第(ー15)楽章「鎮魂頌」
「ボク、だって……?」
「私は遥か未来世界のN。いや、正しく言えば、ナイトメアの時間軸を経験し、全ての人類の破滅を目にした、観測不可能な時間軸を経たNと言うべきでしょうか」
自分より未来から、ハワードと言う名の己は来たというのか。にわかには信じ難かったが、対消滅現象が全てを物語っている。
――同一存在。ゲシュタルト体。
「ナイトメアの時間軸を経験……? そんな事は出来ないはずだ」
「出来ない、とする論拠は?」
「だって、ナイトメアは全てを吸収する。他の人類が全て滅びたのならば、ボクだって滅びない保証はないはず」
「確かに、現状のナイトメアは全てを虚数の向こう側に吸引し、何もかもを破壊出来る因果の殺戮者。しかし、本当の最初は? それはN自身の影であった」
ノアはハワードの言わんとしている可能性に躓いた。それが事実であるのならば……。
「あれもまた、ゲシュタルト体であった、と……?」
「形は違えど、無数に存在するNの可能性。ならば滅する方法は一番によく知っているはずですね?」
「対消滅……今、巻き起こっているこれが、ゲシュタルト体を破壊するのに最も被害が少なくって済む」
自分さえ消えればいい。その点で言えば他者を巻き込む必要はない。全てN個人で回る事象だ。
「しかし、対消滅の運命からナイトメアは逃れた。だからこそ、私が生きている」
「そうだ……対消滅を決意したのなら、どうして今、ここにいる?」
ナイトメアと等しく消え失せている運命をどうやって遠ざけられた? その問いにハワードは目を伏せる。
「対消滅で全てを決するはずであった。ですが、ナイトメアは我々が想像しているよりもずっと賢しい。対消滅の運命から逃れる術を知っていた」
「そんな……! そんな事実があるはずが……」
「あるから、ナイトメア一体を倒すのに、全人類とポケモンを犠牲にせざる得なかった。今から、それを託します」
すっと掲げられた指先がノアの額に触れる。ここまで距離が詰まればお互いに消滅の運命にありそうだが、今にも消え失せそうなのは自分よりもハワードのほうであった。
「どうして……」
「それこそが対消滅を免れる方法。現状、私達の間に降り立ったものこそが。セレビィ、私の記憶を彼に」
セレビィのサイコフィールドが形成され、ノアは脳内に逆流してくるイメージの渦に翻弄された。暴風を前にした木の葉のように意識が一点に絞られていく。
消失点の向こう側にある意識へと手を伸ばそうとして、幾つもの記憶が精神世界を揺さぶった。
これがハワードの――もう一人の自分の記憶。
セピアに染まった記憶の雪崩は次々と小さな自己を崩壊させていくが、最後の一線で、ノアは己を保った。
現実の手足を取り戻した時、眼前のハワードからは黒い霧が漂っていた。
亀裂が走り今にも消え入りそうである。
「これが……ナイトメアを倒す、ただ一つの方法」
離れていくハワードだが対消滅現象から逃れられないのだろう。その身が朽ち果てるのはそう遠くないように思われた。
「どうして……どうしてみんな、ボクに託していくんだ! ボクなんて……そんな価値はないのに」
チェレンも、ベルも、誰も彼も、どうして自分に希望を見出すのだろう。
自分には価値などない。プラズマ団の王であった頃も、何もかもを失った今でさえも。
どこにも価値などない、ただの人間だ。
どれほど言い繕っても逃れようのないただの一事はそれのみなのだ。
「ボクは……みんなに託されるような人間じゃない。理想も真実も、この手から滑り落ちていくだけなのに」
その独白にハワードは首肯する。
「そう、だな。私は、幾度もそれを経験した。自分はただのヒトだ。特別なものを持っていたとしても、それは何の価値もない。ただの人間に出来る事なんて知れている。それでも、皆が託してくれるのは、それは自分に可能性を見出しているからだ。どこかで何かを変えてくれるかもしれない、と期待してくれているからなんだ。だったら、その期待を裏切るべきじゃない」
「何もかもから裏切られたのにか! ボクは、自分を見放していく全てを赦して、その上で決めろって? そんなの……!」
無理だ。出来っこない。しかし、己の似姿はただただ消滅の危機にあっても何かを繋げたい様子であった。
ここで消え去るよりも何も残せない事のほうが怖いかのように。
「……本当に恐ろしいのは、誰も彼も自分を忘れてしまう事じゃない。英雄でなくとも、王者でなくとも、勝者ではなくっても、敗者としての記憶にさえも残らなくても……それでも抗う事を拒否した自分自身、それを許せないからだ。抗う事をやめた時、立ち向かう事から逃げた時、自分は本当の意味で居場所を失う。逆に言えば、そうでない限り、この世からサヨナラする事なんてあり得ない。それを胸に刻んで欲しい」
「でも! キミは消えるんじゃないか!」
放った言葉にハワードは微笑むだけであった。
「そうだな。消える。ようやく、消えられる。悪者になったボクを退治してくれた。キミはそう刻めばいい。ボクが悪に染まったのは事実なんだから」
「でも、それもこれも変えるために! 最悪の未来を変えるための行動だろう! だったら……何も責められる事なんて……!」
「それを知っている人間はいない」
その一言に集約された。知っている人間は一人もいない。突きつけられたその事実こそが、ナイトメアを破壊する最後の手立てなのだ。
「……誰も、知らなくってもか?」
「ああ」
「誰の思い出にも、ならなくってもだって言うのか」
「その通りだ」
賞賛される戦いではない。過去現在未来、それら全てから隔離された戦いだ。
何もかもから見離された、「停滞(フェルマータ)」の戦いを繰り広げるしかない。
それが、遥か未来の自分が見出した答えだというのならば。
それを受け容れられるのはこの世でただ一人。自分だけだ。Nである自分だけなのだ。
「思い出にも、美化もされない戦い……。でも、ボクが目指したのはそうであったのかもしれない。理想からも真実からも見離されたただの人間には、それがお似合いの結末だろう」
ハワードはモンスターボールを地面に転がす。
「セレビィはこの結末に絶対に必要だろう? 預ける。繰り返すなよ。ボクの辿った最悪を」
ボールを拾い上げ、ノアは強く頷いた。
「約束しよう。ボクは、思い出に残らなくってもいい。誰かの記憶に、引っかからなくっても構わない。……ただ、一つだけ。聞いてもいいかな」
「消える間際になってか。何か?」
聞かなくてはならない。これだけは絶対に。
ノアは一拍置いてから口にしていた。
「時の輪廻に己を放り込んででも、使命を果たせて……満足しているのか、キミは」
誰に褒められるわけでもない。悪に徹してでも、自分を罰する人間が現れる覚悟で、この時代を破壊し、ナイトメアという存在を抹消する。
それは孤独な行動であったはずだ。
何よりも、悪であろうとするのは自分ならば耐えられないだろう。
消滅間際の彼は、そんな瑣末な事か、と笑みを刻んだ。
「キミならば、分かるだろう? 意味がないと、どこかで分かっていてもなお、抗わなければならないという事が」
ああ、痛いほどに分かっているとも。
運命がどこまで自分を道化として扱おうとも。あるいはどこまで張りぼての意味合いしかなくとも、戦い続けなければならない残酷さを。
その痛みが分かっているからこそ、彼の生き方に疑問を呈していたのだ。意味がない、何の理由もない悪意はこの世にはあってはならない。
だというのに、彼は意味のない悪意への戦いを自らに課した。害意しかない存在との戦いを幾星霜も繰り広げてきた。
どこまでも孤独。どこまでも無力。そして、どこまでも――勇気がなければ出来ない行動。
報われるでもない事実に向き合った時、人はここまで強くあれるのか。
誰かへの贖罪も、ましてや記録にも記憶にも残らない小さな一人の命。
それでも行くというのならば――。
「ボクは、ナイトメアを倒す。それがこの時間軸に放り込まれた、最大の意味だ」
だからこそ、言っておかなければならない。消え行く自分自身への手向けを。
「……ありがとう。この次元にボクを、過ちしかないとはいえ、送ってくれて。そうでなければボクは一生、罪の贖いしかなかった」
人生を変えてくれた。その一事には感謝すべきだろう。彼は目を見開いていた。恐らく恨まれる事はあっても感謝されるなど思っていなかったのだろう。
何かを得心したように瞑目し、そっと呟く。
「……そうか。だからこそ、キミは違った。ナイトメアに立ち向かうのは、キミが相応しい」
崩落する自己存在に証明はなかった。黒い瘴気が棚引き、ハワードを……自分自身の成れの果てを完全に消滅させた。
どこにも存在価値がない、ただの悪。ただの自己満足に過ぎない。
それでも、自分は刻んだ。彼の存在理由を。
ならば、次は己の番だ。
「誓おう。ボクはナイトメアを打ち倒す」
託された時渡りのポケモンと共に。
最後の戦いへの道標が、太陽の輝きとなって記された。