第(ー16)楽章「ヘテロ失楽園」
言付けを受けて、ヘレナは動き始めていた。
灰色の玉座、プラズマ団の城壁が聳え立つ、支配の象徴の最奥に、彼の者は括りつけられていた。
自分達の救済者。この世界を真に導く存在。
……そうなのだと、思い込んでいた。思いたかった。だが、求道者はただただ項垂れているばかりだ。
こけた頬に年月を重ねるしか出来ない。
打ち込まれた杭へとヘレナが手を伸ばす。
刹那、杭が空間ごと掻き消えていた。不意に自由を取り戻した身体に、彼がつんのめる。
自分の足元で蹲る存在にヘレナは声を発していた。
「……N様。時が来たようです」
そう告げる事しか出来ないのは残酷であった。彼に並び立つ事も、ましてや今の彼を支える事さえも出来ない。自分に許されたのは伝言役と言うささやかな代物。
それでも彼は理解したのだろう。
六年ぶりに自由になった身体で必死に立ち上がろうとしては、何度も手足を滑らせる。
ヘレナはNの肩を支えた。
六年……いや、もっと久しいだろう。
彼に触れたのは。
時が経った聖なる森の使者は、どこか骨張った手でヘレナの手を取った。
「ヘレナ……、キミがボクを解き放つという事は、意味は分かっている。その時が来たんだ。終焉の始まりが」
全てを理解しているNの眼差しに何も言えなくなってしまう。彼はいつもそうだ。
自分達では窺い知れないものを見据える紺碧の眼光。現在過去未来、全てを見据える事を許された存在はこの時、立つ事さえも儘ならなかった。
――こんな彼に、何を背負わせるなど。
ヘレナは今すぐに灰色の王の命令を裏切って、Nと共に逃げ出したい衝動に駆られた。
Nを自由にする権限はある。自分と共に、今すぐ逃げましょう。この時のいや果てまで。世界が終わるその淵まで――。
そう言いたいだけなのに、彼は行ってしまう。きっとたった独りで。
あの時と同じように。
ヘレナの脳裏には自然とあの静謐の森が破られた日の出来事が思い浮かんでいた。
ゲーチスとプラズマ団による森への介入。あの日、世界は崩れ去った。名無しの王は、Nという名前を得て、世界に挑戦しなくてはいけなくなった。
名前のないただの王でいられたのに。ただ、純粋に時を生きていくだけの存在でいられた彼は、名を与えられ、生きていく事を矯正され、世界に適応せざるを得なくなった。
何もかもから爪弾きにされた、あの森の日々。
世界から見離されている代わりに、誰も自分達三人を脅かさない。
完成された楽園はもう、この世のどこにもないのだ。
あの楽園をもう一度求めるのならば、それは過去に行き場を求めるしかない。だが、それはやってはいけない事。
求めてはならない事。
考えては……いけない事なのだ。
しかし自分は女神である前に、ヘレナという人間である前に、特別な存在である前に――ただの女なのだ。
だから、ここでNに未来を示すのが目的であっても、その性が自分にただの伝言役以上の言葉を持たせた。
「……N様。もう、いいのではありませんか?」
ついて出た言葉は止め処ない。ヘレナはこの六年と森から出た日々の不実を全て語っていた。
「ナイトメアなど、放っておけばいいではありませんか。あんなもの、他の誰かに任せればいい。プラズマ団は崩壊したのです。ゲーチスも……死にました。七賢人ももういません。恐らくは、この伝令が渡った時点でダークトリニティも。もう、ないのです。貴方が必死になってまで、護らなければならないものなど。貴方が自分を削ってまで、身を賭さなければならない戦いなど。ナイトメアは世界への絶対悪。そんなものは、いくらでも逃げられましょう。ここではない、イッシュではないどこかに行けばいいのです。カントーでも、ジョウトでも、どこでもいい。私と一緒に、どうか……逃げてくださいまし」
このような事を覚悟の決まっているNの前で言うのは卑怯だ。それでも、ヘレナはこの言葉を今伝えなければ一生、その機会には恵まれないであろう確信があった。
ここでNを見送ってしまえば、もう彼は戻ってこない。
世界はNという存在を欠いたまま回り続ける。
ナイトメアの破壊がどれほどまでに重要であろうとも。人類とポケモンの存亡の危機であろうとも。
そんな事はどうだっていい。
ただ、彼にこれ以上重石を背負わせる事はない。彼はもう充分にやったではないか。
プラズマ団の傀儡として戦い抜き、ゲーチスの目指すものが間違っていても異を唱ええず、今の今までどれほどまでの苦悩があったかも分からないのに、充分に。
頬を伝う熱いものに、Nは指先でそっとそれを拭った。
穏やかな微笑みを浮かべたまま、彼は言いやる。
「ヘレナ。キミの気持ち、簡単に分かるなんて言ってはいけない。それは、どれほどボクが人でなしでも、絶対に言ってはならない事だ。だって、キミらだって苦しんだ。ボクだけが地獄の淵にいるわけじゃない。それはもう、この身が覚えたんだ。……静謐の森、あの時はよかった。あの日々に戻れたら……思わなかったわけじゃないよ。無論、考えなかったわけでも。でも、過去にすがったって、何もいい事なんてないんだ。過去はどれほどまでに輝いていたとしても、ボクは人の子だ。人間なんだ。どれほど言い繕っても、トモダチの声が分かっても、ただの人間、弱い化け物だ。だから過去を追い求める。弱いから、何も持たないから、キミ達との思い出に生きようとする。でもね、そんなんじゃ、いつまで経ってもどこにも進めやしない。何にも、成れやしないんだ。英雄にも、伝説にも。だからボクは、非情かもしれないが、キミ達との思い出に生きるのをやめようと思う。ナイトメアはボクから発したもの。滅ぼすのもまた、ボクでしかあり得ない。それはトウコも分かっているのだろう。だから、キミに戒めを解かせた。こんな残酷でしかない役目を」
Nの声音はどこまでも優しい調べのようだ。これから自分の存在を賭けた戦いに赴くなど、一片たりとも窺わせない。
だがもう会えないのだ。もう二度と、彼の声を聞く事は出来ないだろう。二度と、彼の優しさに甘える事も出来なくなる。
それでも、今の女でしかない自分に彼の背中を押せと言うのか。女神である、という矜持などこの胸にはない。
ただ、死んで欲しくない。消えて欲しくないという、どこまでも生易しいだけの考え。
Nは自分の浅はかさも含めて、その言葉に浮かべているようであった。
「……N様、私に、貴方を殺させないで」
震える指をNは包み込む。彼のほうが何年も他人に触れていないのに、その穏やかさ、温かみに心が融かされていく。
「キミは誰も犠牲にしていない。今日までよく頑張ってくれた。ヘレナ。バーベナにもよろしく言っておいてくれ。彼女は……」
「あの子は、N様との別れを惜しんで……。こんな役目は負えないと、灰色の王の側近になっています。次世代の王者のために。私は、N様を見送る側、彼女は次の世代に輝きを見出す側」
その在り方に憤ってもいいはずなのに、Nは納得したように口元を綻ばせる。
「そう、か。バーベナも息災ならそれでいいんだ。キミ達には過酷な運命を強いたと思う。どうか、穏やかに、プラズマ団に縛られない生き方を模索してくれ」
Nが手を差し出す。分かっている。渡すべきものがある事くらいは。それをもって、彼との関わりは消滅する。
Nを、ナイトメアの元に行かせる事になるのだ。それをヘレナは容易く看過出来なかった。
頭を振り、涙を流す。
「……いや、N様。私に、これを差し出させないで」
「ヘレナは優しいね。その優しさで一人でも多くを救ってくれ。ボクは行く」
言葉振りにはいささかの躊躇いもない。ただ、その使命を全うする事のみを考えているようであった。
自分は行くしかないのだと、ナイトメアを滅ぼすしかないのだと決めている。
そこには思い悩んでいる様子も、ましてやこの運命に異を唱えているわけでもない。
ただただ、罪を贖うため。罰するべきものを罰するため。双眸には使命を帯びた者の宿す光がある。
「でもナイトメアは! N様のせいじゃない!」
こんな抗弁しか吐けない己のなんと浅ましい事か。ナイトメアの責任は誰のものでもない。この時代が悪いわけでもなければ、ましてやNが悪いわけでも、自分達が罰せられるものでもない。
あれはただの事象。
ただの絶望の象徴でしかない。
だから喚いたところで、呻いたところで全てが無意味。自分一人が苦しんでも、この世には救済が訪れるわけでもない。
だがNを解き放てば救える命もある。そう合理的に考えればいいだけなのに、Nと過ごした森の日々が、かけがえのない輝く過去が邪魔をする。
過去があるから、自分はNと対等でいられる。もし、森の過去がなければ、あんな森が最初から存在しなければ、Nと自分は心を通わせる事さえも出来ない。
それほどまでに遠い。それほどまでに、心は離れてしまった。
Nはただ覚悟を口にするだけだ。
「ヘレナ。英雄のポケモンを封じた石を。それでボクは発てる」
「でも! N様じゃなくったって……!」
「それはもう捨てた選択肢だ。ボクはボクであるから、チャンピオンを超えると言ってのけられた。英雄になると決められた。それはボクだからだ。ここに、Nという名を備えた自分がいるからなんだ。だからこれは、ボクの使命」
抗えない。Nの言葉には力がある。
――だから、これは最後の手段。
「……ごめんなさい、N様!」
懐から取り出した折りたたみ式のナイフで首筋を掻っ切ろうとした。いっその事、自分なんて最初からいなければ。この命さえなければ、悔やまずに済む。苦しまなくっていいはず。
そんなどこまでも愚かしい自分に終わりは訪れなかった。
Nの手が、ナイフを握り締めている。彼の面持ちに痛みもましてや苦しみもない。ただ、あるべき事を成そうとしている英雄の瞳がそこにあった。
――ああ、この眼に、自分はどう映っているのだろう。
愚者を見るわけでも、ましてや女を見るわけでもない。彼が見据えているのは未来だ。遥かなる未来だけが、彼を救う事が出来る。
それを理解してしまった、呑み込んでしまった。ならば、もう戻る事は叶わない。
自分程度が口を挟める領分はとうの昔に消えてしまっているのだ。それでも、Nは拒絶を浮かべる事はない。
拒絶よりも、なお色濃いのは双眸に宿した使命の輝き。
英雄に成るべくして成る、そんな光をあの森では見ていただろうか。
きっと、外界に出たのはマイナスだけではないのだと思いたいのだ。
自分も、Nも。外の世界に触れて穢れただけでは終わらせたくはない。あの森の日々を忘れないのは何も輝きが一時しかなかった、という悲劇ではないのだ。
輝きは追い求める限り無数にある。ただ、それを見る事に疲れた女と、見続ける事を選んだ彼との違い。
可能性に追いすがる事をどこまでも無意味だと断じるのは出来ない。可能性に賭ける事、戦い抜く事を彼は選択したからだ。
「……N、様。お手を」
「いい。キミの命のほうが大事だ」
上辺だけでもこれほど嬉しいものはなかった。彼はまだ自分の知るNのまま。だからこそ行って欲しくない。
傍にいて欲しい。
そんな、女のわがままをNは理想で打ち消した。
「ヘレナ、ゼクロムを。ダークストーンをボクに。今は、遥か向こうにあっても果たさなければならない。それはボクにとって生きる目的そのものだ」
ダークストーンの発動条件は英雄の血。ヘレナは黒色の石を取り出し、Nの手に握らせた。
血を吸ったダークストーンから輝きが迸り、直後には青白い雷撃を身に纏った龍が出現していた。
黒き英雄、ゼクロム。
その威容にNは一切たじろがない。赤く染まった眼を見やり、一つ頷いたのみであった。
ゼクロムがNへと手を差し伸べる。言葉は必要ない。彼らの間に降り立ったのは信念を貫き通すという意地のみ。
ゼクロムに騎乗したNはこちらへと一瞥を寄越す。
ヘレナはただただ帰還を望むのみであった。
「N様……私……」
これ以上は、言ってはならない。ただの戯れ言、ただ弄するだけの言葉。
それでも、Nにもう伝える術がないのならば。ここで言わないと後悔するのならば、陳腐でも言っておくしかない。
「私は、貴方の事、いつまでも……お慕い申しております」
たとえ貴方が帰ってこなくとも。この身の純潔は貴方に――。
Nはゼクロムの雷鳴を操り掌から浮き上がった血潮を凝固させた。高熱で蒸発したかに思えた血糊は次の瞬間、赤い宝石に変わっていた。
「それが、今のボクの気持ちだ。だから、安心して欲しい。帰って来る」
ヘレナは足元に転がり落ちた宝石を拾い上げる。
Nの血から生まれし輝き。英雄の宿した信念の結晶そのもの。
ゼクロムが吼え、青白い閃光を棚引かせながら玉座より飛び立っていく。その軌跡をいつまでも忘れまい、とヘレナは強く心に刻んだ。
「N様が行ってしまわれたわ」
感じ取ったのは半身の悲しみ。バーベナは眼前の相手に、悲哀の涙を浮かべた。
「泣いているの?」
「……ええ。私達は二人で一人。だから、ヘレナが悲しいと私も悲しい」
「そう、でも悲しみは、すぐに終わらせるって、トウコお姉ちゃんが言っていたから。あの人の言った事は何でも現実になる。それだけの力を持っている」
羽衣を身に纏った少女は力強くそうこぼした。
虹色に輝く天衣はこの世のものとは思えない。天上人の光を内包した少女はバーベナを見やる。
この少女に未来を託すしかない。それは自分だけの決定ではなかった。灰色の王――トウコの決定でもある。
「貴女に輝きを見たのね。トウコさんは」
「そんな大層なものじゃないと思う。きっと、託すべき未来は無数にあったんだろうけれど、トウコお姉ちゃんは強いから。最後の最後まで戦い抜くつもりだよ。その先に待っているのが玉座ではなくっても」
バーベナはトウコより自分にもしもの事があった場合の想定を聞いていた。
玉座を二日以上空ける事があれば、その場合、全ての権限を少女――アイリスに譲渡する、と。
何も伊達や酔狂で言っているわけではない。彼女は王を目指した。その苛烈な旅の行く末を目にしていた自分達ならばそう容易く王座を譲るはずはないのは明白。だというのに、その伝言があったという事実は、トウコでさえもナイトメアを倒せるかどうかの自信はない、という推測に繋がる。
「でも、王でさえもナイトメアを倒せないのだとすれば、誰がこの世界を救うというの……」
トウコは全ての因果を背負ってでもナイトメアを駆逐するつもりのはず。そんな彼女でも潰える事の出来ない闇があるとすれば、自分達に何が出来るというのだろう。
どのような足掻きさえも無意味に思える。
「分かんない。でもはっきりしているのは、トウコお姉ちゃんはナイトメアを倒しに行った。きっと、それだけで充分じゃない?」
「充分? でも、ナイトメアを倒せなければイッシュだけじゃない。世界が……」
「滅びる。そうかもね。その時は、きっと誰のせいでもないよ。その時に責を負えるのはきっと、今を必死に生きている人間だけ。だからあたし達がどれほどこの玉座で喚いても、話し合っても、意味がないんだよ。英雄は解き放たれた。王も下界に降りた。その時点で、きっと果たすべき事は果たされようとしている」
ナイトメアがどのような存在であれ、Nならば、という思いがあった。
Nならばこのどうしようもない帰結をどうにかしてくれるはず。あの時、自分を救ってくれたように。
その儚い希望を、アイリスは予見する。
「N……あの人でも、ナイトメアを打ち倒せるかどうかは分からない。英雄のポケモンの片割れは永遠に失われてしまった。それでも、今を打ち克つだけの覚悟が人にはある。それを信じるのならば、きっと英雄は舞い戻ってくる。この時代に」
ただ信じるのみ。その帰結にバーベナはただ困惑する。
ここまで来て、女神の役目が待つだけなど。だが、きっと最悪の未来を辿っても同じ事であっただろう。
待つだけ、その希望を託す事だけが女神二人に許された最後の自由。
最大の役目はただその一事のみ。
だから、今も待とう。どれほどまでに不安でも。どれほどまでに明日が見えなくても。それでも踏み出すのは人の覚悟のみだ。
「立ち止まる……事だけが私達の行動なのね。でも、そんなの……」
頬を熱いものが伝う。どうしたってNと並び立つ事は許されない。女神としてこの世に生を受けた以上、英雄と並ぶのは摂理に反する。
それだけが、ただただ少女としてのバーベナの心に突き立ったしこりであった。