FERMATA








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終幕 暗黒の未来
第(−5)楽章「雪華懺悔心中」

 まただ、と目をしばたたく。

 少しでも眠ろうとするとその存在が色濃く内側へと染み入ってくる。人を呑み込み、ポケモンを吸収する堕天の魔。このイッシュに降り立った災厄の姿。

 自分と同じでありながら、全く異なるベクトルにいる暗黒。

 それの有する記憶が流れ込んでくる。何度目かの覚醒とまどろみの後に、薄く瞼を上げた。

 東の空が赤く染まっている。どれほどまでにこの地が荒廃しようと朝は来る。夜明けは無情にも突きつけられる。

 あれからどれほどの年月が経ったのか。年月だけは残酷だ。

 人に対して、時間だけは平等に降りかかる。Nは杭を打ち込まれた片腕を持ち上げようとしてやはり力が入らない事に諦めた。

 あの日――英雄としての資格を奪われ、目の前でゲーチスが死んでからの月日。玉座に打ち込まれた己の姿はただの醜態だ。本物の王を前に、張りぼての王はただただ卑しいだけである。

 それでも死を許さないのが、イッシュを治める真の王であった。

 玉座へと登ってきた少女は、外套を風になびかせ、フッと微笑む。

「まだ生きていたのね」

 どこまでも皮肉めいた言い草だ。彼女の手には今日の朝食がある。自分を殺さず、生かすための食事。

 両腕、両脚に杭が打たれていても、まだ死ねない。凝固した血は影と同化し、「あちら側」へと繋がっている。

「キミは……一思いにボクを殺せば、全てが解決するのだと知っていて、やっているのか?」

 尋ねた声音に少女はポニーテールを揺らした。

「そんな容易い解決方法ならもう実行しているわ」

 はい、とスプーンにすくわれたスープが差し出される。Nは顔を背けた。

「どうしてそこまで……キミは非情になれる? ボクから切り離された半身を殺す方法なんて、もうとっくの昔に分かっているんじゃないか?」

 スープを拒否したNに彼女は匙を自分の唇で嚥下する。

「おいしいのに」

「分かっているのか。あれは、キミだけではどうにか出来る代物じゃない」

「さてね。そんな方法があるのならお伺いをしたいくらい。アタシは王になった。それが全てじゃないの?」

「……キミは聡いはずだ。あの時、父さんを……ゲーチスを殺した時、影を止める方法は分かっていた。いや、直感していたはず。だというのに、何年だ……何年も野放しにしている。その理由は……王になりたいだけの直上的なものだとは思えない」

「そうかしら? 案外、アタシはドライかもよ?」

 Nはフッと自嘲する。

「ドライな人間がヘレナとバーベナの身柄を今日まで引き取るわけがない」

 会わせてはもらえないがNには確信があった。あの時、ヘレナとバーベナは彼女と同行していた。今もまだ、二人は生きているはずだ。しかし王はおくびにも出さない。

「殺していてもおかしくはないのに?」

「殺す理由はないはず」

「さてね。アタシが悪逆大帝だって罵ってもいいのに」

「本当に悪辣な人間なら、ボクだって生かしはしないよ」

 これでは禅問答だ。Nは質問のベクトルを変える事にした。

「ボクの影は今、何をしている?」

「プラズマ団の報告通りなら、昨夜はソウリュウシティ跡地に現れたみたいね。……興味深い報告があるんだけれど聞きたい?」

 もったいぶる。Nは首肯していた。

「ああ。吉報でも凶報でも」

「灰色の髪をした、あなたに近い容姿の人間を見た、という報告が。白と黒の勢力が躍起になって追っている灰色の預言者、という奴に酷似しているそうよ」

 まさか、とNは絶句する。数年前、ライモンシティで出会った彼だというのか。彼がまだ生きていて、ナイトメアと接触しただと?

「それは……興味深いな」

「もう斥侯は送っておいたわ。白の勢力が保護しているみたいね」

 根回しが早い。という事は、王とて彼の存在を容認出来ないというわけか。

「焦りが見える。灰色の預言者というのはそんなに信憑性のある?」

「噂よ。でも、白と黒があれほど必死になっている。それを掻っ攫うのは、面白いじゃない」

 本当に、心底そうとしか考えていないような声音であった。いつまでも、どれほどの年月が流れても王は変わらないのだな、とNは実感する。

「ボクは、変わってしまった。キミとは違った、という事だ。英雄にもなれず、プラズマ団のおうさまである役目も果たせず、こうして玉座に縛られ、生きているだけ。……そう、生きているだけだ」

「生きているだけでも達者じゃない? 舌を噛んで死んでも自由なのに」

 そう言われてみればその通りだ。やはり自分も心の奥底では死にたくないのだろう。捨て去った命でも、どこかに価値を見出しているのだ。

「……王であるキミは何を望む? もう目的は果たしたも同義だろう?」

「そうね。目的を果たすのと、ではその目的に準じて生きるのはまた違う、とでも言っておこうかしら。アタシは、王になった。でも例えばたった数年間、王になったのでは意味はないのよ。アタシはまだ支配していないもの」

「プラズマ団を使っている」

「使ってあげているのよ。彼らなんて、あの時存在価値を見失ったようなものだもの」

 支配の象徴には至っていないという意味か。どこまでも強欲な王である。

 Nはその王の名前を紡いだ。

「――トウコ。キミは宣言通り、王になった。英雄にもなれるだろう。だがボクは……情けない事に、全てを投げ出した。生きている事も、ある種、逃げなのかもしれない」

 彼女のように苛烈に上を目指せない。もう野心の芽は消え失せた。トウコはふんと鼻を鳴らす。

「あんたって本当に、つまらない男ね。目先の事ですら、見えていない。そんなだから、女神も愛想を尽かすのよ」

「プラズマ団を背負って立つキミに言われたんじゃ立つ瀬もない。ボクの影を倒したら、その時に成り立つと思っているのか? その玉座が」

 誰一人として王を称える者がいなくなったとしても。そう考えて尋ねたのだが、トウコからしてみれば何でもない問いかけであったようだった。

「何を言っているの? 王は、民草の信奉なんていちいち気に留めるものじゃない。王は、そこにあるから王なのよ。神の存在を誰も信じなくなった未来であったとしても、神が、そこにいるのだと、信じている人間が一人でもいれば、それは信仰として成立する。信じる人間の過多ではない。集約されるのは、そこに意味を見出すか否か」

「意味、か」

 自嘲気味に口にした言葉には、かつて目指したものへの諦観がこもっていた。彼女は全てを持っている。諦めざるを得なかった未来、民草の希望。プラズマ団のあるべき姿。何もかも、自分一人が抱えて模索した挙句に失敗したものを、この眼前の王は一人で再構築したのだ。

 自分のようにはなれない、凡俗な少女だと思い込んでいたのに。

 それ自体が驕りだ。最早、事ここに至って、彼女のカリスマ性を疑う余地はなくなった。ポケモンバトルの手腕にしても、王としての責務にしても、トウコに自分は及ばない。ただの凡夫であったのは自分のほう。

 周囲におだてられ、王であったつもりの張りぼては既に崩れ去った。残ったのは虚飾の頂のみ。

 その頂でさえ、トウコにとっては眩しい玉座となる。その指が、その髪が、その爪が触れたものには祝福が宿り、尊ぶべき存在と化す。

 真の意味で、彼女は王だ。

 見紛う事なき、イッシュの頂点。だからこそ、解せない部分もある。

「だが、キミは何故、白と黒の勢力を潰さない? 彼らの行動が目に余るのならば、キミの実力をもって排除すればいい。プラズマ団ならそれくらいは出来る」

「元プラズマ団の王だった人間としての忠言? それは」

「……いや、ただの疑問さ」

 トウコは身を屈ませNに視線を合わせる。眩く煌く紫色の瞳にNは絶句していた。彼女はまだ遥か先を見据えている。

「白も黒も、まだ泳がせておく。そのほうが都合はいいもの」

「ナイトメアを倒すのに、かい? だが、あれの本当の恐ろしさを両勢力共に知っているはずだ。戦いは長引けば長引くほど、人類の不利に転がる。あれは災厄だ。人間という種、ポケモンという種に対しての、絶対悪と言ってもいい」

「放っておけば世界が滅ぶって?」

「……イッシュだけじゃないだろう。今は鎖国政策を取っているから他国は介入出来ないが、ナイトメアの存在を公にすればどこの国から兵器が飛んできてもおかしくはない。イッシュを焦土に変えたのはレシラムの炎だが、今度は人の叡智が、イッシュを滅ぼす。それこそ、草木の一本も生えないだろう」

「アタシの政策に否定的、ってわけ」

「否定じゃない。これは起こり得るべくして起こる事象だ。ナイトメアがどういうものなのか……ボクには判然とだが、察しがついている。だからこそ、分かる。早期決着をつけなければ、ヒトに未来は――」

 そこから先を遮ったのは唇であった。トウコの唇が自分の唇と触れ合う。あたたかい、と感じたのも束の間、彼女は唇を離した。

「アタシが、何の考えもなしにナイトメアを放置しているように聞こえる」

 Nは顔を背け、言葉を継いだ。

「……今のままではそうだろうさ」

「安心なさい。何のためにあんたをここに繋いでいるのか、そして何のためのプラズマ団か。アタシはきっちり考えている。それが実行される時に、あんたがそこにいるかどうかは分からないけれどね」

「……ボクの命も長くないと?」

「生かしてあげているのは有効利用のためだけじゃない。あんたもきっと知る事になるわ。このイッシュが辿ろうとしている未来の形を」

「未来……、答えてくれ、トウコ。夢はあるか?」

 唐突な問いかけに思えたのだろう。トウコはここに来て初めて余裕ある笑みを崩す。

「夢、ですって?」

「答えて欲しい。夢は、あるのか?」

 真っ直ぐに見据えた瞳に酔狂で尋ねているのではないと悟ったのだろう。彼女は顎に手を添えて呻った後、明朗に答える。

「あるわ。どこまでも、果てない夢が。だってこの世は夢に溢れているもの。夢がなければ、人は生きていけない。それがたとえ悪夢でも」

 自分も夢を描いていた。希望の名を持つパレットで塗りたくった夢、純白の世界を。だが、その夢はもう壊れていたのだ。

 ゲーチスの真意。父親の目的を知ってから、いや知る前からかもしれない。この世界を旅すればするほどに、夢を真正面に描く事は難しくなった。

 馬鹿正直に夢の形を口にするのは憚られた。王になってからはもっとだ。

 夢など、見るものではないと思い込んでしまった。そこまで自分を追い込んだのは畢竟、己自身だと言うのに。

「……ボクにもあった。でも穢れた夢だ」

「その夢が、悪夢を生んだって? 笑えない冗談ね」

「本当だね。冗談にもならない」

 誰かの手の中にある夢など。それは夢でも何でもない。大人が直面する現実そのものであった。この世界にあまねく存在する、悪意そのものであったのだ。

 トウコは身を翻し、玉座を下りていく。

「女神と朝食を取るわ。あんたはそれでも充分でしょう?」

 空腹は不思議と感じなかった。それどころか体重も、筋肉も恐らく弱っていないだろう。

 それが帰結する証明に、今は目を向けたくなかった。

「トウコ、教えてくれないか。ヘレナとバーベナは、息災か」

 どうしても彼女を呼び止めたかったのだろう。そんなみっともない話題でしか、王の足を止める事は出来ない。

 何故ならば自分は羽虫であるからだ。地を這う羽虫がどうやって王の歩みを止められよう。

「元気にしているわ。二人とも」

 振り返らずに応じてくれて助かった。頬を零れ落ちる涙を、見られずに済んだからだ。

 哀れで泣いているのではない。悲しくって泣いているのでもない。

 ただ、この胸を占めるのは無謬の価値観の上に成り立たせていた彼女らとの関係が、今この期に及んでようやく、間違いであった事に気づけた心だ。

 自分は人間でも、ましてやポケモンでもない。

 どちらでもない、ただの醜く卑しいばけもの。

 ばけものの涙はただ虚しく流れるのみ。

「トウコ。でもボクは安心しているんだ。何でかな。どうしてだか分からない。それはボクが化け物だからだろうか。どこかで……この世界とサヨナラせずに済んでいる現状がどうしようもなく、甘く、得がたい夢であるかのように思えるんだ」

 この虚無感だけは、どうしても名付けようもなかった。



オンドゥル大使 ( 2017/12/27(水) 21:32 )