序『Ki―SS OF LIFE』
1stkiss 

 光が舞い遊ぶ。

 連鎖するのは眩いばかりのスポットライト。投光機が右往左往する中、その疾駆が躍り出た。闇夜を引き裂いたその影に怒声が飛ぶ。

『怪盗キッスを発見。貴様は完全に包囲されている!』

「包囲? 冗談」

 キッスはビルからビルへと飛び移った。その流麗な姿に誰も追いつけはしない。しかし、前方を抑えていたのは盾を構えた警官隊であった。

 数十人が押し合いへし合いの中、前に歩み出たのは最早、見知った影である。

 しおれたコートを身に纏った刑事が拡声器でこちらへと声を投げた。

『キッス! お縄につけ!』

「あら、キザキの叔父様。またあたしのショーを観に来てくださったの?」

 ビルに降り立ったキッスをキザキは忌々しげに睥睨する。

「何をたわけた事を……、ここで会ったが百年目だ! キッス! 今日こそは逃がさんぞ、警官隊は総勢五十人! 我々の防衛網を超えていけると思うな!」

 確かに。ビルから見下ろした限り、警官隊を撒いて消えようと思えば、それなりに遠回りをしなくてはいけない。しかし、背後からもパトカーが法廷速度を無視して猪突してきており、このままでは追い込まれるのは必定。

「前しか行く選択肢はないわね」

『どうやら、今夜こそ、のようだな』

 キザキの発言にキッスは微笑む。

「そうね。今夜こそ――あたしのワンマンショーで終わりそうだわ」

 キッスはあろう事か警官隊の中央に向けてダイブした。その光景に怯んだ警官達をキザキが一喝する。

「恐れるな! 今こそ、逮捕の時!」

「そう、いきり立たないで、叔父様。いい男が台無しよ?」

 刹那、繰り出したのは真紅の体躯を持つポケモンであった。降下途中で人型のポケモンである彼女が踊る。

「ルージュラ、氷の道を形成する。警察の方々の頭の上を行くわ」

 ルージュラが一瞬にして氷雪の渡り綱を対面のビルまで張った。その距離、ゆうに二百メートルは超えている。

 それでもルージュラの正確無比な凍結制御はこの時、対面のビルまでの氷の綱渡りを可能にした。

 キッスの爪先が綱を踏み締める。

 たわんだのも一瞬。キッスはすぐさま駆け抜けた。頭上を行き交うキッスを警官隊は呆けたように眺めるしかない。

 キザキが拡声器を苛立たしげに掲げ、警官隊に号令した。

「何をやっておる! さっさと捕らえにかかれ! 頭の上だろうが!」

「で、ですが、警部……。あんな氷の綱なんて」

「掴めない距離ではないだろう! もういい! ワシが行く!」

 一人の武装警官に肩車をされる形でキザキは氷の綱へと体重をかけた。

 瞬間、ビル同士を繋いでいた氷の綱が加重に耐えかねて次々と壊れていく。

 慌てたキザキは綱の上に飛び乗ったが、その体重が氷の綱の崩壊の一手を招いているなど思いもしないのだろう。

 揺れる綱の上をキザキは執念のみでか、こちらに向けて走りかけていた。

 自分でさえもこの体重移動には苦戦するのに、キザキはこちらを追うという信念だけで難関な綱渡りを可能にしていた。

 それにはさすがのキッスも驚愕する。

「うそ、叔父様。案外、バランス感覚はあるのね」

「当たり前だ、このコソ泥が! 今度こそ追い詰めて――」

「じゃあ、これでどう?」

 キッスが足を払い、綱を大きくたわませる。姿勢を崩したキザキが後ろによろめいた。大人の頭上ほどの高さしかないとは言え、それなりの恐怖心は煽れたはずだ。

 キザキが綱に背中から倒れ込み、そのまま落下しかける。

 だが、さすがというべきか、瞬時に綱を両手で掴み、簡単な脱落を自分に許しはしない。

「ほぉーら、キザキの叔父様。あたしはここよ?」

「挑発など……キッス、貴様……」

 手を叩いて囃し立てると、キザキはなんとその腕力だけで綱を持ち直した。再び綱の上に戻ってきたキザキにキッスは目を丸くする。

「あら、それなりに鍛えているのね、叔父様」

「貴様を追うのに、腕力ぐらいは備えておらんとな……。さぁ、逮捕だ、キッス!」

 駆け抜けようとしたキザキであったが、その瞬間には綱が大きく逸れていた。元々一人分しか体重を受け止められるように設計していないのだ。

 二人も乗れば、当たり前のように瓦解する。

 キザキの足場が消え失せ、空を掻いたその身体が警官隊に受け止められる。

 キッスは再びルージュラに命令した。

「ルージュラ、対面のビルまであたしの水先案内人、お願い」

 氷の綱が切れた箇所から華に変わり、闇夜を彩っていく。呆然とする警官隊の真ん中でキザキが吼えた。

「馬鹿者! さっさとキッスを追わんか!」

「無茶言わないでください、警部……。あんなの、どうやって追えって……」

 キッスは雪の華を咲かせながら、ビルの屋上に辿り着く。その直後、端末が鳴り響いた。

『おっそい! モナカ! あんた、何分遅刻したら気が済むの?』

 ミサの声音にキッスは今までの毅然とした態度からうろたえ気味に成ってしまう。

「ミサ? えっと……うち、そんな遅れとる?」

『自覚して! あんたってば! いつだって人を待たせるんだから! コガネ駅に九時半! これ以上は待たないわよ!』

「えっ、ちょっと……ミサぁ……」

 情けない声を出した直後、キッスは足場を蹴ってビルの淵に指をかけていた。一つでも集中の糸を切らせば、その途端に落下する。その危機感よりも、彼女の中で燻るスリルが勝る。

 見下ろした景色の中に警官隊が団子のように固まってこちらを仰いでいた。キッスは彼らへと口づけを投げる。

「警察の皆様方。今回もお勤め、ご苦労様。あたし、まだまだ捕まる気はありませんの」

 身を翻したキッスは逃走経路を取ろうとして、不意打ち気味に背筋を粟立たせた殺気に飛び退る。

 先ほどまで自分の頭があった位置を銃弾が貫いていた。

 跳躍したキッスが目にしたのは、長首を持つ長大な巨躯であった。長い首には実がなっており、にへらとどこか読めない笑みを浮かべている。

 その大きさ、尋常ではない。

 五階建てのビルに匹敵し、なおかつこちらを睥睨出来る位置に頭部があるなど。

 眼前の敵ポケモンにキッスは困惑しつつも、その個体を照合させた。

「……これ、ひょっとしてナッシー? でもこんなん、見た事――」

 続けかけた言葉を遮ったのは新緑の旋風。こちらの位置を掴んだだけでない。相手はいつでもこちらの首を狩れる位置にいる。

 その脅威にキッスは舌打ち混じりにルージュラを操った。

「ルージュラ! あなたなら落とせるはず! 氷の術式を組む! ナッシーを退けて!」

 ルージュラが両手を合掌の形に組み、自身の周囲に氷の陣形を発達させていく。末端神経のように拡張した氷の華が螺旋を描いてナッシーに突き刺さった。

 巨大ナッシーがよろめくも、その一撃がさほど通用していないのは見るも明らか。

 キッスは次いで新たなるポケモンを繰り出す。

「サクラビス! 水で逃走経路を作り出す!」

 サクラビスの放った水流の中にキッスは己を投げ込んだ。水の中、防水措置の施された端末で繋ぐ。

「もしもし、マスター? これ、何なん? 照合したらナッシーって出たけれど、こんな大型個体……」

『ああ、こちらからも見えている。……なるほど、アローラナッシーとは、考えたな。クチバインダストリアルの差し金か』

「クチバの? やったらうち、戦わなあかんね」

『……無理はするものじゃない。今回の盗みをまず成功させるほうに頭を振ったほうがまだ分がある。巨大アローラナッシーに対しての対抗策は後で練る事にしよう』

 キッスはモンスターボール型の収納装置に取り込んだ今回の獲物――『ホウエンの雪花少女の肖像』をぎゅっと握り締める。

「……そうやね。今回ばっかりは、関わり合いになるのは後回しにしたいわ。ここは逃げに徹する」

『そちらのほうがいい。あれほどの巨大なポケモンだ。事後の収集も含めて相手の手腕も見たい』

 マスターからしてみれば後片付けも含めての相手の実力の試金石。キッスは首肯してサクラビスの展開している水流の迷路から躍り出た。

 アローラナッシーがゆっくりとこちらに顔を向ける。随分と肥え太っているナッシーだ。寸胴な肉体は通常のアローラナッシーとは比べ物にならないほど贅肉がある。その肉塊に押されて足がほとんど埋まっていた。あれでは移動も儘ならないだろう。

 だというのに、こちらの逃走経路を先読みしたような動きは何故か。その命題の帰結する先にキッスは冷笑を浮かべる。

「……裏切り者でもいるのかしら。あるいはお喋りでも」

 こちらの逡巡を窺い知るまでもない。ナッシーの放った新緑の断頭台がコガネの街を引き裂く。

 街の被害など後回しか。

 歯噛みしつつキッスは新たなモンスターボールを掴んでいた。繰り出したのは淡い紫の輝きを放つ矮躯であった。

「おねえちゃんはアムゥがまもるもん!」

 瞬間、少女の姿が掻き消え、ポケモンへと再構築されていく。

 青白い瘴気を棚引かせてそのポケモン――ムウマが前に出る。

「アムゥちゃん、相手を出来るだけ消耗させてから、ここを離脱する」

 その命令に既にポケモンの声になった彼女が応じる。

 ムウマが放った幾何学の光が巨大なナッシーの頭部へと浮遊し、その眼前でパチンと割れて眩惑した。

 混乱状態に陥ったナッシーがそこいらを踏みしだく。キッスは続け様に命じる。

「祟り目!」

 ムウマの怨嗟の声がナッシーの内奥に残響し、ナッシーが激しく首を振って自傷する。「たたりめ」は状態異常の相手を更なる混乱と狂気のるつぼへと陥れる技。

 そして、最後の仕上げに、とムウマが首を項垂れさせるナッシーの頭上に浮かび上がった。

「パワージェム!」

 空間からせり出して出現した巨岩がナッシーの頭頂部に命中する。

 ナッシーがその目を見開いたまま硬直した。暫し睨み合いが続いた後、ナッシーが完全に虚脱する。

 これで逃げ道は出来たはず。

 キッスはムウマを戻し、サクラビスで水流の逃走経路を作った。

「また、あたしの仕事には過去がついて回る、か」

 呟いたキッスは時間を確認する。ミサとの合流時間まで三分とない。

 この場所からコガネ駅までは三十分近くの距離ではあった。

 仕方あるまい、とキッスは伴っているルージュラに目配せする。

「ゴメン。後始末になっちゃうけれど、ルージュラ。真似っこであたしの分身と共に逃げて。こっちは逆方向に行くから」

 首肯したルージュラが自分の精巧な写し身を形作る。後はコガネシティに無数に存在する抜け穴から別行動を取るだけだ。

 キッスは通風孔に分け入り、駅近郊の草むらから跳躍して一気にホーム階の屋根へと飛び乗った。

 衣装を収納用具の中に仕舞い、キッスは完全な変装を遂げていた。

 今しがた到着したばかりの急行電車へとさもただの女子高生のように駆け込む。満員電車の中、押されつつもキッスはコガネ駅へと続く一分の電車の中、息を殺す。

 到着した時には時間ぴったりであった。

 駅前のロータリーで苛立たしげに端末を弄っているミサへと声をかける。

「おーぅい」

 覚えず肩で息をついていた。ミサもさすがにここまで慌ててきたのが窺えたのだろう。胡乱そうにこちらを眺めている。

「……何やってきたの?」

「えっと……ちょっとフルマラソン並みの運動かな」

 呼吸を整えているこちらにミサがスポーツドリンクを差し出す。ありがたく頂戴し、ようやく「サギサカ・モナカ」としての自分に戻れた。

「あんたさぁ……何でいっつも遅れてくるの?」

「ミサの言いたい事は分かるよ。うちも何でやろなぁ、って思うもん」

「分かってんなら直しなさいよ……はい! 自覚して!」

「じ、自覚しましたぁ……」

 尻すぼみになったこちらの声にミサは嘆息をつく。

「モナカは本当にグズでノロマなんだから。あんたくらいじゃない? この都会で悠々と生きているなんて」

 駅前のオーロラビジョンに速報が飛び込んでくる。ミサとモナカは同じようにその情報を仰いだ。

『先ほど入ってきた情報です。怪盗キッスがまたも出現し、シンオウの国宝クラスである、ホウエンの雪花少女の肖像を盗んだとの報告が上がってきました。中継が繋がっています』

 中継先のキャスターが博物館前から物々しい空気の警察関係者を映し出している。その中には先ほどいなしたキザキの姿も見られた。

 警官隊に乱雑に指示を飛ばすキザキに、ミサは白けたように頭を振った。

「あーあ、やだやだ。せっかくの年明けに嫌なもん観ちゃった」

「学校始まるまでまでカラオケ尽くし、楽しみやねぇ」

「……ホント、オトボケなんだから。この街、ずっとこんな調子よ? 危ない輩も出入りしているって言うし……」

「それ、ミサのお父さんの情報?」

 尋ねると彼女は嘆かわしいとでも言うように息をつく。

「……関係ないって言っているのに、父親だーってうるさいんだもん。大体、あたしらにさ、裏稼業がどうだこうの言われたって仕方なくない? そんなの、一番に縁遠いじゃない」

 縁遠いどころかその張本人が目の前にいるとはさすがに言えないな、と感じた。

「年の瀬からずっとこんなんやもんなぁ……ちょっと困るわ」

「ちょっとって……あのさ、あたし達女子高生からしてみれば街中で声をかけられるのは困るなんてもんじゃないワケ。だって貴重な時間を警察なんかに潰されるなんて……。まぁ本当に悪いのはキッスなんだけれど」

「ミサは本当はお父さんの事、大切に思っとるもんなぁ」

「なっ……何言っちゃってんのよ! このおマヌケ! はい! 自覚して!」

「じ、自覚してます!」

 ミサはほとほと呆れつつ、カラオケ店へと足を進めさせる。新年が明けたからと言ってコガネシティはやはりというべきか代わり映えはしない。少しばかり治安がよくなったかと言えばそれも嘘だろう。

 治安維持の名目で自分はジョウトPMCが暗躍している事を知っているからだ。連中がどこまでも本気なのは先ほどのナッシーを鑑みても明らかだろう。

 巨大アローラナッシーは戦術クラスの切り札のはず。それを惜しげもなく晒している辺り、向こうもこっちも余裕はないと見える。

「……何考えてんの。グズモナカ。考えながら歩いているとすっ転んでも知らないからね」

「失礼やなぁ、ミサ。うちがそう簡単にすっ転ぶわけ……」

 直後、前に踏み出していた足が何もない空を掻いた。突然に姿勢が崩れ、モナカは盛大にすっ転んでしまう。

 すれ違った青年が人のいい笑みを浮かべながらこちらを窺う。

「あの……大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫です。すいません、連れが」

「いえ、いいんです。いきなりお隣でずっこけられたものだから、こっちもびっくりして」

 過ぎ去っていく青年の背中にミサが愛想よく手を振る。

「あんた……話の途中で転げるなんて馬鹿にもほどがあるでしょうが。立ちなさいよ、ホラ。転んだ程度で泣き出すほどおバカじゃないでしょう?」

 手を取ったモナカはその瞬間、異様な感覚を覚えた。今、一秒前まであった何かがない。

 そう判断したモナカの動きは素早かった。この姿になって絶対にお宝を入れているはずのポケットに、収納器具ごと、奪取した宝がなくなっている。

 先ほどの青年だ。

 モナカは振り返ったが、その背中を追う事は出来なかった。

「……どうした? モナカ。さっきの人、確かにイケメンだったけれど……」

「ミサ。うち、さっきの人に……」

「うん?」

 言いかけてモナカは駄目だと己を律する。

 ミサを巻き込むことは出来ない。何があってもそれだけは自分の中で引いた一線のはず。

「ゴメン、ミサ。ちょっとうち、用事出来たみたい。カラオケはまたの機会にしてくれる?」

「えーっ! あんた、遅れてきてその有り様はないでしょうに」

「だから、ゴメンって。うちどうしても抜けられへん用事思い出したねん。今夜は申し訳ないけれど」

 ミサは大仰にため息をつく。

「……まぁ、あんたの勝手は今に始まった事じゃないからね。いい。許す」

「ゴメンな、ミサ。じゃあ、ちょっと慌ててるさかい」

 走りかけたモナカの背にミサが声を張る。

「前見て走りなさい! 危ないわよ!」

 愛想笑いを浮かべつつ、モナカは戦闘用に己を研ぎ澄ましていた。

 どうして? 何が原因だ?

 ポケットにないお宝を再度確認し、モナカは通信を繋ぐ。

「……トレースしとるよな? ノエル」

『滞りなく。今の君とは別の方向に獲物が移動しているようだが』

「スリみたいやね。凄腕の。でも……そうやとしたら……」

『怪盗キッスの正体見たり、か』

 だとすれば帰結する先は一つだ。

「ノエル。消すも已む無し、と判断しても」

『いい。相手が怪盗キッスだと分かって、盗んだのならば、だがね』

 どこか含みのある言い草にモナカは眉根を寄せる。

「分からんと、盗んだって言いたいん?」

『この街は君が思うより広い、という事だろうさ。一介のスリならば、まだどうにかなるが、もし相手がそれなりのプロならば』

 心得ている。ノエルの指図を受けるまでもなく、モナカは戦闘用の声に切り替えていた。

「……流儀を教えてあげるだけやね」



オンドゥル大使 ( 2017/12/24(日) 11:32 )