7thkiss
路地番によって封鎖された路地裏で、ふぅと煙草の紫煙をたゆたわせていた。
それを目にしてキッスは尋ねる。
「あら? 嫌煙家だったんじゃ?」
「一つや二つは、人間、嘘がある、っていう事だ」
そう返したヤマギは今時、煙の多い煙草をくゆらせていた。
「キザキの叔父様は?」
「いつも以上に動きが迅速だ。だから油断するなよ。一つでも下手を打てば芋づるなんだ。ノエルだって馬鹿じゃない。切り時は、案外心得ているものだ」
ノエルの側から切られるのは、それこそ怪盗キッスの名折れであろう。その時には存分に困窮させてやると決めている。
「叔父様も分かってきている、と思うべきなのかしら」
「どうだかね。あの人、馬鹿を演じているようで頭はそこいらの刑事くずれよりも切れる。いや、これは勘と言ったほうがいい部分なのかもしれないが」
「存外、馬鹿を演じる人ほど賢しいってね」
ヤマギは煙草を足で揉み消し、情報の入ったカードを差し出す。
「これが、現状、警察の分かっている今回の肝……と言える部分だ。カントーから渡ってきた連中にしては動き自体に素早さがある。キッスが仕損じた、と流布すれば他の勢力だって黙っちゃいないだろう」
「それは、あなたを黙らせれば済む話でもない、という事」
切り返しにヤマギは肩を竦めた。
「僕は切り捨てられる側だ。協力者と言っても、そこまで重要ポストについているわけじゃない。一蓮托生とまでは行かないが、キッスの働く盗みである程度利益をもらっている以上、馬鹿を演じるさ」
「そう……でも本当に怖いのは、馬鹿を演じさせてもくれない連中」
「分かっているじゃないか。これを」
懐から取り出された写真には粗い画素ではあるが、高級ホテルのロータリーから外車に乗り込む重役を写し出していた。
「これは?」
「ジョウトPMCの重役、ジョークマン。前回の火種だ。どうやら怪盗キッスには切っても切れぬ因縁があるらしい」
ヤマギも勘付いているのだろうか。自分の正体に。
肉薄されれば、とキッスはホルスターに指をかけかけて、ヤマギの声に遮られた。
「あーあ! このジョークマンっていうの、本当に面倒くさい! ……警部と喰い合いするのは勝手だけれど、僕を巻き込まないで欲しいよ」
それは分かっていての発言なのか。それとも本当に馬鹿を演じているのかは分からなかった。
「キザキの叔父様とは、犬猿?」
「随分と。現場で顔を合わせる度に皮肉る仲だ。どうにも、譲り合えない部分があるらしい。警部も大人なんだから分かれって話だよ」
「キザキの叔父様は大人なようで大人じゃないから」
ヤマギは大仰に頷く。
「それは本当に。もうちょっと物分りがよければ上にも気に入られるだろうに」
暗に、自分は出世コースに恵まれている、とでも言うべき主張にキッスは口を挟まなかった。
こうして汚職に塗れていても、それが王道の正義ならばまかり通る。逆にキザキほど愚直でも、それが正道でなければ失脚するのは目に見えている。
「どうかな。キザキの叔父様、馬鹿正直なりにやるべき事は見据えているから。あなたほど墓穴は掘らないかもしれないわよ」
「そりゃとんだ忠言で。にしたって、ジョウトもきな臭くなったもんだよ。外から来た連中に掻き乱される程度には、混沌が占めている、と思うべきなのかもね」
ジョウトPMC。全ての因果が繋がる場所は近いようで遠い。
このジョークマンなる人物に天誅を下せるのはもっと先になるだろう。
「もらったデータチップ、入っている情報は?」
「それこそ、見てもらえれば、って事だが、言っておくと、新参狩りをして欲しい、っていうお達しだ。ノエルのような管理職からしてみれば頭の痛い案件だろうさ」
「新参狩り……あたしは別に、狩人のつもりは」
「でも、ここのシマを任されているのは怪盗キッスの専売特許。恨むのならば初代キッスの手腕を恨むんだな。彼はよくやった」
師匠を引き合いに出されればキッスは飲み込むしかない。
「……キッスの名に、泥は塗れない、ってわけ」
「簡単に言うと。まぁ、名前なんてどうでもいいと思っているのなら、僕は関知しないが」
ここジョウトでキッスの名前が意味をなくす時は、それこそ死ぬ時だろう。データチップを手に、キッスは声を振りかけていた。
「警察は今回、手を出すつもりは?」
「あんまり積極的じゃなさそうだね。もっと言えばジョウトPMCと、警察上層部は蜜月の関係を築きたいのだが、それにしては正義感の強い刑事が邪魔をしている、という構図だ。その刑事の一家言を無視して事を進めれば、それこそ内部告発の憂き目に遭う。警察は警察で、内々が怖いのさ」
「そう……どこでも儘ならんもの、というわけね」
「しがらみから脱したければ組織を辞めるしかない。だが、組織はそう簡単には足を洗わせてくれる様子もなくってね。今のところ、双方にとって良好な関係が築けている以上、さして変化を求めてもいないのさ」
警察だけではない。ノエルの管理するこのジョウト、コガネシティ。それそのものが大きな組織という縮図。余所者は淘汰される。ジョウトPMCはその点ではうまい事、取り入ったものだ。自分に狩られるどころか、狩る側に回るとは。
「でも、彼らは納得するかしら?」
「納得、する、しないじゃないんだろう。そんなもので君はキッスになったわけじゃあるまい」
首筋にあるキスマークと「KI−55」の刻印が疼く。どこまで行っても、この因縁からは脱せられない。
「……今回の案件、あたしの一存で回しても?」
「上はいい顔をしないだろうが、それでも通るようには便宜を尽くそう。問題なのは、キッスが仕損じた、という一面。取り返したいとすればそれだけだろう」
ノエルの面子もある。このジョウトで、キッスこそが唯一無二の怪盗でなければならない。それ以外のこそ泥はパワーバランスを崩しかねないのだ。
「あたしが……もしも、だけれど、その一味を完全に駆逐すれば、今回の一件は不問に付されるのかしら」
「一度でも仕損じた怪盗は信用が落ちたと思うべきだ。もっと大仰な仕事を任せられる可能性は棄却出来ない。それを断れない、という状況も」
二本目の煙草に火を点けたヤマギにキッスは嘆息をつく。
「……むしろそれ狙いで、今回、彼らをけしかけた、という可能性は?」
「可能性世界なんてどれほどまでにほじくり返したって旨味がないだろうさ。キッス、君がするべきなのは盗品を取り返す事。そしてコガネのルールに従わない相手の駆逐のみ。それ以外は考えるな、という話だ」
また人形になって戦えというのか。
――あの日々のように。
一瞬だけ脳裏を掠めた硝煙の日常を考えないように、キッスはデータチップを翳した。
「偽物なんて掴ませないわよね?」
「信用問題だと言ったばかりだ。キッス。僕はただのおつかい。取って来いも出来ない遣いなんて誰が寄越す?」
ヤマギはまだ組織と序列に忠実というわけだ。キッスは一瞬のうちに屋根まで跳躍していた。
路地番がヤマギへと歩み寄り、時間だと告げているのを見下ろし、キッスはコガネシティを駆け抜ける。
傍らには相棒のポケモンであるルージュラが氷の道を作ってくれていた。
白く輝く息を吐いて、キッスは標的に据えたホテルを目指す。
どのような事情があろうと、狩ると決めたのならば遂行せねばならない。それがたとえ怪盗の道にもとっても。
怪盗キッスはこの街で生きている悪党でしかないのだ。
この街でなければ、キッスは生きてはいけないだろう。
それほどまでに雁字搦めになっている。もう抜け出せないしがらみ。
「……あたしも、結局は、自由の道を選んだようで、自由じゃないって事か」
ただの女子高生として生きていくのにはこの手は血に塗れている。ここまで汚れた人間が何もせずに生きていけるほど容易く出来てはいないだろう。
悪徳の上に悪徳を重ね。罪の上に罪を被せる。そうする事でしか、何もかもを贖う術がない。
キッスはホテルの裏門へと音もなく舞い降りた。
既に警備状況はノエルが掌握済みだ。手薄になった警備の網を突き、キッスは瞬時にホテルへと潜り込む。
警備室へと入ったところで、先ほど手渡されたデータチップをコンソールへと差し込んだ。
刹那、何もかもが反転する。
赤く染まった廊下が監視カメラ越しに映し出され、高級ホテルならではの警備システムが稼動する。
データチップの中にはキッスにとって都合のいいルート以外を封殺する術が入っていた。防御隔壁が下り、消火用の白い煙が通路を満たしていく。
「行くわよ、ルージュラ」
ルージュラの手によって氷のガスマスクが構築される。
キッスは自分専用の潜入経路を駆け抜けた。
警備など最早気にするまでもなし。
催涙性のある煙の中では誰も自分を止められないだろう。一気に目標の階層へと登り詰めたキッスは、そこで息を詰めた。
敵を仕留めるその瞬間こそ、一番に気を張り詰めなければならない。
それは「クチバインダストリアル製55号」として身に馴染んだ所作であり、なおかつ生き延びるための最短手段でもあった。
キッスになった後でもそれは変わらない。
相手が死に物狂いでこちらへと伸ばしてくる手こそが危険なのだと。
一呼吸置いて、キッスは自分を戦闘用に磨き上げた。
直後にはルージュラの氷の魔術が部屋を取り囲み、絶対の檻を約束するはずであった。
――白煙を切り裂いてゴウカザルが踏み込んでくるまでは。
「ルージュラ!」
こちらの声に応じてルージュラが氷で固めた腕を翳す。ゴウカザルの猛攻がこちらの防御を崩し、蹴りがルージュラの頭頂部へと浴びせかけられた。
ルージュラが一瞬だけ意識を手離す。その一瞬だけでも相手からしてみれば好機。
拳を固めたゴウカザルへと、キッスは次の手を打っていた。
「サクラビス! ハイドロポンプ!」
サクラビスの筒先の口腔部から水の砲弾が発射される。弱点タイプを受け、ゴウカザルの皮膜が銀色の輝きと共に引き剥がされた。
思った通り、相手はカムイの仲間であった。
舌打ちを漏らした相手にキッスは対峙する。
「……クソが。ジョウトの小悪党が仕掛けてくるとは聞いていたが、早過ぎるだろ……。あのジョークマンとか言うガイジンは何して……」
「そのジョークマン、あまりに軽率が過ぎたみたいね」
こちらの声音に相手は歯噛みした。銀色の皮膜が再構築され、相手は人間態から黒色の獣へと変貌していた。
鋭い爪を翳し、敵が跳躍する。
「ルージュラ! サイコキネシス!」
思念の渦が相手へと叩き込まれかけて、敵の掌底から黒い瘴気が棚引く。
「ナイト、バースト!」
干渉し合ったのも一瞬。すぐに均衡は破られた。
ゾロアークの放った黒いエネルギーがルージュラを押し戻す。どうやらタイプ相性上、不利な様子だ。
「だったら! サクラビス! 相手の体力を奪う!」
サクラビスとルージュラが同時に投げキッスを放った。その猛攻にゾロアークがたたらを踏む。
「……ドレインキッスか……。チクショウが」
よろめいた相手へとサクラビスの水の砲弾が突き刺さった。
これで相手へと肉薄出来る。キッスは白煙の作り出した自分の狩人の時間を概算する。
恐らく残り二分ほど。
その間に相手のボスを潰さなければ意味がない。
ゾロアークをすり抜けホテルの一室の扉をキッスは蹴り抜いた。
押し入った部屋の中心で裏路地と変わらぬ面持ちを携えたゾロアーク達のボスが立ち上がる。
「怪盗キッス……来ると思っていた」
「来ると思っていたにしては、随分と軽率ね。この程度の警備、ないのと同じよ」
「だろうな。我々も常々、そう思っていたのだ。だからこそ、手は打たせてもらったよ」
「お仲間の事? もうおねんねよ」
その言葉にボスは失笑する。
「ゾロアークなど、所詮はそんなものだ。悪タイプとはいえ、器用に立ち回れるようには出来ていない。それくらい、自分で理解している」
「そう……。じゃあここで狩られるのもやむなしと思っている?」
「狩られる? 狩るのはこちらだとも。怪盗キッス」
ボスの手の中にあったのはモンスターボールだった。まさか、とキッスは息を呑む。
「ジョウトPMCから……」
「耳聡いな。だがあまりにも耳が早いと、嫌われるぞ。怪盗キッスよ」
刹那、背筋を差すプレッシャーの波にキッスは習い性の身体を沈ませた。
頭部があった空間を引き裂いたのはゾロアークの爪である。沈ませた体躯から比重をかけ、浴びせ蹴りを相手の横腹へと突き刺した。
ポケモンに拮抗する力がゾロアークを突き飛ばす。
相手のゾロアークの変身が解け、人間態へと戻っていった。
その姿にキッスは瞠目する。
「カムイ……」
「……キッス」