第(ー11)楽章「勇侠青春謳」
「四天王にはレシラムを見せたのみで承認が取れた。彼らは自分の剣になる事を承認してくれた、恩人だ。感謝してもし切れない。そして、レシラム。お前とはここまでだ。……それも、六年前に分かっていた事だがな」
ゲッコウガと一体になったチェレンが現実の喉を震わせる。しかし彼の意識は既にポケモン側に引っ張り込まれている。
完全同調だ。ノアは言葉を失っていた。
あれほど禁じていた手を、チェレンは自ら取り、レシラムを圧倒する。
黒いゲッコウガが片手を開いた。生成された水が赤い血潮を帯びる水手裏剣を構築する。
そのまま片手で呼気一閃、振り抜いた一撃でレシラムの胴が断たれる。それでもナイトメアは健在だ。
レシラムへと何度も影の侵食を行い、再生処理を続行している。
「このままじゃ、消耗戦に……」
「いや、ならねぇよ。僅かにチェレンが押している。さすがに六年も一緒にいたポケモンだ。弱点なんて知り尽くしているんだろうさ。証拠に見てみろよ、一撃だって致命傷はもらっていない」
レシラムの放つ「あおいほのお」が視界を埋め尽くす中、ゲッコウガは華麗に跳ね上がり、水の皮膜を最小限に留め攻撃に全てを充てているのが窺えた。
レシラムの攻撃範囲、射程、何もかもを計算しなければ出来ない芸当だ。チェレンはそれこそ英雄の座に等しいほどの努力をしたに違いない。研鑽の結果がレシラムとゲッコウガの間に降り立つ戦力差だ。
ナイトメアの操るレシラムには大きな隙が生じている。肥大化したナイトメアに正確無比な攻撃は似つかわしくないのだろう。大振りな攻撃ばかりでゲッコウガへとまともな一撃さえも与えられていない。
レシラムの片目をゲッコウガの水の砲弾が射抜いた。眼球を再構築しようとするがその際に生じる隙を的確に突き、ゲッコウガはレシラムを押し返す。
その体躯の差などまさしく矮小に等しいほどに、ゲッコウガは追い込んでいた。
ナイトメアが影を散らせ、四方八方から影の刃を放つ。それと同時にレシラムの炎熱攻撃をゲッコウガの逃げる方向へと照射した。逃げ場をなくしたゲッコウガは今度こそ追い詰められたかのように見えたが、チェレンのゲッコウガは慌てるでもましてや下策に出るわけでもない。
両手を交差させて構築された水手裏剣が十個、掃射される。その射程は精密にナイトメアの影を引き裂いていた。逃げ場を塞いだ熱線にも、ゲッコウガは地面を捲り上がらせて応戦する。
「畳返し……。完全に物にしている……」
「英雄の実力、ってワケか。だが、それでもナイトメアは容易く逃がしちゃくれないだろうぜ」
その言葉を裏付けるように、ナイトメアが空へと己を一本の筋にして放った。空へと落ちた稲光が拡張し、周囲を覆う曇天と化す。
否、これはただの曇り空ではない。
ナイトメアが射程を拡大させ、空からもゲッコウガを狙えるように仕組んだのだ。
上空から照射される幾条もの黒い雷にゲッコウガが水手裏剣で応戦するも、その手数はナイトメアが勝っている。
ほとんど死に体のレシラムさえも利用し、ナイトメアが遂にゲッコウガを追い詰めた。
ゲッコウガの背後は白い巨木で塞がれている。広域射程のナイトメアからしてみれば格好の機会。
雷光が奔り、レシラムの熱風が襲いかかった。ゲッコウガが巨木を駆け上り雷を回避していくが、熱風によって倒壊する末路の足場までは用意出来なかった様子である。
よろめいたのはほんの一瞬。しかしそれは明暗を分けるのには充分な隙。
レシラムが口腔を開き、喉の奥に蒼い光を充填する。
本命が来る、と予感したノア達はその攻撃の威力にぞっとする。
「あんなの……完全同調の状態で受ければ……」
「ああ。死ぬだろうな、チェレンは」
どこまでも冷淡なヴイツーにノアは問い詰めていた。
「分かっていて? 分かっていてどうして止めないんだ! キミは、彼らを止められるはずだろう! ボクのケルディオの剣を……折ったように」
ケルディオは攻撃の要である角を潰され、茫然自失の状態であった。ヴイツーは掴みかかったノアに頓着もせず、レシラムとゲッコウガの戦いを見守っている。
「止めても、どこかで同じ事が起きる。それに、おれは言ったよな? 灰色の王の命令でここにいるって。なら、王の意のままに、ってのがおれのスタンスだ」
「でも……トウコはここに来てすらいない……!」
「それが許せないってんなら許す必要はねぇよ。だが目の前で展開されているチェレンの決死の戦いまで無駄だとか思ってんじゃねぇ」
ナイトメアはレシラムを残しておこうとは思っていないのだろう。蒼く煌く炎はレシラムの顎を二股に引き裂き、その身体を塵芥に還してでもチェレンのゲッコウガを葬り去る気なのが窺えた。
「逃げるんだ! チェレン!」
荒らげた声に思考へと直接声が切り込んでくる。
――逃げろ、だって? ……相変わらずメンドーだな。逃げるなんて選択肢がないから、僕はこうしている。ゲッコウガと運命を共にするつもりだ。それにレシラムにも。最後の最後まで主人としての務めを果たさせてもらう。
ゲッコウガが下段に両手を備える。指先から紫色の輝きが至り、末端神経を貫いて構築されたのは一振りの刀であった。
エネルギー体で凝縮された刀を片手にゲッコウガはレシラムを睨む。
――決着をつけようか、レシラム。それにナイトメア。僕とゲッコウガが編み出した、最大の技。龍殺しの刃、その名を……。
レシラムの口腔部が十字に照り輝き炎の弾丸が発射される。ゲッコウガが目を見開き、刀を手に駆け抜けた。
瞬時にゲッコウガの姿が掻き消え、次の瞬間、六つに分裂する。それぞれが備えた刃を順番に振るっていく。
一振り目で炎が分断され、二振り目でその延焼範囲さえも掻き消される。三つ目の刀はレシラムの鼻先から頭蓋にかけてを叩き割り、四つ目、五つ目はその損耗に耐えかねた肉体を分裂させた。
最後の一振りがレシラムの眼前に立ち現れる。
ほとんど骸と化したレシラムと共に見据えたナイトメアへと、ゲッコウガは渾身の剣閃を打ち放った。
――「亜空、切断!」
現実の声と意識の声がリンクし、その技を紡ぎ出す。
レシラムの肉体諸共ナイトメアの肥大化した影が断ち割られていた。影の血が迸り、ホワイトフォレスト一帯が濃い臭気に包まれていく。
空から暗黒の曇天が消え去り、ナイトメアの存在が極微少に減殺されていくのが分かった。取り込んだ全てを切り裂かれ、ナイトメアにはもう応戦の手立てはないようである。
「……チェレンが、勝った」
中空にあるゲッコウガは刀を振るった姿勢のまま硬直していた。レシラムの巨体が影に包まれ、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
肉片が影の海へと没した。レシラムの存在を完全に打ち消したのだ。
勝利を確信したノアは駆け寄ろうとしてヴイツーに制される。
「何を!」
「まだ、決まってねぇ。ナイトメアの今まで取り込んだ、外殻を砕いただけだ。もっとも、これを一番に困難だと定義づけたのは間違いじゃねぇみたいだがな。よく見ておけ」
不意に、地表から放たれた一本の影の糸がゲッコウガの心臓部を貫く。
ノアは目を戦慄かせた。ゲッコウガ自身も信じられないかのように着弾点を見つめる。
「まさか……そんな」
「ナイトメアを完全に破壊するのにはこの第二段階を、英雄のポケモンで砕く必要性があった。だが、チェレンがやったのは膨れ上がったナイトメアの腹を引き裂いただけ。本質であるナイトメア本体に至るまでの傷をようやくつけた程度だ。あれこそが人類の真なる敵」
膨張していたナイトメアが一点に寄り集まり、凝縮された影が自分の似姿を形作った。しかしそれだけではない。
似姿へと赤いラインが無数に走り、眼球が数珠繋ぎに現れる。
怨嗟の声がホワイトフォレストを満たした。途端に空は赤黒く染まり、聞くに堪えない怨念が太陽を呪っていく。
「……太陽が、消えた……?」
光の失せた世界でナイトメアが手を払う。それに同期して影の外套がナイトメアに構築された。まるで王の威容を持つナイトメアは顔面に亀裂を走らせ、眼球を浮き上がらせる。
「ナイトメアの本来の姿。――ナイトメアウィザード。人類を呪い、ポケモンを呪い、全生物を死に至らしめる災厄の影だ」
ナイトメアウィザードが赤黒く染まった触手を振るった。絡め取られたゲッコウガが瞬く間に墜落する。
ゲッコウガが応戦する前に無数の触手が着弾点を穿つ。その素早さは今までの比ではない。影を伸張したナイトメアウィザードは深層から浮き上がった刃でゲッコウガを打ち据える。
全身に裂傷を作ったゲッコウガがよろめく間にも四方八方から影の槍がその肩口を、膝を、腹部を、打ち抜いていく。
血塗れになったゲッコウガが膝をついた。その額へと照準された影の矛先が一挙に迫る。
――嘗めるな。
思惟の声がナイトメアウィザードの猛攻を押し止めた。血で形作られた赤い水手裏剣が額への致命傷を妨げる。
チェレンはまだ死んでいない。だが最早満身創痍なのは疑いようもない。
――ようやく、僕の前に出てきたな、ナイトメアウィザード。未来の僕が教えてくれた通りに。そしてこれも、未来の僕から学んだ……お前への最大の毒だ。
血の一滴が浮かび上がる。瞬く間に凝結した鮮血がゲッコウガの背面へと吸着する。ゲッコウガの姿が根本から変化していた。
目元に鋭い意匠が宿り、手先や足先はより攻撃に適した形態へと変貌を遂げている。
象徴的なのは背負った身の丈ほどもある巨大な血の水手裏剣。
さらにゲッコウガは両手に水手裏剣を幾つも繋がせた。全身これ武器とでも言うように手裏剣を纏ったゲッコウガが姿勢を沈める。
「絆変化か。だがそれでも、どれほど持つか……」
ヴイツーは思案を浮かべながらも手を貸す事はしない。何故なのか、とノアは問いかけていた。
「分かっているのなら、どうして! もういい! ボクとケルディオで、援護に――」
「出しゃばるな、ノア。英雄の役目とてめぇの役目は別にある。だから、おれは迷わずケルディオの角を折った。チェレンの役目を果たさせてやれ。英雄を目にするのは、てめぇ自身なんだからよ」
「でも、こんなの……一方的だ! ナイトメアを倒すのがみんなの目的だったんじゃ」
「それでも、だよ。いや、だからこそ、か。ナイトメアウィザードを倒すのに、何の犠牲も厭わずに倒す事なんて出来ねぇ。だからこそ、ここまで持ってきた。チェレンは英雄になる。それこそ唯一無二の」
絆変化をしたゲッコウガが跳躍し、全身から幾何学の軌道を刻ませて水手裏剣を掃射する。
ナイトメアウィザードは攻撃を受けても怯む事さえない。それどころか先ほどまでより苛烈な攻撃がゲッコウガを襲う。
背負っていた巨大水手裏剣をゲッコウガは引き抜いていた。刃が干渉し、影の触手を引き裂いていく。
着地するなり地面から影が飲み込もうとする。ゲッコウガは足裏に水手裏剣を展開させ、影の攻撃を防ぎつつ滑走する。
その行く先は一つ。影を破壊し、ナイトメアウィザードに肉迫する。巨大水手裏剣をゲッコウガが肩に担いだ。その一撃に全てを込めるとでも言うようにゲッコウガの全身から血の推進剤が焚かれる。
光速に浸ったゲッコウガを止める術はない。ナイトメアウィザードの至近に至ったゲッコウガはそのまま刃を打ち下ろした。
ナイトメアウィザードの身体が縦に割られる。刹那、内部から赤い眼球が蠢いた。眼球部がゲッコウガを睨む。
直後、ゲッコウガを打ち据えたのは黒い霧の弾幕であった。視線そのものが武装と化しゲッコウガが弾き飛ばされる。
背筋を地面に打ちつけたゲッコウガから最早反撃の勢いは失せていた。チェレンの意識が薄れていくのが分かる。彼はゲッコウガの中で死のうというのか。人間であった証明を必要とせず、ただナイトメアに打ち克とうとした戦士として。
確かにそれは英雄の在り方だ。この世の証明を残すべくして人々は奔走する。しかし、英雄にはその必然性がない。この世に在った、という断片がどれほどに少なくともたった一度の武勲で英雄はその資格を得る。
たった一度。たった一度だけ、人のために在ればいい。誰かのために自分を顧みず、ただ刹那の武勇にのみ生きる。それは間違いようもなく、英雄だ。
そして同時に、どうしようもなく、それは英雄としての行動でありながらも、人間としては度し難い。何故なら人間は、民草は生きているだけでいい。生きているだけで、それは幸福への足がかりとなる。だが英雄はそうではない。
生きているだけならば、ただそこに在るだけならば、英雄に成れる事はない。英雄とは、救わなければならない。英雄とは立ち向かわなければならない。
何よりも――英雄とは、他者と違わなければならない。
他と同じでは意味がないのだ。英雄は人間でも、ましてやポケモンでもなく、超越者としてそれらの価値観の上になくてはいけない。
どれほどまでに苛烈なのか、ノアは考えるまでもなかった。自分もまた、そうであったからだ。
他者と違った、人間ではなかった、ただの醜く生き意地の汚いだけの、化け物であった。
化け物だから人の上に立てた。化け物だから、他者と違っても何の異論も挟まなかった。
だが、チェレンは人の子だ。人の血の流れている、間違いのない、人間の子供なのだ。
そんな彼が英雄になるのにはやはり人間をやめるしかない。そのような無情な選択肢しか残されていないのだ。
「……でもそれは、あまりに悲しい」
ゲッコウガの身が再び起き上がる。赤黒い血の水手裏剣を、片腕に構築した。
ナイトメアウィザードは余計な攻撃を挟む事もない。もう長くはない事を理解しているのだろう。
決死の覚悟で放たれる一撃でも、それが自分にとって掠り傷でさえもない。それが分かっているからこそ、ナイトメアウィザードは動かない。
ノアは奥歯を噛み締めて悔恨に耐える。これはチェレンの戦い。余人が簡単に手助けしてはならない。
それでも、英雄の敗北を目にして、平静でいられるものか。
「ヴイツー……ボクは忘れない。この戦いを。だからこそ、問う。本当に必要な時、動けない事の悔しさ、虚しさを、ボクは知っている。それでも行くなと言うのか」
ヴイツーの返答は変わらなかった。
「ああ、それでも、だ。てめぇが行けば、なるほど、チェレンは辛うじて死なないでいいかもしれない。だが、それは英雄に成ろうとした男の根性と覚悟を一生踏みにじる事になる。一番に分かっているはずだろ? 英雄に成るっていうのは全てを捨てなければならない。全てを捨てた先にそれでも手を伸ばす。それが、英雄に成るって言う意味だ。それが分からないほど、愚か者ってわけじゃねぇはずだよな?」
分かっている。痛いほどに。だがそれでも望んではいけないのだろうか。チェレンを救いたいと。ここで死んで欲しくはないと。
そのような考えさえも傲慢だというのか。
分からない、何もかも。
折られた剣、砕かれた刃。
自分にもう戦う術などないではないか。これ以上、どう抗えと言うのだ。チェレン一人を救えないで、じゃあ何に成れると言うのだ。誰かの特別になんて、なれやしない。
疾走したゲッコウガの刃にナイトメアウィザードは動かない。あえて動かないのだと思い知った。
あれは知っている。
自分が動かずともチェレンが、英雄が破滅する事を。
最後の血塗りの水手裏剣が、ナイトメアウィザードを掻っ切った。
それでも渾身の一撃は霧散していく。ナイトメアウィザードにつけられた一条の傷は瞬時に塞がっていた。
ゲッコウガが膝を折る。その身体からチェレンの魂と呼べるものが溢れ出ているのが分かった。
淡い輝きを放ち、チェレンの思惟とノアは交錯する。
「ゴメン……ゴメンよ、チェレン。ボクはキミに、何もしてやれなかった。何も! 出来なかったんだ! ……哀れで惨めで、最悪の男だ、ボクは。キミがそう在りたいと願った事だって、今じゃないと分からなかった。愚鈍にもほどがある……」
チェレンの魂はノアへと一言のみ返すだけであった。
――ノア。いや、未来世界のN。僕は英雄に成った。だがそれは僕の役目だからだ。君の役目は違う。英雄に成るのは僕だった。ならば君は、神話になれ。途絶える事のない、神話に。
どういう意味なのか、問い返す前にチェレンの魂は遥か彼方、累乗の先に触れていた。
――ようやく見える。この世の理想と真実が。そうか、これが、僕が生きていた意味だった。
「待ってくれ、チェレン。まだ行かないでくれ。だって僕は、君に何一つ、贖えていない。君にしてやれる事を何一つ実行出来ていないんだ……だからまだ」
そこから先をチェレンは遮った。
――充分だ。ノア、僕は充分に、生きた。未来の自分の分まで。だから後は……。
ゲッコウガの心臓部をナイトメアウィザードの触手が貫く。糸が切れたようにゲッコウガは倒れ伏した。その肉体から止め処なく血が溢れ出す。影は拡大し、ゲッコウガを飲み込もうとする。それを阻んだのはヴイツーであった。
「悪いな。さすがに死体を弄ぶのはいただけねぇよ。チェレン、安心して先に行け。エンブオー! フレア、ドライブ!」
瞬く間に点火したエンブオーの咆哮がナイトメアウィザードを押し飛ばす。ナイトメアウィザードが攻撃姿勢に入ろうとした、その矢先であった。
空が割れ、何かが地上へと降り立とうとする。
まさか、新たなる敵か、と硬直したノアが目にしたのは、ポニーテールの少女であった。
装飾華美な外套を身に纏い、その眼差しには常勝の女神の威風が宿る。彼女は手を払った。刹那、繰り出されたポケモンが片腕に紫色のエネルギーを充填する。
銀色の矮躯のポケモンであった。腕が照り輝き、ナイトメアウィザードの頭上から放射される。
「破壊、光線!」
掃射された「はかいこうせん」がナイトメアウィザードの躯体を揺さぶっていく。ナイトメアウィザードが応戦の触手を展開したが、それらの守りは容易く打ち砕かれた。
「灰色の王のお出ましだ」
ヴイツーの声にノアはあれが、と唾を飲み下す。
初めて会ったトウコ本人は感傷などなく、地面に降り立つなり同時展開していたチラチーノに攻撃を命じる。
「チラチーノ! ゼンリョク技! 本気を出す!」
チラチーノの身体に白銀の血潮が宿り、その躯体が跳ね上がった。信じられない膂力でナイトメアウィザードが突き飛ばされる。地面に根を張っていたナイトメアウィザードがホワイトフォレストの巨木に背筋をぶつけた。
間髪入れず、トウコはチラチーノでナイトメアウィザードへと接近する。しかし迂闊な攻撃は危険だと、ノアは判断していた。
予想通り、地面に影の領域を広げさせていたナイトメアウィザードが影の刃を放出する。
貫かれたかに見えたチラチーノであったが、それは過剰エネルギーの生み出した残像であった。
本体は既にナイトメアウィザードの背後に回っている。
巨木ごと破壊しようというのか。充填されたエネルギーの渦にノアは絶句していた。
直後、巨木を貫通し余剰衝撃波がナイトメアウィザードの影の肉体を吹き飛ばしていく。
まさに圧倒的。それだけに出力を可能にするチラチーノの小さな身体が嘘のようであった。トウコは命じるまでもなくチラチーノにナイトメアウィザードを追撃させる。
ナイトメアウィザードはここでの応戦は不利だと判じたのか、後退し様に無数の触手を壁のように張ってチラチーノの攻撃から逃れようとする。
だが、灰色の王がその程度で攻撃の手を緩めるものか。
チラチーノの腕が触手を引っ張り込み、そのまま勢いを殺さずナイトメアウィザードを地面に打ち据える。ナイトメアウィザードがここに来て初めて、無様に転がるという醜態を見せた。
勝てる、とノアは確信する。
灰色の王の実力は今まで一度として見た事がなかったがこれほどまでとは。その一振りだけで、チェレンが諦めざるを得なかった理由が判明した。ここまでの実力差となれば王座につくのは諦観の中に置くしかあるまい。
チラチーノが地面を蹴り、ナイトメアウィザードの頭部を蹴り払おうとする。ナイトメアウィザードは影の壁面で辛うじてその一撃をいなすも次の攻撃の手は読めなかったらしい。
水の推進剤で浮かび上がったチラチーノは両腕より電流を発した。高圧電流が影を焼き払っていく。
レシラムでも完全に焼却出来なかったナイトメアウィザードが、今は児戯にも等しく劣勢に立たされていた。
これが王権の力。玉座につく事を許された、真の実力者。
唖然とするノアを他所にトウコが叫ぶ。
「その腕、もらったァッ!」
チラチーノの電流が刃と化し、ナイトメアウィザードの右腕を肩口から引き裂く。地に落ちた影の腕が瞬時に霧散する。
ナイトメアウィザードに最早逃げる術はないように思われた。ここで駆逐される運命か、と感じた直後、ナイトメアウィザードが赤い眼球を片側に集中させる。
眼球から放たれる熱視線の反動でナイトメアウィザードはチラチーノの攻撃射程から逃れていた。
地面を跳ね、逃れようとするナイトメアウィザードの背筋へとしかし、チラチーノの矛先が容易い死を与えない。
腕に充填したエネルギーの塊が放射されナイトメアウィザードの背筋を焼いた。だが致命傷には至らなかったらしい。
攻撃を受けつつもナイトメアウィザードは射程から確実に逃れていた。空が元の色を取り戻し、地を埋め尽くしていた影が消えてからようやく、ナイトメアウィザードがこの場から完全に逃げ出した事をノアは理解する。
トウコは舌打ちしてチラチーノを戻した。
「逃がしちゃったなぁ。でもまぁ、このくらいでしょ」
灰色の王にてらいの様子はない。言葉もないノアにヴイツーが歩み出る。
「トウコ。ダークトリニティは?」
「遣いに出したわ。ナイトメア追撃任務に、ね。彼らにも思うところがあるんでしょ。女神は城に残しておいたから大丈夫だとは思う」
「白の勢力は完全に戦闘不能、というわけか。無論黒も」
どこか落ち着き払った声音にノアは誰のせいで、と怒りをぶつけそうになる。その瞬間、トウコがこちらの顔を窺っていた。どこか観察するような目線にノアは覚えず視線を逸らす。彼女は得心して手を打った。
「なるほどね。似ている、っていうか、本人なんだっけ?」
「教えた通りだ。Nのゲシュタルト体。プラズマ団の戦力を余計な事で食い潰すなよ。そうじゃなくってもやばいんだからな。ナイトメアは第二段階へと移行した」
「重々、承知しているわ。あそこまでやったら死ぬかと思ったけれど、そう容易くはないみたいね。……まぁ何よりも、アタシだけじゃあそこまで追い詰められなかった。顔を見ていい?」
その言葉の意味するところをはかりかねていると、ヴイツーがエンブオーに抱えさせたゲッコウガを運んできた。完全同調から分離が始まっており、チェレンの物言わぬ死体がそこにあった。
不自然なほどトレーナー本人には傷一つない。それがどこか現実から遊離した出来事のように思えてくる。トウコはチェレンの顔にかかった黒髪を払い、小さくこぼした。
「頑張ったのね、チェレン」
その誉れの言葉を聞き届ける事が出来ないのはどれほどに皮肉であったのだろう。彼は追い求め、その結果として死に絶えた。英雄になれる。その資格は充分にあったのだろう。使命を全うしたチェレンには安らかな寝顔が似合っていた。
「どうする? 灰色の王。白の勢力の残りとプラズマ団を合算してもなお、ナイトメアウィザードに届くかどうかは微妙なところだ」
ヴイツーの発した結論にトウコは指を弾く。
「そうね、でも向こうにやる気があるかどうかは別じゃない? ……ねぇ、ベル」
視線の先には洞から出てきたベルとバンジロウが佇んでいる。車椅子に腰掛けたベルに、事態はそう容易くない事をノアは思い知った。
「どういう……」
「一つずつ、説明する必要があるみたいですね。灰色の預言者、ノア。あたしは、あなたを利用し、その果てにナイトメア駆逐を目指そうとした。……ですが思い違いであったのは、あなたが生きているそれそのもの」
「賢しくあろうとしたのは何もアタシとチェレンだけじゃなかったわけ。ベル、あんたそういう子だったっけ?」
ベルは弱々しく微笑む。
「時間が、あたしを残酷にさせたんだよ。トウコ……お姉ちゃん」
紡がれた言葉にノアは何もかもが手遅れの中で転がっていくのを感じ取った。
「そう……、時間だけは残酷ね。未来世界のN……いいえ、ノアだったかしら? どっちで呼べばいい?」
うろたえたノアにヴイツーが声を差し挟む。
「ノア。これから先、一つの読み間違えが決定的なミスとなる。それほどまでに事態は切迫してるんだ。何も聞かずにおれ達の話をまずは聞いて欲しい。ケルディオのこれからに関しても、な」
「……でもナイトメアが」
「追撃には、実力者を配置しておいた。ダークトリニティ。コバルオンとビリジオンほどの能力ならば、ナイトメアがたとえウィザード形態に移行していたとしても、時間稼ぎにはなるでしょう」
時間稼ぎ。倒す事は想定していないというのか。戦慄くノアに、トウコは肩を竦める。
「……存外、ビビリよね。別にあんたが死んだところで世界の終わりというわけでもないでしょうに」
「仕方ねぇんだろうさ。この時間軸に跳んで来てまだ二日も経っていない。そんな間に起こった事にしちゃ密度が高過ぎる」
「かもね。でも、事実は事実。受け止めなさい、ノア。そして知る必要がある。この時間軸のN、彼からどうして悪夢が生まれたのかを」
全てはこれからなのだ。その予感にノアは打ち震えた。