第94楽章「リュウコウセカイ」
その名前に群集がざわめく。当然だ。ヘレナもその知識はあった。この星で知らぬものはいないであろう。ポケモンの定義を決定付けた最初の偉人。
「オーキド、博士……」
「そのオーキド・ユキナリ博士が第一回ポケモンリーグにて使用したポケモンこそ、僅かに差異はあるもののそれは確かにオノノクスであった。だが、そのオノノクスには過去のどの文献資料とも異なる記述があった。黒く、そして異様なほど強力であった、と」
まさにその言葉通り、眼前のオノノクスの体表は黒く染まり、斧に宿る血潮と赤熱化した粒子が戦場を煮え滾らせている。
面を上げたシャガは言い放った。
「このオノノクスはその時のオノノクス……いや、キバゴの遺伝個体だ。そのキバゴは片方しか牙がないにも関わらず、通常個体よりも強かったと記されている。だが、平常時に、そのようなイレギュラーを使用するわけにはいかない。ゆえに戒めを心臓に埋めておいたのだ。赤い鎖の一部を杭と化したものを幼少時に打ち込んで、な。そうする事で、オノノクスは通常個体と同様の進化と能力値に収まった。だが、この形態に至っては侮るなよ。わたしも制御するのは初めてだ。オーキド博士はこの個体を示してこう呼んだ。――黒化完全同調個体、と」
指揮棒を振るうようにシャガが両腕を掲げる。刹那、オノノクスの姿が掻き消えた。
エネルギーを充填させていたチラーミィが「はかいこうせん」を拡散放出する。
それらを全て回避し、オノノクスはチラーミィの背後へと回っていた。振り返り様のチラーミィの一閃をオノノクスは片腕で制する。
まさか、と戦慄した途端、オノノクスがチラーミィを地面へと叩きつけた。
今度は間違いない。チラーミィが背中から無様に転がる中、オノノクスの発達した片牙へと黒い電磁が充電されていく。
それが何なのか知る前にトウコが叫んでいた。
「チラーミィ! あの牙を落としなさい! あれさえ封じれば!」
「そこに着眼した時点で、見事、と評しよう。だが、勝利するのはわたしだ。これを解き放った時点で、勝利しか約束されていないのだ」
チラーミィの片腕をオノノクスが踏みしだき、次の瞬間、漆黒の光条が放たれていた。
「――ドラゴンクロー」
アイリスの紡いだ技の名前にヘレナは問い返す。
「ドラゴンクロー? あれが? さっきまでとまるで違う……」
それこそ「はかいこうせん」かそれに近い技の名前を分類すべきだろう。片牙を突き上げ、オノノクスが吼える。
チラーミィは直前、地面に攻撃を突き立てて身体を浮かせ、回避に転じていたのだろう。
最低限のダメージしか負っていないようであったが、その灰色の毛並みは赤黒く汚れている。
当然だ。今の攻撃を受けて、そもそも生きている事さえおかしいほどの。
「完全同調の個体の攻撃を受けて、それでも無事か。凄まじいな」
シャガは顔を伏せたまま、手だけを高く掲げ、そのまま打ち下ろす。
オノノクスが呼応して跳ね上がった。脚力でバトルフィールドがたわむ。鳴動する地面を蹴りつけ、チラーミィが片腕から電流を放った。
しかし、その攻撃は命中する前に霧散する。
「……無茶苦茶な奴とは何度もやり合ってきたクチだけれど、こうまでとはね。でも、全く通用しないわけではない様子」
「……そうかな」
オノノクスへと電撃の束が撃ち込まれる。射抜く一撃にオノノクスの躯体が震え、腹部から貫かれた。
――否、貫かれたように映った。
そのオノノクスの像が塵となって消え失せるまでは。
「波導によって己の身代わりを形成。本物のオノノクスは跳んですらいない」
青い波導で構築されたオノノクスの偽物をチラーミィは愚かにも射抜いただけだ。本物のオノノクスは地面に足をつけたまま、中空のチラーミィを睥睨する。
その牙が必殺の勢いを灯らせた。
赤く滾った斧牙が瘴気を纏って拡張し、ジム全域を激震させる。微粒子すら振動させて、オノノクスが牙を振るった。
直後、ジムの天井が割れた。
黒い断頭台が出現し、ジムの天蓋を引き裂いたのだ。その出現を関知出来ないわけではなかったのだろう。ただ、関知し回避するのにはチラーミィでは能力が足りないという歴然とした事実。
チラーミィは水の推進剤を焚いて後退していたが、その足首に黒の瘴気が纏いついていた。
それを振り解く前にオノノクスが大きく頭部を仰け反らせる。すると、黒色の鎖が形成され、チラーミィの矮躯を軽々と持ち上げた。翻弄されるチラーミィへとトウコは指示を飛ばす。しかしながら、眼前の敵に対して完璧な対処法が存在しない事を彼女は理解しているようであった。
「チラーミィ! アクアテールで離脱後、周辺に電撃を放出して距離を取る。今は一撃でももらえば……」
「もらえば、だと。既に、その布石は」
黒い鎖に振り回され、チラーミィの正確無比な動きが阻害される。このままでは、と感じたトウコはすぐさま命令を変更した。
「こんなところで、やられるわけにはいかないのよ! その頭に、破壊光線!」
チラーミィが揺さぶられながらも紫色の光を片腕に充填していく。だが膂力ならば確実にオノノクスのほうが上であった。
宙へと放り投げられた形のチラーミィの放った「はかいこうせん」はオノノクスの後方を穿ったのみ。
「現状のオノノクスに勝利する術はない。ここで全てを投げ打ち、ジム戦という楔すらも消し去ったわたしの力、とくと見るがいい。そして知るだろう。本物の強者と戦うとはどういう事なのかと」
シャガが面を上げる。ヘレナは絶句していた。シャガの白髭が黒く染まり、その白髪でさえも黒に成り代わっている。双眸には赤い刺青が施され、彼の凄味を引き立たせていた。
――鬼だ。
ヘレナは確信する。あの姿のシャガは、最早敵も味方もない。全てを破壊する羅刹なのだと。
完全同調のオノノクスに魂が引き寄せられているのが分かった。黒いオノノクスが地面を鳴動させ、牙を大きく掲げる。
チラーミィは黒い鎖で動きを阻害されたままだ。次の一撃で必ず葬ると約束された一撃が片牙に充填される。
「終わりにしよう、挑戦者よ。お互いにそう何度も戦える相手ではない事はよく分かった。なればこそ、わたしはここで決着をつけるべきだと判じる。わたしがこのソウリュウシティジムのジムリーダーに相応しくないと断じられても、この戦いは勝たねばならなかった。そのような運命なのだ」
「運命?」
ぴくり、とトウコが眉を跳ねさせる。まるでその言葉が自身の怨敵のように。
「そう、運命だとも。ここで終わるのも運命ならば、全てが潰え、わたしという存在がオノノクスに呑み込まれてしまう事さえも、運命――」
「容易く言わないで。運命なんて、人が抗うためだけにある」
遮った声音には何のてらいもない。心の奥底から、その言葉を嫌悪し憎悪しているのが見て取れた。
しかしどうするというのだ。完全同調の個体になど勝てるはずがない。
これまでどれほどの無茶無謀を強いてきたチラーミィとトウコでも、これだけは勝てないはずだ。
これに勝てるとすれば、それこそ――。
ヘレナは拳をぎゅっと握り締める。
「それこそ、私達の運命でさえも変えてしまう……英雄の因子」
アイリスが大きく目を見開き、トウコを指差した。
「あたし、見える。白と黒の龍。それがあのひとにやどっている。よくわかんないけれど、トウコ、っていうひととチラーミィはここで終わらない。終わるのなら、もうとっくに」
終わっているとでも言うのか。相克する龍を身に宿したと言われるトウコはこの時、手首にはめていたブレスレットを突き出していた。
見た事もない形状だ。菱型の宝玉が埋め込まれており、あまりに遠いためそこに刻まれている文字までは判読出来ない。
しかし、この時、バーベナは確かに口にしていた。
「Z……」
その意味を問い質す前にトウコがブレスレットに指を添える。宝玉が黒く輝き、周囲の景色を取り込み始めた。
シャガが目を瞠る。
「……何だ、それは」
「……ここより遥か遠く離れた土地、その場所にて、ポケモンの潜在能力を引き出す一派が古くより棲んでいる。彼らはポケモンの持っている基本骨子の粒子を形式化し、法則化し、そして放つ術を持ち合わせていた。……アタシも、こいつを本当の意味で使うのは初めて。だから、敬意を払いましょう。ここまでさせたそのオノノクスに。そして、シャガ、というジムリーダーに。見せてあげなさい。チラーミィ、あなたのゼンリョク攻撃を!」
刹那、チラーミィの身体に宿ったのは黒い刻印であった。
その刻印と、同じものをヘレナは目にした事がある。
「N様の、ゾロアークと同じ……」
色は黒でありながら、全身を伝うように発生した刻印は紛れもない。Nが発現させたゾロアークの「かえんほうしゃ」と同一だ。
違うのはその刻印の位相と、チラーミィというポケモンに適応された技であろう。
「チラーミィ! ノーマルZの石をここに! その名を紡ごう! 本気を出す!」
技の名前らしきものが紡がれた直後、チラーミィは己の足枷となっている鎖をゆらりと持ち上げた。
その一動作のみでオノノクスの体躯が震える。
何が起こったのか、すぐに理解した観衆はいないだろう。ヘレナとバーベナ、それにアイリスには、意味するところが分かった。
「オノノクスを、持ち上げようって言うの……」
鎖がしなり、重く圧し掛かる一撃がオノノクスに与えられる。まるで己までその攻撃の虜になったかのようにシャガが片膝をついた。
「この、力は……」
「破壊光線の技をZの極みに達しさせた。本気を出す。それはポケモンの潜在能力を何倍にも引き上げる。古くは悪足掻きに近い技として記録されているわ。ただ、違うのは悪足掻きのような並大抵のポケモンが覚える最後の技ではなく、本当の極みだという事」
鎖がチラーミィの側へと引き込まれる。オノノクスが必死に爪を立てて制動をかけようとするが、それよりもチラーミィの引き込む力が並大抵ではない。
軋むその躯体にシャガが声を張り上げた。
「オノノクス! 相手がその気ならばこちらもケリをつける! 形成、ハサミギロチン! 黒化断頭台!」
先ほどジムの天蓋を破った技と同じものが構築され、チラーミィをその刃にかけようとする。
チラーミィはしかし臆する様子もなかった。その手をすっと突き上げ、掌底の形にする。
「ここにいれば、確かに食らうかもね。でも、シャガ。あんた少しばかり粗雑じゃない? 鎖を付けたままでハサミギロチンに持ち込もうなんて」
まさか、と目を戦慄かせたシャガは次の指示を与える前にチラーミィの発した膂力にオノノクスを浮き上がらせられていた。
オノノクスほどの図体でまさかチラーミィに引き上げられるとは誰も思っていなかったのだろう。
完全に宙に浮いた形のオノノクスへと照準されたのはハサミギロチンの刃先である。
自らが放った技の中に己を落とし込まれた。この場合、取るべき措置は大きく二つ。
一つはハサミギロチンを実行し、己諸共、チラーミィを倒す。
もう一つは、自らの意思で放った技の封殺。
この時、シャガは冷静であったのだろう。後者をすかさず選択した。
「オノノクス! ハサミギロチンの停止、及び位相の変更! 敵へと打ち込む技は――」
「遅い!」
鎖を引き込ませ、チラーミィがオノノクスの胸元へと掌底を浴びせる。攻撃の衝撃波でジムの床が捲れ上がり、空気圧が激しくその背筋を割った。
呼吸困難に陥ったオノノクスは動作を鈍らせる。その隙を逃すトウコではない。
跳躍したチラーミィが水の推進剤を得て、オノノクスの頭部を狙い澄ました。
「アクアテールから繋ぐ! 攻撃!」
突き刺さった「アクアテール」による一撃から片牙を蹴りつけて破砕、さらに着地時のロスを限りなくゼロにする俊足でオノノクスの懐へと飛び込む。
オノノクスが牙に黒い電磁を充填させた。放出される「ドラゴンクロー」の瀑布を前にして、トウコとチラーミィの連携は全くぶれない。
「その頭蓋を揺さぶれ! 顎へと食い込ませる一撃!」
拳と龍の黒炎が放たれたのは同時。チラーミィの矮躯が呑み込まれそうになるが、磨き上げられたように輝く拳は濁った龍の牙を蹴散らした。
一撃が入った事を嚆矢としてさらに追い討ちがかけられる。
尻尾による打ち下ろし攻撃、さらに、さらに――。
肉薄した戦闘にもつれ込んだチラーミィに隙はない。それどころか、次々とオノノクスの動きにほつれが生まれ始めていた。
同調の弊害か、シャガの集中が持たないのである。
黒く染まっていた髭から色が失せ、煌々としていた目つきから力が萎えていく。
横殴りの一撃が入り、オノノクスが吹き飛ばされた。
これで終わった、と力を抜きかけたヘレナはアイリスの声に戦闘へと視線を振り向けた。
「まだだよ!」
その通り。まだ勝負はついていない。オノノクスが黒い電磁を纏いつかせ、その両腕を膨れ上がらせる。
筋肉に電流を通し、相手へと叩き込む手刀。
その一閃にかけるつもりだ。固唾を呑んだ観衆にシャガは吼え立てた。
「わたしは! ソウリュウシティジムの、ジムリーダー! シャガだ!」
戦闘本能の消えていない横顔がトウコへと向けられる。トウコはそれに応じるように手を突き出した。
「アタシは! 王になるために戦っている! ここに来たのもそのジムバッジ、貰い受けるため! それ以外にない!」
その言葉に通常ならば怒りを張り上げるところなのだろう。しかし、シャガの面持ちに浮かんでいたのは別の感情であった。
これほどの猛者と渡り合えるという好機。この瞬間に生きる死狂い。
ポケモントレーナーとして、もっと言えば戦士として、ここで背を向けるわけにはいかない。
シャガがオノノクスへと命じる。
「オノノクス! ドラゴンクローの攻撃力を全て! 両腕に通す。この一撃で!」
「勝負!」
掌底を携えたチラーミィが地を蹴りつける。オノノクスが最後の脚力を発揮し、チラーミィへと飛びかかった。
その速度、全てにおいて群を抜いている。
一太刀がチラーミィを切り裂かんと迫った。正眼の構えからの断絶一閃。
しかしながら、その一撃はチラーミィの小さな腕に受け止められてしまう。だが、その先こそが本懐。
横薙ぎに放たれるもう一撃から、誰も逃れる事、叶わないだろう。
チラーミィを確実に照準した一撃に黒い電磁が宿り、最後の「ドラゴンクロー」の足掻きが見て取れた。
瞬間、トウコが吼える。
「チラーミィ! そんなの足で蹴散らしなさい!」
チラーミィがくるりと反転し、受け止めていた攻撃を足で蹴飛ばす。
浮かび上がったオノノクスの片腕に、宙吊り状態のチラーミィは空いた両腕を交差させた。
龍の爪の一撃が食い込み、チラーミィの躯体を震えさせる。
さすがに反動を無視は出来なかったのか、チラーミィの灰色の身体がバトルフィールドを転がった。
オノノクスは今の一撃に賭けていたのだろう。
黒化が見る見るうちに解けていき、全身に行き渡っていた赤い血潮が消え失せた。両腕をだらんと下げたオノノクスはこの勝負の行方を見守る事しか出来ないようであった。
チラーミィが立つか、立たないか。
その一事である。それを確認するまでこの戦い、終わってはいない。
トウコは無闇に声を投げる事はない。全てを信じ切っている瞳が戦場を俯瞰していた。
シャガも同様だ。オノノクスは全力を出し切った。ならばここから先、トレーナーに任せられるのは、ただ待つ事のみ。
ヘレナは今の交錯に全てが凝縮されている事に固唾を呑んでいた。
シャガのジムリーダーとしての矜持。ここまで来たトウコの意地。全てが今の一撃のぶつかり合いに込められていたのだ。
その時、チラーミィの耳がぴくりと動く。肩で息をしながら、チラーミィの矮躯が立ち上がっていた。
灰色の毛並みはほとんど汚れ切り、その愛玩ポケモンの見る影もないが、宿っているのは愛玩のそれではない。
闘志を燃やし尽くした戦士の佇まいだ。
シャガはフッと笑みを浮かべてモンスターボールを掲げた。
「戻れ、オノノクス」
先に戻した、という事実に観衆が絶句する。まさか、と色めき立った人々へとシャガは言いやった。
「この場において、ジム勝利者のみが口を開けるであろう。トウコ、であったな。このシャガ、全力のその先を出し切ってなお、敗北した。最早、ここにあるのは完全なる戦士としての敗退だ。わたしが言えるのは、ジムを制した、という事のみ」
「トウコ・キリシマが……勝った……」
呟いたヘレナにトウコはふんと鼻を鳴らす。
「当たり前でしょう。王になるのだから。こんなところで足踏みしていられないのよ」
トウコもチラーミィを戻し、そこに至って初めて観客が理解した。
ジムが破られたのだと。無敗を誇り、なおかつ市民からの人望も厚いシャガ市長の敗北。それが意味するところに、彼らはあまりにも言葉を持たなかった。
拍手喝采も起こらなければ、ブーイングもない。
そこにあったのはただただ茫然自失のみ。眼前の現実が信じられない、という沈黙が降り立っていた。
シャガは胸元に留めたジムバッジを差し出す。龍の頭が動き、トウコへとその手が届いた。
「ジムバッジ八つ、つまりポケモンリーグ事務局の制定する規約の制覇。これは重いぞ」
シャガの忠言にトウコは言い放つ。
「つまり、勝った証でしょう? 重いも何も、その程度、背負えなくってどうするって言うの」
フッとシャガは口元を緩める。王者の風格を持つ少女を相手にしては、己の強さなどまだ半端であったとでも言うような自嘲を含めて。
シャガが何かしらトウコへと囁いた。トウコは訝しげに眉をひそめる。
「そんなの、アタシが約束したって」
「これはジムリーダーとしてではない。個人としての頼みだ」
何を言ったのだろう。耳をそばだてる前に観衆からのシャガへのコールが湧き上がった。
敗退したとは言え、高みの者の戦いは彼らの心に強く刻み込まれた事だろう。改めて市長を称える声に応じながら、シャガは市民へと言葉を振る。
「これにてジム戦を終了する。今日はみんな、すまなかった」
止まないシャガへの賛辞にトウコは踵を返し、ジムを出て行こうとする。その行く手にめいめいの言葉が投げかけられた。
「お嬢ちゃん、市長に勝ったんだ! もっと喜べよ」
「そうそう。せっかくシャガ市長が戦ってくださったんだから」
それらの言葉にトウコは足を止める。賛美を受け取るのか、と思いきや、彼女の相貌に浮かんだのは憤怒であった。
「喜ぶ? 戦ってもらった? 自惚れないで、一般市民。アタシは! 勝つため以外にここにはいない! 王になるのよ、だっていうのに! 一ジムリーダー程度で遅れを取って堪るものですか!」
張り上げられた宣言は張りぼての賛辞を振り解くのには充分であった。絶句した市民を他所にトウコはジムを出て行く。
その背中をヘレナは覚えず追っていた。
勝利者に語る事などないのかもしれない。それでも、自分は侮っていた。トウコの王者への意志に。それを土足で踏み躙りかけた昨日に。
せめて、勝利の賛辞くらいは送らせて欲しい。自分のわがままが足を動かし、ヘレナはトウコに背に追いつく。
「……何か用? お姫様」
振り向かずに応じるトウコにヘレナは息を切らして声にする。
「その、……貴女の意思を踏み躙ってしまいかけた事に、謝罪を……」
「要らない。それよりも、あんたとは……、まぁいいか。せいぜい、旅の疲れを癒しておくのね。ここで踏みとどまっている場合じゃないのはお互い様でしょう」
それは、どういう、と問い質しかけてトウコはすたすたと離れていってしまった。
何を言うべきなのか、まるで分からないまま、勝利者は遠くへと行ってしまう。
何か気の利いた事は言えないか――胸中を探ったヘレナは声を大にしていた。
「その……、おめでとう!」
トウコの足が止まる。覚えず、と言った様子で彼女は振り向いた。
「ジムバッジ制覇はその……だってポケモンリーグに挑戦出来る権利だから……その」
しどろもどろになるヘレナにトウコは後頭部を掻く。
「……ありがとう、って言えばいいの? こういう時」
何のてらいも浮かべないトウコの精神性に打ちのめされるものを感じながら、ヘレナは無理やり笑おうとした。
トウコは嘆息をつく。
「別に、ここは到達点じゃないし。通過点で謝辞を受け取るのは間違っているとは思うけれど。……ありがとう、って言っておく」
その言葉を潮にしてトウコは身を翻す。
残されたヘレナはもっと他に気の利いた言葉があったのではないかと後悔したが、その背中は無情にもそれ以外の言葉を求めているようには思えなかった。