第(−18)楽章「パピヨン輪廻」
記憶の奔流が流れ込む中、白に染まった空間でノアはハワードと向かい合っていた。
時の仮面を被ったハワードと己はほとんど真向かいにいるのに対消滅は巻き起こらない。
それも当然だ。ここは記憶の只中の場所。精神だけの空間だからだ。精神干渉に、ノアはたじろいでいた。
「どうして、こんな場所を……」
「こうでもしないと、誰かに見られてしまう。それはきっと、また世界を捩じ曲げる結果になるからだ」
どういう事なのか。窺う眼差しを向けるとハワードは切り出した。
「ナイトメアはウィザード形態から次の姿……パワーオーブ形態に移行する。そうなればほとんど核が見えたも同然。破壊すればいい」
それを教えるだけならばこのような仰々しい真似をする必要はないはずだ。真意があるとノアは唾を飲み下した。
「……何がある?」
「そうだな、隠し立てしても仕方ない。ハッキリ言う。パワーオーブまで追い込んでも、ナイトメアは破壊出来ない。この時間軸にいる存在では誰も倒し切れないんだ」
その言葉振りにノアは、でもと口を差し挟んでいた。
「灰色の王の協力も得れた。何より、チェレンは、あそこまで破壊してくれたはず! これで倒せないなんてそんな事……!」
「だが事実だ。パワーオーブ形態になれば、なるほど、追い込んだように見えるだろう。だが、その実、追い込まれているのはこちらだ。ナイトメアは段階ごとに形態を変えるが、あれは何もダメージに応じた形態ではない。こちらを殲滅するのに適した姿に変位しているだけ。つまり、本質は変わらないんだ。むしろこちらの不利に転がる。ナイトメアパワーオーブまで至れば、敵はこの時間軸……いや全ての時空にあるポケモンや何もかもから攻撃を受けてもダメージ変換されなくなる。つまり、果てのない闇に向かって我々は攻撃を続けているのみ。結果は得られない。因果の逆転だ。何もない場所に向かっての攻撃は、何の意味もない。虚無へと攻撃しても何も得られないのと同じ。虚無は虚無だ。ナイトメアは倒せない」
その残酷なる事実にノアはただ言葉を失う。ナイトメアが倒せないなど、冗談にしても性質が悪いだろう。
「だって、みんなは六年間も、ナイトメアを倒すために行動してきた。それなのに、倒せないなんて事があっていいのか? みんなの努力が無駄だなんて……」
骨が浮くほど拳を握り締める。こんな事を突きつけられて自分はどうしろというのだ。抗いさえも無駄だとみんなに教えろというのか。
この最終局面に至って、今までの全てが無駄だなど。
ハワードは、そうだな、とこぼす。
「他の誰かでは、ナイトメアは倒せない。ただ一人、キミを除いて」
指差されてノアは困惑する。
「ボク、が……」
「ナイトメアはこの時間軸のNより生じたもの。つまり、あれもまたゲシュタルト体の一つなんだ。一番に有効なのは対消滅現象」
「でも……そんなの起こらなかった」
「あれは無限に増殖し、無限に感染する。他を吸収したあれは変質する。つまりゲシュタルト体の破滅の因子を限りなくゼロに出来る。問題なのは時間だ。六年間。そう、六年もの間、あれに何もかもを吸収させたこの次元の落ち度。六年を完全消費させ、純粋にゲシュタルト体として破壊するのには、時間が膨大にかかる。百年、二百年……いやもっとか。このイッシュが完全に消滅してもなお、あり余るほどの時間が。そして今の時代には、そのような余分な時間も、ましてや無限に戦えるだけの戦力も残されていない」
それが分かっていてこのような事実を告げるのか。絶望の淵に立たせて、どうしろというのだ。
「……白と黒が手を組んでも、無駄だって言いたいのか」
「時間稼ぎと、それに状況を作り出すきっかけにはなるだろう。今のままではキミが一人で立ち向かっても犬死にだ。しかし、連中に手を出しつくさせ、パワーオーブまで追い込んだ場合、キミとナイトメアの一騎打ちに持ち込んだ場合のみ、可能となる」
舞い遊ぶセレビィが光を棚引かせ、視界の中を横切る。
まさか、とノアは息を呑んでいた。
「セレビィを、使えっていうのか?」
ハワードは静かに首肯する。
「そうだ。セレビィなら、あり余る時間の場所まで導ける。今の時代はどん詰まりだ。ここから先の未来はほとんど焼却され、滅却され、崩壊している。しかし、過去に渡る術を持つセレビィならば。時渡りのみが、ナイトメアを破壊可能な時代まで遡らせる手段だ。セレビィを使い、過去に渡れ。それこそ、誰の手も及ばないほどの過去に。セレビィがその力を出し尽くすほどの過去にまで遡れば、ナイトメアを倒す事は可能だろう。ただし、ここから先には覚悟がいる。キミはもう二度と、この時代の人々には会えなくなるだろう。再会なんて絶対に不可能な場所に行くんだ。ある意味では死よりも惨いかもしれない。誰の干渉も出来ず、誰にも認められない。思い出の外の戦いに赴かなくってはいけない。記録にも記憶にも残らないだろう。何もかもが消え失せた時代の果て、消失点の向こう側にこそ、ナイトメアを倒す術はある」
ハワードの説明にノアは自らの手に視線を落とした。
これまで数多の過ちに塗れた掌。だが、自分一人の犠牲で全てが贖われるのならば。
拳を握り締める。
「……いいさ。やってやる」
「……再三言うが、本当にもう誰にも会えない。ナイトメアを破壊し尽くすしか、キミの未来はない」
「それでも、ボクに意味はあるんだろう? 生きている意味が。それなら、いい。チェレンが最後に言ってくれたんだ。自分の役目は果たした、って。英雄の役目は彼のものだ。じゃあボクの役目は? ってずっと考えていたけれど、答えは出そうだ。ボクの役目は、伝説の先にこそある」
「……恐れはないのか? セレビィで時渡りをする、という以上、キミの事など誰も覚えてはいないだろう。誰も知らない場所に行き、誰にも関知されずに死んでいく。今まで以上に孤独で、なおかつ報われる事のない戦いだ」
「ボクは報われたくって戦ってきたわけじゃない。最初こそ、やり直せるのだと思い込んでいた。でも、そうじゃないんだ。きっと、過去も未来もやり直しなんて利かない。そんな簡単なものじゃないから、生きている価値があるんだとボクは思う。思えるようになった」
誰かに命じられるまま生きているのではない。かといって不貞腐れたように悪の芽を摘むのでもない。
本当に自分が必要とされる場所。本当に自分が望んだ場所へと。
「残酷なのだと、それは重々分かっている。だが、もうキミにしか頼めない。数多のゲシュタルト体を送ったのはナイトメアを破壊するためだったが、それが結果的に因果の集約とナイトメアを破壊不可能な領域まで落とし込んでしまった。だから、ここから先は純粋なお願いだ。ナイトメアを壊すのには、キミしか出来ない」
ハワードの言葉を聞きつつ、ノアは、そうか、と思い至っていた。
「キミも、そういう気持ちだったんだ。――トウヤ。わけも分からないうちに英雄に祀り上げられ、ボクと対峙し、そして打ち克って見せた。その結果が世界から爪弾きにされた、という事。ようやく、キミの気持ちが分かったような気がするよ」
自分と立ち向かったという事は世界から己を切り離さざるを得なかった、という事。それでも彼は前を向いていた。決して振り向きはしなかった。
どれほど残酷な運命であれ、どれほどに理不尽な宿命であれ、彼は受け入れた。受け入れた先にこそ強さがあった。
「分かっていると思うが英雄ではない。それどころか、痕跡は完全に消え失せる。ナイトメアと共に、キミは人々の記憶から完全に抹消される」
「……いいさ。それでボクが満足出来るのなら、それでもいい。そんな終わりでも、ボクはここまで来られた。きっとそれだけでも奇跡なんだろう。ボクは何もかもから見離されたのだと、勝手に思い込んでいた。力を失い、全てを失い、この過去に渡った事を、不幸だと。でも、そうじゃない。また出会えた、また新たな邂逅に祝福された。それだけできっと人生は美しいんだ。ボクは、何もかもを失った事、幸せだったと思える」
「失ってから初めて、か。皮肉めいた事だ。ボクは誰でもない、特別な人間でなくなる事を望んでいたのに、最後の最後に、それが叶うなんて。こんな形で」
ハワードの仮面の下から涙が伝う。きっと彼も苦しんだ。だからもう楽になってもいい。
「美しい事だ、って、そんな風に割り切れはしないけれど、でも。ボクがみんなに降りかかる不幸を肩代わり出来るのなら、それでいい。ボクは、この世界にあってはいけない存在だ。本来、いないはずの人間なんだ。だから、このやり直しはただの立ち止まっただけの話。停滞していただけなんだ。ボクは、止まっていた針を進めるだけ。時間はいつまでも待ってはくれない」
「そうだな。Nというボクは、いつだってそうだった。どれほどまでに時間が残酷な結果を示していても、それでも立ち向かうべきものを見出していた」
記憶の回廊から明かりが失せていく。消え行く白の部屋の中で、ノアは言い放っていた。
「一つ、いいかな? もう一人のボク」
「何か? 答えられる事はもう言ったはずだが」
「いや、これはただの、ボクの決意を言いたいだけだ。後悔なんてしていないよ。でも、ボクはただのニンゲン。弱いだけの、一人のニンゲンなんだ。特別でも、ましてやトモダチの側でもない。汚く、醜く、生き意地に塗れた、一人なんだ。だから、ボクに大義も使命も、ましてや似たような宿命でもない。ボクは――ノアだ」
Nではない。この肉体は、もうその宿命から切り離されている。
その誓いにハワードは仮面の下で笑ったようであった。
「そう、だな。ノア。キミは果たせ。ナイトメアを破壊し、全てを終わらせるんだ。纏わりつく何もかもを。そして、時を進めろ。時間は、待ってはくれないんだから」
彼が身を翻す。
途端、記憶の回廊は脆く崩れ落ちていった。
闇の中に沈む意識の中、ノアは独白する。
「ああ。ボクはきっと、こんな終わりを」
望んでいた、のかもしれない。
「何やってんだ! ノア!」
ヴイツーの怒声が背中に振りかかる。バンジロウが困惑の声を上げた。
「兄ちゃん……? 何だって、セレビィなんか……」
誰もがこの行動の意味を解せない事だろう。そんな中、ノアはNを見据えた。一瞬だけ彼は驚愕に目を見開くが、やがて全てを悟ったように目を伏せた。
「そう、か。もう一人のボク。キミはそこまで……」
セレビィが円環を構築する。ナイトメアと自分を中心軸に時渡りの準備が成されようとしていた。
「この現象……時渡りだって言うのか……! ノア! 何を考えてんだか知らねぇが、こんなのってないだろ! 戻って来い! てめぇの居場所はここに――」
「ヴイツー。ボクはこの時間軸に留まるべきでも、ましてやみんなの期待に甘えるべきでもない。ボクは、果たすべき信念がある。これは義務でも、使命でも、運命でもない。ボクが決めた。それだけの事だ」
キョウヘイが逆巻く景色の中、声を張る。
「ノア! どこへ行くつもりなんだ!」
この時間軸で様々な人に出会った。出会うべくして出会ったものもあれば、全く想定しない出会いもあっただろう。
しかし、全ては必然であったのだ。
巻き戻った時間の先も。ナイトメアとの戦いも。そして、育んだ友情も。
間違いなんかでは決してない。間違いなどあるはずがない。
セレビィが時渡りを遂行しようとする。ナイトメアパワーオーブが全身に浮かび上がった眼球による黒い霧で攻撃するのをケルディオが額に浮かんだ三角の文様で弾き返した。
「三騎の文様の加護……トライフォースが輝いて……」
このために、三銃士がいたのだろう。今の自分とケルディオに誰も物理的な干渉攻撃を仕掛ける事は出来ない。
時空の渦が辺りを囲っていく。白い時空間の中に時計の文様が様々に浮かび上がった。
――そうだ。時計の針は進ませなければならない。
手を伸ばそうとするノアに、声がかかった。
「忘れないからな! てめぇの事、絶対に! 時渡りが何だって言うんだ! そんなもんでおれや、バンジロウや、アデクの爺さんのやってきた事の、全てが清算されるわけが……!」
ヴイツーは信じたいのだろう。在り得るはずのない時の輪廻の中でも消えない絆があるという事を。
自分も出来れば信じたい。
だから、これは別れではない。もう一度、出会い、そしてまた別れる時のための約束手形だ。
振り返り、自分は言っていた。
「――サヨナラ」
直後、光が拡散し、ナイトメアと自分はどこまでも時の輪廻の向こう側へと堕ちていった。