4thkiss
「ホンマ、最悪……」
一部始終を話し終えてモナカは疲れ果てていた。警察を撒き、アローラナッシーをどうにかして対処してそれで逃げ帰った末に犯罪者に行き会うなど不幸でしかない。
マスターは同情してくれたのか、温かいエネココアを注いでくれた。
「大変だったね。しかし、その三人、どうにも気になるな。ポケモンが人間に化けていた、とでも?」
前髪をかき上げたモナカは、うんと首肯する。
「不可能な話やないんは、うちも身に沁みてるし……」
ソファで寝そべるアムゥを視界に入れる。人間の少女態と、ポケモンの姿を行き来出来る存在はいてもおかしくはない。問題なのは連中が何の目的で、この街に入ってきたか、である。
「忠告はしたんだろう? 賢い連中ならば身を引くだろうが……」
「そうやないんやろうね。まさか、こんな真似されるなんて」
手にした収納用ボールはブランクであった。あの一瞬ですり返られた。その事実に拳を握り締める。
「モナカちゃん。ミスは誰にだってある」
「そやけれど、うちのミスは一生響いてくる。気ぃ抜けへんもん」
思い悩まないようにするのが第一だろうが、せっかくの獲物を掠め取られたのは気分がよくない。
「ノエルへの報告が滞ると連中も焦るだろう。怪盗キッスの仕事に少しのミスも許さないのが相手側の都合だからね」
モナカは顔を上げて呻った。
「どうにかして、うちが地力で取り返さんと納得も出来んやろうね」
「キッスの名に響いてくる、とか考えているのかい? なに、先代もミスはした。ただ、それを帳消しに出来るほど、手腕に長けていただけの事」
「……師匠ほど、うち、上手くないんかなぁ」
さすがに落ち込んでしまう。怪盗としてのアイデンティティを揺さぶられている気分だ。
「一度のミスは上塗り出来るほどのスコアで塗り替える。彼はよくそう言っていた。くよくよするな、ともね」
「そら、師匠は男やもん。割り切れるんちゃうの? うち、女やから……」
「だが君は、少女である前に怪盗キッスだ」
言われずとも分かっている。要は高スコアを上げるしかない。それもミスを帳消しにするどころか自分の評価を上げるほどのものを。
しかし、モナカは頬杖をついて悩んでしまう。どこから取り戻せばいいものか、とどうしても堂々巡りの思考になるのだ。
マスターがせっかく淹れてくれたエネココアも冷めてしまった。ぬるいエネココアをすすりつつ名案が浮かぶのを期待する。
そう容易く打開策が出れば、自分もこんな難しい生活を送る必要もないわけだが。
「ミサちゃんは、どうだった? 元気にしている?」
「それも……。うち、どうしたいんやろ。ミサとの約束もすっぽかしてしもうたし、嫌われたかなぁ……」
マスターはそれこそ杞憂だと笑う。
「君とミサちゃんがそう簡単に切れる縁じゃないのは見ていれば分かるよ」
「そう? でも何回もデートドタキャンしたら、マスターやって醒めるやろ?」
「相手が魅力的なら、恋に終わりなんてないさ。また、熱を与えてやればいい。融けないほどの愛を」
差し出されたのは出来立ての二杯目のエネココアであった。立ち昇る湯気に、芳しい香りが漂う。
「愛、かぁ……。まだ分からんかも」
エネココアとチョコ味のポケマメを頬張りつつ、モナカは最適解を描こうとする。まずはあの三人衆へと接触の機会を得なければならないだろう。
しかしそう容易く物事が転がるはずもない。
どうするべきか、と思案を浮かべている最中、不意に鳴った着信音にモナカは心臓を跳ねさせた。
着信はノエルの偽装番号である。
げんなりした表情を浮かべるとマスターは顎をしゃくる。
「出ないと」
「せやねぇ……」
ここで出なければまた面倒な事になるだろう。モナカは通話を繋ぐ。
『怪盗キッス。まさか獲物を横取りされるとはな』
「耳聡いんやね」
『嫌でも情報は入ってくる。ジョウトの監視網を侮らない事だ。して、我々がそれを関知したのは、別経路からの情報であったのだが』
別口からの情報をただで受け取るわけにはいかない。モナカは額に手をやってその条件を呑んだ。
「いつもの額で?」
『倍額はもらおうか』
足元を見て、とモナカは舌打ちする。
「……それは分かったけれど、で? 早速下手打ったくらいやないと連中掴ませてくれヘんやろ」
『それがそうでもない。キッス、二時の方角。ちょうど喫茶店の扉の前だ』
それが何を意味しているのか、モナカには瞬時に窺えた。モンスターボールに手をかけ、繰り出した桜色の水棲ポケモンが扉越しの相手を照準する。
「サクラビス!」
放たれた空気の弾丸が扉を貫通し、向こう側にいた相手へと命中した。思いのほか手応えは薄い。
「……これ、ホンマにやったん?」
『さてね。こちらも眼≠通しての遠隔だ。仕留めたかどうかは自分で確かめるといい』
「連中、そんなにこの街の流儀分かっとらへんの? あんたが教えてやればええやん」
『わたしには別件があってね。今、そちらの処理に忙しい。それに、あんまり適当な相手にかまけるなよ。キザキ警部は思ったよりもすばしっこく、君を追い詰めようとする。ジョウトPMCと手を組んだのは知っての通りだろう』
「キザキの叔父様が、そんな強攻策に出るってのは、あんまり思えんのやけれど」
『なに、人は時間で変わるものさ。キッス、ゆめゆめ忘れるなよ。獲物を取り逃した怪盗の末路など、片手の指で数えるまでもない事を』
「……重々承知しとるよ。切るよ、ノエル」
切る間際になってノエルは思い出したように、そうそうと付け足す。
『連中、ただの人間じゃない。あともう一つ言うと、ただのポケモンでも、だ。あまり下に見ないほうがいいかもしれない』
「……それも、警告として受け取っておくわ」
歩み出たモナカは扉をゆっくりと開ける。扉の向こうで攻撃の気配を研がれているかもしれない。身構えていたが、視界に飛び込んできたのは、アスファルトに仰向けに転がる青年であった。
先ほど自分の獲物をすった人間と同じだ。
ポケモンの姿に変わる前に攻撃したお陰か、激痛に顔をしかめている。
モナカは接近してその胸倉を掴んだ。こちらの膂力が思っていた以上だったせいだろう。
青年はうろたえて、待った、と声を張り上げる。
「待て! 待てって! 暴力はなし! やめてくれ!」
「……随分と三下めいた台詞やね。ここまで来たって事は追って来たんやろ。なら、覚悟は出来とるはずやんな?」
「待てって! 何だってジョウトもこう、物騒なんだ! こっちの話も聞いてくれ!」
「話? 他人の獲物掻っ攫っておいて話も何もないやろ。サクラビス、こいつの心臓を……」
「だから! それも含めてだって! 俺の一存じゃないんだ、話をさせてくれ!」
懇願めいた声にモナカは攻撃を中断する。マスターへと視線を交わすと彼は頷いた。話しくらいは聞いてやろうという事だ。
手を離すと、青年は不格好に地面に転がった。
「悪かったって! 追って来たのは事実だけれど、まさかすり替えなんて。思いもしない」
「あの場であんたらを仕切っていた男……あいつの一存やって言うの?」
「俺だって、ボスには逆らえないんだよ。……一応は恩人だからな。それに、俺達は追われている身。あまり知られるわけにはいかないんだよ」
青年達が変身してみせたポケモンにモナカは思い至る。三人とも、人間に化けられるポケモンだというのか。
「あの正体……そんなにまずいのならうちの前で明かさんかったらよかったのに」
「……そうするとあの場で殺されていただろ」
間違いではない。こちらの獲物を何も知らずに奪ったのがそもそも悪いのだ。
「盗っ人猛々しいって言葉知っとる?」
「悪かったよ。でも俺らだって新参なんだ。ジョウトではさ」
「カントーなら、って言い草やね」
無言を是とした青年にモナカは嘆息をついた。
「どうしてこう、無鉄砲なくせにうちを追ってきたん? ここで殺されてもおかしくないって事くらい、分かるやろ?」
「……命令されたんだ。ボスには逆らえないんだよ」
肩を竦める青年にモナカはマスターへと一瞥を向ける。彼はグラスを拭う手を止めず、静かに頷いた。
「入ってもらうといい。そこで話しているほうが目立つからね」
了承を得て、青年を招き入れる。よくよく目を凝らしてみれば、青年の服飾は肉体と一体化していた。張りぼてばかりの姿である。
カウンター席へとそのままよろよろと歩み寄った青年は、マスターの存在感に怯えた。
「この人は……?」
「身元引受人。うちの、ね」
「君の身元……こっち側なのか」
失礼な言い分にもマスターは全く気を害した様子もない。それどころか快活に笑ってみせる。
「珍しいのかな。わたしのような人間は」
「いや、そもそもジョウトの仕組みを俺達は分かっていない。流儀があるというのならば教えて欲しいくらいなんだ」
「素人さん、ってところ。でも、盗みやるくらいやから、真っ当な道で生きていくつもりはないんやろ?」
扉に体重を預けたモナカは隙を一瞬さえも見せなかった。この青年は即座にポケモンに変身出来る。その能力を自分の住処で使われては困った事になるからだ。
出来れば逃げ場だけは封じさせたかった。
そのためにサクラビスは出したまま、ソファで眠りこけているアムゥもいざとなれば使う事態に陥る。
青年はしかし、この場では殊勝な態度を取った。
「その……あなた方がどういう人間なのか、俺は探ってこいと言われてきた。でも、そんな簡単じゃないのは、もう分かったんだ。だから、聞かせて欲しい。ジョウトで何が起こっている?」
探りを入れるにしてはあまりに軽率。目線の了承を交わしたモナカとマスターはゆっくりと言葉を継いだ。
「その前に、交渉条件と行こうか」
「交渉……」
「あんたらの正体が分からんまま、うちらだけに話させるなんて失礼な真似、まさか考えとらんよね?」
こちらの気迫に青年はたじろぐ。
「……もちろんだとも」
「よろしい。では、君達の正体から。聞かせてもらおうか」
マスターの有無を言わせぬ声音に青年は顔を伏せた。
「その、あまり出回ると困る情報で……」
「それはどちらにしたって同じだろう。既に無数の眼≠ニ路地番が君達を追い込もうとしている。この街の抑止力に比すれば、たった三人など児戯に等しいのは、分かるね?」
追い込まれているのはそちらのほうだ。理解したのか、青年がぽつりぽつりと話し始めた。
「その……俺の名前から、まずは。俺はカムイ。そこの子は俺の正体を見たから、もう言っておくが人間じゃない」
「ポケモン……それも見た事のない種類の」
言葉を添えたこちらにカムイは首肯する。
「ゾロアーク、と呼ばれるポケモンに属している。能力は他者への変身。幻影を纏って他のポケモンや他人に成りすます事が出来る。この姿になったのはジョウトに入ってからだ。その前までは別の人間の姿を借りていた」
その情報にマスターが感嘆する。
「それはなかなか……隠密に長けた能力だ」
「問題なんは、何でそんな能力の持ち主が三人、野に放たれとるんか、言うところやけれど」
カムイは頭を振り、言葉の穂を継ぐ。
「俺達は……研究実験対象……モルモットだ。ゾロアーク種の変身能力がどこまで及ぶのかの実験体」
その言葉振りにモナカはまさか、と息を詰まらせていた。
「ジョウトPMCの?」
だとすれば追っ手の一味という事になる。身構えたモナカにカムイは、いやと否定する。
「ジョウトPMCという組織ではない。というか、俺達はカントーの研究実験場の生まれだ。ジョウトに来たのはまだ日が浅くって……、どういう仕組みなのかまだ探り探りだった」
「その矢先にモナカちゃんと出会ったわけか」
得心したマスターにカムイはしゅんと項垂れる。
「申し訳なかった。別にひもじいわけではないのに、この街の人間を試そうとして、それで虎の尾を踏んだ……。馬鹿みたいだって思うだろ」
「馬鹿やるのは勝手やけれど、飛び火したら敵わんいう話。あんた、奪った獲物の内容分かっとるん?」
「だから、俺はボスには逆らえないんだって。……君を追ってきたのもあの人が言うからだ。俺に自由意思なんてないんだよ」
どこか投げやりな口調にモナカはカムイという青年そのものが捨て石の可能性も視野に入れていた。
この場所を特定するための駒……あるいは彼ら三人でさえも何者かに利用されているかもしれない。
そう思うと一分一秒が惜しかったが、今のところノエルからの緊急通信は先ほどの一回のみ。もしもの時にノエルが裏切るのは旨味がない。カントー生まれの実験体程度にノエルが肩入れするはずもないのだ。
「そうか。まぁ、落ち着いて。コーヒーは飲めるかな?」
「マスター。こんなんに淹れたる事なんて」
「いや、ここは喫茶店だからね。モナカちゃんは看板娘なんだ」
微笑むマスターにカムイはおっかなびっくりにこちらを見やる。
「ここが、ただの喫茶店?」
「思うところでも?」
「いや、確かに外観はただの喫茶店だ。俺もそれにびっくりして……扉の前にいたところを撃たれたわけだから……」
暗に先ほどの銃撃を咎められているようであったが、マスターは柔らかく笑ってコーヒーマシーンを抽出する。
「手荒い歓迎であったかもしれない。だが、君達も迂闊であった、と反省してもらえるならそれに越した事はない。ジョウトの流儀が知りたいと言っていたね。この街での犯罪行為はあまりお勧めしない。既に、この街には出来上がったルールがある。カントーはヤマブキシティよりかは緩いだろうが、それでも構築されている様式美が」
「それを、俺達はまるで知らないんだ」
マスターはこちらに視線を投げる。言うか言わないかは自分の判断で、という確認。モナカは頷いていた。
「ええよ、マスター。うちに気は遣わんでも」
「では。怪盗キッス、という劇場型の犯罪者がこの街を闊歩している。警察組織も主に彼女を追うのに躍起だ」
「怪盗……そんなものが」
「キッスを追撃する事を重視する警察上層部は去年の暮れにある組織との提携を明らかにした。裏の話だけれどね。その名はジョウトPMCトラスト。違法実験体や強力なポケモンの実戦投入、退役軍人の指導などを徹底させた、死の商人。今のところ、キッスとジョウトPMC、それに警察の三つ巴だと思ってくれていい」
はぁ、とカムイが生返事する。まだ実感が湧かないのだろう。
「さっき、俺の事をジョウトPMCの、って言った意味はそういう事か。強いポケモンが野に放たれている」
「それもキッスを殺すためのポケモンと兵士が、ね。厄介この上ない」
「その、マスター……さんはキッスの何かなんですか? さっきからやけに事情通で……」
訝しげなカムイに隠してやる事もない、とモナカは言いやっていた。
「だって、うちがキッスやもん」
その告白は最初冗談だと思ったのだろう。カムイが笑みを浮かべてマスターの眼を確認する。しかしマスターが視線を逸らさない事で確信したのだろう。
もう一度こちらを見やり、口にしていた。
「……嘘ですよね?」
「現実は残酷なものだね」
その一言でカムイの顔から血の気が引いていく。まさか泥棒を主軸にしている人間から盗みを働いたなど思いもしなかったのだろう。
「俺……もしかしてとんでもない事を……」
「今さら気づいたん? あんたらの掠め取ったあの獲物。うちの盗品なんやけれど」
「まさか、そんな! じゃあ、ボスは知っていて……?」
「その可能性が濃いね。カムイ君、だったかな。殺されても文句は言えないような仕向け方をされている」
絶句したカムイは額に手をやってぼやいていた。
「……だってそんなの。思いもしない」
「だから君達は不幸だった、という話になるんだが、どうやら不幸を不幸で終わらせたくないタイプが君達のトップらしいね」
コーヒーを差し出したマスターにカムイは頭を振る。
「とんでもない事になってるじゃないか。巻き込まれたつもりなんて」
「それ、今言う? もうあんたら巻き込まれた側ちゃうよ。巻き込む側」
モナカの指摘にカムイは額に浮かんだ脂汗を拭っていた。現状でさえも敵地のど真ん中。恐らくカムイの上役は殺されても文句は言えない事を承服して、この場所の割り出しを優先したのだろう。
その意味するところは一つ。
「……うちらと喧嘩したいみたいやね」
「そんな! 抗争なんて真っ平だ! 俺達は安住の地を求めてこっちに渡ってきたのに!」
「にしては、色々と粗雑な点が浮かぶ。どうやら君とトップの意見は違うようだ。まず教えてもらいたいのは一つ。何人組なのか。君達の組織構図をこちらに開示してもらう」
ここで断るのは死を意味する。それくらいは分かったのだろう。カムイは淀みなく応じていた。
「……三人。これは嘘でも誇張もでもない。本当に、三体だけのゾロアークなんだ」
マスターが確認の目線を振る。モナカは首肯していた。
「それはホンマやと思う。あの三人より上がいたとしても、そいつらと命令系統は違うと思うし」
「ではカムイ君、二つ目の質問だ。君がモナカちゃんの獲物を奪ったのは、わざと?」
それこそとんでもない、とカムイは声を荒らげた。
「わざとなもんか! 俺達は静かに生きていたいだけなんだ! それがボスの思想でもあるはずだし、俺達の最終目的でもあるはず。だって言うのにこれじゃ……まるで逆の事をやらされている……」
「やらされている、なんて今さら被害者面? もうあんたら立派な加害者やし」
マスターが次の一杯を淹れる準備をする中で、カムイは必死に抗弁を垂れていた。
「仕方がなかったんだ。裏組織で雇ってもらおうにも口利きがいる。それなりの実力じゃないと誰も信用してはくれないだろう。何より……俺達は自分達の能力が悪用されるのを好まない。むしろ、人間として、この能力を使える事を強みにしていくつもりだった」
「ゾロアークである事を隠して、か。しかし、モナカちゃんに見られてしまった」
面を伏せたカムイは失態を犯した事を相当に後悔しているようだ。
「……しかもその相手はこの街を闊歩する怪盗、キッスだって? 悪い夢だとしか……」
「釈迦に説法って奴やね。うちに盗みを働くなんて」
ああ、とカムイはただただこの現実にうなされていた。
「なんて事だ……。でもボスは、理由のない事はしない。それはあの人を……解き放った時からして明らかだ」
「分からん事は言うもんやないよ。あの人って誰の話?」
ここでの隠し事はためにならない。それくらいは理解したのだろう。カムイは息をついて告げていた。
「……カシワギ博士。俺達の実験主任担当者だ」
マスターがすぐさまその名前を照合にかける。モナカは聞かない名前だと感じていた。
「その担当者が、どうしたって?」
「……こういう事を言っていいのかは不明だが、俺達の逃走の手引きをしてくれた恩人であり、何よりも……ボスとそういう仲だった」
男女の仲、というわけか。マスターは二杯目のコーヒーを差し出し、話の接ぎ穂を確認させる。
「つまり、君らのボスはカシワギ博士なる人物の手引きを得て、ジョウトへの渡し舟を獲得した、というわけか。しかし、それでも解せないのは一つだけある。君達の、ここジョウトにおける、地位の話だ」
そう、何の損得もなしにジョウトに渡ってくるメリットなどない。カントーはヤマブキシティのほうが犯罪だけならば随分とやりやすいはず。それをジョウトで、という部分を詳らかにしなければここでカムイを押さえている意味もなし。
彼はここに来て言葉を濁らせる。
「……どうにも、俺にも読めないところなんだ、それは。俺達、実験体の解放、が表向きなんだと思う。でも、ボスが本当は何を考えているのか、全くもって掴めない」
「もう一人いたね? あいつは掴んでるんちゃうの?」
その質問にはカムイは断定の形で首を横に振った。
「俺よりも頭が切れない。あいつは本当にボスの言いなりだ。……俺もそうではないとは言い切れないが。でも、ここまで来てあなた達に喧嘩を吹っかけるほどにあいつは浅慮に違いない。俺ほどは、冷静に物事を俯瞰出来ないはず」
「そうである、という仮定か。だが、仲間から見た評判は当てにしやすい。我々はそうだと信じて行動するしかない」
ゾロアーク一味をどう処理するか。その眼差しが伝わったのだろう。マスターは諌めるように言いやる。
「モナカちゃん。そんな眼をするもんじゃない」
見透かされた羞恥にモナカは顔を紅潮させる。
「でも……いずれは」
「殺すのか……?」
怯え切ったカムイにモナカは嘆息をつく。
「そこまで怖がらせて殺すほど、うち、冷酷やないもん」
「だね。君は怪盗キッス。殺し屋じゃない」
どこか言い聞かせるような物言いだ。モナカは己のやるべき事を見据える。
「そやね……うちは怪盗キッス。殺しはしないスタンスやし、それに誰かを慈善事業で助けるのも」
「……静観のスタンスでいてくれるのならば、それに越した事はないんだけれど」
「だが君は話してしまった。ここまで喋っておいてのうのうと帰すはずもないだろう?」
マスターの口振りにカムイは困惑する。
「殺さないんじゃ……」
「だが枝くらいはつけさせてもらうとも。裏切りは何よりも恐ろしい」
この場所で自分達に手札を晒した時点で随分と失策ではあるのだが、彼はそれを計算出来るほどの頭ではないらしい。
右往左往する瞳でこちらの出方を窺う。
「じゃあ、俺達の行動をモニターするってハメに……」
「それでも温情やと思ってもらいたいところやね。この場で洗いざらい吐かせたってええんやけれど」
ただそれは怪盗キッスの流儀ではない。自分へと言い聞かせた言葉にカムイはただただ、当惑するのみ。
「……ジョウトなんて来るんじゃなかった」
「もっと早くにそう判断出来ればよかったんちゃうの? まぁ、もう来てしまってから言うもんでもないと思うけれど」
額に手をやって熟考したカムイはやがて言葉を搾り出した。
「……分かった。盗聴でも何でもつけてくれ。それが俺達の身の潔白になるのならば」
「分かった。こちらとしても不本意だが、我々も命が惜しいからね。売られでもすれば困る」
マスターが取り出したのは小型の盗聴器だ。バタフリーのアクセサリーを模している。
カムイはそれを目にし、唾を飲み下した。
「俺達も、安全に仕事がしたい。それだけなんだ」
本当にそれだけのように、カムイは語っていた。