「あなたの、家……?」
「そう。すぐそこなんだ。そのビルの向こう」
指差したのはビルが固まりになって群生している場所だった。カムイは途中までビルの一つにあるエレベーターを使って昇ったが、途中から明らかに違法につけられた鉄製の階段を上った。シャクエンは強度を気にしながら一歩一歩不安げに上る。カムイは慣れたもので猿のように軽快に上って荷物を置いてからシャクエンへと手を伸ばした。シャクエンはその手を掴み、ゆっくりと上り詰める。ビルの群生地の中央にまるで鳥の巣のように鉄製の家があった。
「すごい。隠れ家みたい」
シャクエンが口にすると、「みたいじゃなくって、そうなんだ」とカムイは得意気だ。シャクエンは壁に手をつきながら慎重に進んでいると、「重たいポケモンが来なければ大丈夫だよ」とカムイが口にした。
「連れているポケモンなら、大丈夫さ」
カムイの言葉にシャクエンは目を見開いた。
「気づいていたの?」
「そりゃ、暗殺者の端くれだから気配ぐらいはね。それにあの時、一撃ももらった」
デパートでの一件を思い出し、シャクエンは、「あれは事故みたいなもので」と言っていた。何で気を遣っているのだろう、と冷静に考える自分がいる。
「いいって。俺だってターゲットがかち合った暗殺者がいればああしている。あれで正解だよ」
カムイは床に胡坐を掻いた。ゲームコーナーで交換した食品を広げて、「まぁ、ぱぁっと行こう」と両手を掲げた。シャクエンが微かに笑う。
「ほとんど私のコインで交換したものじゃない」
皮肉を口にすると、カムイは柔らかく微笑んだ。その笑みの意味が分からず、シャクエンは首を傾げる。
「何?」
「いや、ようやく笑ってくれたな、って思って」
シャクエンはハッとして頬に触れる。笑った自覚などなかった。この稼業に身を置いてから笑う事などなかったというのに。どうして今、笑えたのか?
「私、何で……」
「楽しいからでしょ」
「楽、しい?」
楽しいという感情は何なのだろう。シャクエンには判然としなかった。「まぁ、座って」とカムイが促す。
「簡単なものなら作れるよ。何がいい?」
食材を取り出しながらカムイが尋ねる。シャクエンは料理の名前などほとんど知らなかったので、「じゃあ、何でも」と答えた。カムイが顔をしかめる。
「作る側からしてみれば、何でもってのが一番困るオーダーなんだよね」
「あっ、ごめんなさい」
頭を下げるとカムイは、「いいって」と片手を振った。
「じゃあ俺の得意なチャーハン。これなら失敗しないって自信がある」
どこからガスを引いてきているのか、カムイはフライパンを熱して油を引いた。卵を焼いてから炊かれた白米を取り出す。シャクエンは何となく居心地の悪さを感じていた。本当に自分がこの場にいていいのだろうか。さりげなく尋ねてみる。
「私、夕飯までご馳走になるつもりは」
「うん? いいって、いいって。一人分が二人分になるだけだし。俺はいつも二人分くらいなら食べるから変わらないよ」
カムイはそう言って手早く食材を盛り付け、チャーハンを仕上げた。ほくほくと湯気の上がったチャーハンを見下ろし、カムイは床に座る。「机がないのが申し訳ないけれど」とカムイは苦笑した。シャクエンが呆然としていると、床に置かれたチャーハンを見やり、「どうかした?」とカムイが訊く。
「ううん。なんでも」
「じゃあ、食べようか。いただきます」
シャクエンはチャーハンを口に含んだ。もしかしたら毒が盛ってあるかもしれない。その可能性も視野に入れる。毒に対するある程度の耐性はあるので舌先で分かる。しかし、熱いだけで毒の感触はなかった。そのまま味わうとシャクエンは口元に手をやった。
「おいしい……」
「でしょ? 俺の自信作。これなら絶対ミスらない。暗殺はミスっても、これは百パー。俺の信じられる絶対だよ」
「暗殺をミスしちゃ駄目じゃない」
シャクエンが思わず口元を綻ばせる。「だよね」とカムイも微笑む。シャクエンはチャーハンをあっという間に平らげた。カムイも食べ終えてほとんど二人同時に、「ごちそうさま」と言う。
「おいしかった」
いつも口にしている冷凍食品やレトルトとは大違いだ。カムイが天井を仰ぐ。「面白いものが見られるよ」と天井を指差した。シャクエンも目を向けると、満天の星空が小窓越しに覗いていた。星が流れる。シャクエンは思わずうっとりと口にしていた。
「綺麗……」
「うん、綺麗だ。夏場は大変だけどね。小窓から灼熱の太陽が床を焼いちゃうから」
そのようなエピソードもシャクエンには微笑ましく感じられた。自分にはないものがカムイにはある。オウミの部屋には問題など全くない。整えられた調度品に、温度湿度が整えられた部屋。今にして思えばまるで監獄のようだ。この部屋がそれだけ自由に見えたという事なのだろう。シャクエンは覚えず、「羨ましいな」と呟いていた。
「ここは、何だかすごく遠い場所のような気がする」
自分の生きてきた場所からはかけ離れた、どこでもない自由な場所。それがここのような、とシャクエンは部屋を仰ぎ見た。カムイは、「別にいつだって来ていいんだ」と口にする。
「君なら大歓迎だよ」
カムイの言葉にシャクエンは、「いつでもは無理よ」と首を振った。左手首のポケギアを押さえて、「私には首輪がついているから」と呟く。顔を伏せていると、「そんなもの、振り払っちゃえばいいんだ」とカムイが言い放つ。
「君にはそれだけの力があるだろ」
指差してカムイがシャクエンに言った。シャクエンは胸元に手をやりながら、「私の、力……」と口中に呟く。
「そうだよ。炎魔の力は誰かに縛られるもんじゃないだろ」
「でも、私達は誰かに依存するしか生きる術はない」
「自分で探せばいいんだよ。どう生きるかなんて」
シャクエンはカムイを見やり、「あなたは、自由に生きているように見える。私とは違うように」と言葉を発した。カムイはしばらく呻ってから、「そうでもないよ」と返す。
「俺だってしがらみはある。暗殺業やっているんだから、斡旋してくる連中には頭が上がらないし、正直な話、金になびく。その程度の奴なんだよ、俺は」
「私には、そうは見えない」
シャクエンの感想にカムイは口元を斜めにした。
「買い被り過ぎだよ。俺は、大した事なんてないんだ」
カムイは天井を仰ぎ、「こっちに来てみな」とシャクエンを手招いた。シャクエンはカムイの隣に移動する。カムイの視線の先を見つめると、流れ星が小窓から覗いた。暗闇に青い光の軌跡を残していく。
「こんな風景、見た事ない」
「すぅっと流れるんだ。毎日見ていても飽きないよ」
カムイが指先で流れ星の道筋を辿る。シャクエンがその指先の行き着く先を見つめていると、カムイと目が合った。カムイは真っ直ぐにシャクエンを見つめ返す。シャクエンは言葉をなくしていた。カムイがそっと顔を近づける。唇が触れるかに思われた瞬間、シャクエンの脳裏にオウミの顔が浮かび上がった。覚えず、シャクエンはカムイを突き飛ばしていた。
「――駄目」
シャクエンは立ち上がり、「そういうつもりなら、私は帰る」と踵を返した。カムイが声を投げる。
「待ってよ。俺は別に、そんなつもりでここに誘ったわけじゃない」
「知らない。もう、何も言わないで」
結局、男などオウミと同じなのだ。シャクエンに群がってくるに過ぎない。扉を開けて出ようとすると、「一つだけ!」と声が響いた。足を止める。
「一つだけ聞かせて欲しい。君の名前は?」
応じるべきか迷ったが、シャクエンは答えていた。
「シャクエン」
「シャクエンか。またいつでも来てよ」
「もう来ない」
冷たく言い置いてシャクエンはその場を去った。