8thkiss
咳き込みつつ、カムイは立ち上がろうとする。それをボスが制した。
「いい、カムイ。仕損じた。それが全てだ」
「しかし、ボス。みすみす……」
「いいさ。我々には力がある。ポケモンでありながらポケモンを使役する権利が」
ボスが静かにモンスターボールを床に転がした。
直後、繰り出されたポケモンが翼を折り畳んでキッスへと猪突する。ルージュラの作り出した仮初めの氷の壁がなければ胴体を貫かれていただろう。
氷の壁でも減殺し切れない速度にキッスは一気にホテルの別室へと追い込まれていた。
マスクの下で僅かにかっ血する。
白煙の中、そのポケモンの咆哮が白に沈んだ景色を引き裂いた。
ヒレ状の両翼を持つ、青い龍。攻撃的な外見からその種類を見間違うはずもない。
「ガブリアス……。まさか、そんなにも攻撃的なポケモンを……」
ガブリアスが吼え立て、キッスへと一気に肉迫する。前に出たルージュラが腕を交差させて打ち下ろされた「ダブルチョップ」を受け止める。
床が軋み、エネルギーの余波だけで部屋の壁に亀裂が走った。
「これほどまでの高レベルポケモン……そう容易く貸し出されるわけ……」
こちらの疑念を他所にボスが高笑いを上げる。
「残念だったな、怪盗キッス! わたしの部下が君の獲物を盗ったが運のツキ、という奴だ。君の正体を、わたしは知っている。その上でジョウトPMCと取引すれば、それは前向きに進んだよ。とても好条件で買ってくれた。我々ゾロアークへの人権と、レンタルポケモンとしてのガブリアス。これほどの力もあるまい」
自分の正体。その言葉が首筋に冷水を差し込まれたように肌を粟立たせた。
「あたしの、正体を……」
「二重生活は苦しかろう。怪盗キッス。引導を渡してやろう。我々ゾロアークの手で!」
白煙に煙る景色の中で黒い爪が不意に横合いから差し込まれた。先ほどダメージを与えたはずのゾロアークがガブリアスと組んで攻撃を編み出してくる。
ガブリアスだけでルージュラは手一杯だ。サクラビスを繰り出そうとするも、相手の間断のない攻撃は中、遠距離仕様のサクラビスではやり辛い射程である。
「よくも……コケにしてくれたな。ガキぃ!」
「冗談! コケにしたのはそっちが先でしょうに!」
サクラビスが天井に向けて水の砲弾を放つ。天井に穴が開くも、ゾロアークには何のダメージにもならない。
相手がこちらの手を前にせせら笑う。
「悪足掻きかぁ? 怪盗キッス」
「……どうかしらね」
直後、天井から水流が一気にゾロアークの背筋を打ち据えた。まさか、と相手が息を呑む。
「こんな広大な距離の……アクアリング……」
水流は天井を穿っただけではない。一巡し、こちらへと戻ってくる「アクアリング」の形を取って敵の背中へと叩き込む布石であったのだ。
「嘗めてかかったのはお互い様ね」
相手のゾロアークが倒れ伏す。しかし、こちらの勝負がまだついていなかった。ルージュラがガブリアスの放つ広域射程の「じしん」に後ずさる。
ガブリアスは近距離から中距離、さらに言えば長距離までも可能にする個体。弱点が突けても容易く破れるはずもない。
厄介な敵を寄越したものだ、とキッスは歯噛みする。
「……一つ聞くけれど、こういうのって頭では効率がいいって分かっていても実行出来ないものでしょ? 変なプライドが邪魔をして」
「かもしれないな。通常ならば。ポケモンがポケモンを使役するなど、とでも。あるいは、人間の下につくなんて、と。だが、我々はそういったしがらみからは既に脱していてね。そもそも、ここジョウトでどれほどまでに立ち回れるのかは一切不明であった。解き放たれた身であってもゾロアークという、所詮はポケモン。どこまで行ってもついて回るのはモンスターボールという人間の作り出した呪縛。だが、わたしはこう考えたのだ。呪縛を与えられる側ではなく、与える側になればいい、と。そういう点で言えば、我々ほどの適任もあるまい。人間になれるポケモンなのだから」
「……そこに、プライドとか、同族嫌悪とかが指し挟まれる余地は……」
「ないな。残念かもしれないが。わたしは究極的に、使う側なのだ。使われる側とは違うのだよ」
キッスは眼前の敵が超え難い相手である事を再認識する。自分の立場に寄らず、見得も外聞もない相手というのはひとえに厄介だ。失うものなどないのだから。
「そう……こちらも残念よ。たった一度のすれ違いで、ともすれば同じ目的で戦ったかもしれない相手と、矛を交えるなんて」
ボスはその論調に鼻を鳴らす。
「君とわたしが、か? 残念ながら否、と言っておこう! わたしは覇権が欲しいのだ。ゾロアークとしてではない。最早、種別など、どうでもいい」
性質が悪いのはこういう風に自分の立ち位置を見誤った相手はなかなか自滅してくれない事だ。キッスはこのホテルを覆い尽すルージュの魔術が解けるまであと十秒もないのを再認識する。
自分の領域もあと僅か。だというのにガブリアスを退けられる気配もなし。ボスが余裕を浮かべて歩み寄ってくる。
「怪盗キッス……いいや、その正体は一介の女子高生であったか。裏社会のデータベースを参照すればすぐに割れるだろう。君の覇権ももう終わりというわけだ、怪盗キッス。ジョウトは我々がもらった!」
哄笑を上げる相手にキッスは最後の手段に訴えるべきだと判断を迫られていた。
ガブリアスだけではない。ここにいるゾロアークのボスを「生け捕り」ではなく「殺して」でも任務を遂行する。
そのために必要な手立ては少ない。三つ数えればいいだけだ。ただの三つで自分に課していた戒めは解ける。
一つ。相手を殺してもいい。
楔が外れる。己の中の均衡を保つ部分が崩壊し、敵の命は安くなる。
二つ。相手と同じレベルで戦う必要はない。
ルージュラが自分の反応を関知したのか、ガブリアスから距離を取った。直後、その掌から構築された氷の光弾が、ガブリアスの両手両脚へと纏いつく。
すぐさま光が収束し、錘へと変位した。
ガブリアスは錘を解こうとするが、氷で出来た拘束具は容易く解除出来るようにはしていない。
吼え立てたガブリアスの頭部へとルージュラが拳を放っていた。
眉間が割れ、その亀裂へと氷の針が数百本、集中して一斉射される。これほどまでの攻撃密度など予測していなかったのだろう。
ガブリアスが仰け反り、よろめいた刹那、片脚の錘を倍の重さに設定した。
バランスを崩したガブリアスがよろけ、その隙だらけの体躯へと掌底が打ち込まれる。
ガブリアスほどの高性能ポケモンが容易く突き崩された。まさか尻餅をつくとは思ってもみなかったのだろう。
ゾロアークのボスがうろたえる。
「まさか……ガブリアスが……敗北する?」
まさかではない。その通りなのだ。
もう三秒とない。
三つ目の戒めを解く。
三つ――。一切の慈悲を挟むな。相手の肉片がこの場に残る事さえも愚策と考えよ。徹底的に敵を――蹂躙しても構わない。
教えが脳裏に閃き、キッスはサクラビスを使役していた。
サクラビスが水流噴射で一気にボスへと猪突する。
鋭く尖った口腔部がボスの肩口へと突き刺さった。相手が膝を折る前にルージュラの精密凍結が床へと氷柱を構築する。
膝を折った先にあった氷柱に目論見通り、ボスはかかった。呻き声が上がる中、キッスはルージュラの凍結魔術をさらに凝固させる。
もう一秒とない、レイコンマの世界。
その中でルージュラがボスの頭上へと氷の土台を作り上げた。
すっと、その指先が振るわれれば、ボスはその場で脳しょうを撒き散らせる事だろう。
ただの一言でいい。やれ、と命令すれば。
「ルージュラ……やりなさ――」
不意に戦闘神経へと割り込んできた敵のプレッシャーがあった。キッスは咄嗟に飛び退る。
あまりに反応速度が速かったためか、相手の爪が遅れてキッスのいた空間を引き裂いた。
あまりにその挙動が鈍い。
正体を見るまでもない。サクラビスを呼び戻し、割って入った敵へと制裁する。
そうと決めた、だからこそ、ベタ踏みのブレーキが理性となって己を押し止めた。
「モナカ! でも君は……!」
その声の主を即座に脳裏に呼び出したキッスは、割って入った爪の相手へと殺しの水流を放つのを躊躇った。
サクラビスが殺気を仕舞い、傍らへと降り立つ。
それと新たなゾロアークがボスの傍に接地したのは同時であった。
「……カムイか。世話はかけないはずだが」
「いえ、ボス。これは、俺の問題です」
対峙する相手にキッスは先ほどまで張り詰めていた殺しの神経を切らしていた。
カムイ。ゾロアークの青年。彼が敵に回っていた事は分かっていたはずなのだが、どうしてだか、俗世の名前を呼ばれただけで硬直してしまった。
サギサカ・モナカ――、そのような記号、普段なら気にも留めないのに。
「キッスよ……因縁はお預けだな」
ボスがよろよろと立ち上がり、ホテルの窓辺へと駆けて行く。その背中をカムイも呼び止めようとしていた。
「ボス? 何を……!」
「止めてくれるな、カムイ……。なに、わたしの因果はわたしが片付ける。お前がそうでないのならば、そうでなくっていい」
ボスが片腕のみをゾロアークと化し、ホテルの防弾ガラスを突き破った。
しかしここは地上十五階以上の高空。
生きて落下出来る保障は……と思いかけてキッスは耳馴染みのある羽音が散ったのを、感知した。
高速の飛翔型ポケモンの羽音だ。バリバリと頭蓋に響くこの音はメガヤンマのものだろう。
メガヤンマを使役する相手と言えば相場が決まっている。
「……ジョウトPMC……、ボスが敗れる事も計算済み、ってわけ」
恐らくはメガヤンマに回収された。表向きには死亡扱いに出来るよう、偽装の死体が用意されている事だろう。
完全に、取り逃がした。
自分の正体を知る敵を。
その悔恨にキッスが歯噛みしていると、カムイが人間態へと戻っていた。
「モナカ……君は」
「今のあたしに……その名前で呼びかけないで。迷惑よ」
冷徹に返した声音にカムイが困惑する。彼はまだ分かっていないのだ。ジョウト、コガネシティの内包する闇を。その闇が凝縮した存在こそが、怪盗キッスである事を。
だからなのだろうか。彼は静かに頭を振る。
「でもそれは……本当の君じゃないだろう」
どちらに対して言われたのか、瞬時には判別がつけられなかった。
面を上げたその時、サーチライトが一斉に高層ビルを捉える。
既にノエルとルージュの魔術の時間外だ。警察組織もこのタイミングで勘繰らなければおかしい。
外を張っていたのはキザキであろうか。それともヤマギの用意した別働隊であるかもしれない。
いずれにせよ、ここに怪盗キッスがいる事はもう露見している。
立ち去ろうとして、持て余しているカムイを発見した。彼は、放っておけば警察に捕獲されるだろう。
その後どうなるのかは想像に難くない。
「……来なさい」
だからだったのだろうか。そのような事を口に出来たのは。
呆気に取られたカムイにキッスは手を引く。
「ここから脱出する」