第93楽章「青嵐血風録」
立会人もここまで来れば群衆も同じ。
ソウリュウシティにおけるジムバトルは市民全員の視線を注がれていた。観客席を埋め尽くさんばかりの市民に手を振るのは市長として厚い信頼があるシャガ。
一方、挑戦者の座する龍の頭部に不遜そうに佇むのはポニーテールを揺らしたトウコであった。
彼女の双眸が射る光を灯す。
覚えず、ヘレナは拳を握り締めていた。
昨夜の失礼な態度など気にも留めていないとでも言うように、王者を嘯く少女は不敵に笑う。
バトルフィールドは挑戦者とジムリーダー、双方の龍の頭が垂れた先にあった。
円形状のシンプルな空間はポケモンだけが戦える程度の大きさしか取られていない。平時のバトルコートの広さに比べれば狭いほどだ。
その大きさでポケモンの中でも選りすぐりの強さを誇るドラゴンタイプが暴れ回るのだと思うと、ヘレナは容易い戦いではないのだと予感した。
「おねーちゃん、大丈夫?」
こちらを仰ぎ見るアイリスの丸い瞳にヘレナは声を向ける。
アイリスはシャガと対等か、あるいはそれ以上の実力者。シャガ側の応援に入らなくていいのだろうか、と当然の事ながら疑問であった。
「シャガ市長の応援には……」
「おじーちゃんは強いから。それにジムバトルの時はさすがに声をかけられないよ。あたしもそうだろうし」
次世代の息吹はこのような場所でも健在。どこか退屈そうに欠伸をしてみせたアイリスにヘレナはただただ感嘆するばかりであった。
「シャガ市長が、負けると思う?」
「わかんない。だって勝負は時の運だって、よく言ってるし」
シャガの勝利を確信して、この場所にいるわけではないのか。その意外さに、ヘレナは開いた口が塞がらなかった。
「……意外ね。シャガ市長の圧勝でも見届けるのかと」
「あのお姉ちゃんは強いだろうから。圧勝なんてありえないよ」
その声音のあまりの冷たさにヘレナはぞっとした。アイリスには勝負のその先がまるで見えているかのようだ。
「そう……。でもシャガ市長はドラゴンの使い手。ドラゴンタイプは神聖なポケモンだって、よく聞いているから」
そういえばゲーチスもドラゴンを持っていたか。邪悪なる龍、サザンドラ。その手持ちを隠す必要のないほどにドラゴンとは力の誇示に当たる。
――あの森には。彼方の森での平穏な日々にもドラゴンはいた。しかし、あの森ではドラゴンタイプでさえも穏やかで、戦闘の苛烈さはまるでなかった。
今、繰り広げられようとしているのはその正反対。
ドラゴンタイプは戦いのために解き放たれる。
「時に、いいだろうか」
反響する声でシャガが尋ねる。トウコは面を上げた。
「なに? 言っておくけれど、ハンディは必要ないわよ」
「それは百も承知だとも。ソウリュウに集まった腕利きのトレーナー達が君を前に敗北した。それだけで強さの証明には充分。わたしが言いたいのは、既にそちらの手持ちは割れているのに、こちらが明かさぬのは不公平だ、という事実」
「別段、いいんじゃない? だって、王者を前にして、手持ちの別くらい」
「君がよくともわたしが許せん。言っておこう。使うのは一体のみ。我がエース級ポケモン。オノノクス」
突き出したモンスターボールに収まるポケモンの名前をシャガが紡ぐ。その名前だけで観客席が湧いた。
「シャガ市長、本気だ!」
「こりゃ、一世一代の勝負が見られるぞ!」
興奮に湧き立つ群衆を尻目にトウコは醒めた眼差しで見やる。
「それで? だからと言ってアタシの手持ちがチラーミィなのには代わりないけれど」
「分かっている。これはケジメ、だ」
「分からない事を言うのね。ケジメも何も、戦いにおいてハッキリするのは勝者と敗者、それだけでしょう」
「分かっているではないか。行け、オノノクス!」
放たれた斧牙のポケモンがバトルフィールドを踏み締める。姿勢を沈めて吼え立てたオノノクスに対し、トウコはフッと口元に笑みを浮かべた。
「威勢だけはいい様子。主人に似ているわね。行きなさい! チラーミィ!」
投擲されたボールから光が迸り、チラーミィをフィールドに晒した。
比すれば、どれほどまでにスケール差があるというのか。鍛え上げられたオノノクスはチラーミィの三倍近くはある。
「ポケモンの体格の差が、勝負の決定的差ではない事は分かっている。オノノクス、本気で行くぞ」
「何をおかしな事を。勝負に、本気も嘘もない!」
最初に躍り出たのはチラーミィのほうだ。その拳が紫色に照り輝き、瞬時に白熱化する。
勝負を決めに来ている。一撃の下に葬るつもりだ。
「破壊、光線!」
ゼロ距離での破壊光線は確実な勝利を約束するはずであった。
――その放出された熱をオノノクスが片腕で受け止めるのを目にするまでは。
観客が水を打ったように静まり返る。ヘレナは震える視界で現実を直視していた。
「破壊光線の中断……いえ、あれは受け止めた?」
あり得ない。そう思っていても展開される現実に理解がついていかない。
光が消え失せる。「はかいこうせん」の一射はドラゴンタイプの膂力を前に掻き消されていた。
「どうした? まさかそれで手が尽きた、とは言うまいな。王者を嘯く少女。それとも、今の攻撃が、全力だとでも?」
すっとシャガが手を払う。オノノクスがチラーミィを中空へと放り投げた。
小柄な姿が舞い上がる中、オノノクスの両腕に青い輝きが宿る。ヒレの形状を模したオーラが直後、跳ね上がったオノノクスの攻撃として咲いた。
「食らえ。ドラゴンクロー!」
叩き落す一撃。放たれた「ドラゴンクロー」の勢いにチラーミィは対処し切れずバトルフィールドに打ちのめされた。
砂塵が舞い散る中、宙に踊り上がったオノノクスが両腕のオーラを掌に込める。光球を形作ったオーラを手にオノノクスが手を突き出した。
「龍の波導!」
矢継ぎ早に連射されるのは波導攻撃だ。一つ一つが必殺の勢いを誇る「りゅうのはどう」が着弾点のチラーミィへと打ち込まれる。
砂煙が高く舞い上がる。チラーミィが生きているのか、それすら分からぬ間に、地上に佇んだオノノクスが片腕を高く掲げた。
手刀の勢いを誇る一撃が粉塵を引き裂く。
「ダブルチョップ!」
きりもみながら発射された物理オーラがチラーミィのいるであろう場所を掻っ切る。
観客達は圧倒されていた。ジムリーダーの攻防に。これほどまでに圧倒的な力量差を見せ付けられれば、誰しも押し黙るであろう。
シャガに、トウコを軽んじるつもりはまるでないようであった。それどころか一瞬でも気が緩めない相手として彼女を見ている。
それが、今の一時の間断のない攻撃で明らかとなった。
トレーナー二人が対峙するドラゴンの頭まで粉塵は舞い上がってくる。二人はそれぞれ双眸を交わし合った。
「随分と……余裕がないように見えるけれど」
「ここまで七つのジムを制してきた。その実力、違えるはずもなし。七つのジムバッジを持つ、という事は君のチラーミィ一体に、七人の指折りの実力者達が敗北したという事。軽んじるはずもない。彼らは油断していたのかもしれないが、わたしに小手先の戦法など通用しないと思え。チラーミィの先制攻撃、それさえ封じてしまえばさして怖いものでもない。君を今まで勝たせていたのは相手の油断と、それにつけ込む君の豪胆さだ。チラーミィ、というポケモンと王者になると嘯く事で、相手のプライドに穴を開ける。しかし、わたしにその戦術は通用しないと思うがいい。それは所詮、小手先だと言っている」
指し示したシャガの声音に一人の観客が拳を掲げて吼えた。それは瞬く間に大きなうねりとなって、シャガ市長圧倒のコールへと変わる。
「シャガ市長!」
昂った観客席にトウコはフッと笑みを浮かべた。その笑みの意味をヘレナも理解出来ず、眉根を寄せる。
「何故、笑えるの……」
戦場を凝視するアイリスの大きな丸い瞳が次の瞬間、見開かれた。
「……くる」
何が、と問い質す前にオノノクスへと砲弾の如き勢いを伴って何かが殺到した。
水流を棚引かせつつ、それが姿を現す。
「チラーミィ……生きていたか」
撃ち漏らした悔恨を口にしたシャガにトウコは言いやる。
「油断ですって? それは最も縁遠い言葉よ、ジムリーダーシャガ。だってアタシはいつだって相手に、勝ちに行くまでだもの。それを邪魔するもの、阻むものは一切許さない。それがたとえ、抗い難い運命と呼べるものであったとしても! アタシは飛び越える!」
チラーミィの拳に電磁が宿る。咄嗟にチラーミィを引き剥がしたオノノクスの間に爆発的に電流が迸った。
オノノクスを操るシャガは舌打ちする。
「水を触媒に、十万ボルトで攻撃力の底上げ……よく育てられている。一手でも誤れば敗北するであろう」
「一手でも? 残念、シャガ。あなたもう、その一手を誤っている」
直後、オノノクスが呻いた。その掌についた裂傷から紫色の瘴気が棚引いている。最初の「はかいこうせん」を受けた手であった。
「まさか、破壊光線の中に……!」
「毒々を混ぜておいた。油断なんてするわけないでしょう? ドラゴンタイプが堅牢でなおかつ攻撃性能も高いのは分かっているんだから。破壊光線でついた擦り傷程度でもいい。それを触媒に、猛毒攻撃は意味を成す。腐り落ちるわよ、その腕」
言うが早いか、猛毒を受けたオノノクスの腕が瞬く間に壊死していく。先ほどの両腕による全開攻撃が祟ったのだ。
あまりに腕に過負荷をかけた結果、血流が行き渡り、毒が回りやすくなっている。腐り落ちるかに思われた腕へとシャガはすかさず命じた。
「そう、か。嘗めていたのはこちらだと、訂正しよう。オノノクス、ドラゴンクローは……」
オノノクスが片腕を高く掲げる。構えたチラーミィを他所にオノノクスの赤い瞳が見据えている先は敵ではなかった。
「自分の腕を断つ!」
刹那、オノノクスの強靭な筋肉を引き裂いたのは己の腕であった。肘まで回っていた毒をせき止め、壊死が止まる。
「下策だな。このような方法でしか、毒を止められないなど。しかし、これで断続ダメージはなくなった。片腕で、なおかつ消耗したと言う事実。重く受け止めるべきだろう」
トウコが舌打ちする。片腕でもオノノクスの闘志は健在であったからだ。
比してチラーミィは「どくどく」の布石を打つためであったとはいえ、ダメージを受けている。確実に身体を蝕まれているのはチラーミィのほうだ。
「この勝負……どっちに転がるのか、まるで分からない」
呟いたヘレナにアイリスは首を横に振る。
「ううん。もう勝負はついてるよ」
絶句するヘレナにアイリスは言いやる。
「見える。赤く渦巻く龍の姿。灼熱の彼方にある、白亜の頂が」
アイリスの言葉を尻目に状況は動く。オノノクスが片腕を前に突き出し、チラーミィへと肉迫した。
チラーミィは絡め手には対応しているものの、その実力そのものは小型ポケモンの代物。オノノクスほどの実戦型には遥かに劣る。それは見るに明らかであった。
軽い体躯を浮かせてチラーミィは一撃を避けたものの、狭い円形バトルフィールドは逃げの一手を許さない。
すぐさまその首筋をチラーミィは引っ掴まれた。
そのまま叩き落す一撃。「ダブルチョップ」が炸裂し、チラーミィを地面に縫い止める。
「それで済むと思ったか! オノノクス、掴んだまま龍の波導を連射しろ!」
接地点から青い波導攻撃が明滅する。間断のない「りゅうのはどう」の連射攻撃をチラーミィは防御する術がない。
加えて初撃の手は封じられてしまった。今のチラーミィに勝利するビジョンがあるとは思えない。
激しく点滅する地面と小型ポケモンを群集達は固唾を呑んで見守っている。ヘレナもまさかここまでやるとは、と慄いていた。
オノノクスの圧勝で終わると思っていただけに、観ているものからしてみればその戦いはほとんど愚策に等しいのだろう。
たった一体の矮躯のポケモン相手に、大型ポケモンが実力以上のもので応じている。
奇妙さ、奇天烈さよりも勝ったのは恐怖。
このような場を目にしている事への畏怖であろう。シャガは手を払い、波導攻撃を中断させた。粉塵が晴れ明らかであったのは陥没した地面である。
その中心にチラーミィは収まっているはずであったが――肝心のその姿がなかった。
どこへ、と首を巡らせる前に誰かが叫んでいた。
「あそこだ! オノノクスの首筋!」
まさか、とヘレナは息を呑む。チラーミィはいつの間にかオノノクスの攻撃陣を抜け、その首筋に至っていた。
拳が紫色に照り輝き、一撃を補強する。
「いかん! オノノクス、振り解――」
「遅い。破壊光線!」
オノノクスの首筋へと重い一撃が叩き込まれた。眩惑するオノノクスへとチラーミィが再度、拳を大きく引いた。
次で決めるつもりである。シャガは慌ててオノノクスへと命じる。
「龍の波導! 己に放て! 全身から波導拡散! チラーミィを引き剥がす!」
全身から剣山のように波導が波打った。チラーミィがその背を蹴りつけ距離を取る。
オノノクスは肩を荒立たせていた。チラーミィには煤けた塵が纏いついているものの目に見えたダメージは少ない。
比して、オノノクスは片腕を犠牲にし、今もまた、頚椎に深刻なダメージを負っている。
おかしい。先ほどまで攻勢であったのはオノノクスのはずなのに、どうして……。
その違和感の正体をシャガは己で看破した。
「そうか……。毒々の効力」
「気づいた? 神経毒である猛毒は体内に入った時点から侵食を始めている。たとえ腕の壊死という分かりやすいダメージがなくなったところで神経の深部にまで入った猛毒は強い眩惑作用をもたらす。それがたとえば認識障害、視神経の圧迫であったとすれば」
「先ほどまでの攻撃は一転、道化というわけか……」
忌々しげに放ったシャガにトウコは余裕を滲ませる。今までの優位は覆された。
チラーミィとトウコが圧倒的強者の佇まいで次の攻撃を実行しようとする。それは恐らく、この戦いを終わらせる一撃であろう。
紫色のエネルギーが充填されていく中、シャガは自嘲めいた笑みを浮かべた。
「なに? 負けると分かって、諦めがついた?」
「ああ。わたしとした事が、とんでもない失策であった。これを大衆の目に晒す事、それそのものが許し難い罪悪だ。わたしのドラゴン使いとしての矜持は今、消え去った。あるのはただ! ただ胸の中に燻るのは……! 勝利への渇望! ここで終わってなるものかという意地! ここまで来れば致し方なし」
瞬間、アイリスが声を張り上げていた。
「だめ! だめだよ! おじーちゃん!」
シャガはこちらに一瞥を振り向け、口元だけで笑ってみせた。
「すまないな、アイリス。いい師範でいられなくって。ここから先は! ただ勝ちたいがための勝負師になる!」
「どうするって? 頚椎に深いダメージを負ったオノノクスは単純動作でさえも間に合わない。それに、片腕は腐って使えない。まさか片手だけで勝負するとでも?」
「ああ。だからプライドは捨てると言ったんだ。もう、これを使う時点で、ジムリーダーの資格は剥奪されたも同義。オノノクス、心臓に深く食い込ませた枷を解け」
刹那、オノノクスは自らの腕で胸元を抉っていた。腕が深く、心臓部へと達する。血飛沫が舞い、滴った鮮血に悲鳴が迸る。
「何を……! 何をやっているんです! シャガ市長!」
覚えず声を荒らげたヘレナにシャガは笑いかけた。
「不甲斐ないと、思ってくれて構わない。あるいは、たった一回の黒星が怖くって、このような手を使った愚か者、とでも。嗤うのならば嗤え。然るに、この一回の黒星が生涯の敗北になるのだと悟ったのならば! ポケモントレーナーとして、それを認められないと分かったのならば! わたしを誰も嗤えはしない! オノノクス、枷を引き千切れ!」
オノノクスが手にしていたのは赤く輝く杭であった。それが外気に触れた途端に消失する。
「何が――」
その言葉の先を遮ったのは鼓動であった。バトルフィールドを超え、ジム全体に響き渡る未知の鼓動に誰もが困惑する。
「これは……」
「シャガ市長……? 何を……」
「――オノノクス。赤い鎖の戒めを解き、その真の姿を晒せ」
シャガの言葉に導かれたように、心臓部から反転したのは黒色であった。ベージュの表皮が瞬く間に黒く染まっていき、オノノクスの全身に至った途端、赤い血潮が滾った。
心臓からの出血も、頚椎へのダメージも。さらに言えば損壊したはずの腕さえも修復している。
黒く染まったオノノクスにはさらに明らかな変化があった。
「片方の牙だけが……巨大に」
オノノクスを象徴する斧牙のうち、片方だけが異様に肥大化しているのである。
片牙だけでチラーミィの倍はあった。その重量を物ともせず、オノノクスは咆哮する。
今までのどのポケモンとも違う姿にヘレナも、ましてや先ほどから静観しているバーベナもうろたえた。
「ヘレナ! 私、あれ、怖い……!」
肩を揺さぶるバーベナにヘレナは雷に打たれたようにオノノクスから視線を外せない。
――斧牙のポケモンは何に成ったのだ?
震える視界の中、シャガが告白する。
「……かつて、オノノクスの発見に大きく貢献したトレーナーがいた。教本にも載っている。四十年前。第一回ポケモンリーグにて、このポケモンの生態レポートを発表した第一人者。ポケモン界のカリスマ。その名をオーキド・ユキナリ」