FERMATA








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終幕 暗黒の未来
第(−7)楽章「輪廻闇妖散華」

 生憎の曇天が広がった景色は、まるで白と黒の両勢力に引っ張られたように澱んでいる。ノアは熟睡も出来ず、ホワイトフォレストをうろついていた。自然との調和が目指された街なのか、人造物が少ない。木材で構築されたウッドデッキの上で人は生活し、これがあのチェレンと対抗している組織なのか、と疑わしくさえもある。

 黒の勢力――ギーマとレンブを連れているあの勢力は本気であった。本気で、自分を殺す事など容易いまでに成長していた。チェレンは精神面でも強くなったのが窺える。ギーマとレンブはさらなる研鑽であろう。四天王全員が一同に会しているとは思いたくはないが、戦力差は明らかに思えた。

「あっ、灰色の……」

 一人の構成員が自分を目に留め、蔓を垂らして下りてくる。女性構成員は白いつなぎを身に纏っていた。

「お初にお目にかかります。もしかして……ノアさんですか?」

「そうだけれど……会った事が?」

「いえっ。自分、白の勢力に入ったばっかりで……まだまだ弱い身なんですがノアさんの話は度々ベル様から聞いていて……。灰色の預言者の?」

「そう呼ばれる、筋合いもいわれも覚えはないんだけれどね……」

 力なく笑うと少女の構成員は微笑んだ。

「ベル様、喜んでいらしたでしょう?」

 そうなのだろうか。ベルが浮かべていたのは困惑に思えた。それも、六年前の未熟な困惑とは違う、自分の意に沿わぬ出来事が起こった時のものであるのは一見して理解出来る。

 自分の存在は、ともすればベルからしてみてもイレギュラーだったのだろうか。

「……どうかな。ボクはなんだかこの場所も、居心地が悪くって」

「フォレストはいいところですよ。水も綺麗だし、空気もおいしい。西のブラックシティなんて酷いもんです。金があれば何でも手に入る、とか嘯いて」

 唇を尖らせた少女にノアは当惑するばかりであった。

「西の、って事は、黒の勢力の?」

「ええ。連中、酷い奴らですよ。自分が聞きかじった話で恐縮なのですが、弱いポケモンには用がないと、野性を極力排した構築になっているようです」

「……野生ポケモンを、寄せ付けないって事?」

「ですよ。それって酷くないですか?」

「でも、シティってそういうものじゃ? だって今までだって街はそうだった。……それにひきかえ……」

 ホワイトフォレストにはところどころ草むらがある。弱小個体のポケモン達が群れを成し、人間との領分を守って生活しているのが目に留まった。

 少女構成員はふふんと自分の手柄のように胸に手を当てる。

「野性ポケモンも、弱くても、そこに在る事に価値は充分に。それがベル様の教えですから。ベル様はありのままのポケモンを愛していらっしゃいます。……本当なら、玉座だってベル様に居て欲しいところですよ」

 それは白の勢力の総意だろう。誰もがベルをまるで神のように扱う。大げさだな、とノアは頬を掻いた。

「ベルは、そこまで?」

「そこまで、です。私達からしてみれば絶対です」

 それはしかし、チェレンの敷く力による支配や、トウコの王制と何が違うというのだろう。ただ単に対象が信仰に変わっただけの話だ。

 力か、恐怖か。それとも慈愛か。どれも人間にとって欠かせない感情のはずなのにどれもが切り離されたように彼らは語る。

 ベルが悪いわけでも、チェレンが悪だと思っているわけでもない。

 ただ、納得は出来かねた。

「そういえば、キョウヘイ君は? 彼にボクは助けられた」

「あー、キョウヘイですか。呼んでみます?」

 少女は如何にも面倒くさそうにホロキャスターを手にする。何か事情があるのだろうか、と首を傾げた。

「キョウヘイ君は、何か問題でも?」

「いえ、そうじゃないんですが……。あっ、おい、キョウヘイ。灰色の預言者様からお呼びがかかっているぞ」

 あまりにぞんざいな扱いにノアは逆に心配になったほどだ。おろおろとするノアに少女は頭を振る。

「ご心配には及びません。キョウヘイはああいう人間です」

「……失礼には違いないんだけれど、ああいうって? トレーナーの腕は悪くないと見えたけれど」

「ウインディとシロデスナのお陰ですよ。彼は……バンジロウ先生のお爺様である、アデク様から直々にポケモンを授かった人間ですから」

 ならば余計に重宝すべきだろう。そのような沈黙が伝わったのか、少女は眉根を寄せる。

「……白の勢力は不必要な軍備増強を嫌います。特に戦いたがりの人間は。私達はただ、ありのままでいたいだけなのです。このイッシュで。何もかもが自由ではなくなったこの地で、ただ安住の地を求めているだけなのです。それなのに、あの脳筋は強さばっかり求めて……。不要な強さは無用な争いを招くって教えられたはずなのに」

「……そう、か。大変なんだな」

「まったくですよ。あ、来たみたいです」

 フォレストの木々をウインディの疾駆が駆け抜ける。騎乗するキョウヘイはこちらを見やるなり、胡乱そうに尋ねていた。

「……灰色の預言者に変な事吹き込まなかっただろうな、ミヅキ」

「べっつにー。変な事なんて。ねぇ? 預言者様?」

 そっぽを向いたミヅキという少女にキョウヘイが眉間に皴を寄せる。ノアは謙遜気味に応じていた。

「様ってのはよしてくれ。それに、ボクがその灰色の預言者だって言う証拠も、ほら? ないみたいだし」

「でも、ナイトメアが――」

「ミヅキ。それ以上は、Aクラス以上のトレーナー熟練度の人間のみが許された権限だ。お前はまだB以下だろ」

 ぴしゃりと遮った声音にミヅキがむっと言い返す。

「何よ。あんたはいいわよね。ウインディで諸国漫遊? このご時勢によく……」

「だからこそ、灰色の預言者と会う事が出来た。俺の事、糾弾するんならそれからにしてくんない?」

 どうやら水が合わない様子だ。反目し合う二人にノアは六年前のベルとチェレンを幻視していた。

 彼らもまた、形は違えど同じ旅路を行った仲間。それが今や敵同士。信じられない心地よりも寂しさが勝った。固く握り締めた拳には悔恨が滲む。

「……どうにか、する事は出来なかったのかな」

「預言者様は何の心配も要りませんよ。フォレストでは等しく、皆自由です。黒の街なんかよりずっと、人間は自由にのびのびと生きています」

「お前は黙っていろ、ミヅキ。灰色の……って呼び辛いな。ノア、お前を呼んで来いと仰せつかった」

「お前って……!」

「黙ってろ。これは勅命だ」

 言葉を飲み込んだミヅキにノアは目をしばたたく。勅命。その言葉の持つ重みに自然と身体を強張らせていた。

「誰、から……?」

 一拍呼吸を置いて、キョウヘイは言葉にする。

「アデク様からだ」

 その名前にノアは戦慄く。アデクが、この街にいるというのか。

「バンジロウがいるから、そりゃどこかにいるんだろうとは思っていたけれど……どうしてキミが?」

「俺はあの人の受け持った、最後の弟子。だから託す意義がある」

「でも、落第点の弟子だったけれどね」

 ミヅキの言葉にキョウヘイは苛立ちを募らせながらもノアを見据えていた。

「アデク様のところで導く。来てくれないか」

 断る理由もない。何よりも、アデクには聞かなければならないはずであった。

 あのウツロイドとの最終局面。アデクは四天王側についたはず。ならば、この戦局は明らかにおかしいのだ。

 どうしてベルとチェレンが合い争っているのか。そのルーツを探るのにアデク以上の適任もいまい。

「……いいよ。行こう」

「じゃあな、ミヅキ。せいぜい、警護任務に当たってくれ」

「イーっだ! 言われるまでもないわよ」

 舌を出したミヅキを横目にノアはウインディの背中へと招かれていた。

「もう少し仲良くしても……」

「ミヅキと? あんなの、まともに取り合うだけ時間の無駄だ。それに、俺がそこいらを飛び回っているのが気に入らないのさ。……幼馴染って奴でね。あいつが昔はトレーナーとしての力量が上で、泣かされていた俺をいっつも助けてくれたんだが、今は逆転していて悔しいんだろ」

 どこに行っても似たような話はあるものだ。トウコとベル、チェレンの昔話に近いものを感じていた。

「でも、彼女だって立派な戦士だろう?」

「……一晩で分かった風な口、利くなよ」

 睨み上げるキョウヘイに、失言だった、とノアは面を伏せる。

「すまない。キミらの関係性も知らず……」

「まぁ、どうでもいい事だろ。お前に必要なのは、今、アデク様に会う事だ」

 ゴーグルを装着したキョウヘイはウインディの首筋をさする。ウインディが身震いした後、一気に跳躍した。その一動作だけでもまさに神速。フォレストの巨木に登ったウインディが足場を器用に使い分け街を横切っていく。

「……広いんだね」

 吹き荒ぶ風はどこか優しいが、遥か地平に望めるイッシュの焼け野原が見え隠れする。それが目に入る度、ちくりとした痛みが走った。

「フォレストのほうが黒の街より敷地面積は、な。ただ前線基地としての攻撃力と防御力、それに対応性は薄い。所詮は自然界と混ざり合ったとか言う微妙なラインに立っている街だ。防衛都市としての役割は低いと見ていい」

 まるで見てきたような言い草だ。その沈黙で悟ったのだろう。キョウヘイは横顔を翳らせる。

「……見てきたみたいだな、って思ったか? ああ、そうだよ。俺は斥候の役目も帯びている。ミヅキには秘密にしているけれどな。バンジロウさんから許可ももらって、俺は白の勢力の数少ない前線部隊の人間だ。相手の監視くらいはするさ」

「スパイ……だっていう事か?」

「……言い草悪いがそういう事。ブラックシティの内部にも入った事がある。あそこは金が全てだ。資本の力は本人の実力を遥かに補強する。金さえあれば何も要らないって言う鉄の要塞だよ。居並ぶ黒い摩天楼だって、どれも金と私欲に塗れた代物さ。スポンサーがでかいんだと」

「スポンサー……でもこのイッシュで」

 言わんとした事が伝わったのだろう。キョウヘイは首肯する。

「ああ、もうイッシュから表立った企業は撤退した。今、この地方はほとんど法治国家の体を成していない。外からの企業がブラックシティに参入し、王のご機嫌取りに必死なんだよ。だがそのくせ、トウコには一切介入しない」

「それは……内政干渉になるから」

「だけじゃないってもっぱらの噂だぜ。どうにも連中、イッシュをこのまま立ち直らせたくないらしい」

 キョウヘイの言葉振りにノアは閉口していた。イッシュを……この焦土の地を立ち直らせたくないとはどういう事なのか。

「白と黒の勢力の」

「睨み合いも、だろうな、怖いのは。でもそれ以上に恐れているのは、やっぱりナイトメアだろうさ」

 問い質す前にウインディが地面にふわりと着地する。訪れたのはホワイトフォレストの末端にある洞窟であった。白い岩壁に松明が燃えている。

「先に行くといい。俺はケツを見張ってる」

 自分から会いに行け、というわけか。ノアは深呼吸を一つしてから、洞窟の中へと分け入った。

 等間隔で並ぶ松明の明かりが照らし出す洞窟は湿っぽく、本当にこの奥にアデクのような明朗快活な男がいるのかどうか怪しく思えてくる。

 しかし後ろをキョウヘイに抑えられている手前、進むしかなかった。

 突き当たりに扉がある。座敷牢のような井出達の部屋にまさか、とノアは息を呑んでいた。

「こんな場所に、アデクさんが……?」

「ご挨拶だな。開けるぞ」

 キョウヘイが歩み出て鍵を開ける。まさか、鍵でさえも外付けなのか。これではまるで大罪人である。

 開かれた扉の向こう、苔むした白い岩が居並ぶ先に、太陽の鬣を持つ男は鎮座していた。

 六年の月日の証か、皺が深く刻まれたような気がする。
自分からしてみれば半日も経っていないはずなのに、まさしく数年間、全く交流を絶っていたかのように思えてくる。それほどまでに眼前のアデクからは覇気が感じられなかった。

 目を開き、アデクは少しばかり小さくなった瞳でノアを見据える。

「……ノアタローか」

「アデクさん。どうして、こんな……」

 言葉もない。そのような様子を察してかアデクは僅かに微笑む。

「ご挨拶じゃな。衰えたように映るか」
それは、と口ごもってしまう。衰えた、弱くなったというレベルではない。
もうこの老人からは、戦いの気配でさえも窺わせられないのだ。自分に敗れ、地を這い蹲った時の姿が重なる。

 この老躯は既に敗北者の空気を漂わせていた。

「何で、アデクさん……。だってあなたはチェレンと」

「共に行く、事は出来なかった、というだけの話よ」

 途端、アデクは激しく咳き込む。キョウヘイが前に出て薬を差し出した。飲み込んだアデクは胸元を押さえ、呼吸を整える。衝撃と共にノアは尋ねていた。

「病理を……」

「深い病じゃわい。誰もが老いていくとは分かっていても辛いものよ。肺に穴が空いとるんじゃと」 

 笑い話にしようとするアデクだったがノアは一笑も出来なかった。寄る年波に勝てぬばかりか、彼の王者を病魔が蝕んでいる。その現実が遥かに受け容れがたい。

「……こんな事を聞くのは酷かもしれない。でも、ボクは、あの日、あの瞬間から、時間は経っていないんです。半日程度でさえも。ウツロイドを倒し、その刹那からこの時間軸にいた。相克する勢力が争う、この激動に……。ここは、何なんです?」

「何、か。さしずめあの時が輝かしい過去であったとすれば、この今は暗黒の未来と言えるものであろうな」

「暗黒の、未来……」

 アデクは深く瞑目し、やがて口を開いた。

「……あの時、四天王と共に来たチェレンの坊主には稽古をつけてやった。戦うに相応しい人間に成長するための、正しい修行を。しかし、それが実る前に二つの出来事が巻き起こった。一つは、王が誕生してしまった事」

 自分が目にした玉座での戦闘を思い返す。この時間軸のNが敗れ、彼から謎の影が出現した。そこから全てが始まったとでも言うのか。

「トウコ・キリシマの王位……、プラズマ団の敗北」

「それだけではないのは、もう分かっておる様子じゃのう」

 ノアは逡巡を浮かべた後、アデクへと問いかけていた。

「あの影……あれは何です?」

「小僧共はナイトメアと呼んでおる。しかし、あの現象の正体は未だ不明瞭な点が覆い。キョウヘイよりワシはブラックシティの解析技術を盗み出し、ナイトメア追求の任を帯びさせた」

「お前を見つけたのは、その帰りだったんだよ」

 キョウヘイの差し挟んだ言葉にノアは言いやる。

「では、ナイトメアの正体は……」

「結果は全くの不明。黒の勢力でも……ワシの育てた四天王達でも原因を断ずるのには至っておらん」

 そうだ、とノアは思い返す。どうして四天王は黒の勢力についているのか。アデクがここにいるのならば白につくべきだ。

「チェレンについたのは、どうして」

「二つ目に起こった出来事がそれじゃわい。坊主がどういうルートでかは不明じゃが、英雄のポケモンを手に入れた」

 白い陽炎。炎熱の龍、レシラム。だがあれを持っていたのは自分の似姿のはず。いつの間にチェレンに渡ったというのだろう。

 目線で問いかけた疑問にアデクは答える口を持っていないようであった。

「……分からん。だがあれが全てを変えてしまった。ワシは用済みだと言われ、坊主は黒の勢力を立ち上げた。四天王がそれに追従したのは、正しく強きにつけというワシの教えの賜物。弱者であるところのワシにつく義理はないと判断したようじゃ」

 だがそれではアデクは孤独だ。ここまで戦い抜いてきた戦士に対してあまりに不義理ではないか。

 ノアが口にしかけたところでアデクは自嘲する。

「義理、不義理ではないのじゃよ。これは然るべき流れ。若い血潮が燃え、新たな時代を切り拓くのは常じゃわい。それを、ワシは傍で見守る事が許されんかっただけの話。単純な事じゃよ。お主がかつて言っていたように、ワシは時代の目撃者になるのには少しばかり弱かった、それだけの結論」

 しかし、納得は出来ない。アデクはまだ生きている。その胸に燃える闘志はあるはずなのだ。しかし、その身勝手な願望にキョウヘイが口を差し挟む。

「黒に立ち向かおうとしたのはアデク様じゃない。真っ先に言い出したのは、ボスであるベル様だ」

「……ベルが?」

 信じられなかった。一番に戦いを忌避していた少女が何故。その眼差しが伝わったのだろう、アデクが面を伏せる。

「分かっておらんかったのはお互い様のようじゃのう。あの嬢ちゃんはワシらが侮っていた実力よりも遥か高みに居ったようじゃ。王の座するところ――聖少女の領域に」

「ベル様はバンジロウ師匠や他のイッシュに集まる対抗勢力を纏め上げ、黒の勢力への対立基盤としての白の勢力を立ち上げてくださった……稀代の女神だ。俺や他の連中では、ベル様の決定に異を唱える事なんてあり得ない。あの人がいなかったら白の勢力なんて脆いもんだ。六年も持つ事はなかっただろうさ」

 それでも、ベルが自ら志願したとは考えづらかった。何か他の要因が働いたのでは。そう考えた矢先、昨晩のヴイツーの姿が脳裏にちらつく。

 これはただの生存競争ではない。

 何かが裏で蠢いている。

 しかし、一体何が……? 明瞭化する言葉を持ち合わせていないノアはただ不安を募らせるばかりであった。

 アデクは全てを心得たように頷く。

「ノアタロー。お主の存在がどうやら、あの影を打倒する鍵のようじゃな」

「でも、ボクは……つい数時間前にあの影の事を知ったばかりです」

「ここの時間軸の者達は六年もの間、あれと戦っておる。イッシュは暗黒の時代を迎え、王がありながらこの世は混沌に塗れておる。老人の戯れ言に過ぎないと切り捨ててもらっても結構だが、ノアタロー。一つだけ、よいか?」

 震えているアデクの手をノアは覚えず取っていた。アデクは一言一言、絞り出すように声にする。

「――この時代を救えるのは、恐らくはお主のみ。それは六年前よりも色濃く感じておる。白が勝っても、黒が勝っても、ましてや王が全てを治めても、何もかもが終息せんところまで来ておるのだ。よいか? 影を恐れるな。己の中にある光を信じよ。それが、名前を背負った意味であろう。――N」

 アデクの呼吸が乱れ、その面持ちが焦燥に支配される。キョウヘイが酸素呼吸器を手に乱れた心拍を整えさせようと岩の寝床へと案内した。

「アデク様、今は静かに……おやすみになってください」

「ノアタロー。会えて、よかった」

 ここまで憔悴したアデクを見るのは素直に辛い。だがそれ以上に、ここまで事態を悪化させたのもまた、自分に他ならないのだ。

 ならば今度こそ、これは己のエゴだけではなく誓おう。

「……悪夢を、ナイトメアを終わらせる。それがこの時間軸に送られてきた、ボクの使命」

 キョウヘイは慣れているのか、アデクの呼吸と心拍が落ち着いたのを確認すると、すぐに寝かしつけた。皴の刻まれた手、王者の息吹を轟かせていた手は、枯れ葉のように儚い。

「……俺が最後の弟子だって、言ったな、ノア」

「ああ。アデクさんは?」

「眠ったよ。もう一日の半分でさえも起きていられない身体だ。バンジロウ師匠も分かっている。無論、ベル様も」

 その事実にノアは深く瞑目する。自分の足で立たざるを得なかったベル。それを支えるバンジロウ。どれもがあの日々より遠くなったような気がしたが、どれもあの日々よりの地続きなのだ。自分が知らなかっただけ、見なかっただけの話。

 急に人が変わってしまう事などあり得ない。アデクは己の正義に準じ、チェレンとベルも自身の信念に従って行動している。

 ――では自分は?

 ウツロイドを倒し、この時間軸に放り込まれた意義さえも分からないまま事態は転がりつつある。それでも抗わなければ何もかも不明のままだ。

 アデクはもう長くはない。それでも明日へと希望を繋ごうとしている。ならば、その背中を見ていたのならば、するべきことは一つのはず。

「キョウヘイ君。アデクさんの言葉、信じてみようと思う」

「やるって言うのか? 黒の勢力と?」

「黒でも白でもない。ボクが行く道はどちらでもない事が分かった」

「……言っておくが都合よくナイトメアが現れてくれるとは限らない。俺の知る限りじゃ、あれの出現頻度も、出現地域もまちまちだ。昨日襲われたのは完全な偶然かもしれない。ナイトメア打倒のため、ってお題目掲げるのは勝手だが、その場合、どちらかに属する事になる。白か、黒か」

 ここでも相克する矛盾に囚われなければならないのか。白に染まるか、黒に染まるのか。

 返答は早いほうがいい、とキョウヘイは促す。

「だって、いつまでも味方かどうか分からない奴の世話をするほど、お人好し集団ってわけでもないんだからな」

 従わなければ放逐する、あるいは口を封じるくらいはしなくてはならない。キョウヘイはその点、真摯であった。その部分は意図的にぼやかすのが組織のやり口だ。

「分かっている。でも、アデクさんがこんな風になっていて……。バンジロウは? 彼は何も?」

 キョウヘイは頭を振る。

「孫からだっていつまでも祖父におんぶにだっこってわけでもないんだろ。それに、あの人は白の勢力のトップだ。師匠の事を悪く言いたくはないが、どこかで割り切らないとやっていけないはずさ。世話は俺に任せきり。生きているか死んでいるかだけ教えろとの事だ。悲しい関係だな」

 しかし自分の知っているバンジロウはそこまで薄情なわけがないのだ。どこか、この時間軸の人々に違和感が生じる。

 何か、大きな目的のために眼前の事実がぼやかされているかのような、そのような感覚だ。

「バイタル、呼吸数、共に正常値になった。出ようぜ。いつまでもいると余計にストレスになる」

 踵を返したキョウヘイの背中にノアは呼びかけていた。

「でも、キミだって、アデクさんに光を見たはずだろう?」

 足を止めたキョウヘイは固く拳を握り締める。

「……そうさ。この人は生きていながらにして遥か彼方を見ている。そういう事が出来る人なんだって。でもよ、だからと言って俺達が弱くっていい逃げ口上にはならないんだよ。チャンピオンの威光をいつまでも振り翳せるわけじゃない。時代は、もう次の王に移っているんだからな」

 そうかもしれない。いや、だとしても。ノアは希望を繋ぎたかった。

「でも、求められている王の姿は、ここにあるじゃないか……!」

 キョウヘイが振り返る。その双眸に涙を溜めて彼は声を押し殺した。

「だからって……! じゃあ俺達が信じれば、無敵のヒーローになってくれるって言うのかよ、アデク様が。そんなもの、とっくの昔に失われているんだ。時代だから、この時に生まれ落ちたからって言い訳作らなくて、じゃあどうしろって言うんだよ! 全部、背負い込んで、自分の責任にしろって言うのか? そんな酷な事、全員が全員、出来るわけがない。ノア、お前は灰色の預言者かもしれない。でもよ、みんながみんな、特別なんて世界はないんだ」

 絶句するしかなかった。皆が皆、特別ではない。分かっていたはずなのに。時渡りでこの時間軸のイッシュに送り込まれた時点で、特別な能力を失い、凡俗に堕ちたはずなのに、いつの間にか描いていた。夢見ていた。

 特別な自分を。

 名前のない誰かではない、「ノア」としての生き方を。

 しかし、それは大きな驕りだ。

 特別な一になれる人間など数知れている。それは痛いほどに身に沁みていた。その痛みを忘れていられたのは、共に戦う仲間がいたからだ。

 アデクや、ヴイツー。バンジロウ、チェレンにベル。彼らの力添えがあったから、自分はここに立てている。ここまで絶望せずに済んだ。

 しかし、そのようなもの、儚く崩れ落ちる砂の城に過ぎない。

 経歴がどうだ、過去がどうだ、とのたまったところで、今を生きるキョウヘイ達にとっては「選べない未来」。

 先人が選ぶ事を放棄させざるを得ない失われた場所に立っているのだ。

 ナイトメアとの戦いなど存在せず、白と黒を決めなくとも生きていられたかもしれない未来を自分は知っている。

 だから平和ボケした自分は理想論を語れるのかもしれない。しかし、今を生きる彼らに選択権はない。

 白か、黒か。

 どちらかしかないのならば、戦うしかないのだろう。戦って勝ち取る事でしか、己を示せない。

 悲しいとも、虚しいとも思わない。思ってはいけない。

 それは彼らの生き方への侮辱に繋がるからだ。自分はなんと恵まれていたのだろうか。

 理解者など何もかもをなくしたと思い込んでいた。悲嘆に暮れていた。それでも、明日へと繋がる道標があった。どこかに選択肢があった。

 だが、今はない。

 何もかも、暗黒の只中だ。


オンドゥル大使 ( 2017/12/27(水) 21:33 )