第(−4)楽章「世紀末ゲネシス」
「あたし達は弱かった。トウコという王に追いつけないばかりか、新たなる脅威を生み出すをよしとしてしまった。プラズマ団は幹部連を含め、大多数が投降。頭を失ったプラズマ団はほとんど組織としての意味は成さない。彼らは散り散りになり、このイッシュで王に仕えるしかなくなった。選択肢もなしに」
プラズマ団に突きつけれた現実は自分が思っているよりもずっと非情なようであった。生きるための食い扶持に組織にいたのに、その組織が瓦解し、信じるものを失った者達が力のみを寄る辺にして生き永らえる。
そんな……非道な事があってなるものか。
「でも、じゃあこの時間軸のボクは……」
どうして、自分だけこの六年余りの隔絶があるのか。その言葉にベルは枕元の大判本を手にする。バンジロウが受け取り、ページを開いてみせた。
「トウコがチャンピオンになった事で、イッシュ建国神話をオレ達は徹底的に調べ直した。その結果、照合されたのが灰色の預言者という存在だ」
そのようなもの、自分の知っている建国神話には存在しないはず。記憶との齟齬に戸惑う前にバンジロウは該当の箇所を指差す。
「灰色の預言者、イッシュを覆う暗黒を払うために降り立つ。暗黒……つまりプラズマ団の頭目、Nより分岐した存在」
「それがナイトメアっていう……あの影の事だって言うのか」
「Nに関してはあたし達は知らない事のほうが多い。でも、バンジロウ君の話を鑑みるに、ノア。あなたはまったく知らないわけではなかった。むしろ、当事者であった」
それでも口を噤んでいた事を責められるのかと思った。身構えたノアに、ベルは頭を下げる。
困惑の一瞬、ベルは口にしていた。
「あなたが灰色の預言者であるのならば、ナイトメアを止められる。止めなきゃいけないんです」
果たして、ベルにここまでの決意があっただろうか。泣き虫で、状況に流されるばかりであった少女の面影はそこにはない。
今、この一瞬でもよくするために行動する人間の姿がそこにあった。
「でも、どうするって……。あんなの、人間業じゃない」
「そう、人間業じゃない。ナイトメアってのは、人間だとかトレーナーだとか思わないほうがいいかもしれない、っていうのが大筋の見立てだ」
バンジロウの声音にノアは疑問符を挟む。
「あれに関して、白の勢力でも分かっている事は少ないって言うのか」
「分かっている事と言えば、あれが夜にはほとんど無敵である事。それと、何らかのポケモンの能力を使用している事くらいか」
「ポケモン……あんな存在でも、ポケモン使いだって……」
「トレーナーとかを相手取る場合とは随分と違うと考えている。少なくとも白の勢力では」
黒の勢力――チェレンの側の考えまでは分からない、というわけか。息を詰めるノアに、ベルは言いやる。
「ノア。随分と疲れたでしょう? いきなり事を理解しろというのは無理な話です。キョウヘイ君」
呼ばれたキョウヘイがベルの前で傅いた。
「はい、ここに」
「ノアを空き部屋に案内してあげて。夜の間に出歩いて、よく生きて帰ってきたわね。本当に、よかった……」
感極まっているベルにキョウヘイは首を横に振る。
「いえ……言いつけを守れず、すいませんでした。さらに言えば、せっかくのナイトメアとの会敵に、敵に一打も与えられなかったのは不覚……」
「いいのよ。キョウヘイ君が生きているんだもの。それはとっても、素晴らしい事」
「……畏れ多いお言葉」
受け止めたキョウヘイが身を翻し、ノアへと視線を配る。
「……こっちへ」
ノアはこの場をただ退場するのは駄目だ、と一拍呼吸してベルへと言い放った。
「ベル。教えてくれ。何が正しいんだ? 王になったトウコなのか、それとも黒の勢力を……英雄のポケモンを操るチェレンなのか? ここに、今こうしているキミを、信じればいいのか?」
ずるい質問でもある。六年間もいなかったはずなのだ。だというのに急に現れて答えを急くなど。
ベルはしかし、うろたえる事もなく応じていた。
「何を信じろとは言いません。ただ、現実を受け入れてくれれば。あたしにはそれ以上、あなたに強制出来ませんから」
随分と落ち着き払っている。本当にベルなのか、と問いただしたくなるほどであった。
キョウヘイが眉根を寄せ、声を低くする。
「……ボスの御前だ。早く」
踵を返し、ノアは地下の洞から地上に出ていた。その段になってようやくキョウヘイが口を開く。
「分を弁えないと。黒の勢力ほど力による求心力はないとはいえ、ボスへの言葉くらい気を遣ってくれよ」
嘆息を漏らしたキョウヘイにノアは首を横に振っていた。
「でも……あれがベルだというのなら、ボクは……」
可憐な少女に現実を敷き、一勢力の纏め役にまで押し上げてしまった。その責任が全くないとは言えない。
「何で、あんたがこの世の地獄を見てきたみたいな顔をしてっかな……。俺達のほうが随分と……って比べたって仕方ないけれどよ。あんたが灰色の預言者だって言うのなら、その言葉でさえ分不相応だって分かるはずだぜ」
灰色の預言者。その経歴はこの時間軸に来て初めての代物だ。自分のいた未来にはなかったもの。過去が少しずつ歪んでいた自覚はあったもののまさか未来でさえも変動しているとは思いもしなかった。
その未来へと、一気に駒を進められた事も、だ。自分は過去のみを変えるつもりであった。
自分自身を止め、プラズマ団崩壊のシナリオに歯止めをかける。それこそが、自分の目的であったはず。
だが、肝心要の時間は既に届かない場所まで来てしまっている。
もう変える余地のない時代まで今の自分は導かれたのだ。
「でも、こんな未来……。まるで違う」
「それ、お前の知っているもう一つの未来、って奴か?」
聞き覚えのない言葉にノアは尋ね返す。
「もう一つの……?」
「あの大判本、あったろ? そこに記録されてるんだよ。灰色の預言者はここではない、もう一つの時間軸から来たって」
ノアが足を止める。まさか、そのような事、誰にも悟られていないはずだ。
自分がNであった事を知る人間は少ないはず。だというのに、記録に残されているだと?
そのような事はあり得ないはず。
「……過去だけじゃない。ボクを取り巻く色んな事が変動している……?」
「詳しい事は分からないけれどな。師匠だってそこまで言ってこなかったし。まぁ、俺からしてみれば、お前だってどこの馬の骨とも知れないわけだ。あの人達は灰色の預言者を信じ込んでいる様子だったが、俺はそうじゃない。それは覚えておくといい」
キョウヘイだけではなく、ここにいる誰もが、という意味か。ノアは先ほどから注がれている不審の眼差しの正体に勘付いた。
ホワイトフォレストに住む人々は誰もがノアに対し、どこか警戒を向けている。彼らのスタンスがベルに集約されているというのならば、いきなり頭目と会合した自分は敵同然であろう。
「……信じられない、か」
「これでも譲歩しているほうだ。分かってくれ、って事だよ。あんただって、いきなりワケ分からない奴が現れて、それでも自分より上の人間はそいつを知っているってのはいただけないだろ?」
彼らからしてみれば異端者は自分のほうだ。ノアは視線を避けつつ、居住区へと向かった。
ホワイトフォレストの来客専用スペースは樹の洞の中にあり、やはりというべきか、地下を迂回する。
「地下に重要拠点を作っているのは、やっぱり黒の勢力を危険視して?」
「それもある。でもそれ以上に、俺達にはナイトメアの能力が恐ろしい」
戦った自分ならば、とノアは思い返したが、あれは掴みどころのない存在であった。
正体不明の影の攻撃。一歩まかり間違えれば取られていただろう。
「ここだ」
キョウヘイが案内した客室は温暖な明かりに照らされた場所であった。少なくとも牢獄ではないらしい。
扉には内側に鍵がついている。幽閉というわけではなさそうだ。
「ボクみたいなのを要するのに、こんな待遇でいいのか」
「灰色の預言者だって分かっているからだよ。そうでなけりゃ、今頃独房だって。それくらいは」
「気の回せないわけじゃない。ボクだってそうするだろう。正体不明の奴に、ならなおさら」
ふんと鼻を鳴らしたキョウヘイは手を払って椅子に座り込んだ。
「……灰色の預言者だってのが本物って証拠、実は俺は知らないんだ」
思わぬ告白であった。ノアは固唾を呑んでその言葉の行く先を見守る。
「それは……どういう」
「あんたの特徴が合致していただけの話。もし黒の勢力がこっちを壊滅させるために意図的に造り上げた存在がいたとすれば、もう俺達は壊滅だな」
自分の正体が黒の勢力の人造戦力だという事も加味して、彼らは受け入れたのだろうか。ノアは抗弁を発しようとして、自分の言い草などここでは意味がない事を思い知る。
六年の月日を跨ぎ、紡いだのはベルの功績だ。ベルとバンジロウが作り上げた組織であり、彼らの精一杯の抵抗の証であろう。自分が軽々しく分かったような事を言うべきではない。
「でも、六年だなんて……。ボクは信じられない」
「信じようと信じまいと、俺からしてみればあんたも随分と馬鹿げている。六年前に死んだと思った奴が、イッシュを覆う闇を払えるような存在だなんて。御伽噺でももっとマシな口実があるもんだ」
キョウヘイは頬杖をついてノアを注視する。ノアはベッドに腰を下ろし、静かに語り始めた。
「ボクにだって分からない。目にしても、全く現実味がないんだ。この時間軸のNから、あんなものが出現するなんて」
「ナイトメアに勝った人間は今のところいない。退けるのもやっとだ。師匠クラスの実力じゃないと引き分けにも持ち込めない」
「ベルも……チェレンも、同じ目標なのか? ナイトメアを駆逐するって言う」
「さぁな。俺は向こうさんのボスの考えまでは知らない。ただ、レシラムだったか。英雄と名高いポケモンを使って、それでナイトメアを倒して終わりってわけじゃないだろ。俺ならそこで終わりなんて思わない」
チェレンの目的は依然、王になる事なのであろうか。だとすればイッシュで大きな災厄が起こりかねない。既に王であるトウコとの戦いこそ、彼の望んだ宿願だとでも言うのか。
ノアは拳をぎゅっと握り締める。
「……そんなのは悲しい」
「悲しかろうがどうだろうが、差し迫った現実に対しての行動は責められるもんじゃないだろ。……もう行くぜ。明朝になったらまた説明の続きと行ってやる。それまではここで大人しくしているといい」
立ち上がりかけたキョウヘイへとノアは呼び止める。
「もし……ボクがナイトメア打倒の切り札になるとすれば、キミ達はどうするんだ?」
僅かに硬直したキョウヘイであったが彼の答えはもう決まり切っているようであった。
「どうもしない。俺はボスを信じているし、師匠のやる事なら何でもする。それが、イッシュの明日を切り拓くのならば」
出て行ったキョウヘイの足音が遠ざかるまでノアは何一つ出来なかった。この時間軸に飛ばされた意義も、ましてや六年もの月日が経ってしまった事への悔恨も刻めやしない。
ただ、自分の不在がもたらしたのか、あるいはこの時間軸の不可抗力か、この未来が自分の目指した未来ではない事だけは確かだ。
プラズマ団は歪な形で存続し、チェレンとベルは志を違えた。
かつての仲間同士が争い合うなど一番に見たくはない。どうすれば、とノアは天井を仰ぐ。
その時、不意に風が入ってきた。
ここは地下空間のはず。風が入る、という事は換気施設か、と立ち上がって窺った瞬間、天井が引きずられた。
声を上げる前に天井裏から舞い降りた何者かがノアを後ろ手に拘束し、体重をかける。体力の限界に達している自分では対抗する事も出来ない。相手はホルスターの位置も把握しているのか、即座にケルディオのボールを奪った。
声を荒らげようとしてその耳元に囁かれる。
「あんま抵抗すんな。おれだって、荒事にはしたくねぇ」
――まさか、とノアは目を戦慄かせた。
この声の主を、自分は知っている。だが、どうして彼が? その疑問が氷解する前に、自分の背中に飛び乗った相手は息をついた。
「ここまで潜入するのだけでも事だ。嬢ちゃんはあんな大人しそうにしていて割とえげつないからな。ホワイトフォレストを見張っているのは遠隔操作のエスパータイプ数体。それもほとんどベルの嬢ちゃん一人で操っている。……まったくとてつもねぇ傑物だ、チクショウが。ホワイトフォレストに爆撃なんて事が出来ないのはそれもある」
胡乱に並んだ言葉にノアは問い質していた。
「キミは……チェレンの側なのか」
問いかけた言葉に相手は応じる。
「どっちでもねぇ、ってのが正しいか。おれは、どっちでもない。灰色の奴さ」
手錠がはめられ、相手はノアを突き飛ばす。その時になってようやく、ノアは相手を見据えていた。
顔の半分を覆う火傷の痕とその身のこなしは見間違えようもない。
「ヴイツー……生きていたのか」
「何だよ、勝手に殺すな」
「でもキミは……あの時、ニーアに」
「こっぴどくやられた、か? まぁな。否定はしねぇよ。ただ少しばかり状況が変わった。六年も経ったんだ。そりゃ変わるよな」
彼は自分が座っていたベッドに腰を下ろし、ケルディオのボールを手に周囲を見渡す。監視カメラの類を疑ったのだろうか。ノアにはそれらしいものは見つけられなかった。
「ヴイツー、ボクは……」
言葉を紡ぐ前にヴイツーは唇の前に指を持ってくる。警戒を注いだ彼は四つのモンスターボールを投擲した。射出されたズバットが部屋の四隅を羽根で覆う。カメラが彼には分かるのだろうか。
「監視カメラでも……」
「まぁ少しばかり勝手は違うが、似たようなもんだ。ポケモンの生態エネルギーを関知してスタートするタイプのカメラだな」
「じゃあ、ズバットは下策なんじゃ……」
「ズバットの特定周波数の超音波はその起動を無効化する。落ち着いて話をするにはまずカメラを殺す必要がある」
やはり、この時間軸でもヴイツーは冷静沈着だ。だからこそ、彼には尋ねたい事があった。
「……キミは今、どっちの味方でもないと言った。どういう意味だ?」
「灰色だって言ったのはその通りだ。黒の勢力にも白の勢力にも与しない、はぐれ者だよ」
「だったら、この世界の事を、教えてくれないか?」
ヴイツーは煙草に火を点け、長く息を吐き出した。たゆたう紫煙が換気設備に吸い込まれていく。
「……どこから話せばいい?」
「ウツロイドをボクは倒した。そのはずだ」
「そこからか。ああ、倒した。……というよりもおれらの認識は違った。てめぇはウツロイドと差し違えて死んだのだと、完全に思い込んでいた」
「じゃあ完全にあの後なのか? 完全に、ボクのいない、もう一つの可能性だって言うのか?」
自分一人の不在で、ここまで変わってしまうものなのだろうか。ノアの戸惑いを他所に、ヴイツーは冷淡に告げる。
「てめぇ一人で何もかも、ってのは傲慢に近いが、この世界がどこかおかしいのは同意だ。トウコってのが王になって、なおかつプラズマ団は壊滅していないんだからな。継続という形でプラズマ団は生き永らえ、標的は変位した。その名前は……」
「……ナイトメア」
ヴイツーは煙草の煙い息を吐きながら、どこか物憂げに応じる。
「あんな事になるって、てめぇは知っていて、N様を止めようとしていたのか?」
「途中までは、ボクの知っているプラズマ団の終焉だった。でも、まさか……ナイトメアなんていう存在が出て来るなんて……。あれは一体……」
「おれは白の勢力でも、ましてや黒の勢力でもねぇ」
それは説明する義務はない、という意味なのか。答えを保留しているノアにヴイツーは静かに言葉を放る。
「……だが真実を知る権利は持っていると思っている。ナイトメア、おれなりに調べは尽くした。このイッシュが焦土に変わり、民草は消え、人間は白と黒にしか結論を結べなくなった時代、それでもおれは抗った。抗いを続けた結果、分かった事は大きく二つ」
「ナイトメア討伐を、白も黒も標榜している。……でもあんなもの」
思い返しただけで怖気が立つ。ヒトでもましてやポケモンでもない。ウツロイドを目にしていても違うと断じられる。あれは生物という楔を超えた何かだ。
「受け入れられねぇ、信じ難いって話だ。だが……これはてめぇに全く関係のない話ってわけでもないんだぜ?」
「……ボクに?」
ナイトメアの存在が自分に関係のないわけではない、というのは、それはNから分離した存在だから、という意味か。
言葉を継ごうとしたヴイツーは不意に扉のほうに注意を払った。
「……早いな。もう勘付かれた。一旦おれはここを出る。ノア。話の続きはまたと行こうや」
ヴイツーが煙草を地面で揉み消し、ズバットを回収して立ち去ろうとする。その姿にノアは慌てて問い質す。
「待ってくれ! こんな状態……」
「ああ、手錠か。ほらよ」
操っていたズバットの一体が空気の刃を飛ばし、手錠を掻っ切る。やはりその手腕も含め、ヴイツーそのものだ。彼が何を知っているのか、ノアは追及していた。
「ここで分かれても、ボクに真実を知る方法は……」
「安心しろって。幸いにしてホワイトフォレストに抜け道はいくつかある。接触の方法は、何もこんな荒っぽいやり方じゃなくってもいい。じゃあな。死ぬなよ」
天井裏を駆け抜けていくヴイツーを見送ったノアは扉の向こうでノックする音を聞いていた。
「……失礼。そこに誰かいるので?」
「……いや、ボク一人だ」
暫しの沈黙の後、相手は了承したようであった。
「侵入者を察知したもので。灰色の預言者を相手も狙っているとの情報を得ています。ご用心を」
離れていく白の勢力の構成員の声を聞きながら、ノアは混乱したまま頭を振っていた。
「……何を、何を信じればいいって言うんだ」
その呻きは誰にも聞きとめられなかった。