第(−6)楽章「遊蝶花ワルツ」
夢は醒めるもの。現実は苦く滲むもの。
そのような事、再認識するまでもないのに。身を起こしたベルは枕元に置いていた薬を三錠飲み込み、朝が来た事を感じ取った。
この座敷牢のような地下シェルターは絶対の守りを約束する代わりに、閉塞感と苦しみが波のように押し寄せてくる。
お前の戦いになど意味はないのだと、どこかで伝えてくるかのように。
しかしベルは己を奮い立たせた。あの日の記憶の残滓を脳内に呼び起こす。
白と黒に分かれてしまったあの日――、イッシュの歴史が塗り替わり、王が立ったあの日より自分達は戦い続ける宿命にあった。
ホロキャスターを手にベルはまず朝の声をホワイトフォレスト全域に発布した。
「皆さん、おはようございます。ホワイトフォレスト、全領域においてナイトメアの侵攻は認められません。一日も早く、悪夢の早期駆逐を。そのために我々白の勢力は武力をもって戦う事を決意したのです。あたし達は元々、力を持たない側。搾取される側に過ぎなかったかもしれません。でも、今は違うとハッキリ言えます。戦い抗う事に、力の過多は関係がない。志一つで、世界は変えられるのだと。そして、一刻も速く、黒の勢力との決着を。彼らに分からせてあげなければなりません。本当の慈愛こそが、この世界を白く染め上げるのだと」
そこまで吹き込んでから、ベルはそっと膝頭を撫でた。ぎゅっと握り締めた拳に骨が浮かぶ。
「……これ以上の犠牲は出させません。ナイトメアに死を。黒の勢力に正義の鉄槌を」
ノックが聞こえてベルは広域通信を止めた。
「どうぞ」
「失礼。ベル、様子はどうだ?」
歩み出てきたバンジロウの声音にベルは唇を尖らせる。
「バンジロウ君。あたしのほうがお姉ちゃんだよ」
「そうかよ」
額に手を添えられる。いつの間にか自分の背丈を追い越してしまった王の孫はその黒曜石のような瞳に柔らかな光を湛えた。
「……無理すんな」
「無理してないよ。今日はとっても体調がいいの。ノアが現れてくれたお陰かな……。いつもよりもっと、うまくいくような気がするし」
「……熱はないみたいだな」
その態度にベルはむくれる。
「もうっ、バンジロウ君ったら」
「へいへい。ベルのほうがお姉ちゃん、だろ? ……でもよ、隠し通せるものじゃないだろ。兄ちゃんを呼んでくるか? ナイトメアを倒すのに、兄ちゃんの力は不可欠だ」
「でもバンジロウ君、あなただけが汚れ役を買って出る必要は」
「買って出ているわけじゃない。やるヤツがいないだけだ。それに、キョウヘイもうまく育っている。ナイトメア相手に劣勢だったとは言え、立ち向かったのは強さに変わっているって証だ」
「……すっかり、お兄ちゃんだね」
その広い背中にバンジロウはこの時、悲しみを湛えていた。
「兄ちゃん、か。……なるつもりはなかったんだがな。それに、オレの目指していた兄ちゃんってのは、こんなもんじゃないはずなんだ。こんなもんじゃ……」
拳を固めたバンジロウにベルは言いやった。
「充分に強くなったと思うよ。アデクさんも立派だって言うと思う」
「……その事も、なんだがじィちゃん、やっぱり長くはなさそうだ。今日は起きるのも辛いってよ」
「そっ、か……。でも仕方ないよ。人は、いずれ死んじゃうんだから」
このような言葉六年前には吐かなかっただろう。それほどまでに弱かった。誰かに嫌われる事も嫌う事も怖がっていた。しかし今は違う。望んで汚れ役くらいは買って出よう。自分が背負って解決する問題ならば自分が背負おう。
ただ現状のところ、バンジロウのほうが随分と無茶をしている。この六年、苛烈であったのは何も自分だけではない。
「いずれ死ぬ、か。……せめて、味わわせてやりたいよな。ナイトメアの消え去ったイッシュの、心地よい風ってヤツをよ」
振り向いたバンジロウに迷いはないようであった。ベルは一つ頷く。
「うん。きっと、アデクさんもこの戦い、望んでいるはずだから」
白の勢力に仕掛ける、という議案を通すのに難しさはなかった。むしろ、何故今までそれを実行しなかったのか、と責められたほどである。
「早期決着を望んでいるのはお互いのためだと思いますからねっ。おっと、メモメモ……」
「別に、潰えてしまうのならばいいわ。その程度、なの、でしょう、ね」
欠伸をかみ殺したカトレアと原稿から視線を外さないシキミに対して、もう二人の四天王は慎重な眼差しを向けていた。
「それは、やはり灰色の預言者を向こうに預けておくのが不安だからか?」
ギーマはいつでも自分の心などお見通しのようである。レンブも顎をしゃくった。
「争いになるのならば戦装束を固める。それだけの事だ。命令を。我らが主」
チェレンは決定に至ったまでの動機を語らなければならないかと思っていただけに四天王のドライな反応にはどこか肩透かしを食らっていた。
「僕は灰色の預言者……つまりノアの身柄が向こうに押さえられている事は思っているよりも深刻だと考えている。あれにはナイトメアを倒す鍵があると推測されるからだ」
「ナイトメアの早期駆逐、及び王との停戦条約の締結……こっちからしてみれば、目端を利かされる組織の一つを潰すわけだ。それなりに対応策が練られていなければおかしい」
ギーマの言葉にシキミがペンを掲げる。
「あのっ、出るのならあたしも出ます。四天王ですし」
「無論、出られるのならば全員出てもらってもいい。総力戦の構えだ。僕は今日だけで、六年も続いたこの諍いを終わらせる事も不可能ではないと思っている」
「だが、こうやって決着を望んだ時に限って影、って奴だ。ナイトメアが現れた場合は?」
言うまでもない、と思っていたが、改めて口にしようとすると覚悟が要った。チェレンは一拍置いて答える。
「ナイトメア共々、白の勢力は皆殺しだ。灰色の預言者が現れた今、この戦いをだらだらと続ける意義もない」
「あちら側に呼び水があった、と思うべきなのかな。それとも偶発的なものか?」
窺うギーマに対してチェレンは何一つ決定的な事が言えぬままであったが、四天王全員の了承は得られたようだ。
「いい、わ。私も出る」
カトレアが自分から本陣に参加すると表明するのはともすれば初めてかもしれない。だが白の勢力の守りを突き崩すのに、カトレアのサポートは必要不可欠。
「相手はエスパーの使い手もいる。カトレア。あなたが協力してくれるのならば僕からもお願いしたい。全面的なバックアップを約束しよう」
「そんな事、問い質すまでも、ない、わね。エスパータイプの真骨頂、は引き出す事。相手の本意を、こちらから探る事は、難しくとも、尻尾を出した相手に、追い討ちをかけるのは、容易い、のよ」
カトレアも馬鹿ではない。白の勢力が必死に隠し立てしている事くらいは見通せて当然。
問題なのは大勢力を率いて進軍する事への懸念を持ち出される建前だ。四天王相当を一気に駆り出せばそれだけ組織内での不審も買う事になる。
だが、チェレンはここで剣を呑む覚悟は必要だと判じていた。
長きに渡ったナイトメアとの掃討戦。ピリオドが打てるのならば、少しくらいの汚名は被っても構わない。むしろ本望だと。
「決着をつけようか。悪夢よ」
その時、部屋に割り込んで来たのはヴィオであった。制止する部下達を振り払い、ヴィオが声を荒らげる。
「これは如何なる事か!」
「ヴィオ候、何か問題でも?」
「大有りだ! 四天王を全て出すだと? 正気の沙汰か、貴様!」
唾を吐き散らして放たれた言葉にチェレンは冷淡な眼差しを向ける。
「別段、あなたに害はないはず。それとも、四天王が一人でもいなくなれば恐ろしいか?」
「……何の事を言っている」
しらばっくれたところで無駄だ。黒の勢力の一部に献金でゴマを擦っているのは耳に入っている。うまく取り入って組織の頭を己に、という考えであったのだろうが、四天王が常に目を光らせているのと、自分の支配によって諦めざるを得なかったのだ。ナイトメアとの戦いの長期化によって組織は疲弊しつつある。懐柔するのならば今だと考えていた矢先に決戦を早められたのでは計画が狂うのだろう。
しかし、そのような浅慮にいちいち口を挟むのも面倒であった。
「ヴィオ候、黒の勢力、欲しければ口にするといい。ハッキリしないのが一番に苛立つ」
チェレンの言葉が意想外であったのだろう。面食らった様子のヴィオであったが、最早事ここに至っては覆い隠すのも意味がないと判じたのか、口角を吊り上げた。
「……いいのか? 黒の勢力の頭目が英雄とは言え、疑問視する声もある。このホロキャスターに呼びかければ、何人、ここに集まるかな?」
試す声音にもチェレンは全く動じなかった。それどころか顎をしゃくってみせる。
「やるといい。立場が分かる」
唖然としていたヴィオだが、ホロキャスターの通信域を開き、彼は叫んでいた。
「我が同胞よ! 黒の勢力を使い潰すこの分からず屋を、叩き潰せぃっ!」
部下が雪崩れ込み、この一室を占拠する――そのような未来が彼の脳裏にはありありと浮かんでいたのだろう。だからだろうか。変わらぬ静寂にうろたえたのはヴィオのみであった。
周囲を見渡すヴィオにチェレンは言ってのける。
「……最後の最後まで、あなたは予測の範疇を超えない、愚かな人間の一人だった。まさか根回しがばれていないとでも? 違法献金を受け取った部下達は既に粛清した。愚かしいとすれば、あなたは四天王と、そしてその上に立つ英雄を相手に、騙し騙されが通用すると思い込んでいたところだ。まさかその小さな頭に収まる脳髄で我々と対等に渡り合えていたつもりか?」
嘆息を漏らすチェレンに、ギーマがぷっと吹き出す。羞恥の念に顔を真っ赤にしたヴィオはモンスターボールを手にしていた。
「不敬連中がぁっ!」
「――取れ。ヤミラミ」
不意に天井に張り付いていたポケモンがヴィオの背後に降り立つ。宝石のような瞳をぎらつかせ、ヤミラミは腕を払った。
鋭い爪がヴィオの背筋を掻っ切る。よろめいたヴィオへとゴーストタイプが次々と取り憑いていった。シキミが筆を走らせながら一顧だにせず告げる。
「あたしのゴースト。嘗めないでくださいねっ。これでも一応、四天王なんでっ!」
質量のあるゴーストタイプがヴィオから体温を直に奪い取っていく。最早身も世もなく彼は許しを乞うていた。
「た、助けてっ! お許しを!」
「誰を相手にしても、その器量なんだろう。ゲーチスであっても、王であっても。そんなだから、三流が似合う。――レシラム」
陽炎を纏いつかせながら英雄の白が空間に映え渡る。ヴィオが身をよじって叫んだ。
「い、嫌だ! やめてくれ! 焼かないで……」
「炎のフルコースだ。とくと味わえ。貴様が何度生まれ変わってもその粗末な身体では体感出来ない、極上の炎で焼き、魂ごと掻き消される事、光栄に思うがいい」
まずは通常の赤い炎がヴィオの脚を瞬時に炭化させる。その痛みが消える前に白い灼熱がヴィオの全身を火達磨にし、次いで咲いた最上級の蒼い焔がその存在を抹消した。
この世に残った証明などない。炭として居残る事さえも拒絶された穢れた魂は、英雄によって浄化された。
「ヴィオには、少しばかり勿体ないほどのコースだったな」
ギーマの皮肉を受け、チェレンは眼鏡のブリッジを上げる。
「行くぞ」
その一声で五人が立ち上がる。一人でも第一線級のトレーナーが一斉に放たれた瞬間であった。
その志は一つ。
――世界は黒く染まる。