第十二話 虚飾の上で
漂っている感覚にエイジは手を伸ばす。
眩く煌めく水面が天上に広がっており、自分は深海へと沈みつつあるのが窺えた。思えばこっちのほうが随分と現実めいている。
非現実――ジガルデコアの闘争に巻き込まれて自分がダムドと名乗るそれと契約した――そんな事実よりもよっぽどだ。
自分は弱い、最底辺のまま彷徨い続けるだけだろう。ハジメタウンを出る事も叶わない。恐らくは一生、地の底に近い場所に根を張るように。
そういうのがお似合いなのだ。だから、自分には世界を変えるだけの力もなければ、それ相応の知恵も存在しない。
分かっていたはずだ。何もかも諦観の向こう側に置いてきたはずなのに。
脳裏に浮かぶのはジガルデコア――ダムドの声であった。
確信に満ちた声音、自信に満ち溢れた行動。厚顔無恥でありながら、勇気に溢れたその洞察力。どれをとっても自分とは正反対で、あんなものが自分の身体を支配していたなど悪い夢に等しい。
そう、これはきっと、悪い夢。
だから醒めればお終い。醒めれば終わる。
醒めてくれ、と願ったエイジはいつかの父親の背中を網膜の裏に描いていた。
――父さん。僕は要らない子供なの?
連れて行けないと、そう判断したのは役立たずだからなのか。それとも、重石になるのだと早々に理解したからだろうか。
いずれにせよ、賢い選択だ。
そうと分かっているのならば置いていけばいい。そうだと明確な理由があるのならば、自分なんて連れて行く意味はない。
それでも、とエイジは奥歯を噛みしめていた。
「……でも、僕にも何か……大きなものになれるかも、しれなかったじゃないか」
いつにない、恨めしい言葉に夢の皮膜は剥がれ落ちていた。
視界に大写しになったのは無数の円弧を描く機械である。それらが自分の身体へと様々な光線を浴びせ、解析しているのが分かった。
エイジは仰向けになったまま固定されている。自傷防止のためか、猿ぐつわが噛まされていた。
手首を動かそうとしてそれさえも自由ではないのを感じ取る。
呼吸をつくと近くの機械に鼓動と脈拍が克明に映し出されていた。
まるで観察されているかのようだ。思わぬ空間にエイジはもがこうとして、声に遮られていた。
『動かないほうがいい。君に手出しをするつもりはないのだから』
大人の男性の声にエイジは硬直する。
『ただし、ちょっと身体検査をしてもらう。君があれと契約したというのならばね』
あれ、と濁されたのがジガルデコアなのだとエイジは瞬時に理解する。それと同時に、夢の境界から自分は醒めたのだと感じ取っていた。
夢ならばどれほどによかっただろうか。エイジは項垂れる。
『検査の後、私のところに来てもらう。君には色々と聞かなければならない。我々も、出来るだけ協力したいと思っている』
協力、という胡散臭い言葉にエイジは一瞥を投げかけて、近づいてきたレンズに阻まれていた。レンズが眼窩へと押し付けられ、そのままシャッターが切られる。何を精査しているのか分からないまま、エイジは実験動物の気分を味わっていた。
「室長。Z02の宿主と見られるサンプル14に、妙な変動値は見られません」
その報告にサガラは採取したデータを子細に分析していた。サンプル14――あの少年の体内を探ったがどこにもセルもなければコアもない。
しかし、契約のパスは確認出来る、とサガラは彼の手の甲にあるスペードの文様を睨んでいた。
「Z02はギリギリのところで逃げ切った、か」
苦々しく呟くと司令室より声がもたらされる。
「実際、Z02による影響はほとんどありません。……奇妙なほどです。セルに寄生されたのならば脳神経のシナプスに何らかのフィードバックはあるはずなのに、その痕跡もない。加えてコアによる人格破壊なら、もう彼は廃人です。ですが、依然として人格が存在している」
「Z02のやり方にしては手ぬるい……それが結論だな」
嘆息をついたサガラは情報同期された端末が鳴ったのを聞いていた。
「失礼。……何だ?」
『よう、どうだ? ジガルデコアと契約を果たした少年Aは』
茶化したオオナギにサガラは頭を振る。
「そういう言い草は……いや、そういうものか」
『今まで煮え湯を呑まされてきた相手にようやく肉薄出来たんだ。喜んでいいはずだろ?』
「そうでもない。検査結果はまだ正確には出ていないが、今のところサンプル14に、契約による人格破壊や寄生された事による脳細胞の変異は見られない、という」
その結論に通話先の相手は疑念を挟んだ。
『……そいつは……変じゃないか? だって、Z03の時は……』
「同じと思うな、なのかもしれないな。ジガルデ同士でもこうも差があるのか。あるいは、Z02が何か……彼に対して肩入れしているか」
『肩入れ? Z02が? そいつはあり得ないだろ。奴は追跡する人間をことごとく……』
「そう、排除してきた。だから人間的感情なんてものは存在しないのだと、我々は断定してきたのだが……」
ここに来て仮説が覆されると、それはそれできついものがある。サガラは前髪をかき上げ、ぼやいていた。
「……これまでのデータ通りの相手ならば、まだやり易かったのだが……どうにも違う。Z02はまだ我々には窺い知れない何かなのかもしれない」
『でも、あの強盗犯は確かにセルの痕跡があったって聞いたが』
「耳聡いな。まぁ、その通りなのだが」
少年とは別の実験施設に収容されている強盗犯は既に解析済みだ。そちらのデータを参照すると「破壊衝動を誘発された」という調査結果がある。
今まで通り、セルによる寄生暴走事件。それもこれも、自分達が手を焼いてきたのと同じような案件だ。
「サンプルが同じ条件で、違う結果を示している。どちらを決定打にするのかは上が決めるだろう」
『どっちにしたって、Z02を捕獲するって方針からは変わらないんだろ? だったら契約者を餌にするのが……』
「最も効率的、だがそれも分かっていて、私は彼の身柄を引き取っている。勘繰りが過ぎると嫌われるぞ」
『へいへい。じゃあ執行部はせいぜい、守りに徹しさせていただきますよっと。言っておくが、あの腕利きを斡旋したのは俺なんだぜ?』
腕利き、と脳内で繰り返しつつサガラは時計型端末に表示された執行部の大男を参照していた。
「ザイレム執行部所属……クジラ、か。妙な名前だな」
『コードネームって呼んでやれ。本人は気に入っているらしい』
読めない相手ばかりだ、とサガラは鼻を鳴らす。
「有するポケモンはドヒドイデ。……暗殺者か」
『元、だよ。その経歴に関しちゃ、俺も上も不問に付している。ま、強ければ何でもいいってのが本音だな』
元暗殺者に自分達の手駒を任せるのもなかなかにリスキーだ。サガラは壁に体重を預け、天井を仰いでいた。
蛍光灯が淡く輝いている。この地下施設では唯一とも言える光源。これがなければ、自分達は穴倉にこもるモグラに等しい。
『だが、Z02に至るだけの証拠は手に入った。いい事じゃないか』
「……いつ不都合だと言った?」
『言葉振りがそう言ってるよ。実際のところでは契約者を探す前に確保するのが正解だったんだろ? 契約済みとなっちゃ』
「なに、サンプル12がその点では好例だ。ジガルデコアとの契約に際しては、彼女の経歴が分かりやすい」
『トゥエルヴ、か。あの子はまだ?』
「……まだ、実戦にはほど遠いだろう。上が囲っている」
『連中、実際のところはジガルデのもたらすゾーンの叡智が欲しいだけだろ? そのために女子供でも利用する、か』
「組織の中で陰口は叩くものじゃない。いつ悟られるか分からんぞ」
『ご心配なく。今のは秘匿回線に設定しておいた』
そういうところはちゃっかりしているな、とサガラはフッと笑みを浮かべる。
「私は一度戻る。彼に関して、まだ調べなくてはいけない事が山ほどあるのでな」
『その前に、聞いておくぜ。もし、Z02に対して、少年Aが友好的な価値観を築いていたとすれば? お前はどうする?』
「何だ、その仮説は。笑えないぞ」
『笑い話にするつもりはないさ。これはマジの奴』
笑い話にするつもりがないのならば、こちらの決定は既に覆らない。
「言っておく。そんな事はあり得ない。そしてもし、彼がZ02に対して温情のようなものを感じているのならば、それは最大限に利用する。そういうものだ」
そう、そうするのだと自分は決めたのだから。