第89楽章「修道院の廃庭にて」
チェレンのポケモンと相対したのはここでは二度目、しかし、いざ目にすると及び腰になるのはやはり変わらない、とベルは身体を強張らせる。
強さの象徴。その赤く紅蓮に輝く瞳と相反するような漆黒の体表。
ヒウンジムでの進化の一件以来、そのポケモン――ゲッコウガとは顔を合わせないようにしていた。
しかし今、ベルはゲッコウガのボールを手にし、タワーオブへヴンでのチェレン蘇生に立ち会っていた。
チェレンを蘇らせるためだけに集まったのではない、と嘯いていた四天王は現状、同調域にあるゲッコウガとチェレンを再び近づけさせるのは危険だと判断し、塔の中での一区画を借り受けて、一般トレーナーの目につかない居住スペースに訪れていた。
シキミとカトレアが前を行く中、ベルは気後れする。
二人とも、このイッシュを背負って立つ実力者。そのような存在と自分とでは天と地ほどの差がある。
一緒にいていいのか、という確認さえもどこか不遜に映る。
声を出せずにいるベルへとシキミが問いかけていた。
「ギーマ殿も相変わらず、と言いますか。やっぱり強い男同士が好きなんですね。……おっと、これは次の作品に、っと、メモメモ」
原稿から離れてもメモ用紙だけは離さないシキミにカトレアが眠たげな声を振る。
「だって、仕方がない、わ。男なんて、みんな、そう。いつまで経っても、子供のまま、なのだもの」
「そうですねぇ。強い力への求心力への純粋な憧れと言いますか。あたし達には真似したくても出来ないものですね。ベルっちはどうですか?」
慣れない呼び名にベルは目を見開く。
「ベル……っち?」
「失敬。ほどよい女友達はカトレアしかいないもので。あとは遠方のチャンピオンくらいしか。それでも一人の作業が多いのが作家ですので、必然、呼び名には特徴づけをしないと覚えられないのです。……ご不満でしたか?」
「いえっ……! とんでもない……」
消え入りそうな声で発した言葉にシキミは額に手をやって芝居がかった口調で話す。
「しかし、あのチェレンという少年、強かったですねぇ」
「でも、あれは危うさ、よ」
カトレアは今にも眠りこけそうでありながら、トレーナーの評価に関しては全く妥協を挟まない様子であった。シキミがうんうんと頷く。
「ですねぇ。あのままじゃ、ジムバッジを何個取ったところで同じでしょう。繰り返すだけです」
「……あの、じゃあジムバッジを取るこの旅を、やめたほうがいい、と二人は……」
お考えで? というところまで聞けずに、ベルはしどろもどろになる。シキミはペン先を中空に彷徨わせた。
「そうですねぇ……。危険ですが、価値はある、とも」
「ギーマは、ああいう手合いが好き、だから。わざと、冷たく、……当たっているのよ」
わざと、という言葉にベルは足を止める。
「ここで、あたし達の旅は終わりなんですか……」
問いかけたところでどうにかなるものではない。それでも、トウコを追いかけるつもりで始めた旅路がこんなところで終焉を迎えるのだけは承知出来なかった。
シキミは、いえいえと首を振る。
「トレーナーの生き死にを決めるのはそのトレーナー自身。あたし達がどれだけ言ったところで無駄でしょう。ですが、客観的な意見というのはあります。あのチェレンとか言う少年、もう戦わない方がいいかもしれません」
「それはっ……! 実力者の意見……ですよね」
どうしても看過出来なかった。ここで自分達の旅が終わりなど。シキミは困惑気味に応じてみせる。
「だから、第三者のアドバイスですって。どうせ止めたってやるでしょう?」
どこか得心めいた笑みを浮かべるシキミにベルは困惑する。
「それは……」
「わたくし達は所詮、赤の他人。四天王とは言っても、どのトレーナーにも道を示せるわけではない。強さの高みにいるだけで、人間として高い位置にいるわけじゃ、ないもの」
カトレアの言葉は真髄を突いていた。覚えずうろたえたベルにシキミが嘆息を漏らす。
「それに、あたし達はあの二人に比べれば本業兼副業という部分では随分とおろそかですから。トレーナーとして、なんて偉そうに言えませんよ。そこまで強くもないですし」
どこまでもこちらの予想を上回る事を言ってのけるシキミに、ベルは純粋に疑問を呈していた。
「だったら……何であたし達にここまで?」
「それも、ギーマ殿の気紛れですよ。だって、国防の矢面に立つって言っておいて、ここでチェレン少年の面倒を看る、と言っているんですから」
「それは、あまりに危険だからですか」
「それだけでは、ないでしょう、ね。ギーマは他者に、己を見る、タイプだから。きっと放っておけない、のよ」
「何だかんだで一番の甘ちゃんはギーマ殿ですからねぇ」
くすくすと笑い合う二人に、ベルは本当に目の前の少女達が四天王という国家の中枢にいる存在なのか疑わしくなってしまう。
しかし、その実力は見るまでもなく明らか。カバンに入れておいたテールナーが怯えているのが伝わってくる。ラッタも、ムンナも同じだ。
眼前の化け物じみた実力者に恐れを成している。
二人は淡い光に包まれた煉瓦造りの部屋へと案内した。どうやらここが女性陣の寝室らしい。
「急造なので三人は狭いかもしれませんが、どうぞ。主にカトレアが綺麗にしています」
「だってあなた、汚すだけで片づけない、じゃない」
「そりゃ仕方ありませんよ。資料は増える一方ですから。そちらの執事の方に一部貸し与えているのも忘れないでくださいね」
「コクランは、本が好きだから。あなた以上、かもね」
交わされる言葉の意味が分からぬまま立ち往生していると、シキミが手招いた。
「どうぞ。取って食うわけではないですし」
煉瓦造りの部屋は思ったよりも広めに取られている。奥まった場所にはキングサイズのベッドと執務机があった。
「あたしは大体椅子に座ったまま寝るので、ベッドを使わせてもらうといいですよ」
「勝手に、決めないで、ね」
「あの、あたしっ、床とかでいいですからっ」
遠慮するベルの肩に手を置いてシキミが首を横に振る。
「駄目ですよぅ、何のためのキングサイズなんだか。カトレア、いいですよね?」
「……まぁ、一人が二人になるだけ、よね」
特に不満はないらしい。面を伏せているとカトレアはベッドに横になった。そのまま寝息を立てている。
まさか、と硬直したベルにシキミは言いやった。
「カトレアは一日十時間以上眠っていないと力が維持できないそうで。だから四天王の部屋にもベッドを置いてあるんですよ。まぁ、四天王の部屋に作業机と資料を置いているあたしが言えた義理はないですけれどねぇ」
話しつつシキミは流れるように手近のコーヒーメーカーを起動させる。旅立ってから誰かにコーヒーを振る舞ってもらってばかりだな、とベルは感じた。
「さて、ベルっち、でしたか。二三、聞きたい事が」
椅子を引っ張って来てシキミは自分を招く。腰掛けた途端、質問が浴びせられた。
「あのチェレン少年は最初からあんな感じで? そもそも同調に至ったきっかけは? あのゲッコウガは最初から黒色だったんですか? そもそも、ゲッコウガってカロスのポケモンですよね? 輸入規制は? 誰から授かったんです? レベルは? 技は四つとも埋まっているので?」
矢継ぎ早の質問にうろたえたベルは盛大によろけてしまい、椅子から転げ落ちた。それを目にしたシキミは、ああっ、と前髪をかき上げる。
「あたしとした事が……またやってしまいました。ベルっちの気持ちを考えないでマシンガン質問……いけませんね、猛省しないと」
手を差し伸べたシキミにベルは、いえ、と立ち上がる。それでも疲労が蓄積していたのは間違いないようであった。
何度かよろめいたところをシキミは目ざとく察知する。
「……チェレン少年の事を、特別に思っているのですね」
その言葉にぼっと顔が熱くなった。慌てて取り消そうとしてシキミがペン先を突きつける。
「分かりやすくっていいですよ。純粋ですね、ベルっちは」
「純粋……ですかね……」
愚鈍の間違いではないのか、と思いつつもベルは愛想笑いを浮かべて椅子に座り込む。しかし、イッシュを統べる少女の前ではあからさまな嘘などすぐに見破られてしまった。
「……ベルっち、会ってすぐの相手に言う事ではないとは思うのですが、その性格、人生、損しますよ? 正直にあればいいのでは?」
正直に、か。幾度となく言われてきた事だ。慣れているとは言っても、ここまでの実力者に疑われれば立つ瀬もない。
愛想笑いでは誤魔化せないな、とベルは憔悴する。
「その……当たり前の事かもしれないんですけれど、あたし、今まで自分に自信がなくって……」
ふむふむ、とシキミが頷く。カトレアは完全に寝入ったようだ。寝息が漏れ聞こえる中、ベルは告白する。己の弱さ、心の脆さを。
「それは、ベルっち、弱さではないと思いますけれど。誰しも、自信なんてないものです」
「でも、チェレン君は自信があったから、同調の領域まで行ったんですよね? そうじゃないとポケモンも自分も信じられない」
「それは……そうかもしれませんが、だからと言ってベルっちが弱いわけではありませんよ」
「でも、あたしなんて……」
紡ぎかけたその言葉にシキミが指先を唇に当てていた。不意打ち気味の行動にベルは覚えず後ずさる。
「なっ……何を……」
「失礼。でも、あまり自分を卑下するものでもないですから。ベルっちは魅力的だと思いますよ。あたしはそうだと」
柔らかく微笑むシキミにベルはガラにもなく赤面してしまう。
「あたし、でもチェレン君におんぶに抱っこみたいな状態で、もう旅は出来ないと思うんです。ジムバッジを集めるの、確かに楽しかったですけれど、チェレン君みたいには……なれそうにないから」
「別に、いいんじゃないですか? だってベルっちはベルっちでしょう? 他人に足並みを合わせてどうこう、というのは違うと思いますが」
しかし、それは強者側の理論。自分は弱者だ。精神面でも、実力面でも。だからこそ、チェレンがある意味では眩しい。強さのみを追い求めて、その末に戻れない道があったとしても彼は後悔だけはしない。後悔するくらいならば前に進む事を選択し続けるだろう。
「……あたし、憧れの人がいたんです。今、その人はどうしているのか、まるで知らないんですけれど、多分、あたしなんかじゃ及びもつかないほど、強くなっているんだと思います」
「憧れ、ですか。いいですねぇ、若者の特権です」
だが、憧れだけだった。彼女が何を覚悟してカノコタウンから旅立ったのか、チェレンがああなってしまうまで自分は考えもしなかった。きっと、無意識でそれを避けていたのだろう。
「強さって何なのか、分からなくなっちゃいました。誰にも頼らない事なのか。それとも、すがってもいいから、前に進む足だけは止めない事なのか。あたしは、どっちつかずで……」
「それは違いますよ。誰だって、極端な道を選べるわけじゃありません。別にベルっちが責を負う必要も」
「でも、チェレン君は王に成るって……それだけを追い求める事が出来るんです」
その強さに、自分は何もしてあげられなかった。拳をぎゅっと握り締めたベルにシキミは難しく眉間に皴を寄せた。
「……どちらが正しい、というわけでもありませんよ。それに、どちらが間違っているというわけでも。あたしは、強いと言う事がそれほどに両極端な話とも思えないんです。四天王には、なったものの、あたしだってまだまだ弱いですから」
「シキミさんが弱い……ですか」
考えられない発言であった。シキミは腕を組んで神妙に頷く。
「ギーマ殿なんか強者ぶっていますけれど、それでも、ですよ。イッシュ四天王は防衛成績もいまひとつで、弱いって思われがちなんです。まぁ、そもそもジムバッジ八つを集めてくる挑戦者も少ないですけれどね」
思いも寄らない言葉であった。イッシュ四天王が自分達を弱いと思い込んでいるなど。ベルからしてみれば遥か高みにいる存在なのに。
「だから、別段、強い弱いって、狭く考えちゃう必要って、ないんじゃないかな、ってあたしは思うんですよ。ポケモンバトルを、楽しめるかどうか、っていうのかな」
「バトルを、楽しむ、ですか……」
「ベルっちはバトルって怖いものだと思っているでしょう? 勝者と敗者が明確に分けられる残酷な世界だと」
その通りだと思っていたのでベルは首肯する。シキミは照れたように笑った。
「そうじゃないんだって、四天王になってから気づいたクチで……。あたしもまだまだなんですよ。だから、ベルっち。答えを急ぐ必要なんて、どこにもないんです。だって、慌てて探した答えに、多分正当性はないんですから」
答えを慌てる必要はない。旅路にあって初めて言われた言葉であった。今まで、チェレンと共に答えを急くばかりの日々であったせいか、その言葉が静かに胸に残響した。
まだ、答えを探す旅路の、その途上……。
「……あたし、焦っていたのかな」
「そうだと思いますよ。焦ったって、最適解なんて生まれません。ここは一つ、コーヒーブレークと行きましょう」
差し出されたコーヒーから湯気と芳しい香りが漂っている。いい豆を使っているのか、今まで振る舞われたどのコーヒーよりも熟成した黒い鏡面であった。
口をつけると、酸味が口中に広がっていく。
心地よい酸味と甘味のバランス。そこに苦味のエッセンスが入り、味がステップを踏む。
「おいしい……」
どうしてだろう。涙が零れ出していた。ここまで来られた、それだけで何か満たされたわけではないのに。
――チェレンが復帰して嬉しかった? それとも、四天王に慰められて安心したのか。
涙は止め処なく、シキミは黙ってコーヒーを啜っていた。