Freeze
シャクエンはオウミから預かった生活費を握って、タマムシデパートに赴いていた。
今日は暗殺業ではない。ただ純粋に自分が生活する分の食料の調達である。オウミは一ヶ月に一度、こうして買い物をする機会を与えてくれる。しかし、それでも首輪が付けられているのは変わりなかった。散財する事も、余計な物に手を出す事も許されていない。一度、シャクエンが流行りのキャラクター物に手を出した時、オウミはシャクエンをこっぴどく叱り折檻した。
「誰が嗜好品を買えと言った? 俺は食料を買って来いと言ったんだ」
その言葉が今でもシャクエンの内側に残っている。だからシャクエンは足りないものをリストアップし、最低限度必要なものだけを買うように心がけていた。とは言ってもオウミは酒を飲むし、煙草も吸う。シャクエンが買うのはそれらとは違う、レトルト食品や食材、調味料などである。オウミは自分の嗜好品には出し惜しみをしないくせにシャクエンの物にはケチをつける。だから、シャクエンは自然と物欲というものがなくなっていた。今も、レトルトのカレーのコーナーに目を通している。特売のカレーの箱へと手を伸ばすと、横合いから手が伸びてきた。シャクエンの手に触れたので、顔を上げる。
その瞬間、目を見開いた。
目の前に現れたのは先日の少年であり、幻魔であったからだ。今日も紫色のパーカーを着込んでいる。目深に被ったフードを取って、「やぁ」と朗らかな声を出す。シャクエンは覚えず戦闘時の構えを取り、後ずさった。それを見た幻魔が、「待った、待ってくれよ」と口を開いた。
「俺は戦いに来たんじゃないんだ」
「戦いじゃ、ないって? 幻魔は正体を見た者を必ず殺すと聞いたけれど」
「ああ、幻魔だってばれてんのか。まぁ、それなら話が早い」
幻魔は頭を掻いた。見れば赤い髪の毛である。シャクエンを指差し、「君は炎魔だろう?」と尋ねた。シャクエンは目を見開いて身を強張らせる。
「どうして……」
「炎のポケモンの使い手である暗殺者はそう多くない。加えて今のカントーを騒がせているのは君だ」
シャクエンは舌を打って片手を繰ろうとした。蜃気楼の炎熱で一瞬のうちに殺すしかない。そう断じたのである。しかし、幻魔は両手を振った。
「待った、待った。戦う気はない。俺は君に興味があるんだ」
「興味?」
シャクエンが怪訝そうに聞き返すと、「そう」と幻魔はフードを再び被った。
「買い物が終わってからでいい。デパートの前で落ち合おう」
幻魔は身を翻して去っていく。シャクエンは狐につままれたような気持ちでその場に立ち尽くした。今の出来事は現実なのか。シャクエンは我に帰ってカレーの箱を手に取り、レジへと向かった。買い物袋を抱えて、デパートの正面へと向かう。少年がその場で待っていた。シャクエンは警戒を解かず、「何のつもりだ」と声を発した。
「何のつもりでもないよ。ただ君と話がしたいだけだ」
「話……?」
シャクエンには意味が分からず胡乱そうに見つめる。幻魔は、「とりあえず、あそこに座ろう」と噴水の近くにあるベンチを指差した。シャクエンはいつでも蜃気楼を繰り出せるように身構えながらベンチへと歩く。幻魔がベンチに座った。幻魔が隣を叩く。シャクエンはゆっくりと隣に座った。頭の片隅では幻魔の能力を探ろうとしている。これも作戦のうちなのか。正体を知った人間を抹殺するための準備段階なのか。その思案に差し込むように、幻魔は口にした。
「君は炎魔だ」
シャクエンは今さら否定する気にもなれなかった。どうせこの後には殺すのだ。
「そう。あなたは幻魔」
「その通り。俺は幻魔。まさかターゲットがかち合うなんてね。お互いに損な役回りだよ」
幻魔は空を仰いだ。東の空が暗くなりかけている。幻魔の言葉にシャクエンは首を傾げた。
「そちらからしても想定外だった?」
「ああ」と幻魔は頷き、シャクエンを真っ直ぐに見た。
「今まではこんな事はなかったんだけど」
「それは、あなたが目撃者を消してきたから」
シャクエンの言葉に幻魔は何度か頷き、「そうだ」と言った。
「俺の正体が露見する事はなかった。でも、君ならば多分俺の正体を知っても売ろうとは思わないと感じた」
「それは、どうして?」
幻魔はシャクエンを指差し、「君もまた、俺と変わらないからだ」と言い放つ。シャクエンは眉をひそめた。
「そうかしら」
「そうさ。俺達はみんな、割り食って生きている。君だって自由意思で殺しをしているわけじゃない」
「どうしてそんな事が分かる?」
「目を見れば分かるよ」
幻魔の言葉にシャクエンは戸惑った。真っ直ぐに見つめてくる眼差しには嘘のにおいは感じられない。本気で言っている。そう思うと、滑稽であるが、同時に本気なのだと伝わった。
「私の目を見たって分からない」
シャクエンが顔を伏せると、幻魔は、「ちょっと待ってな」と片手を上げた。シャクエンが小首を傾げていると、幻魔は指を鳴らした。
その瞬間、行き交う人々が消え、タイル敷きの地面が視界から消え去った。代わりに現れたのは一面の花園だった。蝶が舞い、陽光が降り注いでいる。先ほどまで夕刻だったはずなのに。シャクエンが当惑の眼差しを周囲に注いでいると、「俺の能力」と幻魔は告げた。
「イリュージョン。人間の認識を狂わせる事が出来る。実際には――」
幻魔が指を鳴らすと、元のタマムシシティの街並みが戻った。人々が忙しなく行き交い、タイル敷きの無機質な地面が広がっている。空を仰ぐと既に月が見えていた。
「何も変わっていない。一瞬の幻さ。認識を狂わせ、人々を幻で惑わせる。だから幻魔」
幻魔が口元に笑みを浮かばせる。それは自嘲の笑みか、それとも自分の能力を誇示した意味か。シャクエンには分かりえなかった。ほとんどオウミとしか接していない自分には他人の感情を推し量る事が出来ない。幻魔は、「君が炎魔である由来って?」と尋ねた。シャクエンは顔を背けて、「大した事じゃないわ」と告げる。
「人を焼く、一瞬の灼熱。炎の魔物。だから炎魔」
口に出してしまえば何て事はない、ただの人殺しだ。シャクエンは自嘲しようとして、「でも、君はそれだけじゃない」という声に遮られた。
顔を上げると、幻魔が周囲の人々を見渡していた。
「この中で、俺達が暗殺をしているなんて想像出来る奴なんてどれだけいるだろう。きっと、片手で数えるまでもないだろうさ」
シャクエンは行き交う人々に目を配る。日々を謳歌し、安息を享受する人々。彼らの頭上に不安として圧し掛かる存在が自分達であろう。だが、彼らは安息を貪っている間は決して暗い世界に踏み込む事はない。安息というレールから足を外した瞬間、藪の中の獣が襲いかかる。その獣が自分達だ。
「そうね。それは同感だわ」
「だろ?」と得意そうに幻魔は言う。シャクエンは幻魔の狙いが掴めなかった。何のつもりで自分に接触してきているのだろう。そろそろはっきりさせたいところだった。
「何のつもり?」
訊くと、幻魔は、「えっ?」と間抜けに聞き返す。シャクエンは苛立ちを含んだ声音で、「私を殺そうと思ったんでしょう」と言った。
「幻魔の正体を知った者は殺される。この業界じゃ有名らしいわね」
シャクエンは自分でも驚くほど冷たい声になっていた。既に戦闘の域に自分を引き込もうとしている。しかし、幻魔からは殺気が微塵にも感じられなかった。幻魔はこめかみを掻きながら、「そうだなぁ」と声を出す。
「普通なら、そうするだろうな」
「普通なら?」
「君は、普通とは違う」
幻魔がシャクエンの前に立つ。シャクエンは座ったまま幻魔を見上げた。よくよく見れば、幻魔の眼は翡翠のような碧眼であった。
「私が? 普通と?」
その言葉を繰り返すと内側から笑いがこみ上げてきた。くっくっと肩を揺らすと、幻魔も口元に笑みを浮かべた。
「俺も普通じゃない」
「言うまでもない事ね」
「ああ、だが、そういう意味だけじゃないんだ。君は何となく俺に似ている。だから、殺すのはよしておいた」
「何の目的で?」
シャクエンはそれでも幻魔が自分に何かしらの利益を求めて近づいてきているのだと疑わなかった。この世の何も信用ならない。信用すれば足元をすくわれる。
「何の、って……」
幻魔は顎に手を添える。心底考え込んでいるような素振りをする。それすら演技、幻かもしれない。そうシャクエンは感じた。
「理由がなきゃ、いけないかな」
「少なくとも納得は出来ないわね」
シャクエンは立ち上がり、買い物袋を掲げた。
「もう帰らないと」
「ああ。誰か家に待たせているの?」
幻魔の問いかけにシャクエンは顔を翳らせた。
「……待っていない。誰も」
待っていても、それは両親を殺した人間だ。いずれは殺さねばならない。シャクエンの声音に思うところがあったのか、幻魔は、「ふぅん」と訳知り顔で口にした。
「何よ」
「いや、俺は別に……」
幻魔は目を逸らして中空を見つめる。シャクエンは歩き出した。幻魔はその背中に声をかける。
「待ってくれよ。せめて名前くらいは――」
「必要ない」
断固として発した声に幻魔は声を詰まらせたようだった。名乗るほどの名前もない。炎魔で充分だ。シャクエンが立ち去ろうとすると、幻魔が背中に言葉を投げた。
「俺はカムイ。いつもこの時間はここにいるから。また気が向いたら来てくれよ」
カムイ、と名乗った幻魔に対してシャクエンは名乗り返さなかった。
「そんな暇はお互いにないと思うけど」
そう冷たい声を言い置いてシャクエンはタマムシシティを後にした。