第(−19)楽章「波羅蜜恋華」
「これを解き放つ事、ボクの血をもって命じよう。英雄の血でこそ、この攻撃は完遂される。焼け落ちろ! ――雷撃!」
青白い稲光が大地を射抜く。その一撃にヴイツーを含め対抗勢力はたじろいでいた。
舌打ち混じりに上空のNを睨む。
「……奴さん、英雄のポケモンを引っ張り出しておれ達に喧嘩売るたぁ、いい度胸じゃねぇか。てめぇら! せっかく白と黒が結託したんだ! 灰色の英雄を落とすぞ!」
叫んだ声音に相乗の雄叫びが混じる。
刹那、全員が呆気に取られていた。
「あれ……あんちゃん、オレ達……何か大切な事を、忘れているんじゃないのか? これは……そういう戦いだったか?」
そう言われてみればヴイツーもどこか当惑していた。だが記憶の継続性はある。何も忘れているはずがない。
「何言ってやがる! あのNが、反英雄に堕ちたって言うのなら、止めるのがおれ達民草の役目だろうが!」
「そう、だよな……。そうだ、Nがたった一人で反逆してきて、オレ達は六年もの間、反目し続けていたけれどようやく結託して……」
惑うバンジロウに甲高い鳴き声が遮った。白き英雄のポケモン、レシラムが飛翔し、佇む人影が指揮を執る。
「総員、怯むな! 反英雄、Nは眼前にある!」
「見ろよ……チェレンの奴、やる気だぜ。こっちも怯むな! プラズマ団残党軍、ただ腐ってきたわけじゃあるめぇ!」
叫んだプラズマ団の団員達を率いるのはポニーテールの少女であった。
「N……あの時の因果、返しに来たわ」
「トウコ。キミが立ち塞がるのならば、ボクは戦おう。それこそが! ボクから溢れ出るトモダチへのラヴだからだ!」
レシラムとゼクロム。神話に刻まれたポケモン同士がぶつかり合い、その命の火花を散らす。
レシラムの身体から赤銅のオーラが巻き起こった。ゼクロムが青白い旋風を発生させる。
「クロス――」
チェレンが身構え、その炎の刻印をゼクロムへと叩き込もうとした。Nも手を払い、漂う熱波を集約させる。
「こちらも、だ。クロス、サンダー!」
「フレイム!」
真の英雄を決するための戦いだ。その戦いに何の疑問もないはずなのに。
だというのに、ヴイツーは頬を伝う涙を止められなかった。
それはヴイツーだけではない。この場にいる全員が、涙していた。
「どう、なってるんだこりゃあ……。そりゃ、確かに今、決着がつく。それは分かっているが、これはそういう涙じゃない。悲しいわけでもないのに、どうして……」
バンジロウが頭を振る。
「何か……オレ達は大切なものを、今、決定的に失ったような、そんな気がする」
だがその欠落が分からない。
ここには全てが揃っているはずだ。
黒と白の英雄。チャンピオンを超えてみせたトウコ。反英雄、N。ベルとチェレン、そして自分達。どこにも不足なんてないはずなのに。
「どうしてだ……どうして涙が止まらねぇ……」
分からない。何を失ってしまったのかさえも、分からない。
だから、この戦いの是非をつけるしかない。それでしか、語れない伝説があるのだとすれば。
チェレンが拳を握り締める。
「分からない……が、僕らは踏み越えてきたはずだ。そうだろう! 四天王!」
チェレンの下に集った四天王達が首肯する。
Nを止めるための戦い。イッシュの未来を賭けた戦いだ。
そうだ。何も失ってはいない。これから取り戻すのだ。
「行くぜ、N。最後の戦いだ!」
悲しみは一時的なものだろう。涙もすぐに枯れ果てる。
今は未来を掴むべくして戦う。そのためならば迷いは捨てた。
Nの操るゼクロムが電撃を片腕に集約させる。
「いいとも……来るといい! キミ達の本当の敵が、目の前にいるというのならば!」
雄叫びを上げてチェレンのレシラムがゼクロムへと飛びかかる。
そうだ、ここに、足りないものなんてない。これから作り出していくのだ。自分達の未来を。これからを得るための戦い。これからを失わないようにする戦い。
ならば、何も惜しくはないはず。
灼熱を得たレシラムと電流を纏ったゼクロムが衝突する。
赤と青の光が交差する中、ヴイツーは胸の欠落の正体を探ろうとしたが、それは恐らくこれから来る栄光の未来への不安だろう。
そう結論付けて、彼はこの戦いを見送った。
どこまでも堕ちていく。時間の輪廻の中を。
ナイトメアパワーオーブが直前の拘束が利いているお陰か、ほとんど抵抗してはこなかった。あるいはもう自分との決着以外で世界を手に出来る事などないと理解しているからか。
ノアはセレビィが全ての力を使い尽くすまで時渡りを繰り返させる。
やがて何もない地表へと足裏が接地した。
ナイトメアパワーオーブと共に降り立ったのは黄金に輝く亜空間だ。
「ここは……イッシュのエネルギー集積地、デルパワーの内部か。……まだイッシュという大地が完成する前の時間軸、何もない、本当に全ての現象が始まる前の場所……」
ならばこれほど適した場所もないだろう。ノアは中空に浮き上がったナイトメアを睨んだ。
ナイトメアが瞬時に暗黒領域を形成する。赤い月が昇り、闇夜が世界を覆いつくした。
それでも、未来ほどの絶望はない。ここには誰もいないはずだ。
即ち、自分の身が枯れ果てるまで、この身体が尽きるまで戦えばいいだけの事。
「行くぞ、ナイトメア。最後の、剣だ」
ケルディオが姿勢を沈ませ、ナイトメアへと飛びかかろうとする。ナイトメアが黒い霧を発生させ、暗視爆撃でケルディオを葬ろうとした。
しかし、ケルディオには三銃士の加護がある。
光の皮膜が攻撃を完全に防いでいた。
「三つの輝きよ! 今こそナイトメアを、悪夢を討ち滅ぼさん!」
ケルディオの額から浮き上がった三角のエネルギー体がナイトメアを拘束する。三角形の結界陣に縛られたナイトメアが周囲へと無茶苦茶に攻撃を放った。
しかし、この場所には誰もいない。故に、その攻撃を気に留める必要もない。
ケルディオが蹄を鳴らし、一足で跳躍した。
黄金に染まった角がナイトメアへと叩き込まれる。
一閃、ナイトメアを両断した。それに留まらず、二の太刀、三の太刀が閃く。
光の速度を超えた太刀筋がナイトメアの全身を切り刻んだ。刃が奔り、ナイトメアの暗礁の肉体を引き裂く。
「トライフォースラッシュ!」
三銃士より引き継いだ力場が一挙に弾け、ナイトメアの外殻の肉体を吹き飛ばした。パワーオーブ形態から零れ落ちたのは原初の人型形態のナイトメアだ。
全身に裂傷を走らせたナイトメアがすっと手を掲げる。
その影の内側から現われたのは漆黒のポケモンであった。丸みを帯びた矮躯であるが、今の今までナイトメアの影に潜んでいたのだろう。
ノアはそのポケモンを見据える。
「影のポケモン……あの時間軸のNから剥がれ落ちた、もう一つの可能性か。だが、ボクは諦めるつもりはない。お互いに殺し、殺され合おうじゃないか。もう、それでしか、ボクとお前は、その存在を証明出来ないのだから」
ナイトメアが影のポケモンと共にこちらへと攻撃を仕掛ける。三銃士の加護は消え失せた。
今の自分とケルディオが持っているのは生来の力のみ。
だからこそ、最後の最後まで抗い続けよう。
どれほどの時間が流れようとも。幾星霜の時の向こう側にこそ答えがあっても。自分達は進む事をやめない。
これが誰の思い出にもならないのは分かっている。
これが何の意味を持つのかも分からない。
それでも、戦い続ける事こそが、何もかもから「サヨナラ」した自分に相応しい末路なのだ。
――二度目のサヨナラなんて言うつもりはなかった。
ケルディオと影のポケモンが激しく打ち合い、お互いを削り合う中で、ナイトメアとノアも拳をぶつけ合っていた。
ナイトメアに、最早外的要因の攻撃力は存在しない。
ゲシュタルト体でもない、ただの影に過ぎないナイトメアの拳と自分の拳が交差する。
殴りつける度、相手の思惟が流れ込んできた。
――ナイトメアを生み出したのは自分の過ち。この世界の過ち。だから、贖うのは自分でしかない。
吼え立ててケルディオが刃を影のポケモンへと叩き込んだ。影のポケモンは身体を分散させ、直下から拳の応酬をケルディオへと見舞ってくる。
水の皮膜で防御したケルディオが逆巻いた水流で影のポケモンを圧倒した。
――どこまでも、分かり合えないのか。分かり合う術なんてないのか。
拳を交わし、力を見せつけ、争いの果てに待つものなど知らず、ただ、怨嗟でもなく、怨念でもなく、ましてや因果も向こう側に置いてきた。
今、この場所にある身体と魂に戻るべき場所はない。
ないと分かっていても、それでも戦い続ける。
当然だ。全てから真の意味で「サヨナラ」するとはそういう事である。
もう誰も追ってこられない。もう誰の目にも、耳にも、記憶にも、何もかもから見離された。
この場所が終着点なのだ。
ノアはかっ血する。
今だけで何夜経ったのだろうか。時間の概念が曖昧だ。
黎明の光も、夜の月明かりも、全てから隔絶されたデルパワーの中心地では、一つの挙動で何時間経っているのかさえも分からない。
ナイトメアを殴りつけ、よろめいたその身へと馬乗りになった。
最早、恥も外聞もない。
ただお互いを滅ぼし合うだけ。ただ、お互いを否定するだけ。
涙を流しながら殴り続けるノアに、ナイトメアが抵抗した。
あちらもただ拳をぶつけるしかない。意味なんてものは消え失せた。理由もどこへ行ったのか定かではない。
どちらかの身が朽ちるまでが勝負であった。
殴り、滅ぼし、涙し、破り、消し去り、全てを無に帰してでも――。
やり直し、絶望し、それでもまだ希望を見つけ、有限の生に輝きを見出しても――。
ここに在るのは理由も、大義も、誰かのための正義も悪もない。ただ滅ぼす。壊し、壊され、狂い、狂わされ。月日が何処に消え去ろうとも。
夜が何度殺されようとも。
黎明が何度、大地を慰めようとも。
この場所だけは祝福されない。この場所だけが呪われ続ける。
呪いの行き着く先は、ただの虚無。
ならば虚無と殴り合っている己は?
分からなくなる。何もかも、思考の一滴に至るまで消失点の向こうに消える。
言葉を忘れた。
声の出し方が分からなくなった。
獣になった気がした。
ヒトに戻った気がした。
赤子に還ったような気がした。
老体にまで衰えたような気がした。
記憶出来なくなった。
記録出来なくなった。
視界に相手を捉える事が難しい。
拳が相手を捉えているのか、感触が霧散する。
ここに誰といるのか分からなくなった。
自分が誰なのか、分からなくなった。
涙、概念、声、希望、約束、離別、安息、終焉、殴打、血潮、激痛、虚構、忘却、回顧、涙、概念、声、希望、約束、離別、安息、終焉、殴打、血潮、激痛、虚構、忘却、回顧、涙、涙、涙、涙、涙、涙――。
「――サヨナラ」
「頼む、ボクにもう、二度とサヨナラを言わせないでくれ」
「もう一人の、ボク」
「ボクはチャンピオンを超える」
「――夢はあるか?」
「ボクはプラズマ団のおうさま」
「まだ未来は見えない……世界は不確定」
「ボクは……誰にも見えないものが見たいんだ。ボールの中のポケモン達の理想、トレーナーという在り方の真実、そしてポケモンが完全となった未来……キミも見てみたいだろう?」
「そんな事を言うポケモンがいるのか……」
「キミのポケモン、今話していたよね……」
「……キミに、話したい事がある。キミと初めて出会ったカラクサタウンでの事だ。キミのポケモンから聞こえてきた声が、ボクには衝撃だった……。何故なら、あのポケモンはキミの事を――スキ、と言っていた……。一緒にいたい、と言っていたから……」
だからそれでもボクは……諦めを踏み越えるのならば。
途方もない時間が過ぎた。
夜が幾つも殺され、朝が幾つも生まれた。
影が自分なのか、自分こそが影なのか。その判別さえも出来ない。もうここにあるのは、ただの時間の連鎖のみ。
時間は一定方向に流れている。
しかし、ヒトはその時間の中で、刹那に等しい瞬きの中で、生きていく事が出来る。生きる証明を生み出せる。
それが分からなかった。理解出来なかった。
ヒトと共にあるのがポケモンの幸せなのか。それとも隔絶される事こそが幸福なのか。
ない交ぜになった思考は戦いの終わりを関知する事もない。
膝を折り、身体に一片の力も湧いてこなくなった。
限界が訪れたのだろう。
ナイトメアは――いや、ボクは、と探すがどこにもいない。
勝ったのか、負けたのかも分からない。
黄金の輝きが網膜に焼きつく。
デルパワー、イッシュを引き寄せる大地から溢れる生命の息吹が、今、自分という小さな存在を還そうとしていた。
世界のうねりに。摂理の中に。還っていく。
赤子のようにすすり泣き、老人のように咽び泣き、青年のように慟哭し、少年のように無力さに涙した。
ここがどこであっても構わない。ここがどこでなくとも構わない。
魂は地に還り、風の中にあるのみ。
終わりは始まりへの円環。
太陽が死に絶え、地上が消滅し、星の運命がこの世ではないどこかへと導かれても、それでもなお、手を伸ばした。
星々の彼方へ。
星の海へと。
流れ込んでくるのは累乗の先の光。黒白の向こうへと、意識は、自分は、魂は、精神は、肉体は、心は、記憶は、記録は、思い出は――。でも、心残りは。
振り返った途端、風が吹き抜けた。
黄金の中へと。
赦されて、自分は消えていく。
そうだ。サヨナラが全てじゃない。
サヨナラは次の出会いのために。
だからこう言うべきなのだろう。
「――みんな、また会おう」
笑顔の先にこそ、再会の時は訪れるはずだったから。