第(ー14)楽章「魂ノ代」
そう容易く志を共にするのは難しいかもしれないが、時間はあまりない。ナイトメアの場所が露見した以上、長期戦は逆に不利に働く。
その時、降り立ってきた影にヴイツーが振り返った。黒衣を身に纏った者達にノアは気圧される。
「ダーク、トリニティ……」
「灰色の王は?」
「今は一人にしておいてやってくれ。それよりも、目標は……」
ダークトリニティの一人がボールを翳す。中に入っていたポケモンにノアは息を呑んだ。
「テラキオン……あの時、戦った……」
「テラキオンはナイトメアに吸収され、そのトレーナーであるダークトリニティの一角も失われていた。……彼までは取り戻せなかったが、テラキオンのみでも救出出来た。今は、それだけでもいいだろう」
ヴイツーは首肯しノアへと向き直る。
「ノア。てめぇのケルディオの角を折ったのは他でもない。おれだ。だが理由はある。あのまま特攻させるのが忍びなかったのもあるが、もう一つ、大きな理由が」
「神秘の剣は確かに、完成形に近かっただろう。だが、ケルディオだけでは神秘の剣の真の力を引き出せないのだ。ケルディオには対応する三体のポケモンによる恩恵が必要となる。それぞれ、コバルオン、ビリジオン、そしてテラキオンの刃が」
ノアはその言葉振りに震撼する。その三体は敵のはずだ。
「……でも、キミ達は敵だった」
「そう、敵であった。だが今さらプラズマ団や対抗勢力を持ち出すのは先のやり取りを見てもナンセンスだろう。ノア……いや、未来世界のN。ケルディオの刃は一度、折られなければならなかった」
ノアはダークトリニティの論調に訝しげに眉をひそめた。
「折られなければならなかった……? そんな無茶苦茶……」
「今のケルディオの神秘の剣は我流が過ぎたんだ。言ったろ? あのままじゃ外殻止まりだって。だが三体の闘剣士のポケモンによる継承が成されれば違ってくる。ダークトリニティ、それにヴァルキュリアスリー」
その名前にノアは気配を殺していたヴァルキュリアスリーに気づいた。彼は主の存在しないテラキオンのボールを手渡される。
「テラキオンのみでは、剣は引き出されない。トレーナーが必要だ」
「そのための三人。我々はケルディオより、刃を引き上げなければならない」
「どうするって……」
「言葉よりも、今は証明だな。行け、コバルオン」
「続け、ビリジオン」
「そして現れろ、テラキオン」
三体の闘剣士のポケモンはそれぞれの角先を掲げた。角から発生した生態エネルギーの刃が引き出され、各々の輝きを帯びる。
「ケルディオを出せ。折れた角を」
狼狽しながらもノアはケルディオを繰り出した。やはり角は再生していない。
どこか力の失せたケルディオに三体の闘剣士は角先に宿ったエネルギーをケルディオの失われた剣へと押し当てた。
途端、光が弾け、ケルディオの角を修復していく。代わりに三体の刃は徐々に消え失せかけていた。
じりじりと書き換えられていくケルディオの角に比して、三闘剣士の刃が削れていく。その現象にノアは困惑した。
「彼らの、刃が……」
「元々、この三体に集約される伝承はポケモンのためのものだった。コバルオン、ビリジオン、テラキオンはかつての大災害に際して、ポケモン達を守り通した力ある三体。人の放った災厄の炎を祓う事が出来る。それはナイトメアという外敵に関しても有効。再現されるのはイッシュ英雄伝説だけじゃないってこった。聖剣士の伝承が、ここに再臨する」
「コバルオンからは勇気を」
コバルオンの額に埋め込まれていた三角のエネルギー波がケルディオの額へと解き放たれる。
「ビリジオンからは知恵を」
ビリジオンの胸元にあった三角のエネルギーがケルディオへと継承された。
テラキオンは今にも崩れそうでありながら、ダークエコーズのヴァルキュリアスリーの命令をしかと実行しようとする。
「そしてテラキオン。お前からは力を」
聖三角が委譲され、ケルディオが僅かによろめいた。直後、藍色の刃が復活していた。
今までにない黄金の輝きを宿して、ケルディオの剣が光沢を放つ。
「これは……」
「三体の闘剣士が、古代より持っていた聖なる力だ。そしてそれを移植した今、彼らは眠りにつく事になる。大いなる眠りに」
闘剣士のポケモン達から生体反応が失せていく。急速に毛並みが色褪せていく中、ノアは声を張り上げていた。
「止められないのか……! こんな事……」
「役目を果たせ、とチェレンも言ったはずだ。あいつの役目は英雄だった。ノア、てめぇの役目は何だ?」
「ボクの、役目……」
三体の闘剣士が眠りにつく。ボールに戻る事もなく、三体は石になって大地に根を宿した。
ここまでが彼らの役目であった。チェレンも自分に託したはずだ。
――だが、自分は? まだ己の役割を全うする事が出来ずにいる。
何をもって自分の役目なのか、分からないでいるのだ。
「ケルディオは復活した。真の神秘の剣も使用可能だろう。だが、問題はトレーナーだ。トレーナーが目指すべきものを持っていなければ、ナイトメアに容易く呑まれる」
「どうすれば……」
「そこから先は、てめぇで掴め。おれ達が支援出来るのはここまでだ」
ダークトリニティ二人が姿を消す。彼らは灰色の王に仕えているのだろう。ヴイツーはヴァルキュリアスリーと向かい合っていた。
「……ちょっと顔貸せよ」
「久しぶりに会ったらそれか。お前も変わらないな」
「うるせぇよ。ノア。答えは案外、ここにあるもんだ」
ヴイツーが胸元を叩く。ノアは呆然としていた。
「でも、ヴイツー。ボクの出せる答えなんて……」
「心配する事はねぇ。てめぇはもう、充分に戦いを経験した。あとは、……そう。あとは前に踏み出すだけだな」
「前に、踏み出す……」
この足が何を踏み、この手が何を掴もうというのか。
ノアには分からない事が多過ぎた。どれもこれも、滑り落ちていく砂のように儚い。
ホワイトフォレストの平原で取り残された自分一人を持て余す。皆が、次を、向かうべき明日を見据えている。自分だけだ。自分だけが状況に左右され、その結果論でしか動いていない。
誓うのならば今であった。
だが何に誓えるというのだろう。
ケルディオの剣に、その信念に誓ってもよかったが、それは畢竟、自分の手持ちに決定権を投げているだけだ。
本心から自分に誓える何かがない。
本音で自分を鼓舞出来るものが存在しない。
面を伏せたまま、ノアはフォレストの平原を歩く。
どこかに行き場所が欲しかった。辿り着くべき居場所が。だがどこにも存在しない。
自分はこの次元にとっての異邦人だ。誰でもない存在なのだ。
Nからは離れ過ぎた。理想も真実も、裏切るだけの代物だ。
ならばノアとして結論するしかない。誰でもない一個人として、プラズマ団の王ではなく、力のないただの人としての結論が。
だが、どれも保留にしてきた一事。
流され、力を求め、明後日の方向に刃を突きつけたのみだ。
もう迷う事は許されない。その刃をどこに突きつけるのか、逡巡の時は過ぎた。
「ボクと、ケルディオは……」
――駄目だ、と頭を振る。
答えなんて出ない。あと一歩でいいはずなのに。皆が作ってくれたこの道が正しいのかさえも分からない。
ケルディオがこちらの顔色を窺ってくる。
覚悟だ。
あとは覚悟のみである。
しかし何に覚悟するのか。失っても構わない、という自暴自棄ではない事だけは明白なのに、誰に誓えるというのか。
ふと、ポケットに入れていたホロキャスターに指先が留まった。
連絡先はさほど多くはない。
その中の一つ、アリスの番号にかけようとして、手を止める。
「また……ボクは逃げようとして……!」
苛立ちにホロキャスターを地面に叩きつけかけて、ノアは醒めていく己を自覚していた。
決定に疲れた時にはいつもこうだ。誰かに答えを出して欲しくて、その答えに依存したくて惑っている。
どこまでも傲慢で、どこまでも利己主義。他人の決定ならば何も考えずに済む。プラズマ団にいた時のように担ぎ上げられれば、その象徴としての役割は果たすだろう。
だがチェレンはこう言った。
自分の役目を果たせ、と。
それはきっと誰かから与えられた役割ではないはずだ。自分で勝ち取るべき役割のはず。
「でも……チェレン、ボクはこんなにも弱い。決められないんだ。今まで様々な事を両天秤にかけてきたつもりだった。それでも、ボクはこんなにも終末が近い世界であっても、美しいと思える。それは間違っているのかな……?」
チェレンのように英雄を目指す事も出来ない。かつての己のようにチャンピオンを超えると豪語する事も出来ない。
何も出来ない半端者。
半端者のままで一生を終えるのか。それともこの剣が赴く先を見据えるべきなのか。
どう足掻いたところでここまで来れば選択肢は限られている。
自分以外は決意を固めているのに、要である自分だけがどっちつかずだ。
やはり、逃げるしかないのだろうか。ここまで来ても、決意一つ固められない自分に、何かが成せるとは思えない。
ホロキャスターの通話ボタンに指をかけようとして、不意に風が止んだ。
否、風だけではない。平原に注ぐ光も、大気も、人々も、何もかもが停止している。
「……敵か?」
構えたノアに時計の針を模した亀裂が走る。その向こう側からやってきた相手に覚えず言葉を詰まらせた。
「お前は……!」
「久しいか。いや、これはあなたの選んだ結末の一つ。私からしてみれば時間はほとんど経っていないのだが」
忘れるわけがない。ノアを過去に送った元凶。この人間のせいで自分は過酷なやり直しを求められた。
「ハワード!」
構えたノアにハワードがすっと指を掲げる。
その一動作だけでケルディオが時間停止に晒される。灰色の世界の中で自分とハワード、それに漂うセレビィのみが別の時間軸を辿っていた。
しかしまさか指先一つだとはノアも思いも寄らない。
「N、あなたが理想と真実を求めていた頃に戻ったあの日より、選択は始まっていた。だがこの結末になるとは私でも予測出来なかった。それほどまでに、この時間軸は隔離されている。他の可能性世界に比べて」
ノアは頬の筋一つ動かせなかった。ここでケルディオまで封じられた今、殺されても何らおかしくはない。
「ボクを……始末しに来たのか?」
「始末? はて、そのような事をしてどうなる? あなたはもう、終焉の淵に立っている。ここから先、何を選んでもそれは終わりの選択肢だ。どこへ行っても、あなたにはまともな選択肢はない」
その言葉にノアは怒りで脳内が白熱化していくのを感じ取った。覚えず掴みかかる。
「ここまでボクらを追い込んだのは……お前だろうに! お前がこんな事をしなければ、ナイトメアなんて……!」
全ての責任を被るのは相手のほうだ。しかし時計を模した仮面の下で、ハワードはただただ嘲笑する。
「言ったはずですよ、N。これもまた選択の一つだと。何もせずに死する運命もあった。あるいは自分を止める、という役目も。だがあなたは遠回りばかりを選んだ。それもこれも、能力が失われるというイレギュラーあっての事でしょうが、そのイレギュラーを込みにしたところで、あなたは何もかも後手に回っていた。時空改変による英雄の不在。同一存在であるゲシュタルト体の流出。そして、己を滅ぼすという愚行……、全てあなたの選択肢だ。ここに至ったのは誰のせいでもない。あなたが全て、自分で選んできたのですよ」
「だからって、納得出来るものか。こんなの……! 絶対に間違っている!」
「では間違いを是正するために戦えばいいものを、あなたの中には迷いがある。戦う事への恐れと言い換えてもいい。どうしてそこまで恐怖するのです? Nという人間には恐怖などまるで度外視された感情のはずだ」
その通りであった。プラズマ団の王であった頃には、恐怖などなかった。ただ明日への展望のみがあった。
だが、理想と真実に裏切られ全てからサヨナラしたあの時から、何もかもが狂っていたことに気づいたのだ。
恐れ知らずの人間など、それは化け物と同じ。
人は恐怖を糧に強くなる事を、何年も遅れて身につけた。
「……ボク自身の在り方が間違っていた。そういう事だろう」
「はて、そのような簡単な帰結に導いていいものでしょうか。なにせここは本当のどん詰まり。イッシュ地方の終焉に爪先をかけているのです。だというのに、まだ戻れるような言い草だ」
ハワードは何を望んでいるというのか。無数のゲシュタルト体を送り込み、自分を抹殺しようとした男が。
「……お前が、初めから狂っていたボクの物語を、さらに狂わせた」
「他人のせいですか? 都合の悪い事実は他人のものだと?」
どこか食わせ者なその論調にノアは声を張り上げていた。
「ああ、言ってやるとも! お前が、全てをおかしくさせた! お前さえいなければ……ここまで狂わなかったはずだ」
感情の堰を切った声音にハワードはただ読めない仮面の下で嗤うのみ。
「……それが本音ですか。ですが、この時間軸、まさか全ての事象から切り離されているとでも?」
落ち着き払った声音にノアは逡巡する。
「……どういう意味だ」
「何もかもの可能性世界から切り離されているのならば、私はここに訪れる事さえも出来ないでしょう。分かりますか? 可能性の一つとして数えられるからこそ、時空間の干渉が可能になる」
その言葉にノアはまさか、とよろめく。
「この世界でさえも……未来から観測可能だって?」
それはあり得ない、いやあり得てはならない。あの未来から逆算しても、この世界が存在しているなど。
しかしハワードは指を鳴らす。
「観測可能な世界線だからこそ、私は無数のあなたを送り込めた。ゲシュタルト体の集約、因果の崩壊こそがナイトメア出現のきっかけだと教えられたのでしょうが、それはある一面で正しくはない。ナイトメアはたとえあなたのゲシュタルト体が送り込まれなくとも、発生する可能性があった。……微少な可能性ですけれどね。その可能性を大きく広げたのは、自分殺し、つまりあなた自身のパラドックスです」
「ボク、の……」
戦慄く視界の中、ハワードは涼しげに言い放つ。
「自分を殺す、という最大のパラドックスを目標として掲げた時点で、この時間軸は歪み始めていた。稀代の偉人、Nが二人いるだけでも存在の強制力に抗えない時間を、私は出来うる限り修復しようとして、あなたを抹殺すべく刺客を送り込んだ」
まさか、とノアは後ずさる。その理論が正しいのならば……。
「ボクが、ゲシュタルト体を倒す事が、ナイトメア発生のトリガーだった……?」
「残念ながらそう結論付けざるを得ません。無論、この世界を生きている者達は知る由もありませんが。ナイトメアは名の如く、あなたの影、悪夢そのもの。虚数空間の影に全てを吸い込み、虚無へと世界そのものを導こうとする破滅への遠因。その発生原因がただ一人の特殊な人間であったというのは皮肉でしかありませんが」
ノアは骨が浮くほどに拳を握り締める。なら、と声を絞り出した。
「なら……ボクをこの場で処刑すればいいだろう。ここでボクが死ねば、ナイトメアの力は限りなく小さくなるはずだ」
その帰結にハワードは頭を振る。
「手遅れです。ナイトメアはウィザード形態へと移行した。あの状態からの破壊は容易ではありません。それは、全て経験したからこそ分かる」
「経験……、この時間軸以外でナイトメアと戦う事なんて……」
「いいえ。全ては、遥か過去の向こう側、累乗の先にある答え。私はそれに触れられた。だからこそ、ここであなたを試せる。だからこそ、この時間軸に跳んできた」
全てを知っているかのような口振りにノアは困惑する。
「……ただの、悪党じゃないな。お前は、何者だ」
「何者、ですか。その問いさえも、時間の輪廻の果てには意味のない事。ですが、明かすべきでしょう。私の正体を」
ハワードが仮面をずらす。
刹那、指先から黒い瘴気が棚引いた。この現象は知っている。これは対消滅現象だ。
「まさか……キミは、まさか……!」
「会えるとは思っていませんでしたよ。何も知らず悪の芽を摘んでいた頃の――自分自身になんて」
仮面の下にあったのは寸分違わぬ自分そのものの相貌。新緑の髪の自分が鏡面のように佇んでいる。
――もう一人の、N。