第三話 ランセの少年
草いきれの強い空間を抜け、ようやく追いついたその光景に、彼は感嘆していた。
「……すごい。枝のアーチだ」
木々が複雑に絡まり合い、緑の自然造形を生み出している。その中央で二つの影が対峙していた。
片や、息を切らした新緑の巨体である。後部に向けて円弧を描く鋭い角と、草木に紛れるかのような色彩の体躯は常であるのならば、森林の守り手として相応しいであろう。
今はしかし、その足首に打撲痕があった。
それを見て少年は口にする。
「怖がらないで。僕とイワンコは敵じゃない」
イワンコ、と呼ばれたのは対峙する茶褐色の四つ足ポケモンだ。獣というのには随分と丸っこい瞳と、そして愛玩動物を思わせる矮躯である。
少年は威嚇の咆哮を上げた相手を見据えていた。
「ゴーゴート……。カロスなんかじゃ都会でも乗られているポケモンのはずだ。大人しい気性なのに……今は」
今は手負いの獣の意地か、興奮状態にあるのが窺える。少年はそっと、声にしていた。
「イワンコ。練習した通りに当てるよ。行け! ストーンエッジ!」
イワンコが地面を蹴りつける。浮かび上がった岩石へとその矮躯で体当たりする。全力の突撃が生み出したのは岩石の粒が一斉に対象へと殺到する技だ。
「ストーンエッジ」は岩タイプの高威力技。それなりのリスクは存在するが、オーソドックスに使われる技である。
だがこの時、そのリスクは発生してしまった。
イワンコが姿勢を崩し、その反動で岩の散弾が少年へと飛びかかる。咄嗟に腕を翳した瞬間、水の皮膜が輝いて拡張していた。
「フローゼル! アクアブレイク!」
生み出された水の皮膜が拡散し、黄色の表皮を持つポケモンが尻尾を振って水を自由自在に練り上げた。
ゴーゴートへと突き刺さり、その巨躯が揺れる。
黄色の表皮を持つ水ポケモンはそのままゴーゴートの死角である懐へと飛び込んでいた。
四つ足のポケモンは常に腹部が最大の弱点だ。そこに小回りの利くポケモンが入れば、後は推し量るまでもない。
戦局は一変し、フローゼルと呼ばれたポケモンが水を尻尾に纏いつかせ、打ち上げていた。
「アクアジェット!」
水の推進剤が至近で焚かれ、ゴーゴートの巨体が持ち上げられる。
瞬時に攻勢が逆転し、ゴーゴートが地面に倒れる。
「まだよ! 相手は草タイプ。油断せずにそのまま追い打ちの一撃を――」
「駄目だ! リッカ!」
割って入った少年に、先ほどからフローゼルに命令を飛ばしていた少女は憮然と腕を組む。
「退きなさいよ、エイジ」
「駄目だって。彼は怪我をしているんだ」
「だからって、自分のポケモンの放った技の余波から守った幼馴染に、一言の労いもないわけ?」
痛いところを突かれ、少年――エイジはうろたえていた。
「……悪かったよ」
丸みを帯びた茶髪を掻くエイジに髪を二つに結い上げた少女は勝気な瞳で睨み上げる。
「弱いのに前に出過ぎなのよ。イワンコだってかわいそう」
名前を呼ばれて当のイワンコは首を傾げていた。エイジは優しく言いやる。
「大丈夫だよ、イワンコ。リッカだって分かってくれているんだから」
諌めるとリッカは怒り心頭といった様子で責め立てた。
「よくない! あんた、何回死にかければ気が済むの? この間も大怪我したじゃない!」
「だから、それは……。ストーンエッジの命中精度を上げようとして……」
「そのストーンエッジだっていつになったらまともに習得出来るのかしら? これじゃ、ジェネラルランク2からの昇格も難しそうね」
「……そ、それは言わない約束だろ」
エイジだって意地はある。しかしリッカは頑として認めなかった。
「いいえっ! あんたがいつまで経っても最底辺じゃ、幼馴染のあたしの沽券に関わるの! いい? ジェネラルレベル最下位なんていくらハジメタウンが辺境だからって馬鹿にされるわよ?」
「それは……でも仕方ないよ。ジェネラルレベルは上げようと思って上げられないんだから。あっ! それよりもゴーゴートは?」
「エイジ! それよりもって何!」
リッカの追及を無視してエイジはゴーゴートの傷の具合を診ていた。足の打撲は近くで見れば一目瞭然。やはり高レベルポケモンとの戦闘に遭ったのだろう。
「かわいそうに……。今、傷薬で……」
スプレー型の傷薬を振りかけようとして、ゴーゴートが吼えていた。その雄叫びにエイジは腰を抜かす。見かねたリッカが手から傷薬を引っ手繰り、ゴーゴートの傷跡にかけていた。
ゴーゴートも下した相手なら文句はないのか、素直に治療されている。
「……ゴメン。僕じゃ言う事を聞いてくれないよね……」
「野生に嘗められてるんじゃ、この先高が知れているわよ。それにこのゴーゴートだってレベルは高くないでしょ」
「うん。レベル35……ってところかな。特性は草食……。多分だけれど、反対側の蹄が割れているんじゃないかな? ゴーゴートの得意とする速度戦じゃなくってこういう逃げ場のないところに自分から潜ったって事はあんまり機動力に自信のない表れだと思う」
エイジの言葉にリッカはゴーゴートの蹄を観察し、そこに亀裂が走っているのを発見して、嘆息をついた。
「……その審美眼が、せめてバトルに活かされればねぇ。あんたっていっつも鈍くさい。イワンコならいくら素早くないからってこの状態のゴーゴートの隙をつけたでしょうに」
傷薬を振るリッカにエイジは言い直す。
「イワンコの中距離戦を確かめたかったんだ。それにゴーゴートの傷を悪化させないためには、表皮で止まる技じゃないと駄目だった。僕とイワンコのストーンエッジは未完成だから、ちょうどいいかなって……」
「ちょうどいいかな、で死んだら元も子もないでしょ。はい、これでゴーゴートの治療は終わり。後は自然治癒ね」
ゴーゴートの病状が少しばかりマシになったのは、顔の血色からも窺えた。結果論とはいえ、リッカのフローゼルが水タイプでよかった。これで対抗タイプであったのなら、ゴーゴートは再起不能になっていたかもしれない。
「この自然界のアーチなら、ゴーゴートもしばらくは外敵に怯えないでいいと思うんだ。ここなら治るまで療養出来る」
周囲を見やり、エイジは木々に触れる。言わばこれは自然からのギフトとでも呼ぶべきだろうか。鳥籠のような空間は治療を要するゴーゴートには最適である。
リッカは大きくため息をついていた。
「……死にかけてよく言えるわよ。フローゼルとあたしがいなかったら、あんた今頃傷だらけなのよ? 分かっているの?」
「うん。……でも、うまくいってよかった。これでこのゴーゴートは安全……」
ははっ、と笑って見せたエイジにリッカは心底呆れたようであった。
「あんたさ……、もうちょっと自分を大事にしたら? それとも、何? 医療従事者とかになりたいの? ……あんたお父さんみたいに」
最後の言葉は言うべきではないのだと彼女も思っていたのだろう。それでも、言ってくれれば自分の中でわだかまりを抱えずに済む。
「……どうかな。父さんは立派な医者だったけれど、でも僕はそうじゃないと思うんだ。だからって、この地方の……すごいジェネラルになれるっていうのも、なんか違う気がして……」
リッカは手を叩いてこちらの思案を打ち切っていた。
「はいはい、あんたの言い分は分かったから。スクールに戻りましょ。勝手に抜け出すんだもん。そういうところは図太いのよね」
「……リッカだって、追っかけて来てくれたんだろ? ありがとう。おかげで助かった」
「知らないところで死なれたら寝覚めが悪いだけよ。あんたのお父さんから頼まれてるんだもん。留守の間は、あたしが面倒見るって」
「留守の間は、か……」
エイジは森の木々の合間から空を仰ぐ。今は、どこの空を眺めているのかも分からない父親の事を思い浮かべるのには、少しばかりリアルではなかった。
この空も、この森も、そしてこの町――ハジメタウンも。どこにもリアルがないような気がたまにしてしまう。
それはいけない事のような気がしてしまって、このような考えは早々に打ち切るのだ。
「先生がカンカンよ? ゴーゴートは安全なんだから、とっとと戻りましょう」
「うん、でも戻るって言ったって……」
――それはどこに?
その問いは直後には霧散していた。