黒竜落涙譚
雨が降ると黒竜が泣いている、とホウエンの人は口にする。
空を裂いて現れる縄目文様を身体に刻んだ竜のことを、彼らは緑竜と呼んで畏れ奉った。
緑竜という呼び名はしかし、果実竜と混同するので避ける風潮がある。
果実竜はホウエンで見られた魔獣の呼び名である。果実竜は首筋に果実を実らせ、その果実が熟すのを待つと秋が来るという。熟した果実を彼らはもぎ取って調理し、朝廷に献上するのだ。
しかし果実竜とてただ大人しくもがれるわけではない。抵抗する果実竜から力を奪い取るために魔獣を放ち、彼らは叡智の結晶たる胎盤球で動きを封じるのだ。
彼らが跨るのは雷撃獣と呼ばれる青い体毛の魔獣で、放電するために彼らは電流を通さぬと言われている土くれの鎧で全身を覆って駆り出す。雷撃獣はほとんどの魔獣を仕留めるのに使われていたが、地面を根城とする魔獣にだけは通用しないとして、彼らは別の策を取ってきたが、雷撃獣の使い勝手のよさと取り回しの華麗さから彼らは雷撃獣による狩りを主としていた。
雷撃獣で彼らのうちの一人、最も狩りのうまい男を「稲光の徒」と呼んで彼らは畏敬の念を抱いていた。稲光の徒は数年に一度、必ず現れる。その身体に雷の文様を刻んで産まれてくるのだ。母親の胎内でどのように成長してその文様が刻まれるのか、そもそも彼は特別なのか。そのような邪推は無粋というものである。稲光の徒は実在し、雷撃獣を見事に操る才覚を持っている。生まれつきに、だ。当然、反感、嫉妬の類を買う事はあったが、稲光の徒はさばさばとした気持ちのいい男がなる事が多い。だから、彼らは稲光の徒に対して嫉妬よりも羨望の眼差しを向けていた。
稲光の徒として地を駆け、果実竜を痺れさせる雷撃を放つ。
雷撃獣は山脈のような鬣を持つ魔獣である。攻撃時には山脈の鬣が分裂し、三方向へと刃のように尖って展開する。稲光の徒は雷撃獣の攻撃を読む能力に長けている。雷撃獣だけではない。彼ら、稲光の徒は魔獣と話しているのを村人が見た事がある。ひそひそと声を潜めているので最初は独り言かと思ったが、よくよく目を凝らしてみれば目の前には魔獣がおり、魔獣がこくりこくりと頷いているのである。それを目撃した村人は即座に、まさしく電光石火の如く村の長へと伝えた。稲光の徒は、実のところ人ではないのではないか。村を席巻した噂話は暗雲の如くもくもくと広がり、一瞬で稲光の徒自身の耳にも届いたが、彼が言うには、「分かるのではなく、知るのだ」と言う。
「俺は知るのだ。魔獣にも意思があることを。跨っている間に、彼らの言葉が分かるのだ。我らが菓子で魔獣を従えるのと同様に、彼らもまた我らを従えているのだ」
その言葉は波紋となって村を打った。魔獣は忌むべきもの。その教えに反すると判断されたのである。その稲光の徒は村を追放された。村を追放された稲光の徒は彼が最初で最後だった。その後もその村では稲光の徒は生まれ続けたが、追放された彼に関して行方はようとして知れなかった。
そんなある日、雨が降った。恵みの雨だ。村人が不意に空を仰ぐと、暗雲の中を黄金の縄目文様を刻み込んだ竜が奔った、と言う。何を馬鹿な、と一笑に付すのが通常だが、その黒竜に人が跨っているという噂が立った。跨っているのは三世代も前に村を追放されたあの稲光の徒だ、という話だった。それこそ何を馬鹿な、である。稲光の徒は人間だ。空を統べる魔獣と交信できるはずはない。しかし、ある者は覚えていた。その稲光の徒が魔獣と話せると言っていたのを。事態を重く見た長は、「黒竜忌むべし」の号令を発した。
「黒竜の見える雨の日は凶兆である。稲光の徒は我らが頭上に雷を落とすぞ」
その言葉には戸惑い半分、恐れが半分と言った様子で村人の中に伝播していった。稲光の徒は確かに魔獣を駆る事に長けていただろう。しかし、空の上の黒竜までも操るとは誰も思っていなかったのである。それに、本来、現れる空の使徒は緑竜だ、と誰かが言葉を発した。
緑竜、黒竜の別はこの時よりあった。
同じ魔獣でありながら色が違う。緑竜は穏やかさを表した。暗雲の向こう側の蒼穹を駆ける翼のない異形の竜。一説には稲光の見間違いとも、嵐の前触れとも言われた緑竜は、彼らの頭上を支配する絶対的な魔獣であった。とは言っても、黒竜ほど恐れられていたわけではない。
黒竜はまさしく旋風の象徴であった。黒い身体に黄金の縄目文様が走り、全身それそのものが雷雲であった。あれが通ればただでは済まない、と村人達は受け継いできたものだが、その黒竜に人が跨っていたとなればさらに不安の種となった。なんと、黒竜は人間の言葉を解するのか。否、それ以上に奇怪極まりなく、さらに不安の影を落とすのは、追放した稲光の徒の存在だ。あの男は必ず、村人を、長を恨んでいるに違いない。
必ず、近いうちに天罰が下る。
そう信じて疑わない人々の中、カッと目を見開いて、「わたしがかの稲光の徒を討ってみせましょうぞ」と名乗り出た者がいた。村人達が渋面をつき合わせる中、立ち上がったその影は少女である。しかし、その腕には逞しい雷の文様が刻まれていた。稲光の徒の、今まで生れ落ちた事のない、唯一の例外たる少女だった。それだけでも大変珍しく、村の間では、誰と結ばれて子をなすのかが専らの噂であった。しかし、年の頃はまだ十二、三の少女。稲光の徒としても、母親としても不安な時期である。果たしてこの少女――名はライカと言ったが――どうするつもりなのか。長たる翁が尋ねた。
「ライカ。どうするつもりなのだ」
「このわたしが、かの稲光の徒を討ってみせましょうぞ」
「それは聞いたが、どうやって」
「雷撃獣で撃ち落としましょう」
「何と」
放たれた言葉に一同は呆然として、ざわめいた。ライカの隣に侍る雷撃獣は変わった色身をしていた。体表の青が濃く、ほとんど黒と言っても差し支えない。黄金の鬣は豊かで、色が強く、目にしただけで目が眩んでしまいそうである。その井出達は、黒竜に挑む者としてとてつもなく様になっていた。若い衆が口を噤み、長老は仕方がないのでいさめる声を出した。
「黒竜は天を統べる魔獣。地を駆ける雷撃が届くだろうか。いや、届くはずがない」
「しかし、我ら一族、ただ逆賊たる稲光の徒からの侵略を待つだけなのでしょうか。それではあまりにも情けない」
ライカの凛とした言葉に長老は眉を跳ね上げた。まさか一族の誇りを口にするとは思ってもいなかったのである。
その声、まさしく雷鳴の如し、と後の世にはある。少女の言葉が電流のように大人達の萎えかけた意思を打ったのは間違いない。
「なれば」と長老が口を開いた。
「討ってみせよ。後の世に貴君の一族の繁栄を約束する」
「はい!」とライカは喜び勇んだ。ライカは早速、断崖絶壁の丘へと登る計画を立てた。ホウエンの地は平坦で、起伏に乏しい。唯一抜きん出ているのは魂の還る山、後世には送り火山と呼ばれる山地程度である。
ただこの時には、地面を走る竜脈の流れが乱れていたせいか、頻繁に地震が起こり、地面が隆起して小高い丘を作っていた。送り火山を除くならば、最も天に近い山である。
この時には天の柱は発見されていなかった、とある。発見したとしても、穴ぼこだらけの天の柱を昇りきるだけの膂力を持った魔獣などいなかっただろう。この時、ライカと雷撃獣は天の柱を昇る計画も立てていたが、天の柱に至るまでの魔獣の調達が困難とされたため、その案は即座に却下された。大人達は少女の勇気に感銘を受けたといっても、少女のために命を投げ打とうという猛者は一人としていなかったのである。
雷撃獣の毛並みを整えながら、ライカは自信に満ち溢れた口調で、「必ず討つ」と毎日言っていたという。それほどに恨みを感じる相手なのだろうか、と村人は勘繰った。むしろ恨んでいるのは向こう側だろう。こちらから刺客を差し向けるなど、外道の所業ではなかろうか。弱気な村人達は意気消沈したが、ライカだけは中天に昇った太陽のように朗らかに言うのである。
「討ちます、必ず」
それほどまでに名声が欲しいのか、と誰かが聞いた。ライカは首を横に振り、「いえ。違います」と丁寧に返した。では、どうして、という問いに、「愚問でしょう」とライカは笑った。
「一族のために命を賭すのが、稲光の徒の役割なのですから」
そのあり方は一種眩しく映った。それに比べ、何と自分達のうじうじした事か。刹那の雷鳴のために寄り集まった湿気た者共の何と情けない事か。やがて誰かが言い出した。
「俺達も一つ、彼女のために何かするべきではなかろうか」
大人達がここに来て奮起の気配を見せたのである。あまりに遅い大人達の追従に、ライカは怒るでもなく、むしろ喜んだ。
「感極まるとはまさにこの事!」
ライカの飾らぬ言葉と態度に大人達は協力を惜しまなかった。ライカが、「黒竜を操る稲光の徒を討つためには千本の鉄杭が必要です」と発した時、彼らは意味が分からないながらも今までのような男の腐ったような態度は取らなかった。合点承知と彼らはその当時では珍しかった鉄を惜しみなく使い、鉄杭を作り上げた。
「その鉄杭を細い鉄の縄で結んでください」とライカが言えば、大人達は言う通りにした。ライカが何をしようとしているのか、などと邪推する者はもういなかった。村人一丸となって、来る黒竜を駆る稲光の徒を滅する準備を始めた。
やがて、暗雲渦巻くその日がやってきた。まさに雷鳴轟き、天地、海、波風逆巻き、白光がいつ貫いてもおかしくないと思われた荒々しいその日に、ライカを先頭として彼らは丘を登った。後の世に、縫い止めの丘、と記されている。今はただの平坦な地であるが、縫い止め、とは天と地を縫い止める落雷の事を示しており、まさしくライカと雷撃獣に相応しい戦地であった。
鉄杭千本をつなぎ合わせたものを村人総出で天へと投げた。その瞬間、ライカが雷撃獣に跨り、「応!」と男共でも竦み上がるような雄叫びを上げて鉄杭へと飛びかかった。その瞬間、誰ともなく、「あっ!」と口にしていた。ライカは雷撃獣から放出される電流を使って、鉄杭千本を天へと昇るための梯子としたのである。電流を受けた鉄杭はびしりと並び立ち、ライカを天へと通す道標になった。ライカが暗雲の向こう側へと消えた時、不意に黄金の柱が天と地を貫いた。何事かを整理するような時間は与えられなかった。それが黒竜の放った咆哮であると理解したのは後の文学者達である。ただその時には呆然とするしかなかった村人達は、その黄金の咆哮を境にして、暗雲が収縮してまるで墨の一点のように消えていくのを目の当たりにしたと言う。
ライカの姿も、黒い雷撃獣の姿もなかった。暗雲もどこへやらと消え去り、ただ広がるのはどこまでも続くような青空であった。鉄杭千本がこの時、天から落ちて海と陸地を隔てた。これが後の世に、マグマ団とアクア団の総帥が、「陸と海は別の存在。相容れぬ」として宣戦へと利用したのは別の話であるが、この千本の杭は村人の間では後生、大事にされた。
ライカは帰ってこなかったが、黒竜の噂もぱったりと途絶えた。時折雷雲貫いて現れても、それは緑竜であった。人々は安堵し、ライカの一族に繁栄を約束した。ライカの一族は、その地で過ごしたという。この地がどこかは明確に記されていないが、現在のミナモシティ付近だと思われる。後から分かった事であるが、ライカもまた魔獣と喋る術を持っていたという。魔獣と通じ、彼女は村人が消し去った記録を呼び覚ました。人がいくら隠し通しても、人とは理の違う魔獣は誤魔化せぬ。己が系譜に稲光の徒がいる事を知り、さらにその血をひそかに継いでいる事を彼女は何らかの形で知った。それは魔獣が教えたのかもしれないし、何者かがそそのかしたのかもしれない。
かつて追放された稲光の徒が自らの血の系譜である事を知り、その男へと挑もうとしたのである。後世の人々は彼女を、「稲光の徒」とは呼ばず、「落涙の少女」と呼んだ。何故かは、雨が降ると黒竜が現れぬ代わりに、空へと昇った雷撃獣と彼女が泣いているのだと受け継ぐようになったからだ。
もう彼の地を踏む事はない悲しみからか、それとも己が血の系譜を断ち切った因縁からか、それは判然としない。ぼろきれのような彼らの書物にはこう記されている。
雨は黒竜落涙に非ず。少女、落涙なり。その輩である雷撃獣啼く。それ天駆ける雷なり。