6thkiss
面会時間は三十分以内、だと聞かされる。
「金品の受け渡し、及び手紙でさえも禁止します」
そこまでの物々しい警備にキザキは辟易する。
「まさか、そこまで重要人物だとは。何者なんだ? カシワギ博士とは」
「……詳細は報告書の体で出す。面会は面会だ」
つまり余計な事は聞くな、という意味か。心得たキザキは足を進めていた。
ガラス越しに項垂れている女性を目にする。椅子に腰かけ、看守の目が届く中、声を投げた。
「カシワギ博士、ですかな?」
女性がぴくりと反応し、面を上げる。まだ若々しい。新進気鋭の研究者という評は間違っていない。
「どちら様……ですか」
「失礼、自分はこういうものです」
警察手帳を差し出し、身分の確認をする。カシワギ博士もまさか、警察がここに来るとは思ってもみなかったのだろう。
驚愕に塗り固められた表情に一滴の疑念が宿る。
「警察……、しかもジョウトの? どうして、私に?」
「博士の身分はジョウト政府が所持しているそうですな。随分と厳重な警備の中であなたは守られている。……いや、デデンネが抜け出す隙もないこれはまさしく監獄。その最重要ポストだ。あなたは……政府にとって都合の悪い事実でも掴まされたのですかな?」
「……陰謀論、ですか。しかし、私はそこまでの人間ではありません。刑事さん」
「キザキです」
「では……、キザキさん。私はただの刑の執行を待つばかりの大罪人。あまりお話出来ることはあるとは思えません」
「そうですかな。あなた自身がそう思い込んでいるだけかもしれません」
「買い被らないでください。私は、ただ単に……思想犯なだけです」
「危険思想だと、カントーより爪弾きにされた異端の研究者。あるポケモンの能力面での顕現において、突出した特性を理解し、学会ではあなたを第一人者だと賛美する声もあったとか」
「よくお調べになりましたね。でも、今の私に言える事なんてありませんよ」
「それはカントー政府の圧力ですかな?」
キザキの物言いにカシワギ博士は静かに微笑んだ。
「……不思議なお人ですね。権力が怖くないのですか」
「怖いですとも。しかしその権力を前に、何も言えなくなるのはもっと怖い性質でして」
「まぁ……、難儀な方ですね」
「自分でもそう思っております」
笑ってみせたキザキにカシワギ博士は、ふふと笑みを浮かべる。
「公権力はしかし、怖いなんてものじゃありませんよ。言論統制、思想の検閲、研究対象の露呈、情報の封鎖……考え出せばきりがない。どこまでも続く無間地獄と、何が違いましょう?」
「仰るとおり、確かに恐ろしい。しかし、あなたは抗った。違いますか?」
こちらの問いかけにカシワギ博士は頭を振る。
「だから、買い被りだと……。抗い損ねた負け犬です、私は」
「損ねたにしては、その対象物、研究成果は大きかったようではありませんか。ゾロアーク、という種類でしたか」
キザキは懐に仕舞っていた写真を取り出す。ゾロアーク、という名の黒き獣のポケモン。二足歩行の赤と黒のポケモンはどこか聡明な光をその眼差しに宿している。
カシワギ博士は面を伏せた。
「私の……忌むべき研究です。どこに誉れなど」
「自分はポケモンに対して、とんだ素人です。何も言えやしません。無論、プロフェッショナルであるあなたに、意見を乞うてもどうせ耳を右から左でしょう。それくらい疎いのです、自分は」
「まぁ……刑事さんが威張る事じゃありませんわね」
少しだけ警戒を解いたカシワギ博士へとキザキは別のアプローチを取る。
「だから手持ちもありません。ポケモン犯罪に関しては何も言えない、というのが正直なところです。しかし、現場は人手不足でしてね。自分のような門外漢でも、招集される事もある」
「どこでも同じですね。人手不足は」
「元々、この研究分野に進まれるつもりではなかったとお聞きしました。カシワギ博士、あなたは本来、ポケモンの専門家というよりも別種の……何といいますか」
「はっきり仰ってもよろしいですよ。マユツバの現象に情熱を傾けた、危ない女だと」
カシワギ博士はこの場でまだ冷静を保っている。話し合いに値する相手だ。そう判断したキザキは、では、と首肯する。
「そのマユツバについて話させてもらいます。幻影、と呼ばれる現象に関して」
こちらの手札を切った形のキザキに対しカシワギ博士はどこまでもフラットな目線であった。
「何を言えばよろしいですか?」
「そうですな……まずは幻影、と呼ばれる現象について。基礎的な事を」
「……ここはハイスクールではありませんよ」
その返しにキザキは快活に笑ってみせた。
「学もありませんで。どうにもご教授願わなければならないようです」
カシワギ博士は顔を上げ、キザキの目を真っ直ぐに見据えた。
「例えば……こうして向き合っている私は今、実在する人間だとお思いですか?」
いきなり胡乱な質問が飛んだな、と胸の中で感じつつキザキは冷静さを欠かない。
「自分の言える範囲では、そうだと」
「そう規定する材料は?」
「監獄という場所において、存在証明には事欠かないでしょう。監視カメラ、ID、起床時刻から就寝時刻まで、事細かに記録が記されているはずです」
「そう、記録です。キザキさん。記録というものが、我々人間の認識に強く結びついているのです。記録は、客観です。客観とは、それ即ち、覆せない事象の事。我々人類は覆せない事実証明を何度も成り立たせ、その上に仮初めのものを立脚させているだけなのです。レンガ造りのように、それは下に行くほど堅牢ですが、上はガタガタ。どうしてだと思います?」
質問と来たか。キザキは熟考する時間も惜しい、と直感で応じていた。
「……記録の上にあるのは、我々が関知する範囲……認識の世界でしかない、からですかな」
うんうん、とカシワギ博士は満足そうに頷く。どうやら最初の試験は通ったらしい。
「その通り。認識の世界は記録世界に比べてとてつもなくぐらつきやすいのです。それは我々が記録ではなく、記憶に依存しているから。記憶とは、分かりやすく言えば思い出であったり、そうだと信じ込んでいたりする社会という名の規範、根本的な基盤でもあります。人間という生物は記録という磐石な世界の上で、記憶というドミノ倒しを組んでいるに過ぎない。いつ崩れたっておかしくはないのです。そうだと言うのに、皆が依拠するのは、記録ではなく記憶です。どうしてだかお分かりですか?」
禅問答だな、とキザキはこの会話でさえも録音されている事に思い至る。あまり馬鹿を演じてもいられない。
「……記録は、それはだってただの事実です。しかし記憶というものは事実である必要性はない。そこに、客観を潜り込ませるのは間違いだからでは……ないでしょうか。記録は間違いようのない客観ですが、記憶は主観です」
カシワギ博士は微笑む。後ろ手に拘束されているため、拍手が出来ないのが惜しいように身体を大きく頷かせた。
「ほとんど正解です、キザキさん。……あなた、実は勉強は出来るほうだったのでは?」
「いや、てんで。自分は動物的直感ばかりですよ。だからマークシートではそこそこですが、記述式では毎度、赤点です」
こちらのジョークが効いたのか、カシワギ博士は随分と警戒を解いた様子であった。
「言葉遊びがお上手ですのね。でも記憶と記録の違いに着目した点で言えば、あなたは随分と真実に肉迫なされています。このまま下手な教師の言葉繰りに付き合わされるよりも、そのまま捜査に戻られたほうが賢明かと」
キザキはしかし、ここで到達すべき事実には、まだ依然遠い事に気づいていた。カシワギ博士はまだ重大な何かを隠している。それを炙り出さなければ、畢竟、ここまで来た意味がない。
「博士……あなたはとても、聡明なお方に映る。なればこそ、聞かせていただきたい。その幻影、何らかの応用が利くのではありませんか?」
その言葉にカシワギ博士は解きかけた警戒の糸をきつく戻した。彼女の中で、何か超えてはならぬ一線の部分に触れたらしい。
「刑事さん……何を仰っているのか」
「では分かりやすく。犯罪へと、転用出来る代物ではないのですか?」
ここまで直截的な物言いをすれば嫌でも分かるだろう。今回、自分が訪れたのは何も伊達や酔狂ではないのだと。
カシワギ博士は、フッと口元に笑みを刻んだ。
「犯罪捜査……ポケモンによる完全犯罪……、キザキさん、あなたは浪漫を見ているようですね」
「浪漫、ですか」
「ええ、そうですとも。ポケモンによる完全犯罪、その一端と思しき幻影なる事象……。繋げたくなる気持ちは大いに分かります。ですがそれは、不可能なのです」
不可能、と断じた博士にキザキは問い質す。
「失礼ながら……不可能、とまで言い切れる自信はいずこに?」
「ポケモンは意識するにせよ、しないにせよ、微粒子を常に帯びています。これこそが、ポケモンが大自然に働きかけ、水辺ではないのに水を使い、炎の種火がどこにもないのに炎の力を用いる事が出来る、その根幹だと研究者の中では常識に近い部分になっています」
「それは……初耳ですな」
「嘘でしょう? 犯罪捜査に関わるのならば小耳に挟んでいてもおかしくはないのです」
しかし、実際にキザキは聞き及んだ事はなかった。キッスを追うのにかまけていて、ポケモン方面の知識はてんでなかったのだ。それで八年もよくキッスを追えたものだと言われれば、素直に肩を竦めるしかない。
キザキの様子に嘘がないのだと感じ取ったのか、カシワギ博士は頭を振った。
「……純粋ですのね、キザキさんは。嘘がお下手な様子です」
「だから、てんで人を騙すのには向いておらんのです。刑事なんていう、正直者が馬鹿を見るような職業についておるのはそのせいで」
「警察というものはもっと賢しいものだと思っておりました。だから、私を捕まえたのだと」
ジョウトの警察の管轄ではない。彼女を拘束せしめているのはカントーの警察権限だ。
だからこそ、こちらに回ってくる情報は少ない。今は、ここで一つでも、報告書にない情報を得るのが先決であった。
「カシワギ博士。あなたはゾロアーク、という種族の幻影という側面を切り取り、きっちりと解析せしめた……自分から言わせてもらえれば、及びもつかない、……偉人です。それほどのお方が何故、このような黴臭い場所で拘留されているのか」
「私の記録書を見ればよろしいのでは?」
その言葉振りにキザキは嘲笑する。
「それは記録であって、記憶ではございません。先ほどの弁がその通りならば、人間が優先するのは記憶のほう。自分は記録ではない、あなたの事を知りたいのです」
こちらの意思にカシワギ博士は卑屈めいた笑みを浮かべた。
「まぁ、キザキさん。言葉がお上手ですね。さぞかし、おもてになるでしょう?」
「残念ながら。自分はバツが一個ついております」
カシワギ博士は微笑む。キザキも自嘲めいた笑みで誤魔化した。
「私も……所詮は愛に生きただけの女。通り一遍に言わせてもらえれば、ただの人間です。だからこそ、間違いを犯した。フラットに、なおかつ聡明に生きていれば、絶対に犯すはずもない、間違いを」
「ですが、あなたはゾロアーク種の解明に勤しんだ」
「建前ですよ。私は、結局ただの冒涜論者。ポケモンという存在を解明したかったがための、背徳に塗れた女なのです」
「ですが、カシワギ博士。あなたはそこで踏み止まった。……何故です?」
カシワギ博士は頭を振り、口角を吊り上げた。
「結局……、怖かったのでしょうね。自分の関知以上の存在が、自分の管理下にある、というのが」
「ポケモンに対するトレーナーのアプローチは皆、そのようなものだと聞いておりますが」
「私は研究者です。トレーナー目線ではない。……いいえ、トレーナーの目線を越えてしまった、異端者」
「ゾロアーク種の操る幻影という事象に、あなたは深く関わっている。単刀直入に効きます。それは、現状の警察勢力でどうにかなりますか?」
逡巡さえも浮かべず、カシワギ博士は言ってのける。
「いいえ、無理でしょう。現状の警察組織でゾロアークの操る幻影をどうにか出来るはずがありません」
「その根拠は?」
「彼らは我々が呼吸するように、当たり前にその能力を行使します。ですが、あまりに強力なその能力は我々人間のコミュニティが発達すればするほどに強靭となる。幻影という特殊能力が発揮されるのは我々人類の進化の歩みそのものなのです」
言葉繰りだけではない。その真意を、キザキは聞き出さなければならなかった。
「つまり……今の人間社会では、ゾロアークの犯罪をどうにか抑制する事は出来ない、という結論で?」
「その認識で間違いありません。ゾロアークに限りませんが……ポケモンがその力で人間を凌駕するなど容易いのです。……ですが問題なのは、一部の人間はその能力を叡智で上回れる事」
そこまで語ったところで警務官が部屋に入ってきた。
面会終了のサインにキザキは立ち上がる。
「貴重なお話を聞けました」
「いえ、何も決定的な事は申し上げられずに」
身を翻し様、キザキは尋ねていた。
「ときに……カシワギ博士。もし、人間とポケモンが合い争った場合、どうなるとお思いですか?」
それこそ、迷うまでもない、とでも言うように彼女は応じていた。
「間違いなく、ポケモンに分はないでしょう。彼らは我々が思う以上に純粋で、なおかつ純真です。それを惑わせられるのは、人間でしかありえない」
部屋を後にする際、キザキはカシワギ博士が静かに笑ったのを、目にしていた。