第(ー10)楽章「私の薔薇を喰みなさい」
修練とは言ってもほとんど酷使されるのは自分の身体である。同調域に再び達するのならば、まずは体力をつけろ、とはギーマの弁だ。
「次に同調するのは本当に、最後の手段だと思え。そうでないのならば通常のゲッコウガを使いこなせ。危なっかしくて見ていられない」
タワーオブへヴンを去った後、ノア達がどうなったのか、あえて知ろうとはしなかった。知ってしまえば自ずと甘えが芽生える。自分にはもう俗世の迷いは捨てなければならない運命がある。
強さのためならば全てを投げ打つ覚悟を。チェレンは背負った丸太を降ろそうとして、肩に巻いた蔓紐が深く食い込んだ痛みに顔をしかめた。
丸太の重さは中型ポケモンと同程度。この鍛錬は四天王が一人、レンブの提案であった。
肉体面での強さはそのまま精神力にも現れる。レンブほど鍛え上げられたトレーナーはその格言を信じている。確かに一面ではそれも強さの証明であろう。
チェレンは四天王が鍛錬のために貸し受けているイッシュ、南西の町を山辺から見下ろす。
ヒオウギシティ。イッシュ地方に住む人間でも滅多に訪れない場所だ。どこか浮世から隔絶された佇まいを持つこの町で四天王は人知れず鍛錬し、この地方の頂点に立つ。
アデクも一年に数度、ここでの鍛錬は欠かさないという。
ならば自分が弱音を吐いてもいられない。チェレンは丸太を担ぎ直そうとして不意に地面を踏み締めていた足を滑らせる。
丸太の重量に引きずられる形でチェレンは山頂まであと少しというところで滑落した。衝撃と痛みが連鎖し、視界が一瞬白くなる。
それでもすぐに持ち直し、チェレンは再び山頂を仰いだ。
片道で三時間はかかる難所。二時間半かけて登った道をもう一度、か。後悔の念が掠めたが終わったものは諦めるしかあるまい。
「……しょうがない。登り直すか」
蔓紐を肩に括りつけ、足を踏み込もうとした、その矢先、耳朶を打ったのは水音であった。
何かが跳ねたか、あるいは飛び立ったか。
近くに湖畔があったのを思い返し、チェレンはそちらへと足を進めていた。白い靄がかかっている。
丸太を背負って寄り道するのには危険だが、どうせ時間オーバーなのだ。せっかくの興味を殺すのも勿体ないと感じていた。
円弧を描く湖は思ったより広く、霧が一面にかかっている。
その霧の上で、石が滑った。水音の正体はこれであったのだ。とぷんと石が湖面に吸い込まれていく。
誰かいるのか、と視線を向けた刹那、思ったより近くに佇んでいた人影が声にする。
「静かだろう。空気が澄んでいて、僕はここが好きだ。好きだった」
聞き覚えのある声であった。しかしヒオウギシティに知り合いなどいないはずである。どこか耳馴染みのいい声の主はそのまま続ける。
「ヒオウギシティの湖はポケモンもいない。だからこんなに静かなんだ。四天王も鍛錬をするのにここを選ぶのは当然だ。自分達以外にいないし、何よりも人の手が入っていない場所というのは重宝する」
声の主は何もかもをお見通しのようであった。その感覚をチェレンは思い出す。
「……あなたはあの雨の中の」
息を呑んだチェレンに靄の向こうで人影はフッと笑みを浮かべたのが分かった。
「思い出してくれたか。君には、もう一度会わなければならなかった。どうだった? 一度死んだ心地は?」
まさか、と絶句する。自分が死の淵から生還しこうして四天王の教えを受けている事はアララギ博士でさえも知らないはず。
警戒を注いだチェレンはホルスターに留めておいたゲッコウガをいつでも繰り出せる姿勢に入っていた。
「……誰なんです?」
「その問いかけそのものがナンセンスだが、あえて答えよう。僕は、君を待っていた。死と絶望から這い上がり、英雄の資格をもぎ取った君と再び合間見えるのを」
歩み寄ってきた相手の輪郭がくっきりと浮かび上がる。
背丈は自分より高いが、その怜悧な瞳の湛えた意志の強さに、覚えずたじろぐ。覚えのある眼鏡をかけていた。
その相貌は、まるで――。
「僕、だって?」
「幽霊に行き遭ったみたいな顔をしているね。……まぁ、仕方ないか。この時間軸で、N以外のゲシュタルト体は僕だけだ」
自分の似姿と人気のない湖畔で行き会うなど冗談ではない。チェレンはゲッコウガを出しかけて相手がそっと手を翳したのを目にしていた。
敵意はない、という現れであるのを自分はどうしてだか理解していた。
「話を、続けてもいいかな?」
どこか余裕のある立ち振る舞いにチェレンは二の句を継げなかった。相手は何者なのか。それを問い質さなければ恐らく、自分は納得するまい。
「……話してくれるのならば」
「結構。この時間軸の僕は聡明で助かる。薄々察しているかもしれないが、僕は君の未来像。今の君から三年ほど経った時間軸からこの時代へと放り込まれた」
「……何のために」
その疑問に相手は頭を振る。
「タイムスリップには懐疑的じゃないのか?」
「時間と空間を操るポケモンならば知識で得ている。それに未来の自分と会う、というのは貴重な経験だ」
本音では早鐘を打つ鼓動を鎮めるのに必死であった。未来の自分? 同じ姿? ――全く理解出来ない。
だが、理解出来ないなりに抗う事は出来るはずだ。そうでなければ死の瀬戸際からの生還など果たせるものか。
「……死よりの復活はやはり君に大事なものを再認識させた。正直に言おう。未来とは言っているが、君のように死を経験したわけでもなければ同調の域にも達していない。ポケモントレーナーとしては半端者もいいところだ。ただ、才覚だけは今の君よりも上だろう。二年後、僕はここヒオウギシティでジムリーダーとなっている。ノーマルタイプの、ね。だがノーマルだけじゃない。あらゆるタイプを操る本質を見抜いている。それもこれも、過去で己の無力さと、そして本当に目指すべき信念を見つけたからだ」
「本当に、目指すべき信念……」
唾を飲み下したチェレンに大人の自分は声にする。
「君は、僕の歩んだ道を踏まなくってもいい。僕の犯した過ちを、繰り返す必要はない。ハッキリ言おう。間もなく、プラズマ団が蜂起し、イッシュ地方は完全なる支配を迎える。Nというトレーナーによってアデクは王の座を追われ、ポケモンリーグは彼らの居城と成り果てる」
まさか、とチェレンは声にしていた。確信があったわけではない。ただ、予感めいたものは前々から感じていた。
「それは……ノアに関係があるのか」
「さすがだね。そうだとも。あのノアと名乗っている青年は、プラズマ団の王。Nの成れの果てさ。本来持ち得る全ての能力を失っている様子ではあるがね」
「本来持ち得る……」
「ポケモンと対話し、その潜在能力を引き出す力。神に比肩する、最強の能力だ」
衝撃ではあった。だが、それをどこか飲み込めたのはノアが喪失者の眼差しを常に浮かべていたからだろう。彼には窺い知れないほどの闇があった。その闇を結局、直視は出来なかったわけだが。
「……そこまで、だったのか」
「故に、彼は英雄となった。理想と真実を体現するポケモンを従え、彼は僕らの幼馴染と最後の戦いを決し、そして敗北した。彼は所詮、操り人形だった。プラズマ団という組織を円滑に動かすためだけの。理想と真実に裏切られた彼は英雄のポケモンと共に失踪する。それが、二年前の事」
「まさか、この次元でもそれが起こるって言うのか?」
「近いうちに、ね。だが、形は大きく異なるだろう。同じ時間軸に、稀代の偉人が二人以上はいる。これだけで世界の許容量を遥かに超えている。加えて、彼は過去を変えようとした。過去改変によって生じた歪みは彼が考えている以上に深刻だった。英雄の因子を持つ存在の性別が変わり、前後の歴史が軋むほどの」
チェレンは震える唇でその名を紡いだ。
「まさか、トウコが……?」
振り向けた成長した自分の眼差しが全てを物語っていた。ならば、このまま行けばイッシュは暗黒時代を迎える。このようなところで修練に明け暮れている場合ではない。
蔓紐を外し、チェレンは喉を震わせていた。
「だったら……放っておけない。あそこで、タワーオブへヴンで死ぬべき存在じゃない! すぐにでも助けに――」
「もう間に合わないよ。そして、この世界もまた、間に合わない」
駆け出そうとした自分を制止した声に呆然としていた。間に合わない、とはどういう意味なのか。
成長した自分は鮮やかに石を湖面に放る。十回近く跳ねた後、石は沈んだ。
「この石と同じだ。世界のうねりの前には個人の抵抗なんてまるで無意味。この次元の強制力を前にしても。タイムパラドックスを知っているのならば、本人同士が出会えばどうなるのか、分かってはいるね?」
「……お互いに消滅する」
聞きかじった程度の知識でしかなかったが、どうやらそれが正解であったらしい。相手が手を翳す。その手が黒い瘴気を帯びていた。
「これがゲシュタルト体と本体の末路だ。出会えば対消滅する。しかし、僕と君は既に、ほとんど別人と言ってもいいほどの苛烈な経験をした。故に、ここまで接近しても僕のほうには干渉は来るが、君のほうには全く来ない」
言われた通り、チェレンの身体に変化はなかった。黒い瘴気は彼からのみ棚引いている。
「でも、どうして。じゃあこうして僕と会わなければ……」
「託すべきであった。君に。幼い僕自身に。……僕が旅をしていた頃には誰も言ってくれなかった言葉を。――君は、英雄になれる」
いつか絶望しかけた自分を立て直してくれた言葉。再び投げかけられたそれにチェレンはただ困惑する。
「英雄に、なんて。だってこの時間軸で英雄になるべきなのは今の話じゃ、Nとトウコ――」
「そこから先を口にしないほうがいい。可能性を閉ざす事になる。……手は打っておいた。渡してあったはずだ。白い石を」
ハッとしてチェレンは鞄を探る。白き石――ライトストーンは眩く輝いていた。
「これは……」
「引き継ぐべき者に引き継がれる時が来た。その石は英雄のポケモン、レシラムを込めたもの。白き英雄のポケモンはNのゲシュタルト体を経て僕へと至り、そしてこの次元の君の手に渡る。それこそが、相応しいシナリオだ」
鼓動と同期したライトストーンの脈動にうろたえるチェレンに自分の似姿は語る。
「怖がる必要はない。ただ、受け入れればいい。そうすれば、英雄のポケモンは答える。絶望を知り、死を体験し、そしてその次の強さへと至ろうとする者に道を示さないほど、英雄の条件は厳しくはない。もう君は得ているんだ。英雄の因子を」
「僕、が……」
にわかには信じ難い。だが、理性ではなく本能で理解出来る。ライトストーンの中に眠るポケモンが自分のものになるのを受け容れている事実を。
「最後の鍵は、僕という存在だ。封印を施した人間が再び解く。それでレシラムは放たれるだろう。ゲシュタルト体を何人も送り込んでいるんだ。封印の解除はすぐにでも行われるはず」
黒い瘴気をなびかせる指がライトストーンに触れる。それだけで彼の指先が崩落した。
「腕が……!」
「いい。これでいい。僕には似合いの結末だ。チェレン。この過去世界の僕。君には教えておこう。この先待ち受けるであろう、苦難の未来を。暗黒に沈む、イッシュの明日を」
彼の指先が自分の額を小突く。刹那、飛び込んできたのはイメージの渦であった。
瞬く間に脳髄に差し込まれていく極彩色のイメージの螺旋がフラッシュバックとなって視野を、耳朶を、鼻腔を、そして全身の神経を駆け巡っていく。
血流が逆巻き、体温が沸騰の域に達する。
あ、と呻いたその声でさえも眼前に展開された銀河の前では微細な囁きであった。
黒く染まる月、千の夜と、殺されていく太陽。銀河は幾星霜の時を刻み、月面の秒針が一秒を深く食い込ませる間にも、星は呼吸し、地表は闇に呑まれ、空は赤く染まり、山々は鈍い銀色で壊れ、街はその色を刻々と変え、吐息は霧散し、人は遥か地平の彼方に足跡をつけた。
いつまでも終わらない絶望と希望の最中、湧いたのは小さな黒点。だが、それがすぐさま肥大化し、銀河をも飲み込む暗礁領域と化した。
悪夢である。
悪夢が、広大な星の海を呑もうというのだ。駄目だ、と思考と現実の喉がリンクした瞬間、チェレンはその小さな身体に収まっていた。
今の体験は、と掌に視線を落とす。
「そうだ。それが、この世界が辿るであろう、全て。……これを伝える事が僕の生きてきた証だった」
黒い瘴気が棚引き、眼前の似姿が今にも崩壊していきそうであった。チェレンは手を伸ばしかけて、彼が阻む。
「もう、いい。これが一人にでも伝わっただけでも、もう……」
「でも……あなたはたった一人で死のうというのか! こんな、どうしようもない現実と、希望のない明日を僕だけに突きつけて、死んでいこうなんて、それは……ずるいじゃないか」
目を見開いた彼は静かに、ああと声にしていた。
「そう、だね……ずるい、か。同じ感想を、彼にも抱いていたな。どうして自分じゃないんだ。どうして、英雄に成れなかったんだって。でもやっと気づけた。気づかせてくれた。僕は伝道者だったんだ。そりゃ、英雄からよほど遠い場所のはずだ。でも、最後の最後に、自分の目的が分かった。僕はこのために、生きてこられた。そして、君は共に行け。英雄に成るのはただ一人でいい」
崩壊していく自分の似姿にチェレンは手を伸ばす。しかし、それを阻むかのごとく、白い陽炎が手の中から発生した。
未来の自分の意志を引き受けたかのように、英雄のポケモンが屹立する。
これ以上は彼の領域。まだ自分では追い越す事も叶わない、と。
黒い瘴気が渦巻き、未来の己が掻き消えた。この世にあった証明すらなく、何もかもが霧散していく。
理解はしていた。納得も出来るはずだ。そのための知識と、必要なものは手に入っている。
だが、この埋めようのない心の隙間は何だ。
どうしようもないこの悔しさはどうしろというのだ。自分は救えたかもしれない。未来の自分を、この手で。
しかし、そうではないのだと思い知ってしまった。この手はまだ見ぬさらなる明日を救うためにある。
見果てぬ人々を導き、戦うためにあるのだ。
今、自分を救う暇があるのならば少しでも成長するしかない。
彼がやれなかった事、彼が志した事。それを引き継ぐのは、自分しかいない。ここで臆してどうする。ここで退いて何とする。
灼熱の白い翼を広げたレシラムにチェレンは仰ぎ見ていた。
青い瞳がこちらを見据え、主かどうか問い質している。
問答するまでもない。
「僕が、お前の主だ」
その言葉にレシラムがブランクのモンスターボールへと、赤い粒子となって入っていく。英雄の力は自分のものになった。
そしてこれは万人を救うためにある。
目の前の一人の弱者に手を差し伸べている暇があれば、その先にいる数百を選べ。同じ死に瀕している人間を秤にかけるのならば大きいほうを選べ。
チェレンはモンスターボールを握り締め、固く誓う。
「英雄に、なってやる。この世がどれほど悪に塗れても、自分がどれほどに闇に呑まれても、それはまだ終点じゃない。僕には成すべき事が分かった」
脳内に閃いたイメージはレシラムが辿る帰結すら既に描いている。
レシラムはより多くを救い、導く英雄の礎となるだろう。
そのためならば自分は怖くない。
悪夢との戦いも。影の誘いも。
全て断ち切り、因果の彼方で決着をつけてやる。
「そうだとも。僕が、英雄だ」