黒竜落涙譚
樹王
 新緑を「蒼」と呼ぶのはこの地だけである。

 誰から言い出したのかは分からない。

 巨木を目にすると、「蒼い樹が生えている」などと呟く民族性はこの地特有のものであると知れた。

 彼は当然、この題材に興味を持ったのだが、いかんせん情報が少なく、大学の論文にするにはいささか物足りない事に気づいた。大学教授に斡旋してもらって論文はパスしてさっさと就職先を探すか、と考えたが、彼にはどうしてもこの「蒼」と新緑の関係性が頭から離れなかった。

 彼はフィールドワークに出る事にした。かのオダマキ博士もフィールドワークからポケモンの生態に迫ったという。研究者を志すのならばフィールドワークは欠かせなかった。

 その日、彼は教授からシンオウの西部に飛ぶ事を依頼された。テンガン山を境として西部と東部では植物の生態系が異なるからだ。西部には針葉樹が生え、東部には広葉樹が群生する。教授としては行き詰っている助手に助け舟を出したつもりだったのだろう。しかし、彼には余計なお節介で、それに従うしかない自分が酷く情けなく思えた。

 フィールドワークをしても金になるわけではない。研究費用を吸い上げるのは教授の役目で、助手にはびた一文回ってこないのである。シンオウの研究システムの欠陥だった。かのポケモンの進化学の権威、ナナカマド博士ですら、そんなに助手を取りたがらないのは助手全員に研究費用が回らない事を知っているからだ。まかなえないのならば人件費に当てるべきではなく、己の懐を潤す事を考えるべきだろう。多くの研究者はそうしてきたし、これからもそうである事は自明の理であった。

 彼は「蒼」と新緑の関係性についてのレポートを持て余していた。卒業論文にするには資料が心許ない。やはりフィールドワークで地道に情報を足で稼ぐしかない。彼は仕方なしに教授の推した場所へとフィールドワークを行った。過疎化の始まった村で、もうすぐタウンマップからは消えるらしい。看板が突き立っていたが、文字が掠れて読めなかった。

 地図から消える村、彼は思いを巡らせて低い屋根が並んだ窪地に重機が侵入してきているのを視界に入れた。重機は今も稼動していて次々と家屋を飲み込んでいく。鋼鉄の牙が寒村を食らうのを見て、虚しさが彼の胸に去来した。この村でまだ偏屈に離れない人間がいるという。教授はその人間へと調査対象を絞るといい、と口にし、ついでにそこから離れるように説得してくれると助かると付け加えた。大方、地上げ業者から献金をいただくのだろう。

 結局、全ては教授の利益になっているのだ。嫌気が差しながらも、彼は窪地へと足を進めた。針葉樹がところどころに生えているが枯れ果てている。この地には最早価値がない事を暗に示しているようだった。土地には人が住まうとエネルギーが集う。密集粒子論という学問で人間やポケモンが多く住まう場所ほど豊かに育つという理論である。どちらかに傾けばその地はバランスを崩す。カントーのヤマブキシティが好例だ。人間が密集し過ぎたために、あの街では人間による災厄が訪れた。ロケット団という組織を引き合いに出すのは最早一部の過激論者だけだが、彼も研究者の端くれとしてカントーのシルフカンパニー占拠の事件程度は頭の片隅にあった。

 彼はその人間が住んでいるという家屋へと踏み込んだ。一応、形だけの礼節として、「お邪魔します」と言ったが、本当に人間が住んでいるのか怪しいほどに廃屋という言葉が似合った。煤けた布が垂れ下がり、玄関の代わりをしている。布をくぐって、彼は中へと歩みを進めると、奥から据えた臭いが漂ってきた。どうやらこの家屋の主がいるらしい。彼は歩み寄り、「この家の人ですか」と尋ねた。暗がりが身じろぎし、細身の老人の姿が見えた。砕けた天井から陽の光が差し込んでようやく老人の姿が分かるほどに、家屋の中は暗がりに包まれている。彼はすっと近づいて、名刺を差し出した。老人は名刺と彼を交互に見やって、怪訝そうに眉をひそめた。彼は、「フィールドワークの一環で来ました」と笑顔を作る。しかし頬は引きつっていた。家屋に漂う臭気のせいだ。酒と排泄物が混ざったような臭いがしている。老人は、「来やれ」と顎をしゃくって、彼を手招いた。老人は腰が曲がっていたが、歩くのには支障がないように見えた。彼は古ぼけた椅子に座らされた。老人は地面に座る。「僕が地面に座ったほうが」と彼は言いさしたが、「いらん」と老人が首を振った。「このほうが性にあっておる」

 彼は早速、老人に聞き込み調査をする事にした。この近辺の自然系など訊く事はたくさんあったが、どれも老人は、「知らん」だの、「聞いた事がない」だのの胡乱な答えだ。たちまち、彼もまともに聞くつもりがなくなって、最後には彼の愚痴になっていた。

「僕はね、今年卒業なんですよ。でも、卒業論文のテーマは決まっているようないないようなものだし、このフィールドワークも結局、教授の差し金みたいなもので僕の意思じゃない。僕は、ただ蒼と新緑の関係性を知りたいだけなのに」

 その言葉を聞いた瞬間、老人は眉を跳ねさせて、「今、何と?」と尋ね返した。初めて老人が反応らしい反応を見せたので、彼は詳しく話す事にした。何故、この地の人間は新緑の事を「蒼」と呼ぶのか。それが研究課題だと告げると、老人は急に神妙な顔つきになって、「それはお前さん」と口を開いた。

「新緑のポケモンが蒼いからだよ」

「新緑、って特性の事ですか? それとも見た目の?」

「特性だの何だのは分からんが、わしは昔、その蒼いポケモンに出遭ったことがある」

 老人の言葉に彼は目を丸くして、半信半疑でその話を聞いた。老人は、「もう五十年は前の事だ」と前置きした。

 老人――カゴメという名前であったらしい――はポケモントレーナーであった。まだ技術的には現在には遠く及ばず、モンスターボールもいちいちマイナスドライバーで緊急射出ボタンを緩めなければならなかったほどに昔である。ポケモントレーナーという職業も今ほど完備されていない。旅がらすと呼ばれて後ろ指を差される職業であった。カゴメはシンオウの西部で休める宿を探そうとしていたが、当時のシンオウはほとんど未開の地である。宿屋がご丁寧に存在する今とは違い、一軒一軒の戸を叩いて周る日々であったらしい。

 カゴメはその日、宿にありつけなかった。

 仕方がないので森にキャンプを張る事にした。

 隆起した土地が広がっており、森林の中に一際巨大な樹があった。広葉樹で、その樹は月明かりを浴びているせいか蒼く見えた。カゴメは珍しい樹もあるものだ、として特に気にも留めなかった。樹の根元で炎タイプのポケモンを出して焚き火を燃やし、彼は眠っていると重い音が突然に響き渡った。一歩、一歩を踏みしめるように地鳴りが響く。最初は地震の類かと思った。シンオウは地震件数が少ないとはいえ、プレートの地脈の上にある。揺り起こされたカゴメは持っていた炎タイプのポケモン、ブーバーに周囲を照らすように命じた。

 その時彼が見たのは、地面が地鳴りと共に波のように動いている光景だった。しかし波と本質的に異なるのは押しては返すものではない。森林が移動しているのである。カゴメは空を見上げた。中天にあった三日月が広葉樹の向こう側へと隠れている。最初は夢でも見ているのではないかと思ったが、そこで違和感に気づく。ここはシンオウの西部のはずだ。針葉樹の群生地に、どうして巨大な広葉樹が生えているのか。

 カゴメは地面をさすり、地鳴りの元が移動しているのだと気づいた。掘り返してみると、積もり積もった枯れ葉と土くれの下に蒼い地面が垣間見えた。その時になってようやく、彼は樹が蒼い理由も、動いている地面も理解した。これはポケモンなのだ。カゴメは慌てて飛行タイプのポケモンを繰り出し、空を飛んで離脱した。一瞬だけ振り向くと、蒼い巨大なポケモンが見えたという。亀のようなポケモンで、大きさはほとんど村一つ分。硬い積層構造に覆われた蒼いポケモンは彼を一顧だにせずそのまま、ずずんと腹の底に響く足音を踏み鳴らして遠くへと行ったという。その翌日、彼は自分がキャンプを張った場所が根こそぎなくなっている事に気づいた。その地は窪地で、隆起した森林など元からなかった。カゴメは近隣の住民達に聞き取ったが、「よくある事だ」で流されたという。

「蒼い樹は移動するんだ」

 どうやらその地では新緑の樹の事を「蒼」と形容するらしい。カゴメは蒼い亀のポケモンの事が忘れられず、その地に留まる事にした。窪地にはやがて村ができたが、発展は一時の事で、今はタウンマップからも消え去る運命だと言う。それがこの村の正体だ、とカゴメ老人は結んだ。

 ふぅと息をつく。話し疲れた様子だった。

「それは本当ですか?」

「嘘を言ってどうする」

「この村の価値を下げないためにあなたが作った話だという可能性もある」

「もうこの村に価値なんかねぇ。それはお前さんも分かっているだろう」

 彼が押し黙っていると、「立ち退きの要求に来たんだろう」とカゴメ老人はどこか達観した様子で口にした。

「この話を信じてもらえる誰かに会ったら、立ち去るつもりだったんだが、やっぱり駄目だ。もう一度、わしはあのポケモンに会いたい」

 切なる願いの声に彼は何も言えなくなっていた。彼は最後に一つだけ尋ねた。

「そのポケモンは、何だったんでしょう?」

「樹の王様さ。わしは樹王と呼んでいるよ」

「樹王……」

 声に発してみても現実感など皆無だった。彼は結局、老人に立ち退き要求はできずに、頭を下げて立ち去った。道中で重機を操縦していた作業着の男が、「あのじいさん、立ち退くのか?」と尋ねた。彼が首を横に振ると、「だろうなぁ」とため息をついた。

「あのじいさん、立ち退き要求する人間を色んな話で煙に巻いて、結局誰も説得できねぇんだ。兄ちゃんみたいな、若造には荷が重いだろうさ」

 鼻を鳴らして作業着の男は彼を上から下へと値踏みした。彼はばつが悪そうに、「失礼します」とその場を去った。しばらく歩いてから丘に至り、村の全景を捉える。窪地は確かに「樹王」と呼ばれるポケモンが存在するには大き過ぎる。先ほどの話が本当である確証もない。嘘つきに騙された無能な人間の一人だろう。教授は彼の報告に、「そうか」と淡白に返した。

「仕方がないさ。いずれ誰かがあの老人を引っ張り出す」

 今回、その地に赴いて活動したという実績が評価されたのだろう。教授の下には大枚が舞い込むはずだ。彼には一銭も渡らないが。

 彼はアパートに帰って、「蒼」と新緑の論文の途中経過をパソコンに呼び出し、カゴメ老人から聞いた話を盛り込んだ。そうすると、この地に住まう人々は最初から「樹王」を認知していたという事なのだろうか。藪の中の真実に、彼は手を差し出そうとしたが、思わぬしっぺ返しがあってはたまらないと、それ以上の追求はよしておいた。彼は一線を引く事に決めたのだ。樹王がフィクションであれ、何であれ、あの老人は確かに存在する。次の地上げ業者はもっと強引に老人をあの地から引っぺがすかもしれない。カゴメ老人はどうなるのだろう。益のない思考だと分かりつつも、考えずにはいられなかった。

 間もなく、地図からあの村が消えたという話を受け、彼はもう一度あの窪地の村へと赴いた。綺麗さっぱりなくなった窪地は埋め立てられ、他の道と同じような土地へと変貌していた。カゴメ老人の行方を作業着の男達に聞いたが、誰しも首を横に振った。

 彼は論文の一番後ろに文字を書き加えた。

「これは一人の、樹王に行き遭った少年の物語であり、彼の人生を賭した物語である」

 書き終えて、彼は教授に提出したが、ナンセンスだと没を食らった。書き上がった論文の紙の束を、彼は見下ろし、そっとファイルに仕舞った。


オンドゥル大使 ( 2013/05/22(水) 22:07 )