最終楽章「宝ノ在リ処」
「……双子の英雄は最初こそ仲がよかったが、いつしか対立して兄は真実を求め、弟は理想を求めるようになった。互いにどちらが正しいのかを確かめるために始まった争いであったが、その結果、一体のポケモンは二つの身体に分かれる事になり、レシラムとゼクロムが生まれた。……とあるが、実際には定かではない。ホウエンのように、現象を説明するために人が後付けで作った伝承かもしれない。理想も、真実も、一面では等しく同じものであるからだろう」
本をパタンと閉じた自分に、少年はせがんだ。
「ねぇ、もっときかせて」
「……勘弁してくれ。ワシは医者だ。ベビーシッターが職業じゃない」
こちらに目を留めた母親が少年を諌める。
「こら、あんまりカヤノ先生を困らせちゃ駄目でしょ」
「嬢ちゃん。ワシがいるのはあの二日程度だ。読み聞かせは、母親であるあんたでも出来るな?」
「すいません、先生。あたしも愚図だから」
少年を抱き上げた母親にカヤノはフッと笑みを浮かべた。
「しかし、アリスの嬢ちゃんも様になったものだ。子育てなんてな」
「あたしの子供ですから。ほら、ノア。カヤノ先生にありがとう、は?」
ノアと呼ばれた少年はカヤノへと頭を下げる。
「カヤノせんせい、ありがとうございました」
言ってすぐに飛び出してしまう。やんちゃだな、とカヤノは煙草に火を点けようとしてふと気づく。
「……おっと、禁煙か?」
「すいません。癒しの家で煙草の匂いがつくと嫌だって言う人も多くって」
「いいさ。ワシはただの医者。すぐに出て行く」
カヤノは庭へと歩み出て煙草に火を点けた。紫煙をたゆたわせながら、息をつく。
「処女懐妊とは……これも奇跡の一つか? それとも、何かの前触れか?」
自分が調べた限りでは、アリスに配偶者や恋人がいた事も、ましてや身篭っていた事もなかったはずだ。
それがある日、陣痛に近い症状を発症し、彼女は赤子を――ノアを生んだ。
まさに現代に湧いた奇跡であったが、カヤノは取り立ててそれを美化しようとも、ましてや誰かに言い触らそうとも思わなかった。
赤子はまだ二歳にも満たない。それなのに全てを見透かしたかのような眼差しをこちらに注いでくる事がある。
それも奇跡の一端なのか。あるいは禁忌の一つなのか。自分には何一つ分からない。
ただ、あの少年を見ていると何かを思い出しかける。それはいつも霧散するのだが、どこかでセピアに染まった懐かしい像を結ぶ事がある。
そんな時、不意に涙が出そうになってカヤノは堪えるのだった。
「ノア、か。神話の世界の名前だな」
呟き、カヤノはイッシュの晴天を見やる。
抜けるような青空の下、白いシーツが風になびいていた。
アリスは駆け抜けるノアの背中を眺めつつ、不意に思い出しかける。
ここにいたであろう、誰かの存在を。ここを帰る場所にしたかった、誰かを。
もう記憶のどこにもいないその人の背中を、今日も思い出しかけてはまどろみの中に霧散する。
陽射しが降り注ぐ穏やかな昼下がり。
テーブルで眠りこけていると、対面に誰かが座り込んだ。
客人か、とアリスはまどろんだ頭を起こす。
「あっ、ごめんなさい……あたし、また……」
顔を上げると、その人物は微笑んだ。静かに、その唇が言葉を紡ぐ。
ただいま、と言われた気がして、アリスはハッと目を醒ました。
窓から吹き込む春の風。テーブルで眠りこけていた自分一人。
アリスは頭を振っていた。
涙が頬を伝う。止め処ない。熱い感情の波に、彼女は声を震わせた。
「おかえり……」
名前も分からない。
声も聞こえない。
誰だったのか、もう思い出せない。
それでも、自分は彼を感じられる。このイッシュに吹く風の中に。大地の息吹に。
「ママー、トモダチがけがをしているよ」
ノアの呼ぶ声にアリスは外へと駆け寄った。足元で眠りこけていたムーランドのムゥちゃんが足並みを揃える。
怪我をしたポケモンをノアが抱えていた。
ポケモンによっては危ないのだが、どうしてだかポケモンはノアだけは絶対に敵視しなかった。それどころか彼はポケモンの事を「トモダチ」と呼んで慕っている。
右足に怪我をして丸まったイーブイへとアリスは手を差し出す。
「おいで」
イーブイが小さく鳴いてこちらに擦り寄ってきた。
「ママ、ないていたの?」
顔を見られたアリスは涙を拭った。
「ううん、泣いてない。だって、彼は約束を果たしてくれたんだもの」
「それって、ボクのおとーさん?」
「かもね」
テレビを点けると今年度のチャンピオンが表彰を受けていた。トウコ、と名乗った少女が自信満々に笑みを浮かべている。
さらに新たなジムリーダーが決定し、後進の研究者が名を連ねていた。
チェレン、という新人ジムリーダーの式典の様子が流れ、ベルという名前の新鋭の研究者が新たに発見した粒子について説明する。
何もかもが過ぎ行く中で、アリスはイーブイの怪我の程度を看た。他のポケモンとの縄張り争いをしたのだろう。
噛み付かれた程度の怪我だ。すぐに治るはずだ。
「ねぇ、ママ。いつまでも、ここにいさせてあげようよ」
「そうね。いつまでもここにいても、いいのかもしれないね」
しかし癒しの家は野性ポケモンを長居させない。怪我さえ治ればすぐにでも野性に帰すのが掟だ。
「トモダチは、ママの事、とってもだいすきだって」
「そう……あたしもポケモンの事が大好き」
「ボクのことは?」
「もちろん、大好きよ。ノア」
抱きかかえたノアはいつもより満天の笑顔を浮かべる。
たとえ世界がどれほど繰り返しても、どれほど残酷に沈んでも。
絶対に忘れない。この抱えた命一つだけは。
それでいいんだ、という声を聞いた気がして、アリスは窓の外を仰いだ。
「……ママ?」
「何でもない。イッシュ地方は、今日もいい天気」
どこまでも続く青空が、きっと思い出の外にいる彼の守った世界なのだろう。
名前も分からない彼。存在したかも分からない彼。
思い過ごしかもしれない。錯覚かもしれない。
それでも、大事にしたい思い出がこの世界にはある。
「見て、ノア。世界は、こんなにも美しい……」
太陽の煌き。星々の囁き。ポケモンと人間が奏でる極彩色の音楽。
輝いた世界は、色褪せる事なく、祝福された親子を見守っていた。
ポケットモンスターHEXA8
FERMATA 完