FERMATA








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終幕 暗黒の未来
第(−9)楽章「聖少女領域」

 裏切り者、と声が弾けたのと炎で焼いたのは一瞬であった。

 巨木に空いた洞の中、地下シェルターに近い場所で親衛隊を名乗る者達を一人、また一人と葬っていく。

 レシラムの精密な炎熱を操る自分には迷いはない。最早、全てを捨ててきた。

 これまでの秩序もプライドも。何もかもだ。黒の勢力という力の象徴でさえも。

 最後の道を塞いでいたのは一人の大男であった。その太陽の鬣に面影を確かめる。

「バンジロウ。君が、僕を阻むか」

「阻む? 何か勘違いしてるんじゃないか? チェレン。オレはツエー奴が好きだ。今も昔も、な。ついて来い。ベルが待っている」

 踵を返したバンジロウにチェレンはレシラムを仕舞った。代わりを展開させる事もない。

 事ここに至って戦闘は無意味だと、バンジロウほどの実力者が判断した。それだけで了承は充分のはず。

 地下洞窟深く、まるで座敷牢のような場所が最果てであった。扉を開けたバンジロウに、チェレンは入らずに中を窺う。

 六年越しの幼馴染との再会は、苦く重苦しいものであった。湿気を含んだ空気が吹き抜けてくる。

「来たのですね。黒の勢力の長、チェレン」

 その声音に六年前の幼かった頃の面影を見るのは不可能であった。当然の事だ。自分がここまで追い込んでしまった。自分が戻れないところまで駒を進めてしまったのだ。

 ベッドに腰を下ろした形のベルにチェレンは声を投げる。

「足は、もう駄目なのか?」

 ベルは軽く頭を振ったのみであった。

「近くに行ってあげたいけれど……」

「いいさ。僕らの距離間なんて、所詮はこんなものだ」

 歩み寄れば一瞬。しかし、その隔絶は一生のもの。

 隔たりと埋めようのない心の隙間を感じつつ、チェレンはバンジロウへと言葉を振る。

「分かっているんだろう? 上でやっている戦い、あれには意味がない。いや、君らが見出している意味とは、恐らく異なる戦いとなるであろう。ノア……灰色の預言者。六年前に現れ、未来の事を次々と言い当てた……そういう風に吹き込んである。そういう歴史に、なっているはずだ」

 まさかその意味を問い質すほど愚かではあるまい。バンジロウは僅かに目を伏せ、拳をぎゅっと握り締めた。

「……変えようのない事実というものが、この世界にあるとすれば、それがオレ達と兄ちゃんが出会ってしまった事だ。出会ったから、この歴史が生まれた。紡がれた結果を誰もなかった事には出来ない。……だが、その結果を後から捩じ曲げる事は、かくも容易なんだな、チェレン。いや、黒の勢力のボス」

「僕は歴史に沿っただけだ。本来の歴史……Nとプラズマ団が破れ、英雄のポケモンの片割れを連れて行ってしまう。そのような愚昧な結果に流されてはならないという抑止力。それこそが僕という形を取った」

「傲慢な……!」

 怒りを滲ませたバンジロウにチェレンは涼しげに返す。

「願いとは、どのような境遇であれどのような時代であれ、傲慢な代物だ。願う事というのは変える事、履き違える事。……そして、道を誤る事に繋がる」

「だからって、お前が道を示していい事になんてならない」

「お互い様だろう、バンジロウ。ベル、君は分かっているはずだ。分かっていて、ここまで強くなった。……マフォクシーの結界を破るのに、まさかカトレアとシキミが全力を出さなければならないなんて。マジカルフレイムの結界陣をここまで拡大させる使い手になるとは思いもしなかったよ」

 ベルはただ真っ直ぐに自分の眼を見返してくるだけだ。そういう根本だけは変わらない。ベルはいつだって自分の鏡であった。

 混沌の中にある心を映し出す鏡。真なる神々の加護に愛された、聖少女――。

「あたしは、大した事はしていないよ。みんなのやりたい事を買って出ただけ」

「ナイトメア討伐、それにイッシュの再生、か。だがね、ベル。突出した願いは、反面では破滅をもたらす。そういう風に世界は出来ているんだ。いつの世か、聖女と謳われた人間が火炙りにあったように。純粋さを形にした青年が、世界にサヨナラを告げざるを得なかったように。この世には願いと等価の滅亡が待っている。それを直視させないように配慮したのは、君だろう?」

「願いそのものに、善悪も何もない。あたしはそのつもり。でも、黒の長、チェレン。あなたがそのつもりでないのならば」

 不意に洞窟内部に殺気が篭る。先ほどまで通っていた湿気っぽい空気が位相を変えて熱波となった。

 ここは既にベルの領域。たとえレシラムであっても勝てるかどうかは五分五分の賭けだ。

「通常ならば退く。だが、今は決戦の時。矢を番い、引き絞った戦士はその矢が何を貫くのか、目にしなくてはならない。残念だよ、ベル。幼馴染の頭蓋を砕く、その光景を見るなんて」

 すっと手を掲げた途端、熱波が空間に固形化した。念動力で歪んだ眼前に杖を持ったポケモンが立ち現れる。先ほどまでここに「存在」してすらいなかったほどのポケモン。一瞬のうちに主の危険を読み取ってこの空間に転移してきた。

 マフォクシーの眼光がチェレンを射抜く。

「……いい眼をしている」

 炎が散り、火花が洞窟の中を埋め尽くした。灼熱が自分の身を葬り去るまで二十秒とない。その中で、チェレンは最適解を編み出した。ホルスターに留めていたモンスターボールより一匹を繰り出す。

「行け、パラセクト」

 背中に大キノコを背負ったポケモンが洞窟の中で甲高く吼え立てる。パラセクトの形状はしかし、虫タイプそのものであった。草木など一瞬で炭化させるマフォクシーの炎を受けるのには随分と脆そうに映る。

 しかしながら、ここでチェレン諸共粉砕しようとしていたその炎は完全に鎮火されていた。マフォクシーと操るベル自身驚きを隠せない様子である。

「どう、して……」

「パラセクトの特性は湿り気。自爆覚悟の攻撃だったのだろう。湿り気特性は誘爆や自爆の効果を無力化する。君が美しい勝負の最後にこだわらず、僕をただ単に焼き殺すだけなら、こんな結末にはならなかったのに。あくまで君は、僕を殺すのにも責を負うつもりでいる。あえて言おう。犠牲勘定もなしにこの世界が救えるほど、甘くはない。世界は犠牲と悲鳴と怨嗟で満ちている。その中を渡り歩くのが、英雄であり即ち僕だ」

 マフォクシーへとパラセクトの爪が入る。一撃を受けたマフォクシーは動きが明らかに鈍っていた。

「キノコの胞子。麻痺したマフォクシーは君の最大パフォーマンスを引き出せない。さて、話し合いの続きと行こうか、白の勢力のリーダー。民主主義だよ、君達の大好きな、ね」

 歯噛みしたベルにバンジロウが前に出る。しかし、ここで戦っても勝てない事を理解しているのか、彼は身構えたままモンスターボールにさえ手をかけなかった。

「……見ない間に賢くなったな、バンジロウ。いや、丸くなったというべきか。昔ほど無鉄砲じゃなくなった分、つまらない奴になったものだよ。ここで愚直に僕を殺そうとするのならば、まだ見込みがあった」

「……ベルだけは逃がす」

「驕りだって言っているんだ、その品位じみた言動が。君は英雄にも成れず、王にもなれない半端者。戦うだけのけだものに成り果てれば、黒の勢力に組み込んでもよかったものを。下手に品性を手に入れた獣なんて、役にも立たない」

「逃げろ! ベル!」

「逃げられやしないさ。外は四天王二人が固めている。テレポートで跳ぼうとしても、もう外壁のイメージを描けないはずだ。フォレストの守りは瓦解した」

「……あたしを、殺しに来たって言うの」

「そうだ。悪夢が何もかもを覆う前に、ベル、君だけは殺してあげよう。僕の手で」

 固唾を呑んだベルはそれでも抵抗の眼差しを注ぐ。

「あたしは、悪夢に立ち向かうために白の勢力を立ち上げた。その志は、チェレン君、同じはずだよ。ナイトメアを倒す」

「方法論が違う。君は一人の尊い犠牲で全てを解決しようと思っていたようだが、僕は違う。僕の方法ならばみんなが幸せになる」

「……犠牲の下の幸せなんて」

「何を躊躇う? この世界はいつだって、犠牲はつきものだ。そんな事さえも理解せずして、まさか白の勢力で頭をやっていたのか? それとも、生粋の生真面目さが、君の眼をもうろくさせていたのか? ――世界は君が思うほど美しくはないよ」

「ウルガモス!」

 繰り出されたウルガモスが六枚の翅を擦り合わせて炎の鱗粉を撒き散らす。ベルを転移させるまでの時間稼ぎのつもりか。

「言っておくが、別にレシラムが出せないわけじゃない。ただ、君の高潔な志に少しばかり、謝辞を送りたかっただけだ。それも、意味のないものであったようだけれどね」

「ベル! 速くマフォクシーでフォレスト外部に!」

「駄目……どうして? 外は、だって……」

「ナイトメアが強襲しているはず。そう、全て君達の考えたシナリオ通りに」

 見抜かれたからか、バンジロウが言葉をなくす。ベルが沈痛に面を伏せた。

「そう……あたし達の思っていた通りに、なったはずなのに。それさえも見透かして、ここに来たんだね、チェレン君」

「ナイトメアにノア一人で向かわせ、殺し殺され合わせる。それが君達の描いた灰色の預言者の最期だろう。そう、歴史に紡がれるはずの事実。だが、実際には、ナイトメアはその程度で破壊されるほどの代物ではない。僕達は研究し、解析し、それを暴いた。ナイトメアの真髄。それは人を取り込み、肥大化し、情報量を増す事。人にあって人に非ず。悪夢は現象にあって現象ではない。あれを破壊するのには腹に大穴を明けさせ、その上でノアの持つケルディオの神秘の剣を撃つ。その手はずは四天王の総意の下、しかと叶えられるはずだ。……だが、ここから先は僕の憶測だが、恐らくはその程度ではナイトメアは死なない」

 思わぬ言葉であったのだろう。バンジロウが目を戦慄かせた。

「まさか! だって神秘の剣! あれさえ発揮出来れば、ナイトメアと中和し合い、侵食してお互いに消滅するはず」

「対消滅の運命か。だが、もうその程度ではないんだ。ナイトメアは元々は確かに、Nという存在の影、無数のゲシュタルト体が発生した事による副次的産物であっただろう。故に、ノアが最もその身にとっての毒となる。あれはもうNであってNではないもの。ゲシュタルト体に近しいノアの一撃で全てが決まるのだと思っていたのだろう。だがそれはナイトメアも同じ考えであった。毒を分かっているからこそ克服する術を模索する。人を取り込み過ぎたあれはもう、Nの裏面じゃない。完全なる別種だ」

 バンジロウが膝を落とす。まさか、と声を震えさせた。

「だって、対消滅の運命なら……兄ちゃん一人の犠牲で割り切れたのに。イッシュを二つに分けても、意味はなかったって言いたいのかよ……!」

 地面を殴りつけたバンジロウにチェレンは冷徹な声を返すのみ。

「白と黒に分ける。それに意味がなかったとは言わない。僕の考えだって、これは四天王には話していない。彼らには、君らの計画に協力するように誘導しておいた。それが成功する可能性もある。だが、僕はあの灰色の王が、それほど無策ではないと感じている」

「トウコ、お姉ちゃんが……」

「何か策を講じてくるはず。直接対決にもつれ込んでも、何か不都合な事実が巻き起こる。それも加味して、僕は言ってやる。ベル、ここで君のするべきは逃げる事でもましてや自決でもない。僕の背中を、よく見ておく事だ」

 何を、と止めかけたベルの声音を聞かず、チェレンは踵を返していた。レシラムの入ったボールを翳し、洞の外に出る。

 外は阿鼻叫喚の地獄絵図であった。

 ナイトメアの影が地表を覆い、肥大化した存在が脈動する。

 立ち向かうのはやはりというべきか、因縁の男であった。

「生きていたのか。ヴイツー」

「おうおう、減らず口がまだ利けるか、チェレン」

 傍らに佇むノアのケルディオは頭を垂れていた。その角が折られている。

「折ったのか」

「聞くまでもないだろ。おれが今仕えているのは灰色の王だからよ」

 その言葉に茫然自失のままノアが声にした。

「トウコ、だって言うのか……。でも何で……」

「チェレン。てめぇのやろうとしている事は分かる。だがそれも分の悪い賭けだ。どうだ? レシラムを渡し、決着を持ち越すのは」

「冗談。僕が何のためにブラックシティを捨て、ホワイトフォレストに宣戦布告したと思っている。全てをここで決するためだ」

「だがよ、四天王が二人喰われた。その手持ちも、だ。何も感じねぇのか?」

「あるとすれば、未練か。もっとうまくやれただろうに、と」

 その言葉にヴイツーが眉を跳ねさせた。

「……そうかよ。もう天秤にかける事は終えたわけか」

 了承した声音にチェレンは首肯する。

「シナリオは総崩れだ。だが、希望はある。ここに、英雄という希望の輝きは」

 モンスターボールを構え、チェレンは姿勢を沈める。

「行け、レシラム!」

 繰り出されたレシラムが陽炎の中に身を潜ませ、白い炎が影の地平を焼いた。

 だがそれでも延焼はその矢先から掻き消されていく。やはり相手のほうが幾分か上手。だからこそ、これは下策である。

 下策だと分かっていてもなお、実行せねばならない時があるのだ。

 それはまさしく、今であった。

「レシラム。そのまま燃焼を継続。蒼い焔」

 放たれた渾身の灼熱が影を蒸発させた。その三分の一を焼き払ったが、ナイトメアは健在だ。

 影を弓矢のように飛ばし、レシラムへと間断のない攻撃を叩き込む。

 レシラムにあえて回避行動を取らせなかった。着弾点から侵食が始まり、レシラムが蝕まれていく。

 甲高い鳴き声を上げつつ、レシラムが炎の効果範囲を広げた。ナイトメアは焼かれつつ影から無数の手を放出させレシラムを縛っていく。

 拘束された形のレシラムが呻く。それでも自らの身体を触媒にした焔の勢いは収まらない。

 一山の炎と化したレシラムがナイトメアを引き裂いていく。ナイトメアの侵食速度が速まり、一息にレシラムを呑み込んだ。

「嘘、だろう。レシラムが……」

 敗北を悟ったのだろう。ノアが絶句する。

 ――だが、それこそが自分にとっては始まりであった。

 レシラムの眼窩が赤く輝く。完全にコントロールを奪われた形のレシラムがこちらを攻撃範囲に据えた。

「逃げろ! チェレン!」

「ぐだぐだ叫ぶな。喧しいぞ」

 事の重大さに反して冷静な自分にノアは違和感を覚えたのだろう。その言葉尻が慎重になる。

「……ヴイツー。キミは知っているんだろう。チェレンはどうするつもりで」

「それを言っちまうわけにはいかねぇな。あいつの覚悟が無駄になる」

 その通りだ。ナイトメアを前にして自分の最後の戦いに徒花などくれてやるものか。

 黒化したレシラムを止める術はない。誰の目にもそう映っただろう。

 自分がホルスターに留めた最後のポケモンに手を翳すまでは。

「ホルスターに、もう一個のボール……」

「レシラム。この六年間、君には世話になった。だが、全てはこの時のために。そして恨むなよ。僕達の運命はここに集約される」

 侵食されたレシラムが「あおいほのお」を放つ。四方八方から向かってくる炎の雪崩れに、チェレンは静かにホルスターのピンを外した。

「――行け、ゲッコウガ」

 放たれたのは水の砲弾。黒く染まった炎を鎮火させ、その中央に佇むのは印を結んだ黒い忍の影であった。

 黒化した己のゲッコウガが赤く滾った眼差しに闘志を燃やす。レシラムが吼え立てた。

 その怨嗟にチェレンは静かに返す。

「相手は本気だ。ゲッコウガ。久しぶりだが合わせられるな?」

 問いかけに相棒は首肯する。チェレンはゲッコウガの中に己を落とし込むイメージを持った。

「同調、開始」

 直後、眩惑した視野がゲッコウガと同一になる。六年もの間秘匿してきた自分の切り札はこの時、正常に稼動した。

 ゲッコウガと自分との境目が消えそうになる刹那。炎が吐き出される。ゲッコウガの中でチェレンは瞳を開いた。

 直後、巻き起こった水手裏剣による一閃が炎を叩き割る。

 ビィン、と空間が震え、その切断面はレシラムにまで至った。一刀両断したレシラムをナイトメアの影の糸が補強する。

 まさか一撃で伝説を葬られるとは思ってもみなかったのだろう。ナイトメアがにわかにこちらの脅威判定を覆したのを感じ取った。

「チェレン……もしかして意識をゲッコウガと均一に……」

「そうだ。完全同調。物にしてやがったか。やっぱり」

 ヴイツーとノアの声がまるで水の中で反響してくるかのようにぼやけて聞こえる。チェレンはゲッコウガの指先にまで自分の神経を拡張させた。

 ゲッコウガが五指の間に水手裏剣を構築する。

 両手で合わせてゆうに十個。それらの水手裏剣が幾何学の軌道を描きレシラムへと突き刺さった。鳴き声を上げるレシラムへとゲッコウガが突っ切り、その鳩尾へと一撃をくわえる。

 今やナイトメアが支配している中枢に近いレシラムはほとんどナイトメア本体へのダメージ。激震したナイトメアが慌てて侵食の手を伸ばそうとしてくるがレシラム一体を抱え込むのに精一杯のはずだ。

 ゲッコウガまでを取り込むほど今のナイトメアには容量はない。

 ホワイトフォレストの人々を取り込み、四天王のポケモンも呑み込んだナイトメアはほとんどその許容範囲をオーバーしているはず。今しか、ナイトメアを駆逐出来る好機はなかった。

 ――そうだ、自分は、この時のためにレシラムを預かっていた。英雄の座に至ったのも全てこのため。

 在りし日の影が、チェレンの思考に切り込んできていた。



オンドゥル大使 ( 2018/01/07(日) 22:03 )