Failure
シャクエンは制服姿でタマムシシティのデパートに赴いていた。傍から見れば学校帰りに遊びに来たようにしか見えないだろう。しかしシャクエンにとってこれは遊びでも何でもない。仕事の一部だ。昨夜、オウミから連絡が入った。
「タマムシデパートに午後八時に向かえ。そこにターゲットがいる。名前はニシキ。四十五歳。写真を渡しておくぜ」
オウミはテーブルに封筒と共に写真を置いておいた。シャクエンはそれを受け取って、ターゲットの顔を確認する。純朴そうな男だった。オウミの話によれば、何度も殺人を重ねているらしいがどれも証拠不十分で釈放されているらしい。警察側も金を掴まされて立件する気がないようである。オウミはシャクエンへと命令した。
「三階にエスカレーターで上がるよう指示してある。すれ違い様に殺せ。お前なら簡単だろう」
簡単なものか、とシャクエンは思ったが、ここで抗弁の口を垂れても仕方がない。シャクエンはただ短く、「分かった」と返した。
時間が来るまで無害な客を装い、ショッピングを楽しんでいる客として紛れ込んだ。痕跡は全てオウミが消してくれるはずだったが、もしもの時はある。シャクエンの着ている制服は育ちのいい名門校の制服だ。万が一にも疑われる事はないとはいえ、万全を期す必要があった。シャクエンは左手に巻いたポケギアに視線を落とす。これがオウミとの通信手段であり、首輪である。発信機が備え付けられている事には気づいていたが、シャクエンは黙っていた。これがある限り、シャクエンの行動は制限される。首輪を振り払って逃げ出せば、一連の炎魔事件の犯人として瞬く間に捜査対象になるだろう。シャクエンの行動パターンなど、オウミは熟知しているはずだ。どう転んでもシャクエンに安住の地はない。シャクエンは時間になったのを確認して、三階から二階へと降りるエスカレーターに乗った。ちょうど二階層から乗り込んできたのは写真にあったターゲットだ。どう見ても殺人を犯しているようには見えなかったが、誰だってそうだろう。シャクエンを見て殺しをしていると思う人間がいないのと同じだ。シャクエンはエスカレーターを下りながら好機を待った。
その時、ニシキの背後に立った影を見つけた。少年である。フードを目深に被り、紫色のパーカーを着込んでいる。少年は顔を伏せてニシキにぴったりとついた。このままでは少年にも被害が及ぶかもしれない。先日のナカノ殺しで無関係の人間を巻き込んでしまった傷が疼いた。しかし、今さらターゲットを変更するわけにはいかない。一撃でターゲットの顔を焼き切ればいい。そうすれば少年には被害が及ばないはずだ。あるいは一撃で消し炭にする。
シャクエンはすれ違う瞬間を待った。ニシキとすれ違う瞬間、シャクエンは片手を繰って蜃気楼を呼び出す。景色が歪み、蜃気楼の炎が一撃でターゲットの頭蓋を焼き尽くす、はずだった。
しかし、その前に異常事態が起こった。空間全体が激震したのである。空間がパズルのように抜け落ち、暗黒色と虹色が混ざったかと思うとシャクエンの意識が暗転した。しかし、それも一瞬の事。すぐに持ち直した視界に映ったのは、下りのエスカレーターに乗ったところである自分だった。ターゲットは既に通り過ぎていた。ハッとしてシャクエンが振り向いて蜃気楼を繰り出すのと、少年が呟くのは同時だった。
「――ナイトバースト」
その声に少年の二の腕が膨れ上がり、服が弾けたかと思うと赤い鉤爪を有する漆黒の腕が現れていた。少年が異形の腕を振りかぶり、男の頭蓋を砕いた。紫色の波動が同心円状に広がり、漆黒の旋風がシャクエンの髪を煽る。男を葬った少年は身を翻して立ち去ろうとした。シャクエンはすかさず蜃気楼に命令を下す。
「蜃気楼! 熱風!」
蜃気楼の襟巻きから炎が迸り、口を開いた蜃気楼から物質を融解させる炎熱が放たれる。少年がその身に受けて表皮が一瞬にして焼け爛れた。服が燃え散ろうとする間際、少年が舌打ちを漏らす。
「聞いてないぞ」
少年の姿がその時、掻き消えた。現れたのは漆黒の身体を持つ直立した狼である。赤い豊かな体毛をなびかせながら、その獣はシャクエンの横を通り過ぎていった。シャクエンは突然人間が獣になったものだから狼狽した。
「ポケ、モン……」
シャクエンの視線と漆黒のポケモンの視線が交錯する。蜃気楼から放たれる炎を振り切り、エスカレーターを駆け降りたポケモンは二階層に至る直前で再び少年の姿に変わった。その眼差しがエスカレーターの上のシャクエンを捉える。冷たく研ぎ澄まされた鋭い眼差しだった。思わず唾を飲み下す。少年の姿が消えたと見るや、シャクエンは蜃気楼を陽炎の中に隠し、追いかけるようにエスカレーターを駆け降りた。シャクエンの背後から叫び声が発せられる。どうやら死体が見つかったらしい。シャクエンは舌を打って、少年を追いかけたが、一階に来たところで見失った。デパートから出てシャクエンは周囲を見渡す。
少年は影も形もなかった。
「そりゃ、幻魔だ」とオウミが告げた。シャクエンは家に帰ってきたオウミへと詳細を話した。オウミはしばらく難しい顔をした後にそう言ったのだ。
「幻魔?」
聞き返すと、紫煙をくゆらせながらオウミは頷いた。オウミは半裸でベッドに座っており、シャクエンは髪を解いて近くの椅子に座り込んでいる。シャクエンは薄いネグリジェを纏っていた。
「ああ、有名な殺し屋さ。お前と同じ、暗殺業を主にしている。だが、実際は謎だらけの奴だ。炎魔と同じく、世襲制を取っているようだが、その実態は全く掴めていない。厄介な奴とかち合っちまったな。確認を怠った俺のミスだ」
オウミは珍しく殊勝な態度だった。それだけ幻魔という存在が稀有なのだろう。シャクエンは尋ねていた。
「それは、強いの?」
「行き遭ったお前に聞きたいね。どうだった? 奴は」
シャクエンは思い出す。赤い豊かな体毛を持つ漆黒の獣。あれはポケモンなのか、それとも人間なのか。シャクエンは頭を振った。
「分からない」
「何だよ、情けねぇな」
オウミは煙草をくわえて、煙い息を吐き出した。細く、長く、空気に溶けていく。
「蜃気楼で迎撃出来なかったのか?」
「しようとはした。でも、私も驚いて……」
「奴の正体を知れば長く生きてはいられないと聞く。そのうち、お前に接触してくるかもな」
「どうして?」
「それだけ秘密主義なんだろうさ。その秘密こそが、幻魔の存在を解き明かす鍵なんだろうが」
シャクエンは確かに見た。人間がポケモンになるのを。いや、あれはポケモンが人間になっていたのか。どちらかは判然としない。しかし、もしそれが幻魔の秘密なのだとしたら、シャクエンはオウミに告げ口するつもりはなかった。これ以上、オウミの手駒を増やしても仕方がない。自分がいざ殺す時にやりにくくなるだけだ。
「今度からはこんな事がないようにするよ。ターゲットが被っちまうなんて一番面倒だ」
その言葉にはシャクエンも首肯した。