第92楽章「サロメティック・ルナティック」
いつの世も、だな、と夜も更けてきた頃にアデクが言い出す。
酔いが回っているのか、とギーマが窺うがその眼差しにいささかの衰えもなかった。
やはり太陽の鬣を持つ王者は酒程度で呑まれるほどの実力ではない。ご相伴に預かりながら、ギーマはフッと笑みを浮かべていた。
「俺が下につくのは御免だ、と言った時のあなたほどではないさ。あの時は羅刹だった」
「今も変わりあるまい。師範は変容せず、さらに強くなっておられる」
そう言葉を継いだレンブにギーマは片手を振った。
「呑めねぇ奴には聞いてないっての」
「嗜む程度にしておいているだけだ。今宵の酒は滅法強い。師範と同じ酒を弟子が呑むなど恐れ多い」
「堅いねぇ。だから伸び悩むんだよ」
言ってやるとレンブは少しだけ眉を跳ね上げた。やはり自分達四天王と王者アデクしかいない空間は落ち着く。
寝静まった無謀な旅人達の事を思い、ギーマは注がれた酒に視線を投じていた。
「……皮肉なものだな。どこにいても、どんな境遇でもついて回る。強くなければ意味がない、強くなければ、この世に存在する張りがない、という意地。あの少年はそれを今、一時的とは言え解けている。それがどれほどまでに難しいのか、分かると余計に」
この世は単純に白と黒に分けられるものではない。そう思い知ったのはいくつになってからだったか。
思い知るのはいつだって手遅れだ。手遅れになってからしか、大切なものは応えてくれない。もっと知りたかった。もっと教えて欲しかった。もっと――強くなりたかった。
そんな悔恨ばかり浮かぶのはやはり年を食ったからか。
「ギーマ。お主もまだ若いぞ」
見透かしたようなアデクの声にギーマは笑い返す。
「若者が眩しく思え始めたら、年寄りの始まりってな。アデク翁、あなたにはどう映っているんだ、彼らは。俺には眩しくって仕方がない。どこまでも行ける。どこまでも目指せる。……だが、あいつは別だ。ノア、と言ったか」
切り出した話題にアデクは目ざとく察知する。
「先に教えた事以上は言えんぞ」
「分かっている。あなたはそういう人だ。義理堅いからな。相手がたとえ大罪人でも同じだろう。だが、あの眼は地獄を見てきた……いや、これから見る眼だ。アデク翁、地獄への片道切符にまで乗ってやる必要はない」
そこまで相手にのめり込んだところで返ってくるしっぺ返しはいつだって痛いもの。そんな事を遥かな年長者に説いたところで無駄なのは分かっている。だが、アデクには危うさがある。
情にほだされ、踏み入ってはいけない領域にまで踏み込んでしまう危うさ。相手と自分の明確なラインを引けないのは王者としては失格だ。それは王ではない。ただの人である。アデクは人ならざる領域にまで踏み入ってしまいかねない。四天王として、あるいはその教えを説いてもらった人間として、ここで王者に道を踏み誤ってもらってはならない。
「同調の領域か。思い出すのう。四十年前の事」
「あなたが戦ったと言う超弩級の猛者達か。強かったのだろうな」
何度も話には聞いている。伝説のトレーナーであった者達。鎬を削るのには充分であったのだろう。
レンブは拳を固める。
「その者達と、合間見える事、敵わぬのは寂しいな」
その寂しさを一番に噛み締めているのはアデクだろう。もう追い求める術のない過去の栄光。誰のものでもあった王者の栄冠。その証を刻み込まれた戦いの螺旋。
考えるだけで身震いする。四十年前、一国を動かすほどの戦いが繰り広げられた。
今もまた、それに近いものが展開されようとしている。チェレンは金の卵だ。それは自分も、アデクも分かっているはず。
しかし、金の卵が、だからと言ってそのままきっちり孵化するかと言えばそうではない。
ぐずぐずに融けて、使い物にならなくなってしまった金の卵達を、自分もアデクも大勢見てきたはずだ。
ここで腐ってはならぬ。ここで退いてはならぬ。その志を折ってはならぬ。
分かっていても人はか弱い。人は、こうも脆い。
それを痛いほどに理解している。
酒の辛味だけではないのだろう。口中に浮かんだのは彼らと戦う事が二度と叶わぬ、という悔恨。
肩を並べられれば、という今さらの苦味。
そうならぬために研鑽を重ねてきたつもりだ。そうならぬために、戦い抜いてきたつもりであった。
だが、戦いの日々が未来の己を支えると言う保証はないように、ただ闇雲に戦いを繰り広げても結局は同じ事。
戦場に生きる、一時の死狂いとなる、というのは容易くはないのだ。
「せめて、桜でも欲しいものだ」
そう呟いたギーマは赤い杯を中天に掲げた。イッシュでは四季はあっても桜は見られない。
「ワシも老いた。あまり高圧的な事も言えんよ」
王座は明け渡されるべきなのだろうか。それは確かにいずれはそうなるのだろう。だが、そのいずれが今では困るのだ。
「アデク翁。情にほだされたわけではあるまいのは理解しているが、あの四人の中に、俺達を超え、さらにあなたを超えて玉座につく人間がいるとは思えない」
そう、思いたくないだけなのかもしれない。
身勝手な欲求。誰かに理想を見ているのみ。
しかし、理想を見てはいけないのだろうか。この世界は何も真実のみで出来ているわけではない。そこまで残酷なはずもない。
「そうさな……。しかし玉座はいつの時代でも磐石というわけではない。誰がなってもおかしくはないものよ。王というのは」
その言葉が、王者から語られるのが堪らなく悲しいだけなのだ。
ギーマは酒を呷った。喉元にひりついた熱に、彼は息をついた。