Fake
――この男に従えば、自分は死なない。
そう教え込まれたのはいつからだっただろう。きっとそれは両親が死んだ瞬間を見てからだ、とシャクエンは思う。オウミの愛撫する手を意識の外に置きながら、シャクエンは思い返す。両親が死んだ瞬間を。否、殺された瞬間を、だ。
オウミは知らない。オウミが両親を殺した瞬間をシャクエンに見られていた事を。シャクエンはその時、クローゼットに隠れていた。父親とのかくれんぼの途中だった。突然、玄関が開けられたかと思うと衝撃音が一回響いた。父親が倒れ伏し、それをオウミが踏みつけて銃弾を三発、心臓に浴びせたのをしっかりと見ていた。
母親にはその時、既にシャクエンとしての力がなかった。
先代の蜃気楼は既に寿命が尽きて、シャクエンにヒノアラシを残してこの世を去っていた。
代々、蜃気楼となるバクフーンは寿命が短い。
それは必殺の一撃である炎の技を生存競争ではなく、暗殺のために頻繁に使うからだ。人間のために使い潰されるポケモン。
シャクエンはその時、まだ名前があったが、母親が殺された衝撃で忘れてしまった。一時的に言葉すら喉を震わせなかった。後の警察の調査でシャクエンの家にオウミが我が物顔で入って来た時、この世にはもう逃げ場がない事を悟った。どこまで逃げても同じ結果ならば、自分から最善を導き出すしかない。シャクエンはオウミと契約した。蜃気楼の力を役立てる、と。歴代の炎魔がやってきたように、悪人を殺すために使う。そうすることによってオウミは自分が手早く出世出来る事を知ったのだろう。シャクエンの力を利用する事に決めるのにさほど時間はかからなかった。
シャクエンは今も鎖に繋がれている。復讐と言う名の鎖だ。オウミをいつか殺す。しかし、今ではない、とシャクエンはずっと耐えてきた。
殺す機会を間違えれば、自分はただ朽ち果てていくだけだ。名もなき少女として死んでいくのでは意味がない。同士討ちなど真っ平御免だった。
シャクエンは生き残る℃魔何よりの目標として掲げた。両親はオウミに炎魔である事が露見して殺された。炎魔の力を利用しようとするものは何もオウミだけではない。殺しても、第二、第三のオウミのような人間が現われないとも限らない。結局、いたちごっこだ、とシャクエンは自嘲する。どこまで行っても逃れられぬ宿命と、今という鎖につながれた人生。果てのない闇に問いかけても返ってくるのは虚しい答えである。暗殺業を続けるしかない。オウミに命じられるがまま。蜃気楼を使いオウミにとって面倒な輩を殺す。
本来の炎魔からはかけ離れた所業だろう。時折、無関係な人間を殺す時、シャクエンの心の中は大切な何かが抜け落ちてしまったかのように空洞になる。砂のように滑り落ちていくそれが感情だと知らないまま、シャクエンは成長している。
自分は早くに女になったが、人間としては未熟だ。
何一つ決定権がない。
オウミに全ての手綱を握られている。飼い犬根性が骨の髄まで染み渡っていて嫌気が差す。オウミを殺すしか、この呪縛から解放される手段はない。しかし、殺す時を誤れば、自分はさらに底知れぬ闇へと身を投げる事となる。オウミ以上の闇。その片鱗に触れた事はいくつもあったが、それに飼い慣らされる瞬間とは果たしてどのような気分なのだろう。今以上の堕落。今よりも深い場所に、息を殺して潜まねばならない。それはこの世の地獄だろうか。
――地獄など何度も見た。
シャクエンはそう感じる。オウミを受け入れながら、シャクエンはそれでも引かない一線を保っている。これ以上の地獄があるのならば教えて欲しい。どうして、ここまでしなくてはならないのか。事によっては誰でも殺すし誰とでも寝る。こんな人間にしたいとは両親も思っていないはずだ。両親の願いとは裏腹の方向に自分は歩みを進めている。それが堕落か、はたまた地獄への序章なのか。シャクエンには分からない。オウミが果てる瞬間を見計らってシャクエンも果てた振りをする。また自分を騙している。ベッドの中でシャクエンはいつも思う。
――自分を欺いている人間が、他人も同じように欺き、傷つけている。
他人の心など分かるはずがない。シャクエンには無用で、無縁な存在だ。蜃気楼さえいればよかった。蜃気楼は自分の心を分かってくれている。本当ならば今すぐにでもオウミの頭を食い千切りたいのだろう。それを我慢させてもう何年か。シャクエンは歴代の炎魔達もこのような苦しみの中にいたのだろうかと考える。世を欺き、人とは違う理の中に生きる。どうして他人と同じになれない。どうして他人とすれ違う。それはシャクエンの名を持つ運命なのか。母親にこの名前の由来を教えてもらった時の事を思い出す。赤炎という名は気高く美しい名前なのだと教わった。炎が最高潮を迎える瞬間、最大の温度の時の事を指して、最初のシャクエンはそう呼ばれるようになったと聞いている。では、自分はどうなのだ。刹那の温度に身をやつし、決して燃え上がる事のない不完全燃焼の塊。どう足掻いたところで、自分の行く末など決まっている。オウミに殺されるか、暗殺任務中に殺されるか。自分がオウミを一歩前に出て殺す、という事は不思議と頭に浮かばない。何故か。それはこの生活に慣れてしまったせいだろう。
シャクエンはベッドから抜け出て、薄いネグリジェを着込んだ。浴室の鏡の前に行き、「私は……」と口を開く。
「こんな事のために生まれたの?」
問うても鏡の前の自分は答えを発してはくれない。シャクエンは片手を繰って、蜃気楼を呼び出した。背後に現れた蜃気楼が、かぁっ、と赤い口腔を覗かせる。殺意に満ち溢れた眼差しに、「私達、同じね」と呟く。
「殺したいと願う人間がいながら、その一線を踏み越えられない。全てを犠牲にして相手を殺すほどの度胸も覚悟もない。全て捨ててきたはずなのにね」
シャクエンは鏡に拳を当てた。自分の顔を見返して眉をひそめる。鏡を引っ掻くと、蜃気楼が炎を同期させて鏡を融かした。引っ掻いたような炎熱の爪痕が残る。醜く歪んだ鏡。きっと、これが自分の中にある憎悪の形なのだ、とシャクエンは感じた。