炎魔襲来
男が夜の熱気を振り払って逃げていた。
焦燥の汗が額に滲み、肩を荒立たせている。目は炯々としており、恐怖に見開かれているようであった。
男は煉瓦造りの塀の合間を抜けて、表通りへと出ようとしたが、不意に空から黒々した影が降ってきた。
男は目の前に軽やかに降り立った影に身を竦ませる。影は男より背が高く、のっそりと帯のように屹立している。肩口から火の粉がぱちりと弾けた。
男が、ひぃ、と女のような悲鳴を漏らす。反転して狭い塀の向こう側へと逃れようとする。影が飛び去り、常闇へと消える。男は後ろを窺いながら駆け抜けると、土塀が塗り固められた袋小路へと行き当たった。男は土塀へと爪を立てて忌々しげに呻く。
その背後に何かが降り立った気配を感じた。男がゆっくりと振り返る。先ほどの黒い影とその脇に小柄な影があった。男は豪奢な着物を払って後ずさった。歯の根が合わないのか、ガチガチと震え、見開かれた眼球は今にも飛び出しそうである。帯のような影が一歩歩み出た。かぁっ、と口を開く。赤い口腔が覗き、肩口から炎が迸った。月明かりが影を照らし出す。影の正体は直立した獣だった。魔獣だ。その魔獣が吐いた息が空間を歪ませ、魔獣の姿を一瞬だけ隠す。それほどの高温が魔獣の周囲で蠢いている。
「た、助けてくれ……」
男の懇願の声に、少女の声が応じた。
「朝廷に仇なす悪鬼はこの手で討つ」
魔獣が鼻息を荒くさせて熱風を作り出し、肩口から迸る炎がより一層燃え上がってまるで翼のように展開した。頭上を覆う炎の暗雲に男が悲鳴を上げようとした、刹那、炎熱が男へと降り注いだ。男は一瞬にして炭化し、口から白い煙を棚引かせた。小柄な影と炎を放出した魔獣が肩を並べて目配せし合う。
「行こう」
小柄の影が促すと、魔獣は肩口から噴き出していた炎を内側に留めた。すると、魔獣の姿がたちまちに消えてゆくではないか。風に掻き消される蝋燭の火のように、魔獣の姿は跡形もなく消え失せた。熱気で歪んだ夜の景色の中を小柄な影が駆け抜けた。
カムイは己の名前が気に入っていなかった。
そもそも大それた名前である。「神威」など。
幼き頃はよくその名前に似合わぬ矮躯で馬鹿にされたものだ。カムイは朝廷に仕える人間の一人だった。今年から朝廷の年号が変わり、縁寿の名前を授かった街並みを眺めながら、カムイはふと看板に目を留める。それはここ最近、ジョウトを騒がす怪奇殺人の犯人像を示すものだった。その事件はカムイにとって他人事ではない。朝廷の中でも殊更そのような下人を取り締まるのがカムイの役目である。
しかし、そのやり口の何と残忍な事か。
看板に書かれている事をそのままに読み上げれば、「炎魔襲来」とある。「炎魔」とはこの事件が広まった際、民衆の間で噂された犯人の名前だ。犯人の殺人手口に由来する。被害者は一様に朝廷に仕える人間ばかりであった。しかも後ろ暗い噂の絶えない人間達である。カムイのような人間が本来ならば罰するべきところだが、彼らはこちらの手の内を熟知しており、手が出せぬといって酒池肉林、残虐非道の横暴の数々をやってのけている。カムイは歯噛みする。これでは朝廷に仕える意味がないではないか、と。本当の邪なる者を払えずして、何が宮仕えか。税金泥棒の陰口を叩かれる一方で、炎魔はそのような治世を正す救世主だと信じる人間もいる。カムイは、それこそどうだろう、と首を傾げざるを得ない。炎魔のやっている事は人殺しだ。惨殺以外の何者でもない。どうしてそのような非道を許し、日々民衆のためを思って巡回しているカムイのような人間が後ろ指をさされなければならないのか。納得出来ない、とカムイは憮然として鼻を鳴らす。
「炎魔など早く捕まってしまえばいいのだ」
宮仕えにしてはえらく他力本願で、情けない限りの言葉である。しかし、自分がこの残虐な炎魔を捕らえられる気がしなかったのは本音である。カムイは縁寿の近くにある草むらに腰を下ろした。いつ魔獣が飛び出してきてもおかしくはないが、カムイもまた魔獣を従えている。拘束具で身体を締め上げられた魔獣は眼のような形状の角を持つしなやかな体躯の獣だった。気性は荒くないのでカムイのような人間でも従えられる。「思念鹿」の名を持つ魔獣はむしゃむしゃと草を食んでいる。呑気なものだ、とカムイは呆れながら襟元に風を通した。夏が近いせいか、蒸している。
「今日は特別暑いな」
カムイは忌々しげに中天に昇った太陽を眺めた。その時、声が近くで上がった。視線を向けると、木の根元で数人の男達が取り囲んでいた。カムイが目を凝らすと、輪の中には小柄な少女の姿があった。黒髪を後ろで結っており、童顔で、年の頃はまだ十三にも満たないであろう。少女は男達に迫られているようだった。金品か、それとも強姦か。どちらにせよ、見過ごすわけにはいかなかった。カムイとて小さな正義感は持ち合わせているのだ。立ち上がり、「お前ら!」と声を張り上げかけた、その時である。
一人の男が足元から炎を上げて燃え上がった。何事か、仲間達が後ずさり、目を白黒させる。一瞬で炎は掻き消えたが男の体表は黒ずんでいた。男は自分が炎に包まれた事など夢幻のように感じたのか、女々しい悲鳴を上げて立ち去っていった。他の男達は突然の事に理解が追いついていないのか、少女を見やり、やがて潰走した。散り散りに逃げていった男達を遠くに追いやってから、少女はほうと息をついたようだった。カムイは慎重に少女へと歩み寄った。
「大丈夫か?」
先ほどの様子を見る限り、あの男達のほうが大丈夫かと問いかけたかったが、少女は笑顔を咲かせて、「ありがとうございます」とカムイに頭を下げた。カムイが、「何故礼を言う」と尋ねると、少女は、「声を上げてくださいました」と口にした。カムイは自分の事でありながらも照れくさかった。何かをしたわけではない。
「先ほど、男の一人が燃え上がったが」
懸念事項を打ち明けると、少女は明るい声で、「ああ」とポンと手を打つ。
「私がやりました」
あっけらかんと告白する少女にカムイは狼狽した。
「何と。殺そうとしたのか」
「いえ、軽い火傷を負わせただけです。冷水に半刻ほど浸かれば治りましょう」
少女の言い草にカムイは舌を巻いた。炎をまるで自在に操ったかのような言葉である。辟易しながらカムイは訊いた。
「貴君、炎を操るのか」
「私が操るのではありません。操るのは蜃気楼です」
「蜃気楼?」
発せられた言葉にカムイは首を傾げた。少女は根元に座り込み、片手をくねらせて、「現れよ」と一言発した。すると、空間が歪み、放射された熱線がカムイの肌から汗を噴き出させた。太陽が間近にあるかのようだ。
空間を裂いて現れたかに見えたのは黒い体表を持つ魔獣だった。肩口から襟巻きのように炎を発しており、火の粉が舞い散っている。腹の部分は乳白色で、黒との対比が眩しかった。直立した獣はカムイをその鋭い双眸に捉えると、かぁっと口を開いた。カムイは一瞬で竦み上がりそうになった。その場に膝をつかなかったのは宮仕えの身としての最後の一線だったのだろう。放たれる殺気に、カムイは言葉をなくした。
「これ、は……」
「私の駆る魔獣にございます。ちょうど、あなたが連れている思念鹿と同じく」
少女が思念鹿を指差す。カムイは振り返ったが思念鹿は拘束具さえはめられていなければ今すぐにここから遁走してしまいかねない様子だった。「おやおや」と赤子をあやすように少女が口にする。
「蜃気楼の殺気に中てられたご様子。まこと、失礼しました」
少女が悪いわけではないのに、深々と頭を下げた。片手を繰り、「戻れ」と命じる。すると、空間が歪められ、炎熱の合間へと炎の魔獣は隠れた。
「炎の魔獣を連れておるのか……」
呆然と口にすると、「そうでございます」と少女ははきはきとした様子で答えた。カムイはふと、巷を騒がせている炎魔との関連性を疑った。まさか、と頭を振ったが、そんなカムイの様子を、「いかがなされた?」と怪訝そうに少女が窺う。得体の知れない少女に臆していれば宮仕えの矜持が泣く。カムイは思い切って尋ねてみた。
「貴君、炎魔をご存知か」
「はい。それは私と蜃気楼の事でございましょう」
何と、少女は自ら炎魔である事を、事もなさげにあっさりと認めたのである。カムイはあんぐりと開いた口が塞がらなかった。
「何と……」
カムイは額の汗を拭い、冷静になるように努めた。落ち着いて、少女を見やる。服装は黒い着物で左肩に乳白色の鎧がある。首には真紅の襟巻きがあり、蜃気楼の特徴を引き移したかのような容貌だった。カムイは何度か深呼吸を繰り返し、幾分か落ち着いてから、「それは」と口を開く。
「真か?」
「はい。真実、私は炎魔にございます」
二度も繰り返されれば聞き間違いの類ではあるまい。しかし、どうして、とカムイは顔を拭って尋ねていた。少女はまず、「名を、名乗らねばなりませぬ」と佇まいを正した。背筋をしゃんと伸ばし、黒曜石のような瞳でカムイを真っ直ぐに見つめる。
「私の名は赤炎と言います」
「シャクエン……」
言葉を繰り返すと、赤炎は中空に指で文字を書いた。
「赤に炎と書きます」
「何と。近年でも珍しい名だな」
「この名は父母から与えられたものではありません」
さらなる告白にカムイは頭がぐらぐらとするのを感じた。まるで鈍器で殴られたかのようである。情けなくよろめくカムイへと、シャクエンは続ける。
「私は四歳の時、人攫いに遭いました。村は丸ごと焼かれて、誰一人として私の本当の出自を知りませぬ」
壮絶な過去にカムイは言葉を詰まらせた。しかし、シャクエンはニコニコとしてまるで悲壮感など漂わせずに言葉を継ぐ。
「人攫いは私を売ろうとしましたが、その途中である者に皆殺しにされました」
「ある者とは」
「私の師にございます」
話が見えず、カムイは出来の悪い生徒のように質問をした。
「失礼。師、とは」
「文字通り。私に戦い方と蜃気楼を与えてくださったお師匠様です」
「何者か……」
「仔細は申し上げられませんが」
シャクエンが言うにはその師匠とやらは山に潜み、山賊を狩る正義の徒であると言う。魔獣を自在に操る術を持ち、魔獣から技を引き出して戦うらしい。シャクエンはその師匠に育て上げられたのだ。
「何のために」
「私を、朝廷の悪鬼羅刹を狩るための尖兵として育て上げるためでございます」
誇らしげにシャクエンが胸元に手をやって答える。カムイは呆然としていた。目の前の少女は殺人鬼炎魔であり、自分が捕らえなければならないはずの相手である。しかし、先ほどから話に圧倒されっ放しで何一つ行動を起こせない。
「朝廷の悪鬼羅刹とは」
「ご存知の通り、今の朝廷は腐敗の只中にあります。民衆から金銭を吸い上げ、懐を潤そうという不遜な輩ばかり。このままでは遠からぬうちにジョウトは転覆するでしょう」
朝廷の官試を受けるものでも答えようのない事をさらさらと言ってのける。カムイはただただ頷くしかなかった。
「私と蜃気楼は微弱ではございますが、悪しき芽を刈り取り、民衆を救いとうございます」
「それでは貴君は、認めるというのか。炎魔である事を」
「はい」
殊更それは重要な事ではないかのようにシャクエンは頷いた。むしろその顔には晴れ晴れとした爽やかさすら感じられる。カムイはどうするべきか悩んでいた。このシャクエンなる少女をここで捕らえ、朝廷に献上するのがよいのか。それとも、と悩むもう一人の自分がいる事を意外に思う。シャクエンの言う通り、悪しき芽を摘み取る事を邪魔立てせぬようにするべきか。
「殺人だぞ」
「咎は受けましょう」
「大罪だ」
「存じております」
まるで禅問答だ。相手は全ての非を認めている。カムイはどうしたらいいのか分からなくなって、このまま喚き散らしたい気分に駆られた。炎魔だぞぅ、と騒ぎ立てたいがそれでは狂人だ。官職も失う事となるだろう。ここは冷静に事の次第を考えるべきだった。
「シャクエンとやら」
カムイが呼びかけるとちょこんと座り込んだシャクエンは、「はい」と応じた。
「朝廷にいる悪鬼は何人だ?」
「私が知りえている限りで十匹は下りません」
何人か、と尋ねて、何匹かが返ってくるとは。シャクエンと自分の尺度の違いにたじろぎつつも、カムイは深く息を吐き出した。
「どうしても、やらねばならぬのか」
カムイは不思議と目の前の少女を罰する気にはなれなかった。シャクエンの言う事もまた王道だと思ったからであろう。シャクエンは首肯し、「この身朽ち果てるまで」と胸の前で拳をぎゅっと握り締めた。宝玉のような決意にカムイは鼻息を漏らした。
「……暑さに中てられたな」
呟いて、カムイは佇まいを正し、「俺は朝廷の役人だ」と改まって声を発した。シャクエンは特に驚くでもなく、「はい」と答える。最初からそれは知っていたとでも言うように。
「だから罪人は罰せなくてはならない。だが、大罪を犯す獅子身中の虫が朝廷にいるというのならばまずはそれを正さねばならない。それがジョウトのためとなるのならば」
カムイの言葉にシャクエンはぱあっと顔を明るくさせて、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「貴君は赦されたわけではないぞ」とカムイは告げる。
「いずれ、罰を受けてもらう。その時は俺が捕まえる」
親指で自分を指すと、シャクエンはしばらく呆然としていたが、やがてぼっと顔を上気させた。訝しげに、「どうした?」と尋ねると、シャクエンは頬を叩きながら、「殿方に告白されるのは初めてで……」と急に恥じ入った様子だった。カムイもそのような下心で言ったわけではない。
「いや、そんなつもりでは……」と頬を掻いた。お互いに無言が降り立つ中、シャクエンがぼそりと、「では」と口を開いた。
「捕まえてくださいまし。その手で」
今度はカムイが照れる番であった。着物の襟元から手で風を通す。何も暑いのは太陽ばかりのせいではない。カムイが顔を逸らしていると、シャクエンは、「行かなければ」と立ち上がった。その顔には最早、紅潮はない。照れているのは自分だけかと納得して頭を冷まし、「俺が朝廷の罪を暴くのが先か、貴君の炎が罪人を焼くが先か」と挑発した。
「俺は負けん」
「私も。決してこの信念、曲げはしません」
シャクエンは身を翻した。その背に何かを呼びかけようとすると、シャクエンの姿は炎熱の向こう側に掻き消えた。蜃気楼が隠したのだろう。歪んだ像が一瞬で新緑の向こう側へと立ち去っていく。カムイは置き去りにされた我が身を顧みて、「よし」と奮起させる声を出した。
「俺も、やらねばならぬ事ができた」
カムイはその後、思念鹿を用いて巧みに情報を引き出し、朝廷に潜む巨悪を暴かんとした。炎魔の噂は絶える事なく、まるでいたちごっこのようだったが、カムイが裁いた悪もあった。やがてカムイは朝廷でも上位へと召し上げられたが決して酒や女に溺れず、金銀財宝にも目が眩まぬ義勇の男として名を馳せた。次第に炎魔の噂は巷では騒がれなくなった。カムイはこの治世に満足はせず、「全ての悪の芽を摘む」として小さな罪悪すら許さぬ正義の徒となったが、民衆にはそれが束縛に思えたようである。次第にではあるが、カムイに対する不満が増してきた。これでは監視社会だ、と誰かが告げ口し、不満の種は墨を落としたかのように黒々と民衆の中で暗雲立ち込めた。
カムイはその日、異常な暑さに目を覚ました。まだ夜半であったが寝巻きが肌にぴったりとこびりつくほどに熱い。これは何だ、と寝床から飛び起きると、小柄な影が立っていた。もう二十年以上前に見た姿とそれが重なりカムイは喉の奥から、「シャクエン」と名を呼んでいた。小柄な影は手を繰って空間から獣を呼び出した。景色が歪み、青い月の光が降り注ぐ中、炎熱を湛えた魔獣が躍り出る。襟元の炎が翼のように噴き出して、カムイは、「ああ」と感嘆の声を上げた。
「何と美しい」
翌日、カムイは焼死体で発見された。誰もが目を覆いたくなるような最期だったが、彼の成し遂げた偉業は多く、ジョウトは転覆の危機を免れた。後の世にカムイを賞賛する詩が残っている。簡単に記すと次のような事だ。
神威という男は、義憤の徒であった。燃える恋慕を何者か抱いていた様子だったが、その者の名を最期まで誰にも明かさなかった。まさしく正義に身を捧げた立派な男であった。