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第三章 試練前夜
第三十二話 彼女の約束

 リッカは何か言葉をかけるべきであったのだろう。

 それでも、立ち入れないな、と判断していたのは何も彼らの決意が眩かっただけではない。

 街灯の陰でリッカは面を伏せる。

 ジェネラルレベル6のエイジとならば、ようやく大手を振るって旅に出られる。その予感に高鳴る胸に、でももし、と問い返していた。

「ダムドがいなかったら、エイジはこんな決断、してくれなかったんだよね……」

 そういう点では感謝すべきなのだろうか。それとも、運命を捻じ曲げたあのポケモンに侮蔑の一言でもぶつけるべきなのだろうか。

 いずれにせよ、もう自分達は明日にはこの町から発つ。その現実がどこか遊離しているようで、リッカは持て余していた。

 自分には両親がいる。もう先刻話した事だ。両親ともに旅に出るのは賛成で、その道を阻もうなんて大人は、この町にはいない。

 ――だが、エイジは?

 今の今まで蔑まれ、そして父親に捨てられたエイジに、大人達は素直に祝いなんて述べられるのだろうか。きっと誰もが、心のどこかでは憐れんでいる。

 それを見るのが、何よりも辛い。

 いくらエイジが自分で決断した事とは言っても、親のいない子供が旅に出る非情さを、知らないわけがないのだ。

 自然と足はスクールに向かっていた。

 いつだってエイジと共に森へと飛び出していた場所。問題児だとからかわれ、それでもエイジの背中を追う事を諦めなかった自分。

 きっと、これまでとは違う運命が待っているに違いない。それでも、旅立つ事が出来るのか? エイジからしてみればより過酷なだけの旅だ。こんなもの、ここで破いてしまったほうがいい約束なのではないか。

 胸を掠めたその感傷に、声が投げられた。

「……リッカちゃん?」

 振り返り、その大人を認める。

「……先生」

「カプ・コケコは、毒の治療が終わって、回復までは二三日だって。その間、先生は先生の業務もお休み。クラスのみんなも臨時のお休みで喜んでいるでしょうね」

 ふぅと息をついた先生は先ほどのバトルの過酷さからは浮いているように思えた。島クイーンとしての実力を発揮し、改めて強者である事を認識した相手に、どう顔を合わせればいいのか分からず、リッカは俯く。

 その頭にそっと手が置かれた。

「リッカちゃん。寂しかったらいつでも帰ってきなさい。ここで先生は待っているから。……本当はエイジ君にこれを言うつもりだったんだけれど、彼にはもう、充分な相棒がいるみたいだし」

 笑って見せた先生に、リッカは何度も言葉を継ぎかけていた。

 ダムドの事、ジガルデの事、話してしまえればどれだけ楽であっただろう。

 だが、それは出来ない。エイジが旅立つ本当の理由を、誰も知らないまま送り出される。それが、自分の中では辛かったのだ。

 誰もエイジの「本当」を知らない。そのまま、この始まりの町から旅立たなければならないエイジに、気の利いた一言なんて誰だって言えるものか。

 そんな嘘くさい代物、とまで思っていたリッカに先生は言いやっていた。

「……正直、ね。エイジ君とリッカちゃんが、羨ましいかも」

「羨ましい? でも先生は、アローラの島クイーンで……」

 こうしてランセ地方の田舎町まで来た実力者ではないか。そう言いかけていたリッカは、先生の次の言葉に口を噤んだ。

「先生も、ね。あっちからこっちに来る時に先生の先生……まぁ、お師匠さんと喧嘩しちゃってね。ランセ地方なんて遅れた地方に教師をやる馬鹿がいるかって。カンカンだったのよ」

 思わぬ告白にリッカは困惑していた。先生は柔らかな相貌に影を差す。

「……大喧嘩の末に、結局先生は、師匠から勝ち取ってここに来たの。カプ・コケコはその証」

 だったのなら、今の自分とエイジを止められるはずだ。止めるだけの言葉を持つ大人のはずであった。

 しかし、先生にはそのつもりもないらしい。どこか懐かしむような声音で、かつての日々を口にする。

「その証を、いつか誰かに破ってもらうのが、きっとここまで来た意味だったのかもね。だって先生をやるんだもの。教え子がいつか旅立つのは仕方ないのよ。その時に、一番の障害になるのも、きっと変えられない運命なのでしょう。それを、師匠は分かっていたのね。だから、全力で止めて、嫌な役に徹した……」

 先生の師匠がどのような人であったのかは予想するしかない。それでも、いい人であったのは確かなはずだ。そうでなければ、こうして自分達を出送ってくれるはずもない。

 きっと大切な事をたくさん教わったのだろう。

 それに比して自分は、何度も授業を抜け出した。怒られてもいいはずなのに、先生はそのような素振りを少しも見せない。

 一人の大人である前に、旅立ったかつての子供として、自分に語り聞かせてくれているのが分かった。

「……先生は、後悔した事はないんですか。旅立って、故郷にも喧嘩別れして……」

「後悔? ……不思議なんけれどね、ないの。何だかあなた達に対して教師をしていると、そういうの忘れちゃってた。ここで誰かの旅立ちの時に立ち会えるだけで光栄だって、そう思えていたのかもね」

 だとすれば、自分はかつての先生の子供時代のように無鉄砲に飛び出す愚か者に見えているのだろうか。

 問い返そうとして、リッカは不意に抱き留めてきた先生の体温に呼吸も忘れていた。

 大人のあたたかさに言葉も出ない。

「先生……」

「お願いね、リッカちゃん。エイジ君を見てあげて。先生はここまでだけれど、リッカちゃんなら見てあげられる。あの子が最後の最後に何を掴むのか、それを目を逸らさずに、最後まで……」

 後半は涙声になっていた。リッカは先生の頬を流れる大粒の涙を目にする。先生は赤らんだ頬で、あれ、と声にしていた。

「おかしいな……。泣かないって思っていたのに。泣き虫で、ごめんね……」

 ううん、とリッカは頭を振る。自分の頬を伝う熱いものを茶化せないように、他人の涙だって茶化せるものか。

「約束……します」

 この言葉を決して忘れる事はないだろう。誓うのは、誰でもない、自分自身に、であった。



オンドゥル大使 ( 2019/07/10(水) 21:00 )