FERMATA








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七章 影の黙示録
第98楽章「Je te veux」

 囁く声が聞こえた。

 称える声が聞こえた。

 嘆く声が聞こえた。

 ――未来を憂う声が聞こえた。

 数多の声は無意識の世界を駆け巡る。どれも過去と未来、全てを繋ぐものだ。どれか一つでも欠けてしまえば、それはこの世界の終焉となる。

 触れればその色彩は虹色。蹴れば、その色彩は灰色。撫でれば、その色彩は血の赤。

 あらゆる未来と過去に転化し得るそれらは末端であっても可能性の欠片。自分が佇んでいる場所は未来と過去を繋ぐ一本道だ。

 洞穴に似た場所を幾つもの色彩が貫いていく。自分はただただ立ち竦み、その可能性の嵐に毎度の事ながら息を呑む。

 世界は色彩に溢れ、未来と過去はあらゆる声で満たされている。

 その中にはトモダチの声も。中にはまだ見ぬ強敵の声も。

 どれかを繋ぎ、どれかの枝葉を紡げば、それは未来と過去を描く無限の可能性世界に投げ込まれる。

 見える、聞こえる、触れられると言っても、ここは無意識の世界。

 故に、自発的にどの事象かを接続する事は出来ない。どれがどう繋がっても不思議ではない代わりに、どの不幸がどのように重なっても不思議ではない。

 この場所では幸福と絶望が等価だ。

 どこにでも起こり得る災厄。どこにでも起こり得る奇跡。

 それらがこの一本道をあらゆる速度で行き来する。

 どれかに触れれば、重ねられれば、それは可能性世界の発達。全ての可能性は知る事より始まる。

 自分はここで全てを知る事が出来た。何もかもを知り、何もかもを得る事で、無限の選択肢から有益なものを選定してきたのだ。

 しかし、常にそれらが自分にとって幸福と希望をもたらすとは限らない。

 絶望と陰を落とす事も大いにあり得るのだ。

 例えばそれは、目に見える形の災禍である事もあるが、奇跡の形をした穢れた闇である可能性もある。

 どれを取るかは選べない。

 自分は全体としてフラットに、全ての事象を把握する事は出来ないが、どれかの事象を仔細に知る事は許されている。

 今も、ピンと剪定事象が指先に触れた。

 途端、溢れ出すイメージの奔流に自分は呑み込まれる。

 幾つかの映像、音声、あるいは臭気。客観なのか主観なのかも分からないビジョンが脳髄を痺れさせ、その果てに待つ結末を教えようとする。

 全てが帰結する先に手を伸ばしかけて、不意に世界が反転した。

 躓いたのか、それとも最初から穴があったのか、それは判然としない。

 だが、滑り落ちた先にあったのは慟哭と闇に包まれた世界であった。

 誰かの泣き声、誰かの嗚咽。誰かの焼けるにおい。誰かの死臭。誰かの眼がこちらを睨み、誰かの唇から怨嗟の声が漏れる。

 ここは、と自分は無意識の世界に自意識を持ってこようとして、何かが己から剥がれ落ちたのを目にした。

 それは縫い止められた影だ。

 地面に落ちた暗い影が引き剥がされ、己と同じ立ち姿になる。

 名を問おうとして、相手の相貌に亀裂が走った。

 亀裂の中から覗くのはおびただしいまでの赤い眼球。

 その瞬間、無意識でありながら自分は拒絶していた。

 この何かだけは認めてはならないのだと。

 しかし、影は自分の肩を引っ掴み、息の届く範囲で声にする。

 ――その声音が、可能性世界を閉ざした。













 ハッと、Nは伸ばした手の先が空を切った事に気づく。

 夢と現実の境目を忘れた脳裏に、先ほどのイメージをちらつかせた。

「今のは……」

 よく、夢でこれから先、起こるであろう事を予見するのは儘ある。

 プラズマ団発足、ゲーチスの出現、二人の女神の来訪――これらは全て、幼少期に既に目にした事象達だ。

 だからこそ、Nは驚きもしなかったし、悲観もしなかった。

 知っている事に対して、大仰に何か事を荒立てる必要があるだろうか。知っている流れならば、その流れに沿えばいいだけの話。

 未来も過去も、そうやって生きてきた。これからもそうであろう。

 Nはしかしここ数日、夢の中の未来視が不均衡である事に額へと手をやっていた。

 未来視は常に完全なものとして実現するとは限らない。だがそれにしたところで、ここ数日だけはどうしても視えないのだ。まるで意図的に隠されているかのように。

「……彼と会った日と重なる」

 未来視に不安要素が混じり始めたのはライモンシティで自分の似姿と邂逅してから。

 加えて、あらゆる事象が自分へと不利に転がり始めた。おかしい、とNは自覚する。

 アデクに勝利し、玉座を飾るまでのイメージは幾度となく視てきた。英雄のポケモンを所有する事も既に見た未来のうちだ。

 だから、それらが揺さぶられるはずはないのに――。

 未来視に陰が差し始めている、とNは枕元の時計を手に取る。

 まだ夜半には遠い時間帯。しかし、Nにとって奇襲は最も恐れるべきもの。ゆえに、早くに宿を取り、すぐに眠る習慣がついてしまった。

「これが、何を示すのだろう……」

 Nは手の届く範囲にあるメモ帳とペンを取り、先ほどの鮮烈なイメージを絵に落とし込む。

 自分と同じ姿をした、真っ黒な影。

 相貌が割れ、乱杭歯のような亀裂から覗いた無数の眼球。

 それらを形容する術を、Nは多くは知らない。しかし、言えるとすれば、あれはそう――。

「悪夢、か」

 今まで恐怖など、覚えた事はなかった。恐怖する前に全ての事象を知る事が出来たNには、感情の起伏も、ましてや人並みの恐れもない。

 相手がどのように立ち回り、どのように阻もうとも、それを突破出来るという確固たる自信。

 Nの今までを構築して来たのはその自信そのものだ。自分に出来ない事はない。この世は全て美しき数式で溢れている。

 数式通りに解答すればいいだけだ。何も難しくはない。

 だが、悪夢の正体を解答する術をNは知らない。そもそも、悪夢など見た事もないのだ。

 だが、先ほどの夢は未来視とは違う、自分の無意識に触れようとしたあの存在を形容するとすれば「悪夢」と呼ぶほかない。

 この旅をやめるべきだろうか、とNは思案に浮かべた。慣れない境遇が神経に負荷を強いているのは自分でも分かっている。

 それでも、ヘレナとバーベナが旅立ったのだ。自分もまた世界を知らなければならないだろう。その結果がどれほど残酷でも、自分の決断ならば迷いはない。

 しかし、悪夢を見た、という事実そのものがこのまま進んでいいのかを悩ませる。自分の予知夢に「無意味」の文字はない。

 何か意味があるからこそ、無意識の世界はそれを関知したのだ。

 Nの逡巡を感じ取ったのか、影に隠れていたゾロアークが出現する。彼は立派な騎士だ。親友の考えを簡単に読み取ってしまう。

「ありがとう、ゾロアーク。でも、ボクはまだ、弱音は吐けないんだ。それに、そろそろでもある」

 窓辺に歩み寄り、Nは聳え立つ白銀の塔を目にしていた。

 伝説の息吹が感じられる場所。リュウラセンの塔。このイッシュ英雄伝説を紐解く上で、最も重要な拠点と言われている。

 プラズマ団が既に制圧しているはずであったが、自分はその包囲から抜けて行動するつもりであった。

 全てはこの世界の運命という名の数式を明らかにするため。そして――分からぬ事を明確にするための手段。

「ボクにはまだ分からない。分からないまま王になっていいはずがないんだ。この世界に歯止めがかけられるのならば、ボクが責を負う。それこそが、プラズマ団のおうさまとしての役割だ」

 たとえ張りぼてに等しい王であっても、ここには決意した己がいる。相棒であるゾロアークもそうだ。

 未来は変えようのないものなのかもしれない。だが、干渉し、少しでもいい方向に持っていく事は出来るだろう。それが人の業であったとしても、正しくあらんとする心に間違いはないはずなのだから。

「何故だろう……心がざわめく。何かが起ころうとしているのに、何も出来ないような……。ボクはこの世界の王様、トモダチを解放するために遣わされた最後の良心。そのはずなのに……」

 どうしてなのだろう。手が震える。

 悪夢の残滓であろうか。Nはここに来て初めて「分からない」という事象に困惑していた。



オンドゥル大使 ( 2017/12/12(火) 15:45 )